12期の広場

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「12期の広場」2024年秋号のラインアップ

 10月神無月です。いつもなら「秋になりました。涼しい風が心地よいですね」などと書き出す所ですが、今夏の残暑の長さと厳しさからでしようか、すんなりその言葉がでてきません。実に酷い猛暑と残暑。加えての台風、竜巻、集中豪雨災害に落雷、南海トラフ地震警報など、身も心も休まりませんでしたね。インバウンド客が『日本は災害大国ですね』と言ったとそうですが、今更ながら、この先の日本列島とその四季はどうなるのかと不安が一層募ります。友人から『毎日、これでもかとの暑さ』とのメールがありました。前日の暑さに充分弱っているのに今日またその上を行く暑さになる状況はまさにその通りで、言い得ての妙があると考えてしまいました。
 この文章を中秋の名月を眺めながら書き始めました。『暑さ寒さも彼岸まで』のならい通り、ここに来て朝夕が秋色に変わり、残暑もあと少しのようです。
 10月がごく普通で、本格的な秋到来となるよう期待するばかりです。
 
 訃報です。
 6組の駒崎雅哉君が亡くなられました。4月中頃に脳梗塞を発症、その後入院治療をされておられましたが、そのかいもなく8月1日に亡くなられたとのことです。
 同窓会が始まったころ、「仕事は何してんのん」との質問に、笑いながら「大手家電メーカーに勤め、アフリカで電気炊飯器を売っている」と話してくれたのが今も鮮やかです。アフリカ、特に南アフリカは長かったようで、退職の直前はアメリカのシカゴ駐在だったと記憶しています。バイタリティー一杯、何事にもその探求心と行動力は一貫していました。退職後ピースボートに乗りさらに見聞を磨いたこと、長崎の生月島に単身移住したこと、原発再稼働反対の座り込みに参加していたとバッタリ出会い立ち飲みで話し込んだことなど、実に彼らしいと感じ入っています。酒も麻雀も強かったですね。
 また一人、得がたい学友が私たちのもとから去りました。慎んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。合掌。 
 
 「12期の広場」2024年秋号のラインアップは「ひろばリバイバル」のみです。
 駒崎君を偲んで、「12期の広場」2012年12月号に投稿された『生月島漂流記』を再揚載します。ご覧ください。記事中の顔写真が不鮮明なため、ここに卒業アルバムの写真を貼り付けます。
 
1.『生月島漂流記 3年6組   駒崎 雅哉
以 上

ひろばリバイバル

生月島漂流記

6組 駒崎雅哉
(一)
 
50cmのコチをつり上げた。
 2001年9月11日の米国での事件を駐在先のシカゴで経験した私は、ひたすら米国旗を車の後ろに結び付け街中を走り回るアメリカ人を見てやるせ ない気持ちになった。つまりグローバリズムの名の下に世界中に害毒を振りまく米国に対するアラブ側の自爆攻撃に直面していささかの自省することもなく、自 国旗に自らの正当性を求めるアメリカ国民に暗澹とせざるを得なかった。同年12月に米国で定年退職を迎え、会社に残ることなく退社し、2003年ピース・ ボートにて世界1周し(途上計画していたイスラエル訪問は、紛争ぼっ発の為実現しなかったが)翌2004年5月より、橋で繋がった島としては、日本最西端 に位置する生月島での一人暮らしを始めた。

 家を出る経緯については、省略するが、当初は、鴨長明又は吉田兼好の生活スタイルが目的で「方丈記」と「徒然草」を持って出たものの爾来8年半、今や島の生活にドップリ浸かってしまいミイラ化している自分に呆れている。

(二)
 島での生活は、先ず歩くことから始めた。1日約2時間距離にして4~5キロ、春夏秋冬夫々に美しい景色の移り変わりを楽しんでいた。毎年9月の最終土日には、平戸ツーデイウオークが開催され全国から3千名程の参加者が有り、初日の土曜日にはこの島を歩くことに成っている。

 自炊の為料理も学んだ。この島の北端では、東シナ海と玄界灘が合流する為、多品種の魚が生息しており、毎日新鮮な魚を味わえるのが素晴らしい。やがて船外機付きのボートを買って釣を楽しみ、クエまで釣りあげた。4キロほどのクエにしては小形で在ったが、鍋にして食うと地元の漁師連中から「バカだなあ、アラ(クエ)ならキロ1万円で売れるのに」と揶揄された。島では娯楽の1部としての祭事が多い。春・夏・秋の祭礼には、必ず鯨が売りに出される。盆と正月には、若者の帰省が多い。全国の他の離島同様年年過疎化が進み、私が滞在した8年半で1/4の人口減と成った。最近では団塊の世代が定年を迎えUターンしてくるのと田舎暮らしにあこがれてのIターンも見られるが、人口流失のスピードにはとても追い付けない。

 しかも残念ながらこうした移入者に対して行政から何の生活支援も見られない。

(三)
 
島のバンド「デラ・ルンナ」のボーカルとして
「スタンド・バイ・ミー」を歌う
 そうした中での島おこし作業は、非常に難しい。存在するのは、美しい自然と古い因習位なもので、どちらも島おこしには余り役に立たない。それでも 私は永年止まったままに放置されていた風力発電の風車を動かす運動を個人的に、又行政と共にオランダ市民との交流、オランダ商館運営企画、ボランテァガイ ドと結構多忙な生活を送っていた。兎に角島おこしの為には、島外の人々にこの島の事を知ってもらうのが先決と考えての活動であった。




  生月島には、「古式捕鯨」と「カクレキリシタン」の二大伝統文化が有り、今も継承されているが、今後も守り継承し続けるには、新しい文化(血)との融合を 図る事によって初めて可能と成ろう。幸い宣伝の影響で最近は、関西からの観光客も増え、学生達の体験学習を通じて島の文化は、徐々に伝播しつつある。従い これからの課題は、I・Uターンの人々を如何に積極的に受け入れ共存するかである。

 私の場合、企業年金の減額により家賃が払えな くなり10月末で島を引き上げる結果と成ったが、もし行政からの何らかの支援が得られたならば、多分この島を終の棲家に出来たのでは・・・。しかし現在 は、一介の漂流者でしかなかった事を残念に思う。毎年税金と家賃を入れると120万円近く行政に支払っているにも拘わらず。

(四)
 
水耕栽培で甘いトマトを作る。
 カナダでグランプリを取った高倉健主演の最新映画「あなたへ」の舞台も生月島であったが、撮影に際し監督がこの島の港を見て余りにもコンクリート で近代化されているので急遽向かいの平戸に舞台を替えたと聞いている。ストーリーは、亡くなった妻の手紙により散骨する話だが、永年この島での暮らしにあ こがれやっと実現したものの二カ月でガンを発症し亡くなった奈良の友人も又私の義父母もここで散骨した。

 この島での漂流生活を終 え、新たな漂流生活を求める旅を続ける今年71歳の私も75歳に成れば断食修行を始めようと思っている。その目的は、自然死において西行法師の様にその到 来時期を感知したいからである。「願わくば桜の下で春死なん・・・・」の歌の通りに3月の満月の夜に死んだのは断食修行の結果と聞いている。


(五)
 引っ越しに際し全ての荷物を人に譲ったので、10年近く付き合った家具類が徐々に引き取られて行くのを見ているのは、寂しい。荷物だけでなく、身ぐるみも心さえも剥がれてゆく感じだ。考えるに次の世代に語り継ぐべき何物をも持ち合わせない現状に不安・恐怖を感じる今日この頃である。

 しかし唯一云えることは、原発だけは断じて子孫に残すべきでない。その為大阪にて毎週金曜日夕方6時から7時半まで関電本社前で叫んでいるので時間と興味のある方は合流下さい。待っています。(完)

「12期の広場」 2024夏号のラインナップ

 7月、いよいよ夏です。この月は私の誕生月ですが、加齢に比例するように苦手度は募り、酷暑をどうしのぐかと身構えてしまいます。
紫陽花の さまざまに咲く 同じ株
(同級生の近況を思いつつ)
メディアは既に夏日や猛暑日が何日記録したとか、今夏は記録的な暑さになるとか、またそれに関わる熱中症対策など、はやし立てるがごとく繰り返して、すでに気分は盛夏の酷暑を想像してげんなり。温暖化を通り越しての“地球沸騰化”、身に危険な暑さになるのは間違いないようです。
 先日漸く関西その他の地方の梅雨入りが発表されました。今年の梅雨は「短期集中型」だそうです。先に梅雨入りした沖縄・九州ではすでに豪雨土砂被害が報道されており、今後更にそれを上回る災害が予想されるようですから、これまた気持ちが落ち込みますね。

 訃報です。5月15日、6組の武田博君が亡くなられました。武田君は同窓会発足以来の幹事さんで常に主要メンバーとして同窓会の活動に尽力してこられました。同窓会開催時に舞台正面に掲げる「大阪府立市岡高等学校第12期同窓会」の大きな横幕も制作から発注、完成まで武田君のご苦労で出来上がったものです。「12期の広場」にも投稿して頂きましたが、2012年7月号の「ジェーン台風の写真」は評判を呼びました。温厚で真っ直ぐ、優しい語り口と物腰、にこやかな笑顔は今も鮮やかです。また一人、私たちの側からいなくなりました。寂しさが身をつつみます。心から武田博君のご冥福をお祈りすると共にお知らせいたします。合掌。 
 さて「12期の広場」2024夏号のラインアップです。残念ながら今号の「巻頭コラム」「掲示板」は休稿です。「ひろばリバイバル」は、武田博君の「ジェーン台風の写真」(2012年7月号からの転載)です。彼を偲んでお読みください。
 
「12期の広場」2024夏号のラインアップ
1.巻頭コラム、及び、2.掲示板・・・(今号は休稿)
3.“ひろばリバイバル”
「The あの頃」 ジェーン台風の写真
(2012年7月号から)
6組 武田 博
以 上

ひろばリバイバル

「The あの頃」 ジェーン台風の写真

6組  武田 博

 今年、「福島区災害展」の開催にあわせて町内の方々から災害写真を集める機会がありました。

 その時に、私が親しくしていた方から頂いたのが、このジェーン台風時の写真です。

 私はその時は吉野小学校の3年生でした。その日は日曜日で学校は休みでした。2階の洗濯物を干す場所に通じる4畳半の部屋に3人の兄弟で震えながら外の風雨のビュービューと唸る音を聞きながら眺めていました。

現在の北港通りの写真です。左に「江成町」の住居表示が見えます。


 
左の写真でさらに西側を撮ったものです。玄関扉を横板で打ち付けていますが、如何に風が強かったかを示しています。
ジェ-ン台風の時は瓦が紙のようにペラペラと飛びガラス窓を壊しました。
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「12期のひろば」2024春号のラインアップ

 4月卯月、春です。山も川も草木も、勿論空も春色にあふれ早々と鶯の声を聞きました。遅れていた桜も見事に咲きました。友からのSMSに「もう逢う事のできない友達のことを思い出しながら花見をする」とあり、年年歳歳、花によせる想いは実にさまざまと、この短文が心に沁みます。
 先日、仕事を通じて知り合い、50数年お付き合いさせてもらった友人をなくしました。二つ年上の師匠格、得難い友人です。さだめと言えばそれまでですが、半世紀の長い時間とその折々にめぐり合った方々との記憶も重なり、“私の時代も終わるのか”と思ってしまいます。同時に、別れに向き合い、老いに向き合うことが日常になった今にあっても、その段になるとまた狼狽えてしまいます。
 
 そんな中、同級生の酒井政子さんが、NHKラジオ体操一級指導員になったと聞きました。ラジオ体操にそんな資格があったことを初めて知り、また一級指導員の資格があるとラジオ体操を主導できると聞き一寸驚きです。雨の日も、風の日も、一日も欠かさず、早朝4時半に起床、大阪城公園まで30分かけて歩いて行き、300人を前に“指揮台”に登って掛け声を掛けているそうです。昔から“元気印”は彼女の持ち前ですが、その来し方の一端を知るだけに、思わず「人生の達人」ではと言ってしまいました。“なんでもやってみたいから”と若々しい声で彼女は笑うだけです。
 
 さて今号のラインアップです。コロナの5類移行がありましたけれども、集まることへの抵抗があるのか、豚汁会も、舞洲のお花見も中止。そんなこともあり、『掲示板』の記事はありません。また『ひろばリバイバル』は人恋しい季節にあわせて、3組の高橋要君が投稿してくれた「日曜日の尋ねびと」(2012年12月号掲載)にしました。お楽しみください。
 
  1. 巻頭コラム
    「終活?・奥神鍋にスキー」 8組 榎本 進明
  2. “ひろばリバイバル”
    「日曜日の尋ねびと」 
    (2012年12月号から)
    3組 高橋 要
以 上

巻頭コラム

終活?・奥神鍋にスキー

8組 榎本 進明
 2月13日横浜を出発して奥神鍋に向かいました。
天気は良く途中の富士山は今までになく素晴らしくきれいでした。
 京都で山陰線に乗り換えて、福知山で大阪からの列車に再び乗り換えて江原駅に。そしてバスで山田に到着しました。
 バス停からすぐの「ニューみちや」が今日の宿です。荷物を置き早速レンタルスキーを借りてゲレンデに。リフトを2本乗り継ぎさっそうと滑降する・・・というイメージでしたが、1本目のリフトを降りたとたんにスッテンコロリン。20年ぶりとは言え、「こんなはずではなかった」と頭の中は真っ白。起き上がるにも滑って起き上がれない。まるで初心者と同じ格好でショックをうけました。
 リフトのおじさんも切符を買うのにもたついていると「いいですよ」と言ってタダで乗せてくれました。2本とも。よほど爺サマに見えたのでしょうね。
 もう何時間も滑ったかのように疲れたので、そのままスキーを返却して宿に戻りました。泊り客は一人だったので大浴場にはお湯はなし。近くの温泉まで送ってくれて疲れを癒すことに。
 散々なスキーとなったが、やはり温泉が似合う自分を再発見。1時間ほどで迎えに来てくれました。
 宿に戻り、奥神鍋まで来た目的である「猪太郎いたろうさん」にお線香をあげることができました。
中学、高校、大学と永きにわたりお世話になりました。当時は民宿で、ご主人の名が猪太郎さんでした。最後に訪れたのが昭和39年の1月か2月でした。4月から大阪を離れて長野県に就職するので、これが最後だと思い一人で出かけたのでした。
 市岡の山岳部では、スキー合宿の時に興梠君がスキーの先端を折ってしまいました。部員全員で雪を掘ってその先端を探したのですが見つかりません。そして雪解けの頃に猪太郎さんが見つけてくれて興梠君に届けてくれました。当時は宅急便もなく、その親切に感謝したことも思い出です。
 今は、お孫さんが旧母屋は取り崩し、少し離れたところにロッジを経営しています。夕食は広い食堂で、ご主人とお手伝いに来た親戚の人と3人ですき焼きを囲みました。懐かしい話にお酒も美味しく時間の経つのを忘れてしまいました。
 翌14日も滑る予定でしたが、急遽、引き上げることにしました。ご主人が江原駅まで送ってくださったので、大阪までの特急に乗ることができました。そして、西宮名塩で途中下車。張君が迎えてくれました。
そのまま旧福知山線廃線跡を案内してくれました。約5キロの道は武庫川に沿って武田尾まで続いています。景観もさることながら、ズーッと話し通しでした。昨日は単独行で口数が少なかったので、楽しい散策でした。

武庫川がこんなに奇岩が多く急流であるとは思いもしなかったです。
 そして宝塚で夕食をごちそうになり、彼のご自宅で一泊させていただきました。大変お世話になり有難うございました。 
 
 そして、大阪では難関の“終活”がありました。和歌山県にある「墓じまい」です。頭が痛い相談となります。
弟と妹に了解を得る必要があるからです。遠くてお墓をお守りするのが困難になっています。でも、原則賛意を得たのでやれやれ。妹宅で泊り、翌16日に横浜に帰りました。
 しかし、終活はまだ残っています。満州時代からのお付き合いの方が富山に居ます。「早く行かないと」と思いながら、もう何十年もお会いしていません。書類等を捨てる終活は一人でもできますが、一言お礼を言いたい人に会うことの終活は春以降に行おうと思っています。

ひろばリバイバル

日曜日の尋ねびと

3組   髙橋 要

 久しぶりの同窓会でした。

 先生方がそれぞれにお元気そうで何よりでした。北村先生からはわたしも読書感想文を返していただき、思いがけないプレゼントにびっくりいたしました。先生の授業中は、申し訳ないことによく寝込んでしまっていて「僕の授業、フランス革命あたりでおもしろくなります」というお声も夢のなかに残ったようです。

 西田先生の訃報に接し、バレーボール部で3年間お世話になったさまざまな記憶が頭の中を駆け巡りました。また同期の部員であった池上昇君についで、林清矩君が亡くなったことも知りました。池上君の死を連絡してきた彼の電話口での声が鮮明に蘇ります。

 

 「12期の広場」のことを最近になって知りました。寄稿された文章を読むにつけて感慨もひとしお、とりわけ武田博君の「the あの頃―ジェーン台風の写真」(12年7月号)のインパクトは、60余年前の災害と時代の空気とでもいうべきものをいっきに目の前に手繰り寄せてくれました。当時西淀川区の姫島小学校3年生だった私も武田君と同じような体験をしたのです。

 
現在の香蓑小学校 正面

 わたしは小学校時代に3度転校をし、姫島小学校に続く4校目が同じ西淀川区の香蓑(かみの)小学校で卒業まで在籍しました。今もクラスの同窓会が続いて いるのですが、古稀を前にした先年の集まりのようすを拙い文に書きとめてみました。同窓会ってなんだろう、同窓ってなに?そんなことをとりとめもなく考え ていたような気がしています。うまくお伝えできればいいのですが。


「タカちゃん、挨拶は短めェにしてや!」
 

「では幹事として挨拶させてもらいます。お知らせにも書きましたように、私たちも古稀を迎える歳に近づき、今回が初めてやったんですが、1泊でゆっくりしてもらおういう企画を立てましたところ、こんなに参加してもろて、幹事として喜んでます」

 しっかり者の多賀子が話し始めるとすぐに「タカちゃん、堅苦しい挨拶は短めェにしてや」と田中の声がとびました。

 タカちゃんはそんな声を無視して続けます。

「今日は敬老の日やのに早い時間から、それもこのあいにくのお天気のなかを京都まで出てきてもろた、千葉の加藤さん、高知の林さん、お疲れさんでした。また、この旅館の予約に便宜を図ってくれた横浜の伊藤さん、ありがとう。開宴に先立ちまして昨年お亡くなりになった担任の北尾先生のご冥福を祈って、みんなで黙祷をささげたいと思います」

 香蓑小学校6年4組の3年ぶりの同窓会が始まりました。聖護院に近い宿に集まったのは22名、京都在住はわたしひとりで、多くは大阪と兵庫です。

 撮影係の斉藤が着席したところで乾杯。かしこまった雰囲気はいっさいなくて、座はいっきに盛り上がるのですが、それには訳があります。わたし自身は4校目の小学校として4年生で転校してきたのですが、この学年は入学から卒業までの6年間、担任は変わってもクラス替えがなかったのです。そのことを知ったのは卒業後30年以上過ぎてからでしたが、親どおしの付き合いも親密だったのは、そのせいでもあったのでしょう。

 

 順に立ち上がってそれぞれの近況報告が始まりました。

 本屋の中田は2つあった店の1つをたたみ、大手の鉄工所で営業部長だった斉藤は、会社の倒産後、タクシー運転手などを経て今も建築現場の監督のようです。失業、リストラ、転職そして病気療養と、男たちの近況は明るい話ばかりではないのですが、不景気な話題を取り上げてしゃべっても、彼らはその場を盛り上げてしまいます。

 隣にいる木村の番になりました。同窓会に初参加らしい彼は、突き出た腹をゆさぶりながら、吠えるように挨拶を始めます。

「みなさん、お久しぶりです。後悔と反省ばかりの長い歳月を過ごしてきた木村です」

いくらか事情を知っている者の間から笑いが起きます。

「結婚5年で離婚し、子供もあっちへ行ってしまい・・」

「そら、奥さんに先見の明があったんや!」と田中の大声。

「・・その後、付き合うた4人目の女とも3年前に別れました」

「逃げられたと正確に言わんかい!」これは北村。

「・・今はエレベーターのメンテナンス業に首を突っ込んでいますが、不眠症と高血圧に加え、ここんとこ痛風が出て食事にも気ぃつかう情けないことになってます」

「おまえ、どない気ぃつこうてんのか知らんけど、その体重、はよなんとかせんとしまいにころっといてまうでぇ」森河のツッコミ。

「いや、これでも努力して4キロ減らしたとこやで。さっきかて、隣のカナメにおれの御膳のサイコロステーキ、みなやったとこやで。嬉しそうに食うとったわな」

 

 こんな調子の「近況報告」が一巡するのを待ちかねるように、カラオケのマイクを握ってスタンバイしているのが森下で、今も生まれ育った町で小さな会社を経営しています。その彼が、だしぬけにカラオケ大会の開会宣言をしました。

「ではみなさん、この辺でカラオケ大会と参りましょう」

「こらあ森下ァー、お前の歌、2曲までは許したるけど、3曲目歌うたら承知せんぞォ」と野原。

「だいたいお前の演歌は長すぎるんじゃ。2番まででやめとけよォ」これは中井。

 20年のアメリカ暮らしから数年前に帰国した篠田がマイクを持った時もいっこうに静かにはなりません。

「篠田ぁー、英語の歌なんか歌うなよォ、分かりやすい歌にしとけェ―」

「ではリクエストに応えて、ビートルズナンバーから1曲」

「アホかぁオマエ、なに聞いとんねん!」

 ヤジを飛ばしながらも手拍子を打ち、ともに歌って騒然としては来るのですが、座には不思議な調和が保たれています。

 

 広間での宴会が3時間半を経過したところで、仲居さんに追い立てられるようにして2次会の部屋に移りました。さすがに少し疲れが出始めたか、先ほどのような騒ぎにはなりません。

 壁にもたれて足を伸ばした原が、水割りを飲み続ける馬込順二に

「ジュンさん、手元の名簿に載ってるのは40人やけど、クラスは何人やったん?」

「50人くらいちゃうか・・おーいタカちゃん、わしらのクラスはみんなで何人やったん?」

「54人のはずやけど・・」と浅原。

 では、所在の分からない14人は誰やろうと指を折ってみるのですが、思い出せるのは8人まで。そのなかのひとり、悦子は卒業と同時に引っ越してそれっきりです。成績がよく、際立つかわいい顔で、はきはき発言したというのが共通した印象のようです。

「急におらんようになったなあ。なんでやったんやろ」と野田。

「さあ・・知らんなあ」とそっけないタカちゃん。悦子の父親が何かまずいことをやらかしたため、一家は夜逃げ同然に姿をくらましたというのが当時の噂だったはずです。

「熊谷啓ちゃんはみんなも憶えてるやろ」と、美代子が話を振りました。とびぬけて絵がうまく、父親が映画館の看板描きで彼もそのあとを継ぎたいということでした。

 学校の裏門前の空き地に建つ、小屋のような家に住んでいた恵子が飲んでいたヤギの乳のこと、病気がちだった克平の名前などがあがったものの話は途切れがちになり、夜更けの急な雨音が耳を打つなかで「みんなはいま、どこで、どうしている・・」と、尋ねびとをする気分だけが残りました。

 


「焼けた鉄と塗料の臭いの中で・・」

 

 夜が明けて日曜日、青空が広がっています。昨夜の雨に打たれて庭にこぼれているのは萩の花です。

 朝食のあと都合で帰るわたしは、定期観光バスに乗るみんなより早く宿を出ました。きょうも暑くなりそうな日差しのなかを、西に向かって丸太町通りを歩いていた時のこと、昨夜はどうしても思い出せなかった男の名前がいきなり浮かんだのです。

 金村隆一。彼はクラスのガキ大将でもなければ、格別の腕力を持っていたわけでもないのですが、言うこともすることも荒っぽくて、ときどきの感情をむき出しにする彼が、わたしは苦手でした。あるとき、何が原因だったのでしょうか、道に落ちていた馬の糞をつかんで何かを叫ぶ彼に、わたしはどこまでも追いかけられたことがありました。

 

 大阪市立香蓑小学校は、大阪府と兵庫県とを区切るように流れる神崎川沿いにありました。阪神工業地帯のどまんなかに位置する労働者の町で、のちに西淀川公害訴訟で知られる地域ですが、当時は公害という言葉もありませんでした。零細企業が寄り集まった街の通りには、朝から晩まで鉄を打ち、削り、切断するカン高い音が漏れ、焼けた鉄や塗料の臭いが流れていました。
 

 ある放課後、年配の担任がプリントを配って保護者に渡すよう言ったあと、「君たちのなかでまだ給食をとらずに弁当を持ってくる人がいるが・・」と話し始めました。そして学校の給食が栄養的にどれほど優れているかを説明したあと、給食代が安いことを強調しながら「1日の給食代はご飯と卵1個分なんだよ」とにこやかに言ったのです。卵が今ほど安い時代ではなく、卵1個がまるまる入っている弁当などわたしは見たこともありませんでした。みんなは黙ってその話を聞いていました。

 弁当でも給食でもなく家に食事に帰る者もいましたから、隆一も昼食は家でするのだとわたしたちは思っていました。ところがある日、鋼材置き場になっている雑草の茂った広い空き地で所在なげにしている隆一と克平の姿を、たまたま上がった屋上からわたしは見たのです。二人はそこで時間をつぶしていたのです。その頃のわたしの弁当は、コッペパンと小さなマーガリンだけという日が続いていました。

 

 日差しが高くなって、次第に焼けてくるアスファルトの道を歩きながら、あの隆一は今どこで何をしているのだろうと昨夜と同じ気分に浸りそうになりつつ、しかしわたしは別の思いにも捉えられていました。

 所在のわからない男の子、女の子がいまどこで何をしているのだろう、そんなことがもし分かってみたところでそれが何ほどのことだろう。幼くて、貧しくて、傷つきやすかったり、強かったり、辛いことやうれしいことや、そしてたくさんの分からないことや知らないことどもを、それぞれがいっぱい抱えていたあのころを、肉親ともまた違ったところで、わたしたちだけの空気が流れていたあのころをいまも54人が共有している、それでいいのではないだろうか。

 丸太町通りはしだいに車の往来が増してきました。「おーい、おまえはいま・・」と呼びかけるべき尋ねびとは、汗をかきかき歩いているわが身の内にあることにそのとき思いあたったのでした。 

「12期の広場」2024年新春号ラインアップ

 同窓生のみなさん、あけましておめでとうございます。
言い古してきた賀詞ですが、元日にかわす言葉としてこれにまさる言葉はないでしょう。行く年を送り、新しい年2024年を迎えての感慨は決して一様ではありませんが、人の“ならい”です。
 心新たにここから歩み始めたいと思います。
 
 添付した写真はお正月郷土料理 『越後のっぺ』で、「広場」2012年の1月号に佐々木康之君(長岡市在住)が投稿してくれたものです。曰く、「野菜のごった煮」とあり、素朴で清々しくておいしそうです。正月は、大晦日のまな板の音、立ち込める湯気、忙しく立ち回る母の姿と、うって変わっての元日の静かさと正月膳を思い出しますね。野菜の煮しめの有難みを痛感する昨今ですが、残念ながら正月膳は市販のお重セットが主流のようです。我が家も孫が楽しみにしているとそれを買い求めました。そしてそれが正月膳の主役です。昨年末、市販のお重セットのテレビ、通販、新聞ちらしなどの宣伝の多かったこと。3~4人前で価格も上は10万円近くで驚くばかり。いわゆる「富裕層」をあてにした商のように思えてしまいますね。
 年を取り今や“立派な”老人、更に“一言居士”にあっては、「富裕層」、「優勝劣敗」、などの言葉が行きかい、それが普通になり、暮らしに忍び込んでいるのではと思いながらの正月です。
 付け加えますと『のっぺ汁』は雪深い地方食とばかり思っていましたが、大阪にもあるようです。やはり根菜が主で名前は『のっぺい汁』と異なりますが、河内の方で稲の刈り取り時の昼食に食べたとの新聞コラムがあり、ちょっと驚きました。
 
 昨年11月頃から喪中はがきが届きました。秋号でふれた以外で言えば、原清明君(4組)、三上正義君(5組)、須藤憲司君(7組)、山田正敏君(8組)の訃報です。原君は同窓会の会計として支え得て頂き、三上君には50歳を越えてテニスの手ほどきを受け、須藤君には近くに住むスポーツマンとして親しくお付き合いいただきました。特に市岡東京12期会設立時のメンバーであった山田君には公私ともにお世話になりました。皆さんとの思い出は尽きません。
 慎んでご冥福をお祈り申し上げるとともに、お知らせいたします。
 
 さて「12期の広場」2024年新春号のラインアップは以下の通りです。
「ひろばリバイバル」は山田正敏君の「趣味のギャラリー」にしました。お読みください。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「質実剛健の殻を破る」 7組 上山 憲一
  2. 掲示板
    ・『「小出楢重と大・大阪時代」(その2) の講演会に参加して』 7組 上野 裕通
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「趣味のギャラリー 陶芸について(1)」 
    (2016年4月号から)
    8組 山田 正敏
以 上

巻頭コラム

質実剛健の殻を破る

8組  上山 憲一 
 
 ウクライナへのロシアの侵攻に加えて、昨年の2023年秋にイスラエル・パレスチナ紛争が突然起こった。特にイスラエル・パレスチナ紛争では、ユダヤ人を中心としたイスラエルのテクノロジーの発展が最近著しく進み、兵器、農業技術のイスラエルによる世界シェアが地球温暖化と共に増大し、周りの人たちの自由度を制限し続けていく。
 イスラエルは、もちろん米国の強力な援助を受けているが、日本を含め世界の他の国が太刀打ちできないほど早い展開でテクノロジーのイノベーションを行っている。私の米国留学時代と、その後のユダヤ人との共同研究や、彼らとの研究上の競争を通して、独特の情報獲得の習慣と歴史の中で堅持してきた発想法の知恵を垣間見てきたので、彼らが何故将来もテクノロジーを牽引していくと感じているのかをこのコラムで紹介したい。
 私自身は1970年の秋に博士号を収得したが日本では職に就けず、米国のブルックリン工科大学にポスドク職を見つけ、ユダヤ人のマリー・グッドマン教授の下でポリマー合成の研究を行うためにその年の暮れに渡米した。米国の中では歴史の古いブルックリン地区は市岡高校旧校区と同様に大都市の一角に位置し、その昔活発なベンチャー企業が生まれた地区であったという点でも同じであり、私自身ブルックリンの町の雰囲気に馴染むのは早かった。研究室には3人のイスラエルからのユダヤ人ポスドクが働いていて、そのうち2人は世俗的ユダヤ教信奉者で、少年時代に受けてきた教育と家庭の戒律「タルムード」による躾の話をよく聞かされた。彼らの話にでてくる躾は、市岡高等学校の校則の「質実剛健」そのものと同じで、内容が曖昧な点もよく似ている。付き合っていくと彼らは時々戒律を臨機応変に破り、神を信じているが自己の経験で信じる神も変化していくという点でも、仏教を信じる私とよく似ていると思った。「質実剛健」の曖昧さもこれに縛られる個人が殻を破り易い校則になっているのだとその時初めて気が付いた。この2人は、私の知る他の多くのユダヤ人と同様、後にベンチャー企業を立ち上げ、結局それぞれに大成功を収めている。
 この大学の2人の卒業生が近くのユダヤ街で操業していたベンチャー企業ファイザー社に 勤め、第二次大戦中、苦心の末にペニシリンの大量合成に成功し、世界の製造を独占した有名な話を聞いている。また、私がいた1970年にも、大学の中の隣の研究室で教授が急死する不幸があり、ユダヤ人のポスドク仲間がその研究室の研究課題そのままを目的にしてベンチャー企業のアルザ社をサンフランシスコで起こし、我々の研究室のポスドクも何人かこれに加わり、その中に先ほどのユダヤ人ポスドクもいた。その後この企業は見る見るうちに大企業に成長し、今はジョンソンエンドジョンソン社に吸収されるなどの経過を身近で見てきた。彼らの成功の秘訣は複数の世界トップ研究者から継続的に高額の講演料を払い質疑応答で先端情報を集めることにあった。また私達の研究室でも上司のグッドマン教授は、ミーティングで討論が行き詰まり中断すると全米の著名なユダヤ人教授に直接電話で相談し、これにより驚くほどのスピードで研究を進めているのを見てきた。その他の例として、飛び級のユダヤ人高校生が夏季に大学院の研究実験単位を取る目的で研究室に
1970年代・ブルックリンのユダヤ人街から見たマンハッタンの夜景
配属されると、単純な実験でも質問があると参考書の著者に電話して答えを貰っているのを見て驚いた。若いうちから直接見も知らないユダヤ人の高名な先生から情報を得ることが許されるルールになっているらしいことをその時に知った。最高の情報を選ぶことにより、最高の知識として記憶し、最高の知恵を生み出す方法として使っている。日本の研究者はこの方法をとることは苦手で、新しい知恵は自身の直接の研究と出版された論文から得る傾向にある。
 ブルックリン工科大学の私達の実験室の真向かいの部屋がたまたま「米国の高分子の父」と呼ばれ、ナチスから逃れてウイーンからスイスへ家族共々脱出する時に、全財産を白金線に変えてレースで覆ったハンガーに服を掛けてスキー客姿で突破したという米国でも有名な逸話をもつ伝説の研究者であるハーマン・マーク教授の部屋だった。部屋の奥の壁一面が細かく仕切られた200個程の書棚になっており、所々に学術雑誌から切り取った論文冊子が入れてあった。その棚を、秘書と言ってもこの人も教授であるが、個々の棚の冊子が増える速度を観察していて、急激に増加して立ち上る瞬間を見つけたならマーク先生に連絡し、マーク先生はこの棚の数個の冊子の塊を一晩で読み、翌日には総説にまとめていた。その総説を一冊500ドルで全米の企業研究者(日本の企業も数社含む)が買いに来ていた。日本のニューヨーク駐在の企業研究者たちは、マーク先生の予想はよく当たるので日本への連絡は欠かせないという話であった。この総説の凄いところは近い将来ブームになることを予想し、豊富な知識と鋭い感性を基にして新規のキーワードを考え出していることにある。私の知るそれまでの総説は、ブームのピークを過ぎたものをまとめて紹介するものばかりで、中心となるキーワードもそれとなく現れたものであった。
 当時、日本が研究でも米国に追いつく勢いであったが、優れた日本の研究のほとんどすべての源泉が日本以外の国にあるという米国の報告書が出たために、日本の多くの大学・企業の研究者は独創的な発想能力を高めるためにKJ法や水平思考法などの訓練を行うなど苦労している時代であった。
 マークの書棚は古代アレキサンドリアの図書館でパピルスの巻物を保存する棚と同じで、
Herman H Mark先生がブルックリン工科大学に
高分子研究所を設立した時期の写真
ギリシャ時代からイスラムの文化圏を経てウイーン、ブルックリンに、常にユダヤ人の間で受け継がれていたことは想像できる。私がその当時マーク先生の好意で読ませてもらったのは「ソーラーヨット」の名の総説で、宇宙旅行のヨットの帆の材質についてであったが、このアイディアは2010年に太陽光子圧ソーラセイル推進装置をもつ惑星間航行宇宙機「イカロス」がJAXAによって打ち上げられたとき、耐熱性ポリイミドの推進帆で日本が初めて実現している。つまり、このアイディアは公の論文に出てこなかったもので、40年の間、一部研究担当者の頭の中に入っていたものであろう。 新しいアイディアは一寸先にあっても簡単に思いつくものでないが、このように我々の知らなかった一歩先を行くリテラシーの方法を受継いで、新規の領域を予想していることを知った。前述のユダヤ人研究者同志がもつ独特の情報交換網を生かして最速のスピードで研究を進めるという方法をも加えると、日本の研究者がなかなかついていけない側面をもつ。これらに対抗するために日本では情報処理の新しいアルゴリズムの開発が待たれる。
 とは言っても、ポスドク仲間であったユダヤ人が揃って信奉していた「タルムード」は、隣人であるパレスチナ人を破滅させることを教えてはいないと思う。また戒律を彼らは厳しく守るより、有効に破ることによって我々との社会生活や研究生活の国際交流の質を向上させてきていることも見てきた。「質実」をモットーにしながらいつの間にかある程度裕福になっているなどは彼らの「タルムード」の教えの真骨頂であるが、ユダヤ人の起業家が深く関与してきたGAFAMの大部分が常に世界制覇を狙っているような印象を与えているのが気になる。

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「小出楢重と大・大阪時代」(その2)の講演会に参加して

7組 上野裕通
 
 令和5年11月26日(日)此花区民センター「一休ホール」4階会議室で「小出楢重と大・大阪時代」(その2)の講演会がありました。講師は同級生の画家である圓尾博一君(3年6組)で、令和4年に続いての二回目です。同級生の参加者は、松田修藏君(6組)と伊東慎一郎君(7組)と私の3名でしたが、此花歴史研究会の例会でもあり、盛況でした。
 明治20年(1887年)生まれの小出楢重は昭和6年(1931年)、43歳で亡くなります。その生涯について、圓尾君は、当時の世界情勢、小出楢重と日本の画家、文学者との交流、フランスでの貴重な経験等について詳しく調べられ、分かりやすく話されました。
 小出楢重は、明治33年(1900年)第1期生として市岡中学に入学、心疾患で1年間休学したため、卒業時は2期生と同じでした。そのお陰で小出楢重には、津田勝五郎ら2期生との交流はもちろんのこと、1期生の信時潔、石浜純太郎、坂村養三、熊野徳義、中谷義一郎らとの交流もあり、友達に恵まれていました。後に、世に「裸婦の小出」と名声を博した小出楢重の市岡中学時代です。 画家は、人間とはいったい何なのかを追求する。そのために自画像を描く。また「なぜ、男は女性の裸像を描くのか。」それは、キリスト教の考え方からやギリシャ神話「パンドラの箱」を男性はあけてはいけないと言われていたのに開けてしまったということからきているという含蓄のある説明がありました。
 小出楢重はフランスに行ってから外国の画家から学ぶことも多く、影響を受けたようです。フランスから帰ってきてからは洋服姿になっています。今から100年前、1923年9月1日に関東大震災が発生しましたが、そのため、関東から多くの人が関西、大阪にやって来て、大・大阪時代が始まっています。岸田劉生が京都に来たこともあったそうです。
 谷崎潤一郎が「蓼喰う虫」を書き出した頃、挿絵を小出楢重が描き、潤一郎は、蓼喰う虫をすらすら書けたのは小出の挿絵のお陰だと言っていたとのエピソードもあったとか。
 1920年から1930年代は世界も戦争の危機感があり、画家は当局のいうことを聞かないと絵具や筆など手に入らなかったらしい。1937年、信時潔は日本放送協会からの委嘱により「海ゆかば」を作曲しています。天皇のためには命を惜しまず死んでいった時代の曲であり、第二国歌と言われていたようです。当時、芸術家はお上からの恩恵がなければ生きて行けなかった時代であったのでしょうね。
 しかし、小出楢重は生涯を通じて思い切り裸婦を描いて生き抜いたと締めくくられました。
 圓尾君の講演は具体的な場面を想像させながら聞き手に分りやすく話されるので、とても興味をもって聴き取ることができました。