12期の広場

掲載年月で絞り込み: >>12期バックナンバー一覧

「12期の広場 2021夏号のラインアップ」

 夏です。新型コロナウイルス禍中の二度目の夏です。コロナ禍が昨年の2月頃からですから、すでに16カ月以上。“突然の厄災”がこんなに長く続くとは思いもしませんでした。しかもその終息はいまだに予測できません。気持ちが落ち込んだままですね。こんな状態で夏本番を迎えていますが、はてさてどうなることかと先行きの心配で一杯です。
 先月、梅雨時というのに気温が30度を超え、猛暑日に近い真夏日が何日か続きました。また、関西地方は5月16日に異例の速さで梅雨入り、所が関東甲信越地方は6月14日、しかも例年に比べて1週間遅れの梅雨入りでした。気象庁には、さくらの開花や鶯の初鳴きなどの「生物気象観測」があり、あまりにも著しい季節感とのずれなどから、その対象と有用性について議論されていると聞きます。
 天候は思惑通りには行かないものと分かっているつもりですが、はや大乱調の気配、この夏も耐え難い暑さの予感です。ほどなく傘寿を迎える老骨の身にあれば、何が何でも穏やかで過ごしやすい盛夏であって欲しいと願うばかりです。
 
 同年代の方々とマスク越しにお話すると、もっぱらの話題は、ワクチン接種のことでした。「予約はできましたか」「どう予約しましたか」に始まり、「接種はいつですか」、「何ともありませんか」と続きます。筆者もようやく6月22日に、第1回目を受けることができました。振り返って見ますと、予約に執着していた頃は、さながらドタバタの「ワクチン予約狂騒曲」状態。6月中旬の「朝日歌壇」にあった『ワクチンの予約四日目昼頃につながりて「五月、六月終了しました」』(枚方市鍵山奈津江さん)には膝をうって同体験と、笑ってしまいました。煽られてはなるまいぞと戒めても、しょせんは凡人、焦燥と腹立たしさ、落胆の繰り返しに正直、疲れはてました。結局は息子に頼っての予約です。こんな話が笑い話になり、同窓生と思いっ切りおしゃべりし、食事とお酒が存分に楽しめる日が一日も早く訪れるようになってほしいものです。
 
 さて、いよいよ東京2020オリンピック・パラリンピックが開催されるようです。1年の延期に加えて新型コロナウイルスの感染爆発の不安と「不確定要素」を抱えての開催です。言いふらされた言葉ですが、オリンピックは世界の平和とスポーツの祝祭です。遅ればせながら、日本の代表選手も次々と決定し、メダルへの期待も高まります。しかし今回ほど権威主義や商業主義、政局がらみの政治的思惑があからさまになっての開催はないでしょう。それだけにアスリートたちの鍛え抜かれた心技体の発露とそれにまつわる人間ドラマがさらに輝きを増すことは間違いありません。それを楽しみに、また、オリンピック・パラリンピックの諸々を、しっかりと見届けたいと思っています。
 
 わが「12期の広場」2021夏号のラインアップは以下のとおりです。ご覧ください。
 
1. 「長引くコロナ禍の中で体験‣経験したこと」 ・・・・・・・・・・ 8組  末廣 訂
2. 「 4代・125年の家業 」-(2) ・・・・・・・・・・ 8組 林 榮作
以 上

長引くコロナ禍の中で体験‣経験したこと

8組  末廣 訂
 
 *長い巣ごもりを通して
 2020年の春先から降ってわいたようにマスコミで報道され、アッという間に世界にまん延したのが中国武漢から発したとされる新型コロナウイルスで、人々を不安のどん底に叩き落とした。
 今まで経験したことがないコロナ禍生活も、早1年半にもなる。当初は英国船籍のクルーズ船の横浜寄港云々から、オリンピック開催の延期、そして、志村けんさんの死去で、緊張感が高まった。
 アベノマスクは不評で税金の無駄使いに終わった。マイナンバーカードが使い物にならず、日本政府のIT化やデジタル化遅れを露呈してしまった。PCR検査が行き渡らず、政府は経済優先か感染対応優先か方針が定まらず、第1波、第2波と感染の山があったが、少し下がったところで、GO-TO キャンペーンといった旅行や食事にクーポン券を出し景気をあおるも、今年に入って、再度非常事態宣言が出され6月現在も続いている。
 今回のコロナ流行により、我々の生活が180度転換し、或いは全く経験したことのない世界に突入するきっかけが始まったように思う。
 その1つが、働き方。これまでの労働のあり方が大きく変わると思う。
テレワークという、会社に出勤しない自宅勤務で今まで通りの成果を上げる勤務形態である。これは、従来の様に会社は大きなオフィスが不要、便利で地価の高い都心部から空気のキレイな田舎に移転、従業員はワーケーションと称し、娯楽と仕事を上手くミックスして生活を楽しむことができる。次女の夫は、昨年初夏に東京単身勤務から大阪の自宅に戻り、遠隔操作でシステムエンジニアの仕事をしている。
 その2は、デジタル化、IT化というDX(デジタルトランスフォーメーション)の実現がますます進んでくる。 これはアナログという言葉からデジタル化という方向に向かうことで、例えば、オンライン会議、授業、採用試験、ペーパーレス化、遠隔医療と電子カルテ等、限りなく広がってくる。 70代の家内が音楽(オカリナ)のレッスンを受けているが、最近はオンラインに切り替えて自宅で練習をしている。
 昨年はコロナの中で、安倍首相の突然の辞任表明で菅新内閣の発足、東京五輪・パラリンピックの延期、そして大阪人には忘れられない「大阪都構想の再投票」で否決された。
 会社のOB会、同窓会や地域や仲間の会が中止、また、地元の夏祭りや諸行事が中止される中、300年以上続いて大阪府無形文化財に指定されている海老江八坂神社の宮座神事をこのような状況でどうするのか、たまたま今年の頭屋に当たっていた我が家は、コロナで神事の続行できるのか心配したが、座衆で話し合いした結果、松明行列や直会を中止して、饗料理のお供え神事のみを行って無事に終えることができた。また、中学1年生になる孫が古式の装束で参加してくれたのがよい思い出となった。
 2021年に入っても、一向に衰えることのないコロナの感染が新たな変異種・イギリス型、インド型になり、さらに拡大する勢いである。新型コロナの影響や問題を災難と受け取るか、或いは変化を上手く利用して「禍を転じて福と為す」という勝者になりうるかどうかが大きな分かれ目になると思う。
 人間の知恵と自然界の摂理とのせめぎあいが容易にはおさまらない巣ごもりの中で、いろいろ考えたことは、「人間生きている間は元気で頑張る」そして「自分のことは自分で守る」しかないなーと思ったことです。

 *糠喜びした「アメリカの小切手」とバイデン大統領の手紙
 今年の4月末のこと、住所、宛名が英語のレターが届いた。 早速開封してみると、1枚の小さな紙に名前、住所の右下のサインの上にどうやら1400ドル(約15万余円)を標記した小切手のようであり、それ以外は、何の説明書も入ってなかった。
 今頃、アメリカ合衆国から高額なプレゼントが日本に住む元駐在員に何故来たのだろうかと不思議に思ったので、早速NY在住35年のパナソニックで同期のT君にメールした。T君はここ1年ほど、コロナでN.Yに帰れず東京に居り、問い合わせをした折は小切手の件はすでに知っていた。
 T君は小切手に関して既に20件ほどの問い合わせを受けており、質問の内容は「これは一体何なのか・本当にもらえる資格があるのか・どのようにして円転換するのか等々」。何の説明文もないため、処理をどうしたらよいのか、困惑した様子が伝わってきた。
 T君から「今回の小切手は、米国民のコロナ対策の3回目の支給であり、米国以外の居住者にその受給資格があるのかが問題である」と助言があった。また「受給資格云々について、我々日本人は知らないので、しばらくキャッシュ化しないで、様子を見ること。小切手は1年間有効ですから」と、アドバイスがあった。その後、詳しい情報がないまま、小切手を受け取った人は、どのようにしてこの小切手を現金化できるのか、また円に転換できる銀行はどこか等々で右往左往したという情報も入ってきた。私もその1人で大阪駅前にある、旧シテイバンクに聞きに行くと、多くの人が来ており、係員に同じような質問していた。
 そうこうしていると、今度は「バイデン大統領」の手紙が届いたので、ますます混迷した。
 5月の中ごろになって、日経新聞や朝日新聞が小切手の件を大きくとりあげた。双方の記事の結論は「元米国駐在員に届いた小切手は、コロナ対策給付金を日本に誤送付」とあり、「永住権がなく換金は違法」との事。何とも人騒がせな今回の小切手で、「美味しいケーキを食べようと口を開けたら、夢だった」。
 ぼちぼち小切手の裏に「VOID」と書き、テキサス州のIRS当局に返送しようかと思っているところである。ただ、この件で、何年振りかで元米国駐在の旧友や、同僚達と電話やネットで情報交換ができ、お互いの近況が聞けたのがせめてもの救いであった。

 *コロナのワクチン接種
 日本のワクチン接種開始がもう2ヶ月早く始まっていれば、我々の日常の生活、経済活動、医療のひっ迫等がここまでひどい状態になっていなかったのではないかと思うのは、私1人だけではないでしょう。
 日本製のワクチンが近々できるという報道もあったが、結局外国メーカーのワクチンが届くのを待つしかなく、後手になってしまった。
 コロナワクチン接種を受ける場所が増えているのに、意外と予約に苦労した。 私の場合、係りつけ医者はあるが、年数回の受診では接種の対象とならず、大阪市から来たハガキにより、5月31日、朝9時から、パソコンと家内の携帯も利用して予約申し込みをした。
 パソコンの受付は最初から動かず、電話は2機とも通話中でかからず、時間のみ過ぎていった。そうこうしているうちに1時間近くたったので、家でテレワーク中の近所にいる長女に無理を言って来てもらい、やっと市の受付とつながったが、すでに地元の福島区民センターは満席でダメ、他の区の会場を探すもすでに埋まっていた。ただ幸い中央区の中央スポーツセンターのみ13日の午前中があいており、滑り込みでとれた。
 一方、家内の方は、係りつけ医者に5月中旬にたまたま薬をもらいに行った翌日が接種受付日で、すでに1回目の接種を終えている。近所の会社のオーナーさんは、従業員5-6名がパソコンをフル稼動して、国際会議場の予約を取ったとか、またある人は、お孫さんに頼んでとったとか、それぞれ苦労されているようだ。
 直近では、自衛隊の大型会場には、東京、大阪 以外の他府県の方も自由に申し込み可能になり、接種年齢も下げて、職場や大学をも対象に範囲を広げている。
 全国の感染者数はやや減る傾向にあるが、まだまだ予断を許さない状態で、早く希望者が接種でき、五輪オリンピックも、うまくいくよう祈るばかりである。
(ワクチン接種1回目の6月13日; 記)

「 4代・125年の家業 」-(2)

8組 林榮作
 
 時計はクオーツ化により、今では正確で安く使い捨て感覚で持てる手軽な商品になりましたが、明治・大正・昭和4 0 年代までは高価で大変な貴重品でした。良いものを持てば時間誤差が少なく長持ちするという意識が定着し、大人へのステップのシンボルとしての入学祝い、独立して家庭を持つカップルヘの結婚祝い、永年に亘り会社に貢献した社員の表彰記念品にと、人生の節目に贈られる代表的な品物として活用されました。
 そこで、時計店の経営は、販売と修理が表裏一体となり、ふさわしい修理サービスの提供は必要不可欠でありました。現代ではアフターサービスの考え方は当たり前ですが、時計は遠く明治の時代から経営の基本となっていました。そして、お客様の貴重な時計を扱うわけですから、当然のことながら細心の注意と技術的レベルの高さが要求されました。
 
 例えば、時計の精度をつかさどるテンプ(人間でいうところの心臓部分)がありますが、時計を落としたりして衝撃が加わると、その心棒(テン真)がよく折れました。その心棒(テン真)は約8/100mmの太さで、人間の髪の毛程の細いものです。
現在では時間調整に微妙なタッチの要求されるひげゼンマイと一体となった、テンプ一式の交換で修理いたしますが、以前はその心棒(テン真)をマイクロメーターで計測し精密旋盤で1/1000mmの精度で別作し、テンプに入れ直し修繕いたしました。細心の注意と繊細なタッチ、そして忍耐力と集中力の要求される作業となります。加えて理科知識の応用が求められ、修繕技術の習得については、ずいぶん苦労したのを覚えています。
 今回閉業にあたり、4代目の私としては、冒頭で述べたように残念な思いはありますが、一方では、一介の時計師として、また時計宝飾眼鏡業界の片隅の一 員として、自分なりに活動でき、無事終えられたことを喜んでいるところです。

我が家業の幕引きにあたっては、想像はしていたものの、それ以上に肉体的 ・精神的にエネルギーのいることを実感いたしました。取引先への通知 ・閉店による取引上の処理・販売商品のアフターケア等々、長い間営業していただけに関わる処理が多く、頭を悩まされました。
 
しかも私どもの商品の性格上、閉店したら即、終わりと云うわけにはいきません。閉店して約半年になりますが、未だに後処理の案件が出てきます。
 唯、有難いのは永年の取引先からの慰労と、理解を頂いたことは何とも有難いことで、今しばらくは、余韻を楽しむ気持ちで処理したいと思っています。
 次に、店内にある商品をはじめ陳列・備品・営業書類、営業資料そして技術工具・技術資料等々の処理・廃棄、・・・・・・。それらには、自身の歴史はもちろんですが、それぞれに先人の思いが詰まっていますから、どうしたものかと悩みました。
特に前述の大阪大空襲によって店内にあった掛時計、金庫内にあって焼失した数百個の腕時計・懐中時計、そして無数の修理部品などは、役に立たないのを承知 しながら置いてあった、父・兄の無念が伝わってきて、簡単ではありませんでした。
 形あるものはいずれ没するといいます。目をつぶって処分することにいたしましたが、そこにこもった先人の無念の思いをどう処理したものか?
私にとって、人生の最終章の課題が一つできました。
 
 私たちは、戦後の高度経済成長とほぼ同時期に社会での活動を始めました。日本経済が右肩上がりの中、その恩恵を多数の人が得られる良き時代を過ごさせていただきました。
 しかし、1990年代初頭のバブル崩壊、2008年のリーマンショック、そして今回のコロナ禍による社会構造、意識の変化は、その度に、私たちが過ごした青・壮年時代から劇的に変化し、それらから回復した後も、スイッチが入ったままで元に戻ることはありませんでした。その変化に大きく作用しているひとつが、1946年にアメリカではじめて開発されたコンピューターでした。当初の真空管からトランジスタ、そして IC 素子の集積によって飛躍的にその性能を上げ、今では各人が持つパソコンヘと進化し、そのコンピューターによって構築されたネットワークがスマートフォンに代表される工業製品、また医療 ・交通 ・農業等、社会生活に深く入り込んで、過去の歴史にないスピードで変革を迫ってきます。今や「IT」無では社会が成り立たなくなってしまいました。
 そして、進化した人工知能を持つコンピューター「AI」が、自ら人間より賢い知能を生み出す可能性が将来めぐってくるのではないかということまでが、現実味をもって語られ始めています。子供のころ、漫画の世界で空想と思われていた、当時夢の世界が当たり前の現実として目の前に現れようとしています。
 科学の発展は私たちの生活を便利に、そして欲望を満たしてくれます。有難いこととも思っています。しかしこれから先、世の中はどう変わっていくのでしょうか。大いなる戸惑いを感じているところです。


 私が、40代のころ、取引先の銀行の支店長に「林さん、歳いかれたら、やることを見つけておきなさいよ」とアドバイスをもらいました。その時「ゴルフとか、庭いじりとか、旅行とか ・ ・ ・趣味の事ですか」と尋ねたら 「ゴルフにしても旅行にしても、健康で、仲間がいります。そういうものではありません。」と言われ課題を与えられましたが、未だに見つからず今日を迎えました。
 私事になりますが、10年前、丁度「古希」の時に家内を難病で亡くしました。私にとってはそれまでの生き方 ・考え方を見つめ直すきっかけとなり、以来今日に至る10 年間は、日々の生活の中で、家業の将来、家事の事、その他過ごしてきた家庭内の色々の事を振り返る期間となりました。
 そして、日々何気なくある生活の一つ一つをこなしているうちに、日を経るごとに家内への表現できない思いが溢れてまいりました。同時に、家族・両親兄弟そして、私の人生に関わってきた人たちに感謝の念が湧いてまいりました。今までのこうあるべき、こうしたい、こうしなければ、・・・。常にプレッシャーを与え、追い詰めていた自分の心が、いつの間にか片隅に行き、今あることを受け入れる自分の穏やかな心に、感動を覚えるようになりました。

 この度、現役に幕引きをして環境が変わりました。そして、過ごしてきた人生の色々を振り返らせていただき、何となくこれから迎える最終章への第一歩を踏み出すエネルギーは、頂けたような気がいたします。普段さりげなくあること、何気なくあることを受け入れ、感動をもって観ることで、科学では得られない心の満足感を焦らず気長に探し求めたいと思います。
 ありがとうございました。
(写真は卒業アルバムの体操部の写真。左から筆者、福井先生、貴田君です。)

 

「12期の広場 2021 春号」のラインアップ

 春ですね。希望の春です。筆者が小学校5年生ぐらいの時に大阪市の書道大会があり、その時に書いたのが『平和の春』でした。「春の4画目と5画目は、大きく広げて書くんだぞ」と言われて、春だけが目立ったアンバランスな作品になってしまったのを今も覚えています。中学の時は、写生大会で描いた絵をブラジルに移民した人たちを励ます目的で、当地に送られました。
 そんな当時の子供たちも、今年は傘寿という節目の年です。次は卒寿・白寿と続きます。そして、百歳を迎えるわけです。どんな景色が待っているのでしょうか。楽しみに一歩・一歩を進みたいなと思って毎日のウォーキングに励んでいます。
ウォーキングコース ・城山公園では 園児が遊ぶ

 でも、筆者の勝手な思惑どおりことは進みませんでした。家内の体調が極端に悪くなり、お正月を挟んで寝込んでしまいました。食事を全くとることが出来なくなって、体重がどんどん減っていくのが目に見えるぐらい。筆者持病の糖尿病の血糖値も上がり、インスリンの量も増えました。2月になってやっと専門医が見つかり、3月の中旬には、食欲もでて体重も増え始めて現在は70%ほど回復してヤレヤレと一息ついたところです。
 「この年だから、何があっても不思議じゃないね」と挨拶代わりに言っていたのが現実になりましたが、それでも、ウォーキングだけは、毎日一万歩、3月22日現在、昨年5月27日から連続300日を続けています。体調はいいのに血糖値が上がったのは食事のせいだと勝手に思っています。
 しかし、現実に悲しい出来事が起こってしまいました。昨年の12月20日に7組・高市恒和君が、そしてこの3月19日に8組・東野節雄君が急逝されました。お元気な笑顔しか思い浮かびません。謹んで哀悼の誠をささげます。
 コロナも、オリンピックも、お花見も、食事会も、同窓会も、いつになったら治まり、出来るのか、考え方を変えなければ解決しないでしょう。賢明な市岡健児OB・12期生としては、イラついているとは思いますが、このホームページを通じて意見や考えを述べあって、発散させて、とりあえず元気な傘寿を迎えたいですね。
 
 さて「12期の広場2021春号」のラインアップは以下の通りです。お楽しみください。
 
1. 「4代・125年の家業」-(1)       ・・・・・・・・・・ 8組  林 榮作
2. 近況-湖畔のラジオ体操 ・・・・・・・・・・ 3組  石井 孝和
3. 「武田尾”桜の園”亦楽山荘のこと」    ・・・・・・・・・・ 7組 張 志朗
以上

「 4代・125年の家業 」 ―(1)

8組 林榮作
 
 私達が生まれた昭和16年頃の男性の平均寿命は50歳と言われていましたが、アッという間にその50を過ぎ、今年80歳の節目を迎えようとしています。昔ならもう既にこの世に存在しない年齢になりました。最近は、持病はあっても不自由なくこの節目の歳を迎えられたことは、現代医学のお蔭かなと感謝しているところです。
 
 昨年10月末をもって約60年の現役生活に終止符を打ち、同時に4代125年に亘る時計・貴金属の家業にも幕引きをいたしました。家業の歴史の重みを考えても、また、私が携わった約60年の間に承けた諸々のことを顧みても、先人に対し大変申し訳ない思いで一杯でありました。しかし、今日の社会情勢また私の環境を考えれば、諦(つまびら)かなるかなと思い決断いたしました。
 
 振り返れば市岡高校在籍時は、好きなクラブ活動(体操部)に3年間取り組めて、良き時を過ごさせていただきました。今回は、人生の最終章を迎え12期生の一員として、来 し方を総括し残り少ない人生へのエネルギーを見つけたく、時計業界の事、歩んできた歴史、これからの思い、・・・を綴らせていただきました。
 
 日本の時計は、明治5年になって明治政府の太陽暦の採用により、それまでの不定時法(昼間と夜間で時刻を計る単位が異なる)による和時計から、定時法(昼夜を問わず一日を等しく分割した時間単位)による西洋時計に切り替わりました。当初は欧米から輸入された舶来時計が中心でしたが、和時計で培われた技術をもとに、明治10年代から日本でも大阪や名古屋で掛時計の製造が始まったようです。しかしいずれも小規模で本格的な国産時計の生産は、後述の、服部時計店の製造まで待たなければなりませんでした。
 後に“時計王”と言われた、SEIKO の創始者・服部時計店(現セイコーホールディングス)
の服部金太郎は、明治14年(1881年)、西洋時計の黎明期に創業し、当初舶来時計の輸入販売・修理をしていましたが、その中で培った貴重な経験の蓄積、そして2度にわたる欧米視察旅行で得た最新の技術・生産管理システムでもって、念願の国産時計の製造に乗り出し、明治25年(1892年)現在のセイコークロック株式会社の前身となる(精工舎)を設立して、国産八角掛時計を製造開始いたしました。
 これが時計メーカーとしてのスタートとなり、順調に業績を拡大し、掛・置・懐中時計生産の職工数2000人余りの大企業に育てました。
 時移り、服部金太郎翁の「一歩先を行く努力の継続」の理念を引き継いだ後継者は、太平洋戦争後いち早く復興し、一心不乱に「時」の夢を追い続け、後に国産ウォッチの名機 と称されるセイコーマーベルをベースに、昭和35年(1960年)初代グランドセイコーを発売しました。昭和39年(1964年)には、当時スイス時計の優秀さを世界に発信していたスイス・ニューシャテル天文台のコンクールに初参加、その3年後には最高の精度が証明されたクロノメーター規格のムーブメントを多数入賞させ、時計王国スイスを震撼させました。続いて昭和44年(1969年)、世界初のクオーツ時計「クオーツアストロン」を発売し、それ以後のクオーツウォッチの高精度、大衆化の流れの先頭を切ったのです。
 一方、グランドセイコー・クレドールを筆頭とするメカニカルウォッチが中心の高級ウォッチにおいても、前述のニューシャテル天文台コンクール以後、技術と感性を磨き、その精度を飛躍的に上げるとともに、ブランディングによる差別化でロレックス、オメガ等スイス高級時計に対抗して世界に羽ばたき、ワールドリー ディング企業の地位を固めました。昭和・平成に至りセイコーを筆頭に日本はスイスと並ぶ時計王国となったのです。
 
 扨、私の先祖の出所について少し述べたいと思います。
 出身は、土佐の中村(今の高知県西部の四万十川の隣接町)です。私も四国88カ所遍路をしたとき、大先祖の墓参りに立ち寄りました。太平洋に面した雄大、風光明媚な場所で、一瞬・坂本龍馬の気分になったのを覚えています。当時、血気盛んな初代は、青雲の志をもって大坂に出て来たのではないかと推察しています。
 江戸時代の安永年間(1750頃)に大阪・西区・西長堀にあった土佐藩蔵屋敷(現在の大阪市・西区・西長堀にある土佐稲荷神社・・・三菱グループの創業者・岩崎弥太郎の創業地でもあります)の南側にあった堀江川 (1960年運河の埋め立てで今はありません)にかかる黒金橋(くろがねばし)のたもとで、「土佐屋」の屋号で、土佐の海産物の取り扱いを行ったのが大坂におけるスタートと聞いております。

 以来2代後の私の祖父が、明治28年(1895年)当時和時計に代わり黎明期にあった西洋時計が勃興の時期、大阪市・西区・新町(現在の土佐稲荷神社の北側約100mの地)にて「林時計店」を創業、同一場所にて現在に至るまで営業いたしました。
 
 祖父は創業時より、後に「時計王」と言われる服部金太郎の「服部時計店」との取引を関始(その関係は閉業まで途切れることなく続くことになります)。
 当時輸入品に頼っていた掛時計・懐中時計を何とか国産でとの熱意に賛同、特に2代目の私の父の代には卸・小売りと取引量も増加いたしました。同時に、シーベルヘグナー(オメガ)、リーベルマン(ロレックス)と、日本市場に大きな影響力を持っていた外国商社と、現金による直取引を経て絶大な信用を得、店も大変賑わったと聞いています。

 
大阪大空襲で焼失した
懐中時計の一部
 しかし、太平洋戦争による昭和20年(1945年)3月の大阪大空襲によって店舗も商品も全てを焼失、計り知れない打撃を受けました。当時のことについて父の無念を思うと、察するところ余りあるものがあります。
 太平洋戦争後引き継いだ3代目の兄は、ゼロからの再出発にあたり、当時、密輸ウォッチ全盛の中にあって、掛・置き時計・腕時計の卸・小売りを中心に、今で云うところのコンプライアンス順守の先頭に立って、 一歩ずつ業績を拡大していきました。
 全販売店の99%が卸店経由の商品供給の中、創業以来良好な関係のSEIKOとの直取引により、取引先に最新の商品の供給・価格・サービスを提供してまいりました。そして、昭和30年代より時計王国スイスの牙城を崩さんとする、セイコーウォッチの技術開発に協力して取引を拡大し、特に昭和40年代後半のウォッチのクオーツ化においては、その将来の可能性に着目し、開発段階より協力、そしてその普及化・販売拡大をいち早く強力に推進いたしました。私にとっても新しい時代の到来を実感し、進む道への自信が湧いたのを覚えています。
 一方、1960年代には当時未整備であった医療機器のメガネにおいて、いち早く「眼鏡士」を取得してメガネ部門を、また1980年代にはジュエリー部門を創設して業務を拡大、1990年代には「直取引の全国老舗時計店100社」と「 服部セイコー」が協力して独自ブランド「CULESTA(クレスタ)」を立ち上げました。
 1992年にはヨーロッパ( スイス・イタリア・スペイン・イギリス)視察・研修で得た先見性と永年培った信用と技術力をもとに、業績を拡大していきました。
(次号に続く)

近況 - 湖畔のラジオ体操

3組  石井 孝和
 
 滋賀県のびわ湖には、室町時代以降に名づけられたという「近江八景」があります。
▽石山の秋月 ▽瀬田の夕照 ▽矢橋の帰帆 ▽堅田の落雁 ▽粟津の晴嵐 ▽三井の晩鐘
▽唐崎の夜雨 ▽比良の暮雪 と心にしみいるような旅情がこめられています。
 この中の「唐崎の夜雨」の地に住む私は毎朝、小型の携帯ラジオとカメラを持って“唐崎の松”が立つ唐崎神社境内の湖畔に出かけるのを日課としています。
 “唐崎の松”は江戸時代の絵師・安藤広重の絵にも描かれています。また松の木の脇には松尾芭蕉が“唐崎の松は花より朧にて”と詠んだ句碑があります。
ラジオ体操の場所から見える比良山系

 午前6時半になるとNHKのラジオ体操が始まります。ピアノ伴奏にあわせて「第1」で体をほぐし、「第2」でしっかり体をはずませ新鮮な空気を胸いっぱいにします。岸辺に茂るよしや湖面に遊ぶ水鳥など四季折々、変化する風景を眺めながらのラジオ体操です。コロナ禍もあって訪れる人が数少なくなっていますが、たまに他府県から来られた人がびわ湖の風景を楽しんでいます。そんなとき、声をかけられると「琵琶湖」についての豆知識を披露しています。
 ▽水面の高さは大阪城の天守の屋根と同じ、大阪湾の干潮時からの高さ85メートルであること。
 ▽水の量は近畿1300万人の約15年間の飲み水にあたる
『令和3年2月No488 79歳』とあります
275億立方米もあり、琵琶湖は“近畿の水がめ“とも云われていることなどと説明して、観光案内人気取りになっています。 家に戻ってからは好きなジャズのCDを聴きながら50代から続けている“写真日記”を綴っており、大学ノートの数が500冊に近づいています。妻からは「収納に困る」と苦情が出る始末です。お陰さまで健康で、週に二日はNHK大津局に勤め、TVローカルニュースの制作スタッフとして、新型コロナ終息を願い、取り組んでいます。

 追伸:少し遅くなりましたが、滋賀の方でもサクラの‟開花宣言“がありました。いつものラジオ体操の場所からもさくらの景色が見られましたので写真に撮りました。
湖畔のさくら 湖畔で見る日の出

「武田尾“桜の園” 亦楽山荘(えきらくさんそう)のこと」

7組   張 志朗

 「今年のさくらの開花は早いようですね。」そんな話を聞きながら、ふと思い立って武田尾の桜の園を訪ねてみました。電車で一駅、自宅から30分。3月初めなのに陽気は4月上旬なみでした。
 武田尾駅は、JR福知山線の「生瀬駅」「道場駅」の間の武庫川渓谷にあります。いずれの名前も聞き覚えがあることでしょう。飯盒すいさんや、キャンプ、林間学校など、想い出が多い場所です。
 川の両岸を単線でのんびりと走っていた旧福知山線も今はトンネル主体の複線新ルートで、武田尾の駅の大部分はトンネルの中。一部武庫川にかかる部分だけが、橋のような空中駅です。
 駅から15分くらい。旧福知山線の二つのトンネルを越えた所の親水広場横に、“桜の園“『亦楽山荘』と呼ばれる40ヘクタールの山林への入り口があります。
 ここは明治45年、笹部新太郎氏がサクラの保存・品種改良やつぎ木などの研究のために拓いた演習林で、当時は全国から集められたヤマザクラやサトザクラが30種類、5000本以上が植えられていたと言います。亦楽山荘は笹部氏の命名。またここが“桜の園”と呼ばれるようになったのは、1999年宝塚市の里山公園になってからです。
 現在はいくつかのハイキングルートが設定されています。ただしすべて山道で、アップダウンが激しく、私の脚力では全コース踏破は無理。この日も“桜坂”を越えて、周回路の“さくらの道”に入り、“育樹の丘”の東屋で、はやばやと休憩しました。入口から1Km弱だと思いますが、急な登りに息がきれます。それだけに、“桜坂”でヤマザクラとエドヒガンザクラの巨木に出会ったときは思わずオォーッと声がでてしまいました。ほかにもオオシマザクラ、カスミザクラ、ウワミズザクラなどがあり、実に多様です。こう書くと私が桜の種類に詳しいような印象になりますが、すべて木に掲げられた銘板の助けによるものです。
 花はこれからです。サクラの早い今年でも4月に入ってからが見頃でしょうし、種類ごとに順次咲いては散って、を繰り返し約4週間程度、花が楽しめるとのことです。
 『亦楽山荘』周辺のサクラは、日本の固有種または固有種にちかい山桜、里桜が主で、ソメイヨシノは少ないようです。大量に植えられ、一斉に咲きそして散るソメイヨシノに慣れ切った私ですが、4月にまたここを訪ね、多彩な山桜・里桜を楽しんでみようと思っています。
 資料に載っている笹部新太郎氏(1887~1978)のことを少し書きます。お生まれは大阪の堂島の裕福な商家で、東京帝国大学法学科を卒業され、その生涯と莫大な私財を山桜、里桜の研究と保護・育成にささげられた方です。水上勉氏の『櫻守』の主人公のお一人、「竹部庸太郎」のモデルであり、関西は勿論、全国の名もなき桜までをも訪ね歩かれたそうです。大阪造幣局の通り抜けの桜、夙川・甲山周辺の桜の管理指導、なかでも1960年、岐阜県御母衣ダム工事で水没する樹齢400年のエドヒガンザクラの巨木二本の移植を行うなど、その業績は数えきれません。この時移植された桜が岐阜の“荘川桜”。ネットで検索すると、立派な花を咲かせて今も健在です。
 東屋周辺の見事なモミジを見ながら、周回路を“隔水亭”に向かいました。“隔水亭”は、笹部氏の研究拠点で、現在あるものは二代目だそうです。小ぶりで質素でしたが、机上研究もさることながら、フィルドワークが主で、つぎ木の技術など職人はだしであった笹部氏の人となりが偲ばれるようで、感じ入りました。
 道中、数人のボランティアと出会いました。“櫻守”と書かれたヘルメットに、山仕事用の作業服で、
周回路の“桜坂“の案内板にあった写真です
園路の整備や樹木の手入れをしていました。年齢はほぼ同じくらいですが、健脚で若々しい。楽しそうに作業する姿から、桜によせる思いが伝わります。
 美しい桜山にはそれにふさわしい美しい物語があるものですね。サクラを守り、支えるご苦労に、感謝の気持ち一杯になりました。



          

「12期の広場2021新春号」のラインアップ

 あけましておめでとうございます。今年も「12期の広場」をよろしくお願い申し上げます。
 旧年はコロナ禍一色。特に年末に感染拡大するなど、経験したことのない重苦しい一年でした。それだけに新しい年を迎えての感慨は、ひとしおのものがありますね。新年はウイズコロナであっても、一日でも早く穏やかな日常を取り戻し、笑顔で過ごせる年になってほしいと祈るばかりです。その願いを込めて、カット写真は華やかな「桜の白鷺城」(高見政博君が撮影)にしました。
 「12期の広場」も満10年が過ぎ、11年目に入りました。2011年から2018年までは毎月の1日に更新、2019年からは3か月に1回の更新になりましたから、この新春号が105回目。一寸驚きです。長きにわたって「12期の広場」を続けることができたのは、ひとえに同窓生皆さんのご協力があってこそと、心より感謝しております。
 広場開設は古希、70才になった年でした。そして開設11年目の今年は傘寿、80歳になる年であります。
 振り返れば私たちの70才代は意気軒高。同窓会には多くの学友が集い、恩師を囲んでの楽しい時間を過ごしました。また、色々な機会を作っては集まり、よく遊び、よく食べ、よく飲んで、たくさんのおしゃべりを楽しみました。一方、多くの大切な学友が鬼籍に入る悲報もありました。10年の「12期の広場」は、まさにその写し鏡であったようです。
 いよいよ80才代、文字通り人生の胸突き八丁、終着点が予感できる年齢に達しています。こんな時期にコロナ禍とは、との思いも強くありますが、この時代を生きる私たちのめぐりあわせと受け入れるしかありません。楽しみにしていた東京オリンピックの開催を含めて先行きはさらに不透明で、いろいろなことが起こってくることでしょう。
 「12期の広場」は ‟皆さんと共にありたい”を道標に、この新春号からまた新しい歩みを始めたいと思っています。重ねて、これからも一層のご協力ご支援をお願い申しあげます。
 
 さて「12期の広場2021新春号」のラインアップは以下の通りです。お楽しみください。
 
1. 「薬師岳登山とコロナ禍」       ・・・・・・・・・・ 5組  泉 信也
2. 「「マルオヒロカズ御伽草子展」に行ってきました。 ・・・・・・・・・・ 7組  張 志朗
3. 「つれづれに – 鍋が美味しい」    ・・・・・・・・・・   井 の 蛙
以上

薬師岳登山とコロナ禍

5組 泉 信也
 
 コロナ禍のなか、自粛の禁を破って、8月に古い山仲間と「薬師岳」に登った。
 薬師岳は標高2,926m、飛騨山脈立山連峰の縦走路の中ほどに位置し、岳人憧れの「雲の平」への入り口でもある。気品のある山容と氷河地形の痕跡を残すカール(圏谷)は、国の特別天然記念物となっている。昭和38年冬にはいわゆるサンパチ豪雪の中で、愛知大学山岳部の13人が吹雪にまかれ遭難した山として未だに記憶に残る。
 久しぶりの1,600mの標高差、往復14時間近い長駆は残躯にこたえたが、登頂の充足感は何ものにも代えがたい。薬師岳の雄大さと、峯雲を従えた北アルプス全山の眺望が青春時代の記憶を懐かしく甦らせ、コロナで弱った心身のリセットに恰好の処方箋となった。泊まった「太郎平小屋」は清潔で三密対策も十分、広域をカバーするWiFiアンテナでリモートワークさへできそうだ。
 北陸新幹線で便利になった東京~富山は2時間半、ローカル線に乗り換えて1時間の立山案内人の里「芦峅寺(あしくらじ)」では安全と厄除けを祈願し、立山曼陀羅の世界にしばし身をひたした。極彩色の「地獄極楽絵図」は、怖くもあり可笑しくもあるのだが、大日如来による究極の救いは、当時の人々にとって分かりやすく有難いものであったと思う。
 小林秀雄が「考えるヒント」で考察したプラトンの「国家」では、地獄極楽思想が仏教だけのものではないと教えてくれる。地獄で酷い目に遭い、極楽で結構な目に遭った者たちが一緒に野宿し、奇怪だった思い出話をするうち、運命の女神が現れて皆を「必然」の椅子に座らせ、将来の生活を選べと命ずる。結果、善悪の魂が入れ替わるのだが、「忘れ川」の水を飲んだ夫々が、生まれ変わってそれを知ることはない。高野山で見た「密教曼荼羅世界」に通底するようだが、俗人には「立山曼荼羅」のほうが分かりやすい。
 それにしても先が見えない。日々の暮らしはもとより、山登りやへぼな俳句の集まりもままならない。重苦しい気分が続く。そんなある日、知人から「感染した、すまないがあなたは濃厚接触疑い」と連絡があった。身に降りかかるとは思いもよらず、「陰性」判定が出るまでの一週間は、自分のことはともかく、家族や仲間に移してはいないかと不安が先に立ち、「いやな感じ」。初めて身仕舞いのことなども考えた。
 コロナ禍の後では世の中が大きく変わるとか、皆が口をそろえる。人類の歴史は感染病の歴史。紀元前の大昔からコレラ、ペスト、結核、天然痘、マラリヤ、チフス、エイズ、SARS、MERSと枚挙に暇がないが、ヒトはこれらを克服し、進化を遂げてきたという。この度の新型コロナ後はどうなるのか。21世紀は「未曾有の時代」の幕開けだが、自然破壊と度重なる天災、人災に、グローバル化によるパンデミックが加わり、非日常が日常となることを受け入れねばならないのだろうか。答えを見つける旅が始まる。新しい日常に適応するも、せざるも、夫々が自由で納得のいく生き様を探ることになろう。
 それにしても「薬師岳」山行に救われた。新しい年が平穏に明け、リモートでなく生身で皆さんと再会できる日が早やからんことを祈る。

『マルオヒロカズ御伽草子展』に行ってきました。

7組  張 志朗
 
 『マルオヒロカズ御伽草子展』が2020年11月17日から22日まで、大阪市福島区のメリヤス会館ラッズギャラリーで開催されました。20日(金曜日)の午後、末廣訂君と一緒に行ってきました。
 
 コロナ禍のさなかで、街中に出かけるのを控えていましたので、久々の大阪市内歩きです。JR新福島駅から会場までは、市電が走っていた時代からも大きく変貌した地域の一つ。末廣君からこの付近にある旧跡のエピソードを聞かせてもらいながら歩きました。
 圓尾君の個展に行くのは久しぶりです。またコロナ禍による巣ごもりが続いていただけに絵を見るのは新鮮で、刺激的でした。
 まず入口正面の『財前童子』が目に飛び込んできます。布カンバスにアクリルや油絵具など使って描かれた大作。頂いた案内状に書かれていた『OTOGIZOUSI 命に潜む精霊をたずねて』がすんなり心に入ってきます。
他の作品にも一寸法師、牛若、浦島、金太郎、等々が童の姿で描かれていましたが、純真無垢で生命力がみなぎっています。お孫さん誕生に刺激をうけての‟圓尾ワールド“そのもので、私は大好きです。
 作品はこの20年くらいの間に描かれたものの内、御伽草子シリーズに入るものが中心でした。
 
 この日私達を含めて12期同窓生が7人来ていました。残念ながら松田修蔵君、横幕正式君、上野裕通君、伊東慎一郎君の4人には一足違いで会えず、帰り支度をしていた八島平玐君には会えました。大病を見事に克服された伊東君を筆頭に、皆さんお元気。圓尾博一君も意気軒高で、絵画制作の情熱に陰りはないとお見受けしました。
 圓尾君、末廣君と絵の事や市岡の思い出話に花が咲きました。特に末廣君が玉田先生の日本史の授業に知的好奇心が大いに刺激されたこと、そのお陰で95点を取り、席次上位で貼り出されたこと、さらにそれが最初で、最後であった話には大笑いでした。
 
 帰路、末廣君と軽く一杯飲んでまたおしゃべりです。やはりこうして同窓生と会え、話ができることは、いまさらながらに楽しくまた嬉しいものであることを実感しました。