市岡思い出数珠つなぎ

市岡思い出数珠つなぎ

市岡高校バレーボール部の思い出 (16期 山添弘三さん)

市岡高校バレーボー ル部の思い出  16期 山添弘三さん

多少、大袈裟な言い方をすると、歴史はある特徴を持った時代ごとに
分けて見ることが出来るし又それが便利である様に、
私の半生もある特徴を持った幾つかの時期に分けることができると思う。
市岡高校でバレーボールに打ち興じた現役時代、又コーチとして
現役チームを教えていた時期は、確かに一時期であった。

私の生活が市岡高校のバレーボール部を中心として回っていた時期、
市大法学部二部で勉強しながら家業を助けていた時期、
英国に移り住み英国そして世界を勉び経験していた時期、
英国で職を得て働いていた時期、そして今、昔の仲間と会社を立ち上げ、
半分仕事、半分趣味悠々の生活と、私の半生も分かれるような気がする。
異なった時期を経て積み重ねきた経験で、少しは成長し
賢明になったのではないかと思う。

市岡高校に入学しバレーボールに明け暮れる生活が始まるまでの私は、
殆んど何の苦労もなく極めて呑気な生活を送っていたと思う。
まあ、あの当時の子供としては非常に普通で平均的あったと思う。
他の子供達も大体その様であったと思う。

私が部員登録した頃のバレーボール部は強くもなく弱くもなく、
一応どの学校でもやっている様な練習メニューを熟していたと思う。
筋力をつけるための基礎練習、ジャンプの練習、スパイクの練習、
レシーブの練習、サーブの練習、全員でのチーム練習等々
毎日大体同じことを繰り返し繰り返しやっていた。
要するに現役選手として三年間同じことを繰り返し、
又その後数年間コーチとして同じ事を現役選手達に教えていた。
勿論目的は単純明解で強くなって“試合で勝つ事”であった。
この目的意識はコーチ時代に私の中で現役時代よりも
一層強固なものになっていった。
現役時代の私はもう少し呑気に事を構えていた。

コーチを始めてからは、やる事すべてにはっきりとした目的意識を
持つ様になった。サーブは相手の守備を崩し出来るだけ処理しやすい
ボールを返させるためによく練習を積んだ。サーブレシーブの練習は
全くその逆を想定してやった。個々の選手の特性を可能な限り伸ばすために
各選手の個性に合わせて練習を工夫した。
スパイク用のトスには、飛距離、ネットからの距離、高さ、速さに
その特徴が出だした。レシーブにコントロールの錬度が見えてきた。
勢いを殺したコントロールの良くきいたセッターへのパス、セッターから
アタッカーの特性を最大限に引き出すためのトス、そしてスパイク。
ブロックの配置、その機動的な動き、それに合わせての守備の動き等々、
一つ一つ丹念に技術を磨き上げた。目的は試合に勝つこと、
そのために練習した。毎日毎日みんなよく頑張った。
色々な場合を想定し、それに合わせて一つ一つ練習を積み重ねた。
想定外は臨機応変、本当の実力の世界であった。
チームもいつの間にか実力で闘える能力を備えていた。
ある時を過ぎた頃には、全員が目的意識をしっかり身に着けていた。

あれだけ沢山の時間を費やして、あれだけ簡単なことを、
よくあれだけ長く続けたなと思う。但し、私に関して言うと、
現役、コーチ時代を通じバレーボールが大好きであった。
私がバレーボール生活を共にした先輩、同輩、後輩の皆さんも
バレーボールに打ち興じていたことは間違いないと思う。皆、大好だったと思う。
だからバレーボール生活をあれだけの密度であれだけ永く続けられた と思う。
皆、“自虐”することで、しかしスポーツというとびっきり前向きな“行動”を
通して青春を謳歌していたと思う。なんと単純で素直な若者達であったろうか。

その後、紆余曲折を経て英国で再度働き出して徐々に
はっきりと見えてきたことは物事を簡単には諦めないという“良い癖”が
身に着いていた事である。それのみならず目的意識をはっきり持って、
色々種々雑多な必要要件、物事を整理構築していくという癖、
それを持続できる忍耐力が身に着けていたと言う事である。
サラリーマン生活の後年ある企業の一つの部を任され、
多額の資本金と百人以上の経験豊かな向う気の強い、個性豊かな、
さまざまな国籍を持ったバンカー(bankers)を束ねて働いていた時は、
市岡バレーボール部のコーチ時代の様であった。
バレーボールと投資銀行業の間には何の関係もないが、
どちらも人間の行う事であり、又単純明瞭に勝つ事が目的であり、
もし負けたら勝つ為にさらに努力するという点では全く同じであった。

市岡バレーボール部時代の想い出と言われると、
以上の様な回想になってしまう。
目的意識をもって“最後”まで走れる“良い癖”を得たとでも言えると思う。
理屈はともあれ、あの当時は私もまだ無邪気なもので、仲間がいて、
ボールを追いかけ回し、体を思いっ切り動かしているだけで幸せだったと思う。
今、半分悠々自適の生活を送っているが、今度は出来るだけ長寿して
世界で何が起きるか見続けてやろうと思っている。

ロンドンの自宅にて
2007年9月15日

“市岡高校バレーボール部の思い出 (16期 山添弘三さん)” への3件のフィードバック

  1. 貴志勉 (高23期) says:

    悲しい・・・
    府教委の変な、わけの分からん「改革]路線の
    延長線からか、「単位制」の学校にかわるとか。
    大まかなとこしか分からないんですが、ちょっと考えたら分かりそうなところで、「子供」
    の事を真ん中に考えたら、「おかしい!」と
    気付くと思うんやけど・・・
    あかんのかなぁ・・・
    まだ、小泉余震が続いてるんやなぁ、悲し!!

  2. 岡 隆一 says:

    懐かしい16期のメンバー
    山添君の名前を見て、懐かしい16期の名前と顔を思い出しました。私は高校時代は旧姓の松本を名乗っていました。また、市岡高校時代に山岳部に入っていました。金谷君などどうしているかな?同期の同窓会も一度も出席したことがないので、金谷君など山岳部のメンバの消息をご存知の方は知らせていただければありがたいです。今は大学に勤めていますが、学生と毎日付き合っていると、気を若く保てます。

  3. 中山 敏弘 says:

    初めてホームページを開けてみたら、山添君や、岡、金谷君の名前がでてきて、わあーとおもいつい書き込みました。クラス7が一緒でしたから。バレー部では中島や野田君が懐かしく思い出されます。たぶんドングロスを重ね着てドロドロになってとびこんで、すべりこんで練習していたのを。
     教師をしていてましたが、その間、2名市岡の後輩が卒論や修論生としていました。どいつも、可愛いかったです。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です