お知らせ

0年

2016・夏・市岡東京12期

8組   萩原貞雄
 
 2016年関東地方の梅雨明けは7月28日だった。平年よりは1週間程度遅い。東京は関西より本格的な夏を迎えるのが少し遅れることが多く今年もそうだった。東京都知事選では都民は新しく首都の顔に小池百合子さんを選んだ。リオオリンピックの次は東京だ。小池新知事の「東京大改革」を待つまでもなく東京は変革し続けている。今年1月、現在の東海道新幹線の品川駅の40m下にリニア新幹線の新駅を着工した。羽田の国際化に伴い都心のビル上空からの着陸、地下鉄の24時間運行、地下新駅増設などますます時間、空間の過密利用計画が進行中だ。
 
 8月7日は市岡東京12期の連中との暑気払いだ。榎本君(8組)はかねてより腰痛に悩んでいたが6月7日に手術をした。快気祝いを兼ねて川歩きのメンバーを中心に東京駅のニユー・トーキヨーで有志が集まることにした。8月に入り35℃位になり今日も暑い。暑いからこそ暑気払いだとの意気込みで都心を目指す。最寄駅から相互乗り入れしている地下鉄千代田線の大手町駅で降り、地下通路を通って八重洲に出ることにした。

          

 
暑気払い・ニユー・トーキヨー

 約1時間後に大手町駅に到着。そもそもよそ者の集まりである東京人にとっては大手町駅からニユー・トーキヨーに辿り着くのは容易でない。大手町駅は地下鉄の五つの路線がそれぞれ大手町駅と称しておりこれらの駅が地下で重層構造になってつながっている。目的の場所に行くには出口番号を頼りに階段を上り下りしながら地下通路の表示に従って歩くことになる。今日は日曜日とあって大手町にあるオフイスビルは閉まっており人通りは少ない。東京駅地下通路を通り歩くこと10分、ようやく八重洲口地下通路に出た。
 
 ここは東京駅八重洲口一番街。大阪よりの南側は昔とあまり変わっていないが、北側が大きく変わった。東京キャラクターストリートなどと称しており、夏休み中の日曜日の午後とあって家族づれ、若者のグループ等で大賑わい。歩くのに一苦労。目指すニユー・トーキヨーになんとか辿り着いた。山田君(8組)か榎本君の席はどこですかとの問いにレジのおじさんが当店は予約を受けないとの返事。でも僕の年恰好を見てすぐさま満員の店内を案内し、両君と上原さん(大川さん1組)のいる席につれていってくれた。
 
 先着組の上原さん、榎本、山田君に加えて大石橋(6組)、西條(3組)、泉(5組)、緒方(戎田8組)、村崎君(8組)ら三々五々と到着。到着するたびに乾杯。全員9名が到着して再会を祝して乾杯。ニユー・トーキヨーは昭和28年終戦後間もなく東京駅で開業した老舗のビアホールである。今年75歳になる後期高齢者は意気軒昂、大いに飲み、笑い、語りあった。孫の話、趣味の話に花が咲き。がん、糖尿病など体験談などを交換。沼津からかけつけてくれた上原さんにはこの1年間、花などの季節の絵手紙を12期の広場へ送ってもらい全員感謝。
 
榎本君の腹の中

 今日は榎本君の快気祝いだ。腰にコルセット、左手のレントゲン写真は今回の手術の証拠である。背骨をボルトで補強しているとの説明。コルセットはこのHPの公開後の9月中旬には取れる予定だがボルトは体に入ったままだ。現在リハビリの為、毎日自宅付近を2kmほど散歩している。



 集合写真で村崎君が読んでいるのがPTA広報委員会発行の昨年の「いちおか」冬号だ。この新聞は本年の東京市岡会に12期から出席してくれた山田、榎本君から持ってきてくれたものだ。皆で回し読みする。体育祭、文化祭の様子、各体育部、文化部の活動振りなど興味深く読んだ。昨年の夏号によると「国公立大の合格者数が過去最高に」とある。

「あい美沙子」シャンソンの案内


 大石橋君の奥さんはシャンソン歌手「あい美沙子」さんだ。これまで何度もコンサートを開いている。今年も11月27日、新宿シャンパーニュでコンサートを開く。声量のある歌い手だ。以前、恐らくアドリブだったと思うが「私の亭主は焼酎好き」と唄っていたのを思い出す。日本語で気軽にシャンソンが楽しめる。



 これまで利根川、荒川と続いていた川歩きを再開するとの宣言である。その心意気やよし。写真の5名だ。今度は東京都をほぼ縦断する全長138kmに達する多摩川だ。今回は羽田から奥多摩湖までとのこと。奥秩父の山々から堂々南に向かって流れる都民にとっては最もなじみのある川だ。

川歩きの面々、左から山田、泉、榎本、大石橋、西條君
 歩き始めの蒲田までは飲み所、食べ所も多い。この辺りで沈没との揶揄あり。75歳となりそれぞれ何らかの病気などの障害と付き合いながらの川歩きだ。従来と異なる年相応の川歩きとなろう。我々に希望と勇気を与えて欲しい。
報告を待っています。


圓尾博一君(6組)の美術展
 8月22日から28日まで銀座ギャラリー「向日葵」(ひまわり)で同君の美術展が開かれた。森重(3組)、小野(6組)、平松(6組)、榎本、山田君が美術展と初日のパーテイ、そのあとの懇親会に参加した。あいにく当日11年振りに台風が直接、関東地方に上陸した。その為、僕を含め何人かは交通がストップし行けなかった。
 
 僕は翌日23日、同展へ圓尾君を訪ねた。右の写真にある絵は「御伽草子(牛若)」と題するものだ。お孫さんに見立てた牛若が牡鹿に乗り疾走する姿は、荒廃する世の中にあって、孫達が健やかに成長することを願うと共に、彼等の生命力を信じ、世の改革を願うものと見た。圓尾君とはこれまで学校時代を含め、卒業後も話をしたことがなかった。でも短い時間であったが旧知の友のごとく、絵のこと、健康のこと、孫のこと、将来のことなどを話した。これも市岡がとりもつ縁だ。

左から、山田、森重、小野、榎本、圓尾、平松君居酒屋にて

「12期の広場」8月号のラインアップ

 冒頭から恐縮ですが、実に暑いですね。日中は出来るだけ戸外に出ずに水分補給と比較的涼しい部屋で過ごすことにつとめているのですが、そうもいかずに出かけて帰ってくれば、全身が汗まみれの疲労困憊です。
 空は小憎らしいほどに晴れ渡って真っ青。かんかん照りの日差しは肌をこがすほどに容赦がなく、遠くにつややかに輝く入道雲が連なります。汗がしたたり落ちます。白く光るコンクリートの街路の桜並木も緑陰を濃くしたとは言え、今が盛りの蝉しぐれ、無風のせいもあってか暑さだけがつのるようです。
 今日から、猛暑の夏本番の8月です。
 今月号の上原澄子さんの絵手紙は、「金魚」です。表書きに「最後の絵手紙になりました。榎本さん、張さんに助けていただきながら、拙い絵手紙を続けさせていただき有難うございました。市岡は私の生涯の宝物です。皆様との出会いに感謝です。」とありました。
 昨年の9月以来12回にわたって「ラインアップ」の挿絵として楽しませていただきました。締切期日を守り、時節にあわせた情緒ある風物を描くのは"絵手紙の手練れ”の上原さんでも並みのご苦労ではなかったと拝察しています。感謝、感謝の言葉以外ありません。お蔭で、「12期の広場」が一層、彩り豊かで味わい深い構成なったと思っています。なにより、市岡への熱い思いとやさしい気持ち、多彩な感性にあふれた絵手紙であったと感じ入っています。かさねて心からの感謝を申し上げ、またの登場を期待申し上げます。
 8月はリオデジャネイロオリンピックの月です。開会式は8月5日、全28競技306種目のオリンピック競技の火ぶたがきられ、前回からの4年間、精進に精進を重ねてきた200を越える国と地域の選手たちがより早く、より遠く、より高くとその心技体を余すところなく競い合います。
 日本選手団もマラソン競技以外はすでに現地入りしており、男子体操、競泳、柔道、女子レスリング、バドミントンなどの有力競技で金メダルが期待されています。また今大会ではいわゆる「日本でのマイナースポーツ」と言われる競技での活躍にも期待が寄せられており、驚きと喜びがはじけそうで興味津々です。ドーピングや治安問題、商業主義にまみれる五輪と現地格差など、問題は山積みですが、五輪が世界のスポーツ祭典であるだけに、国とボーダーを越えた友情と感動に期待し、また世界が一つに手をつなぐ姿をしっかりと目に焼き付けたいと思っています。
 猛暑日に熱帯夜がつづく時節、後期高齢者にはちょっと厳しい夏、8月ですが、元気に心わくわくして乗りきりたいものですね。
 
 さて今月号のラインアップですが、上原さんの「絵手紙の一年」と題した記事1本です。絵手紙1年分の再掲と、それらへの榎本進明君、段中文子さん、川副研治君のコメント記事です。
 お楽しみ下さい。
以 上

絵手紙の一年

 1年間におよぶ上原澄子さんの絵手紙を、ここに再掲します。昨年の9月号以来の折々の絵手紙とそれについての同窓生のコメントをご覧下さい。

初回(平成27年9月号)の
「酔芙蓉」です。
2回目(平成27年10月号)の
「秋の花かご」です。


挿し絵に「絵手紙」の提案をしたいきさつ
8組 榎本 進明

左から 村崎君、上原さん、段中さん
 上原さんの絵手紙を知ったのは、平成17年7月21日「東京12期会」の箱根小旅行での「近況報告」で村崎君が「絵手紙」を始めたと話されたときでした。「私もやっている」と上原さん、20年来の絵手紙先輩でした。その後の歓談と「絵手紙」のやり取りで、村崎君はめきめき腕を磨かれて、今やお二人は東京の双璧となっています。(詳細は「12期の広場」平成23年4月号をご覧ください。作品もあります。すごいなぁと思いました)
 それを「ラインアップ」の挿し絵にすれば季節感も出ていいのではないかとHP委員に提案したのが昨年(平成27年7月)でした。本人の了解を得ないままに話は進みました。決定後、上原さんにお電話を差し上げて趣旨説明をしたところ快く引き受けていただき、ホッと胸をなでおろしました。9月号を皮切りに1年という約束でした。
 筆者がHP委員に提案したもう一つのきっかけは、彼女のテニス部での活躍がこの「広場」に載ったからです。それは、平成25年の新年号で「HP委員から」の紹介で素晴らしい成績だったと知ったからです。これも「すごいなぁ」と感じ入りました。このお話もいつか彼女から広場に投稿していただきたいな、と個人的には思っています。
 毎号挿し絵として「絵手紙」が載るようになって上原さんのお孫さんまで「12期の広場」を楽しみに開くようになったと聞いています。また、今年の3月号のラインアップで校内マラソンの成績を知ったお孫さんは「おばあちゃん、すごいね」と言ってくれたそうです。筆者も3度目の「すごいなぁ」でした。絵手紙の挿し絵の効果は他にもあるかもしれません。1年で終えるのは寂しい気もしますが、毎月となると大変ですね。
 HP委員の方々はこの大変な作業を、毎月、平成23年1月から延々5年7か月続けていらっしゃいます。12期以外の人々からのアクセスもあって「継続は力なり」を示してくださっています。ここにHP委員の方々に感謝を申し上げ、読者の我々も記事の依頼があれば、快く受託するようにしたいと考えています。

3回目(平成27年11月号)の
「もみじとセキレイ」です。
4回目(平成27年12月号)
「石蕗(つわぶき)」です。


5回目(平成28年 1月号)は
新年らしく雪の「富士山」。
6回目(平成28年 2月号)の
「やぶ椿」。


絵手紙が終わるそうですね。
5組   段中 文子
 
 12期の広場を拝見していて巻頭文(ラインアップ)と共に上原澄子さんの描かれる絵手紙を毎月、楽しみにしています。懐かしい昔を思い出させる素敵な絵に添えられたお手紙とともに心に残ります。そんな絵手紙の掲載が終わると聞いて、これを機会に1年間の絵手紙を又、ながめて見ました。
 初登場は昨年の9月号でしたね。美しい酔芙蓉の絵手紙に目を瞠りました。家のすぐ近くに、大きな酔芙蓉の木があり、沢山の花を付けていますが、真白な花が夕方にはピンクの色に濃く染まっていく様子が、本当に花が酔っているようで、名前と共に忘れられない花となっています。
 移ろう季節を表し、忘れかけていた事柄を思い出させてくれる一枚の絵手紙に、毎月、何を届けようかと考え、描いてくださった上原さんの心がこもっていて感謝、感謝です。
 お忙しいでしょうが、又、12期の広場で絵手紙と出会える時もあるかと楽しみに待っています。
 暑い中、お元気にお過ごしください。

7回目(平成28年 3月号)は桃の
節句にちなんでの「雛祭り」です。
8回目(平成28年 4月号)の
「春が来た」


9回目(平成28年5月号)は端午の
節句にちなんでの「かぶと」
11回目(平成28年7月号)の「鮎」
 


またの「投稿」をお待ちします。
8組  川副 研治
 
 「12期の広場」を通じて癒しを届けて頂いた大川さんの絵手紙もいよいよ終わりということで、寂しい限りです。
 草花や季節に応じた風物等、優しいタッチで描かれた絵手紙の数々、それに添えられた文章を楽しみにしていました。市岡高校在学時、美術部に少しだけ籍を置いたこともあり、絵には興味があり、油絵、水彩画、水墨画、仏画、絵手紙等々、色々やりたかったのですが、現役で仕事をしている間は、忙しくて手が出せず、今となっては暇はあるが、気力が充実せず、何も出来ずじまいの状態です。
絵手紙なら手が出せそうと思いはするのですが、自然や生き物、季節等々に興味を持ち、絵を描くには、写実でなく、漫画チックでなくと… なかなか難しいものですね。
 大川さんといえば高校時代、テニス部で活躍されていた方で、すっかり体育会系の方だと思っていましたが、優しい絵手紙も描かれる、繊細な一面がおありだったのですね。また間をおいて、ぜひ「12期の広場」にご投稿いただき、我々に癒しを提供して頂きたいと思います。
 
10回目(平成28年6月号)の「紫陽花」です。

「12期の広場」7月号のラインナップ

 7月です。いよいよ本格的な夏の到来です。梅雨明けがいつになるのか、気になるところですが、今年も大雨による被害を各地にもたらしています。特に今も続く地震被害に加えての熊本県はじめ、九州地方の「記録的豪雨」とその被害には、言葉がありません。また、異常気象が常態化しているとの実感ばかりが強くなるようで、ちょっと考え込んでしまいますね。
 今年の夏は、近年を上回る、「酷暑」になるとの予想です。もうすぐ満75歳の誕生日を迎え「後期高齢者」の仲間入りの身にあれば、やはり、この一夏をどう乗り切るのかと身構えてしまうようです。また、今秋に予定されている同窓会に元気に出席できるよう、体調に留意してがんばらねばなどと考えています。
 今月号の上原さんの「絵手紙」は、ご覧のように「鮎」です。
 清流を泳ぎ登る姿が涼やかです。添え書きにこうあります。
 「 沼津・三島は富士山の伏流水のおかげで、水が冷たく、美味しいです」
 沼津・三島に仕事で何回か通ったことがあります。どちらかと言えば三島が主でしたが、三島は街の各所に清流や湧水が見られ、文字通り、富士山の伏流水の町と言った印象でした。
 その最大の清流が「柿田川」です。柿田川は全長がわずか約1.2km。日本で最も短い一級河川で、日量100万トン言われる湧水を水源とするめずらしい川です。皆さんもこの川特有の水中植物であるミシマバイカモが自生している美しい姿の映像をテレビなどで見られたことがあるでしょう。しかし、この川も豊富な水量を求めた工場進出などで汚染がひどくなった時期があり、1980年代からのナショナルトラスト運動など、地道な努力で清流がとりもどされたそうです。
 国道1号線のすぐ傍の湧水群から突然のように始まる、川幅が広く、豊かで堂々たる清流は感動ものの一言です。
 柿田川湧水群の水は年間を通して15度。また国の「名水百選」に選ばれており、沼津・三島の上水道にも使われています。毎日、水道の蛇口から冷たい名水がでるのですから、うらやましいこと、この上ありませんね。
 
 さて「12期の広場」今月号のラインアップは次の二編です。お楽しみ下さい。
 
1.  『中務淳行写真展』に行ってきました。  ・・・・・・・・  7組  張 志朗
2.  『フォークダンスの先生』
 
以  上

『中務淳行写真展』に行ってきました。

7組  張 志朗
 
 6月3日(金曜日)の午後、「やまと郡山城ホール」(奈良県大和郡山市)で開かれた『金魚 その池 その街・中務淳行写真展』(開催期間 6月1日~4日)に行ってきました。
 中務淳行さんは、市岡の13期、写真部出身で、読売新聞の元写真部部長。また「奈良市岡歩こう会」や「市岡OB写真クラブ」のお世話をされるなど、13期は勿論、市岡の全体同窓会諸行事で活躍されておられる方です。私の個人的なおつきあいでも、時節ごとのすばらしい作品をメールで送って頂き、楽しませて頂いていることや「12期の広場」にその作品を提供いただいて
いるなどいろいろとお世話になっています。

平日の午後、多くの方々が訪れて熱心に写真展を楽しんでおられました。

 中務さんの個人名を冠した写真展は、読売新聞退社後二回目だそうで、今回のテーマは全国的に有名な大和郡山の金魚です。金魚は夏の風物詩、美しくく詩情あふれる写真展でした。
 久しぶりの古都奈良。近鉄大和郡山駅に降りるのは初めてで、深い緑におおわれた郡山城址を左に見ながらのんびりと会場まで歩きました。晴天の昼下がり、初夏のさわやかな風が吹き、大阪や京都の喧騒はありません。時間までもがゆっくりと流れるようでした。
 写真展会場入り口付近に中務さんの「ごあいさつ」文が、かかっていました。以下に全文、紹介いたします。
 「私が大和郡山市に移り住んだのは8年前。大和郡山市は金魚の国内三大生産地の一つ。朝はカメラを持って、金魚の養魚池の周辺を歩きます。
 春は産卵、ふ化。金魚すくいの夏に出荷が最盛期を迎えます。また酸素補給のため窒素肥料を入れた水は植物性プランクトンで濃いみどり色になり、水面はエサが作る模様で変化し、周りの風景が映ります。秋から冬には強風で波立つ池で群れをなして元気に泳ぎます。
 冬はそこにじっとしていることが多いが、水面に姿を見せることもあり、池に氷が張っても氷を透かして群れ泳いでいるのが見られます。
 金魚池は一年一度、水を入れ替え、干しあげられて、鳥たちの足跡やひび割れた水底の泥が幾何学模様を見せ、水のない池が大きく変化します。
 城下町の名残りがある郡山の街には、金魚が泳ぐ飾りものや公衆電話ボックスなどがみられ、金魚の街らしい装いが見られます。金魚とその池、その街の四季をどうぞごゆっくりご高覧ください。」
 作品は41点です。右回りで挨拶文にある春から冬までの四季それぞれの作品が展示されていました。
 始まりがユーモラスな金魚の絵が入った「マンホール」。金魚の街、歴史が深い城下町への愛着が一杯です。「S字に群遊」「孵化」「色変わり」と春の金魚のさまざまな姿が続きます。「大群泳」は盛り上がるような緋色の塊。また養魚池に鳥害から金魚を守る鳥よけの糸が張られているのですが、それをカメラは五線譜と捉え金魚が泳ぐ様を「五線譜をスイスイ」と題していました。楽しくなりました。
 池には金魚を囲い込むためにびわ湖の「エリ」のような「すだれ」があります。それをアップで切り取った作品は、水面にゆれる光と陰と金魚の饗宴で、さながらアブストラクトのような魅力一杯の作品でした。そのすべてについてご紹介できないのが残念ですが、ご提供いただいた作品2枚を添付します。ご覧ください。


 上は写真展の案内状にも載せられた作品で、凍った水面に野鳥が訪れ、その下に金魚が群れているすばらしい写真です。得難いシャッタチャンスをものにする精進と感性、その技術に感動しました。次の写真は丹精して育てた金魚の出荷です。

 
 写真展では併設された小スペースで「大和百景+α」と題したスライドショウがありました。
 ここで紹介された写真の数は100点以上で、吉野、宇陀、曽爾、佐保川など、奈良県各所の風景写真と中国などの海外の風景写真をスライドにしたものです。やさしい目線と自然体のカメラアングルで、美しく豊かにうつろう風景を切り取っていますが、そうであればあるほど、詩情にあふれて奥深く感じたのは私だけではなかっただろうと思っています。
 まさに、写真家、中務淳行の世界。この一日は「中務ワールド」にどっぷりの一日でした。
 1日から4日の写真展は盛況だったようです。市岡の同窓生が見にこられていたのは勿論ですが、私が居た短い時間内でも、一般客と思われる方々が次々とおいでになっていました。
 12期の同窓生では、3日の午前中(残念ながら午後に行った私とは行き違いになりましたが)1組の久保田靖子さん、4組の古藤知代子さんが来ておられました。
 会場を出た後、折角ですので郡山城址を散策しました。
 郡山城は、天正8年(1580年)織田信長と組んだ筒井順慶が明智光秀の指導のもとにその整備を始めたとのことです。後に豊臣秀吉の弟の秀長の居城になり、100万石の城郭の大増築と城下町の建設が進められ、徳川幕府の時代、柳澤吉里(柳澤吉保の子)が入部の後、城下を中心に心学、国学、漢学、俳諧、茶道、花道などが栄えたそうです。有名な金魚の養殖や赤膚焼がこの時代にさかんになり、特に金魚の養殖は武家の副業としてひろまったとのことでした。
 残っている城郭あとはそう広くはありませんでした。おまけにその大部分が工事中で、高い堀端の石積みの上からの眺望を楽しめただけです。
 城址を囲み、緑にうもれるように創立120年の「奈良県立郡山高等学校」の諸施設が広がっていて、夕方の静けさの中、クラブ活動の学生たちの歓声が響きわたっていました。

『 フォークダンスの先生 』

 高校時代の課外行事で思い出深いものの一つに「フークダンス」があるのではないでしょうか。
 体育祭後のファイアーストームで踊ったことは、今も記憶に鮮やかですが、授業のない土曜日午後、校舎裏の運動用スペースでもフォークダンスをやった記憶があります。
 高校生になって初めて女子生徒と手を取って踊る経験、照れくさかったけれども心踊る楽しい思い出です。
 フォークダンスが初めて母校に入ってきたのは、私達が入学する一年前の昭和31年度のことだったそうです。そのいきさつについて保健体育科 辻井美智子先生が「みをつくし」第84号(学校新聞)に文章を書いておられます。卒業アルバムを開いてみると、保健体育科の先生に辻井先生のお名前がありません。永井先生の誤りではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 以下にその文章をご紹介します。(「母校創立百周年記念誌」P272から転載)


 「いつのまにやら、どこからともなく『フォークダンスの先生』と呼ばれるようになってしまいました。本校のフォークダンスはようやく満一歳の誕生をむかえたばかりですが、府下の高校では第一といってもいいと思います。
 昨年の夏、アメリカからマイケル・ハーマン氏一行が来阪された際、府立体育館での講演会に参加して、神沢先生と私が、ファーマン夫妻の手を取って踊る光栄に浴したものです。他に参加された本校の先生方といえば、あなた方が初めて経験をされた当時と全く同じで、『リズムオンチ』人の足をふむ、ロボットのようにかたく、ステップは全くわからないというありさまでした。でもみんな楽しい冷汗を出して、涙ぐましい努力をされました。それでいいんです。フォークダンスはあくまでもやるものであって、見るものでもなく、見せるものでもないのです。みんな一緒に楽しむもので苦しむものではないのです。自分一人で楽しむものでもなく、ただ踊りの手ぶりや、足どりを上手にやるだけのものではないのです。
 フォークダンスをやる人が多くなったことは喜ばしいことだと思っています。しかし一部ではソーシャルダンスなどが反面として持っている享楽的な面ばかりを見る立場から、フォークダンスの在り方について一概に白い目で見る向きもないではないのですが、私達が参加しているフォークダンスが、もっとも健康な明るいものであることは皆さんが体験でおわかりと思います。私達はフォークダンスを通じてすっきりして、明るい交際を楽しむべきなのです。またリズム感覚や、正しい歩行と歩き方を、若さとはちきれるような健康を学びとりたいのです。
 昨年の運動会、夕焼け空の下で運動場いっぱいになって、ほとんど、全校生に近い生徒が市岡のテーマソングともいうべき『オクラホマ・ミクサー』を踊った時、私は感激のあまり涙がとまりませんでした。
  また、秋の遠足で六甲山カントリーハウスで緑の大芝生のもと、まばゆく太陽を浴びながら、2,3時間踊ったことが思い出されます。」

 
 あらためて卒業アルバムを調べたのですが、フークダンスに関連した写真が、体育祭後の「ファイヤーストーム」と、「秋に遠足」の二枚しかありませんでした。いずれも何年次であったのかが不明です。ご容赦下さい。
 フークダンスにまつわるエピソードや思い出話をご記憶の方は是非、ご投稿下さい。 

「12期の広場」6月号のラインナップ

 6月です。
 大川さんの絵手紙をこの欄に載せ始めてから今回で10回目です。1年のお約束でお願いしましたから、後、2回を残すのみです。感謝、感謝です。今月号の絵手紙は、「紫陽花」です。この原稿を自宅で書いているのですが、丸窓から、そぼふる雨に濡れる紫陽花が見えます。今年は花芽がたいそう多いようで、数えて見ると30をこえています。咲くのが、今から楽しみです。


 絵手紙の表書きに「梅雨の季節になると『つめ色の雨』という歌を想い出します。『えんぴつ色の 角だしてまいまいつぶろが 見ています 静かに・・・』とありました。「つめいろの雨」とはどんな色の雨なのでろう。思わず、自分の爪を見てしまいました。また、そんな歌があったのだろうかと思ったのですが、大川さんは電話口で、そのメロディをはっきりと口ずさんでくれました。
 早速、ネットで検索。ありました。おまけに、その歌まで聞けました。
 なんと、サトウハチロウの作詞(大正8年、サトウハチロウが23歳の時に出版した処女詩集『爪色の雨』に収録されている)で、ボニージャックスが歌っています。ちょっと長くなりますが、書き出してみます。
 
 爪色の雨が降ります  しずかに しずかに
 あじさいの花がけむります  しずかに しずかに
 誰にも知れないように  お風呂場の壁がぬれて行きます  しずかに しずかに
 鉛筆色の 角だして  まいまいつぶろが 見ています  しずかに しずかに
 爪色の雨の降るたびに  あなたと旅した あの頃を
 あなたのお下髪(さげ)を ほほえみを  耳のうぶ毛を はじらいを
 あの山脈を あの指を  爪色の雨の降るたびに
 
 情緒豊か、情感あふれる詩ですね。
 若い頃、ある女性が「優しく雨が降る日がすきです。音が消えたように感じられ、光る屋根の家々を長時間眺めていても飽きません。」と話していたことを思い出しました。
 一昨年も、昨年も、6月号のこの欄で梅雨が慈雨でありますようにと書きましたが、今年は殊更に、瑞穂の国の穏やかな梅雨であってほしいと願うばかりです。
 
 さて、わが「12期の広場」6月号のラインナップは、次の通りです。お楽しみください。
 
1. 「兵庫市岡歩こう会が開催されました」           6組  高見 政博
2. 「ツーセル(社長:辻紘一郎)、中外製薬と膝軟骨再生治療でライセンス契約」
3. 「陶芸のこと (3) ー川歩きー」                8組  山田 正敏
以 上

兵庫市岡歩こう会が開催されました。


 5月15日(日)兵庫市岡歩こう会が開催されました。当日の天気は快晴。初夏の日差しは少し暑いくらいでした。参加者は50名。最高齢は旧中42期の大先輩。最年少は30期生で、12期生は古藤さん、段中さんと私、髙見の3名。最多参加者の期は13期生の14名でした。
 今回の行き先は、猪名川町にある「多田銀銅山跡巡り」です。
 多田銀銅山は猪名川町を中心に北摂地域に東西約25kmにわたり坑道が開削された広大な鉱山です。ボランティアガイドさんの説明では1000を越える間歩(坑道)があり、うかつに山の中に入ると竪穴が隠れていて危険だそうです。歴史も古く、奈良時代には東大寺大仏建立にあたってこの地の銅が献上されたと言われています。一帯は多田源氏発祥の地で、多田源氏が力を持ったのもこの地の銀、銅が一役買ったのではとのこと。
 安土桃山時代に、豊臣秀吉が本格的に開発し、江戸時代には3千軒の家があった程の賑わいだったようです。また、秀吉が息子秀頼の将来を案じ、4億5000万両の大金を隠したといわれ、埋蔵金探しも最近まで行われていたといいます。
 コースは、能勢電鉄日生中央駅→多田銀山悠久の館→(昼食)→代官所跡→伝代官所の門→青木間歩→金山彦神社→日生中央駅でした。
 昼食の後は現地のボランティアの方が案内をして下さって、青木間歩では入口から15m程が見学出来ました。行程は急な坂も無く舗装路でしたが、距離が少し長かったので、日生中央駅に着いた時には結構疲れていました。しかし全員無事完歩、楽しく終了しました。
( 記 —–  高見 政博  )

ツーセル(社長:辻紘一郎)、中外製薬と膝軟骨再生治療でライセンス契約

 辻紘一郎君(8組)が代表取締役社長を務める株式会社ツーセルが、自社の膝軟骨再生細胞治療製品に関するライセンス契約を中外製薬株式会社と締結したという、うれしいニュースが報道されました。すでに各種メディアを通じてご存知の同窓生も居られると思いますが、ここに紹介させていただきます。
 4月26日の日本経済新聞によれば、『広島大発バイオベンチャーのツーセル(広島市)は25日、軟骨の再生細胞治療に関して、中外製薬とライセンス契約を締結したと発表した。契約により受け取る一時金や成功報酬は数十億円規模になるとみられる。大手製薬会社との契約により、早期の臨床試験(治験)開始や実用化をめざす。』とあります。
 2003年4月の創業以降、一貫して間葉系幹細胞(MSC)による再生医療の研究・開発にたずさわってきたツーセルが、いよいよ本格的に再生医療市場にその治療製品を提供する段階に入ったと、大きな期待をもって注目をあびています。
 13年にわたり社長をつとめ、ツーセルを牽引してきた辻紘一郎君は『当社は、自社開発の無血清培地で間葉系幹細胞を大量培養し、医薬品で治療できない疾患に対して移植することで、多くの患者さんの治療に貢献したいという思いから再生医療製品の開発に取り組んできました。大阪大学や広島大学との共同研究により開発したgMSC®1は、"広島を世界の再生医療の拠点の一つにする”を合言葉に掲げ開発を進めてきた「広島発同種移植用細胞製剤の第1号」です』と語っています。
 2年前の12期同窓会での特別講演で、人の自然治癒力と再生医療への想いを語ってくれた辻君の姿が思い起こされますね。
 中国新聞の報道では『ツーセルによると、膝を痛めている患者は全国に約2900万人に上る。スポーツ選手や高齢者への移植を想定する』とあり、日経バイオテクONLINEでは『ツーセルが開発を進めているのは健常人の滑膜細胞から間葉系幹細胞(MSC)を採取、培養した他家の軟骨製品。負傷か所に注射で投与すると軟骨が再生する。拒絶反応を起こしにくいため、ヒト白血球型抗原(HLA)のタイプにかかわらず使用でき、免疫抑制剤の投与も必要ないという。』とありました。また『他家のため価格も押さえられ、「市販時の価格を1桁下げられる」(辻社長)』とあります。2017年から治験を開始、2020年の発売の見込みのようで、変形性関節症にも適用拡大していくそうです。膝関節の疾患に苦しむ患者さんにとって、すばらしい希望、福音になるようです。
 私の身の周りでいえば、家内が若い頃、ソフトボールで膝を痛めて苦しんだことがあり、また息子が移植治療で拒絶反応と免疫抑制剤の投与に苦しみ、未だにその後遺症悩まされています。自身が後期高齢者になったことと考え合わせると今回の再生医療製品は、実に身近なもの、またそのすぐれもの度合いが腑におちます。
 年齢を重ねてますます磨きがかかった磊落でエネルギッシュ、熱い気持ちのかたまりとも言える辻紘一郎君の更なる活躍に期待したいと思っています。
(文責:張 志朗)
  • 追記:「ツーセル」で検索すると株式会社ツーセルのホームページが閲覧できます。
        MSC(間葉系幹細胞)を詳しく知りたい方は是非、検索して見て下さい。

陶芸のこと (3) ー川歩きー

 陶芸について2回にわたって書いたが、退職後の生活でもう一つの大切にしているのが市岡の同窓生と行う「川歩き」である。
 小生65歳の時であった。今は亡き河合兵治の発案により始めた1泊2日の「川歩き」の第1弾が“利根川川歩き”である。
 銚子漁港が出発地点であるが前日、壮行会をやろうと言う事で、犬吠岬のホテルに一泊した。泉は当日、所要で欠席。一日目の宿泊地、潮来のホテルで合流するとの事で川合、榎本、山田の三人がいよいよ出発。平成19年(2007年)10月31日に始まった。潮来のホテルまで地図上約40km。9時ごろホテルを出発、出発地点の銚子漁港を経由、昼食時間30分を除いてその日の日没まで(午後4時半か)を考えると7時間で真っ暗になる。計画ミスである。とても宿泊地の潮来には着けない。潮来まで宿はない。そこで、比較的近い成田線香取駅までなんとかタクシーを拾って出て、潮来まで一駅ではあるが電車に乗る事にしたのである。三人共クタクタ、完全な計画ミスであった。
 潮来の宿で泉と合流。今後のことも含め打ち合わせ。泉の提案で「もう少し余裕を持った計画にする事」。「行路の途中の近くの名所旧暦のあるところを見学する事」。そして「夕食はうなぎを食する事」。全員、反省も含めて納得、大賛成。
 2回目、3回目からは、大石橋と西条が参加。6人のメンバーとなる。
第4回の利根川川歩きの100km地点。
ようやくここで全行程の三分の一である。

踏破可能な源流、八木沢ダムまであと一息。
第8回川歩きの6人のメンバー。


 4年後、平成23年(2011年)5月9日の9回目、群馬県 奥利根湖の八木沢ダム横に建つ「利根川源流の碑」でもってで完了。踏破距離は約300km。
 「利根川川上り」最後の9回目に先立ち、踏破完了後、その記念報告会を群馬県水上市でする為、しかるべきメンバーに案内状を発送するべく、その作成中に発生した「東北大地震と大津波」。案内状の発送は当然中止。「利根川川歩き」踏破記念パーテーは、後日、メンバーのみで行った。人生一寸先は闇。小生当時69歳。大地震と津波で亡くなった、多くの人々の事に思いをはせるに、これからの人生、謙虚に精一杯 頑張ろうと思った次第である。
 そして、第2弾の「川歩きは」関東第2の大河、“荒川”に決定。平成24年3月11日、スタート。27年4月28日、6回目で踏破。(延長173km)
 その間、26年12月 川合が肺癌の為、逝去。3回目以降は5人(泉、榎本、大石橋、西条、山田)となる。
  
荒川の源流に到着。「源流の水で川合君の好物のウイスキーの水割りを作り再び献杯。
・・・ひたすらこの間の自然と人とのふれあいが懐かしく、とりわけ市岡の仲間と楽しく充実した時間を
過ごせたことがうれしい。」(泉信也)

 第3弾目の「川歩きは」メンバー5人の協議の結果、荒川と同じく東京湾を河口とする関東の名流「多摩川」(延長138km)に決定。4~5回程度で踏破か?川合が抜けたのは実に無念である。他の参加者を募っているが、なかなか参加してくれるメンバーがいないようだ。
 川歩きを始めてから、他のメンバーに遅れないようについて行く為、又、体調維持の為
日・祭日や暇なときに船橋市内を3時間程度、時々ルートを変えて、「早足散歩」と称し12~15km歩く事にしている。その為か、医者から糖尿病と言われていたが、最近すこぶる体調が良く、現在体重は10kg減の65kg。糖尿病の数値が改善、酒が旨い。これも「川歩き」の為の「早足散歩」の効用である。 陶芸と3時間の「早足散歩」、暇を持て余す事がない。出来れば、90歳までは続けたいと思っている。

 小生、日頃から皆さんに人生90年、長生きしようと言ってきたが、最近もう少し長生きしなくてはならなくなった。
 それは、小生の長男家に一昨年8月、孫娘が生まれたのである。我が山田家としては初孫であり、可愛さでは何処に出しても引けを取らない自慢の孫娘で、2ヶ月に一度、我が家に来てくれ、3~4日泊まっていくのであるが、来る度にその成長が見受けられ、何事にも代えがたい喜びを味わっている。成人したらどんなに美人になるのだろう。成人式の孫娘をなんとしても見たいものだと考えたとき、小生の寿命90歳では3年、時間が足りない。93歳まで長生きしなくてはならない。
 選挙権が20歳から18歳に2年早くなった今日、成人式もそうはならないのか !! いやいや、そんなセコイ事は考えまい。
 そこで、小生「人生93年」93歳まで生きる事を宣言する。
 その為、「陶芸」と「早足散歩」を絶対続ける事を決心した次第である。
ご拝読有難うございました。
以上。
 
利根川歩きの途上の一里塚ならぬ河口からの距離表示。はるか彼方に赤城山、子持山、小野子山が見えています。ここまでで行程は181.5km。この倍近くの距離を川合君を含めた同窓生と踏破したのですね。