12期の広場

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「12期の広場」2022秋号のラインアップ

 突然のお知らせですが、清水誠治郎君がお亡くなりになりました。
 9月7日に外出先で倒れ救急搬送されて入院。集中治療を受けておられましたが、薬石の効無く、11日朝、永眠されました。
 ご存知のように清水誠治郎君は3年3組の同窓会幹事で、同窓会活動ではクラス幹事の役割にとどまらず、12期全体の中心幹事のお一人として大活躍してくださいました。その思い出は語りつくせません。同窓会行事の企画推進やそれへの積極参加・協力は勿論のこと、同窓会名簿原案の作成やその他の事務作業、同窓会の司会、度重なる「12期の広場」への投稿など、実に多くのご苦労をお掛けしました。
 ここに哀悼の誠を込めて、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
  故人を偲び本号では、2016年1月号に投稿された「今、物凄く幸せです」を“ひろばリバイバル”として掲載いたします。

 「12期の広場」2022秋号のラインアップは以下の通りです。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「ぶらりと福知山」 7組 張 志朗
  2. 掲示板
    ・「コロナ第七波の中、三年ぶりの夏祭り
     海老江八坂神社の夏祭りが盛大に実施」
    8組 末廣 訂
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「今、物凄く幸せです。」 (2016年1月号から) 3組 清水誠治郎
以 上

巻頭コラム

ぶらりと福知山

7組  張 志朗

 ぶらり福知山に行って来ました。
 こう書きだせば、"気楽な小旅行"となるのですが、実のところは耐えがたい猛暑とコロナ禍による巣ごもり、さらに思い通りにならない体調に"汗まみれの引きこもり老人"状態になっている筆者のセンチメンタルなフラフラ歩きの旅であったようです。
 日帰りの遠出は数年ぶり、勿論、密を避け、マスクを持ってです。8月の末、晴と気温32度以下の天気予報を確認して、JR福知山線の篠山口行の区間快速に乗りました。
 ご存知のように福知山線は東海道線の尼崎より北上し、篠山口を経て福知山で山陰線に接続します。
 篠山口で二両連結列車のワンマンカーに乗り換えです。若く、かわいい女性運転手です。「福知山まではディーゼル車ですか」と聞いて笑われました。以前から電化されているそうです。
 福知山までは車窓の左右になだらかな山を見ながら、峡谷沿いに、また狭い盆地にある田畑を縫うようして走ります。単線で、電車が木々すれすれの場所も少なくありません。空の青、白い雲、木々の緑、渓流の水しぶきが美しく、心が徐々に開いて行きます。コンバインが停まり半数位の田んぼは、稲刈りを終えてすでに初秋の風景です。2時間ほどで福知山駅に到着しました。

 福知山は京都府の北西部、人口8万人弱の中核都市。丹波高地と丹後山地に囲まれた盆地にあり、北近畿の交通の要衝です。ここから和田山、豊岡を経て城崎へ(山陰線下り)、鬼で有名な大江山を越えて宮津、天橋立へ(京都丹後鉄道)、綾部を経て舞鶴、小浜へ(舞鶴・小浜線)、また亀岡を経て京都へ(山陰線上り)いたるターミナル駅です。通過は何回もし、小休止は1~2度していましたが、ぶらり歩きは初めてです。皆さん、特に関西在住の方には、観光やスキーや登山などでおなじみの地域であることでしょう。
 とりあえずマップ片手に駅周辺をあるきました。駅の南側広場にレールを使った東屋と転車台に乗せられたC11形式40号の蒸気機関車がありました。レールは明治30年から32年に
当時の"阪鶴鉄道"が米国のカーネギー社とイリノイ社に特注したものだそうです。また蒸気機関車は昭和8年の川崎車輛株式会社製で小型機関車としては力が強く、短区間運転用として重宝され昭和19年から31年まで福知山線を走っていたそうです。転車台は機関車の方向転換や扇形車庫への入出庫を行う設備で、昭和47年まで稼働したのち、福知山駅高架化事業により撤去されたそうです。いずれも「鉄道のまち福知山」のシンボルとして保存展示されています。
 雪深い北近畿の鉄道機関区で、ラッセル車と共にもうもうと煙をはいていた雄姿が、思い浮かびます。特に私の家内の従兄が、この機関区で蒸気機関車の機関士であっただけに、思い入れもひとしおです。
 福知山は明智光秀ゆかりの地、歴史の深い城下町でもあります。
 NHKの大河ドラマ"麒麟が来る"が放送されて一躍脚光を浴びましたね。幟(のぼり)やイラストや桔梗紋(明智家の家紋)が目につきます。それらを案内するマップ通り見て歩くことはできません。なにしろこちらは、81歳を超えた老体、真昼間(まっぴるま)の炎天下の徒歩に息絶え絶えです。つばの広い網目帽子と濡れタオル、ペットボトルのお茶を頼りに、とりあえず旧城下町と思われる地域をめぐることにしました。

 懐かしい趣の駅正面通り商店街を直進して左折、アオイ通りを経て、まずは地元の人に「ごりょうさん」と親しまれる御霊神社です。由緒書きに祭神は宇賀御霊大神、配神は日向守光秀とあり、さらに「宝永元年(1704年)朽木植昌候の代 光秀の霊を併せ祀り」とありました。光秀が没したのが天正10年(1582年)ですから122年経ってようやく"配神"として祀られたのですね。
 本殿を持つ境内は高くなった丘の上にありますが、そこに頼山陽の「本能寺」と題した漢詩の石碑があります。近年建てられたものと見受けましたが、それをどう読み解くか、私にはよくわかりません。ただ詩文中の「老いの坂 西に去れば備中の道 鞭を揚げて東を指せば天なお早し」は、岐路に立たされた明智光秀に迫ります。(偶然ですが、8月初めに藤沢周平著の「逆軍の旗」を読みました。この詩文との符合に驚きました)
 この境内に日本で唯一の堤防神社があり、境内から参道を下りた広場に、昭和28年9月25日の台風13号による洪水時の"浸水位20.69m"を示す表示塔がありました。写真ではその高さが実感できませんが、側に立って見上げると私の背丈の4倍近くありそうです。浸水位20.69mは尋常ではありません。おそらく周辺の木造民家の屋根を越える高さまで水がきたでしょう。福知山は古い時代から、すぐ側を流れる由良川の豊かな恵みを受けると同時に、その氾濫による大水害に苦しめられ、不撓不屈に生きてきた町です。
 それを示すように、この神社の近くに治水記念館があります。下柳町の旧街道(山陰道)に面した二階建て民家がそれです。残念ながら休館の札がかかっていて入れませんでした。(休館日が火曜日であることを確認していたのですが・・・)資料によると二階に避難用の船とそれを吊り下げる滑車などが展示されているそうで、水害時の人々の苦闘と知恵を見たかったのに残念無念です。
 江戸期、由良川の舟運は隆盛していたようです。その拠点であった下船渡口(げせんどくち)近くから由良川堤防を歩き、福知山城に向かいました。すぐに蛇が端御藪(じゃがはなおやぶ)=明智藪が見えます。
これは由良川に土師川が合流する地点に明智光秀が築いた堤防(高さ2.0m、長さ1.5km)で、写真のように立派に育ち残っています。
 福知山城は天正7年(1579年)ころに明智光秀によって築城され明治維新まで存在しました。明治6年廃城令により石垣と一部を残して失われたのですが、昭和に入り市民による「瓦一枚運
動」などもあり、昭和61年(1986年)に再建され現在に至っています。由良川に伸びる丘陵にある「平山城」で、こじんまりとしていますが、美しい城です。時間がなくて天守閣の中には入りませんでした。石垣は400年の歳月に耐えてきたもので、多くの五輪塔などの石造物が「転用石」として使用されているのが特徴だそうです。
 天守台の広場から、はるけく福知山市街地が見下ろせます。逆に言えば市街地から福知山城が仰ぎ見えます。満々と水を湛えた由良川は230年の間に40回以上も決壊を繰り返したと言い、そのたびに人々は不屈の心意気で町を復興しました。そんな人々に光秀が築城した福知山城はどう見えたのでしょう。「瓦一枚運動」に寄せる人々の思いが伝わってくるようです。
 夕方、福知山を後にしました。滞在は5時間弱。見られなかった所や。行けなかった所ばかりで心残りですが、次回の楽しみとします。
 帰りは大阪行き"丹波路快速"一本で楽ちん。暮れなずむ里山の家々を眺めながら無事帰ってきました。
 追記:山とスキー好きの友がこの拙文を読んで「福知山線路線模式図」を作ってくれました。ご覧ください。

掲示板

コロナ第七波の中、三年ぶりの夏祭り
海老江八坂神社の夏祭りが盛大に実施

8組 末廣 訂
 
 今年・令和四年の夏は三年ぶりに地元海老江八坂神社の夏祭りが行われ盛大の内に終えることができた。
 京都の祇園祭りでは,鷹(たか)山鉾(やまぼこ)が百九十六年ぶりに新調され大きな話題となり、また大阪の天神祭りでも地車(だし)が新しくなり、久しぶりにテレビで放映されて話題になった。
 海老江八坂神社の祭りでは、祭りの華である地車・太鼓のパレードや夜の宮入りが大勢の見学者で囲まれている様子がユーチューブの動画で発信されている。
 祭り好きなものにとって,待ちに待った祭りであったが、やはり丸二年間もの空白とコロナ禍での開催は、当事者には目に見えない努力と苦労があった。
 
*海老江八坂神社 祭礼行事の移り変わり 
 海老江には、枕太鼓と地車三基がある。一つの村で四台の祭台があるのは大変珍しい。祭の盛んな岸和田、平野でも旧村や町単位で地車が一台しかないが、海老江は東西南北四町あり、それぞれが神社の庫(くら)に納庫している。
 これほど盛大に行われている祭りだが、祭りに関する書いたものが少ない。純農村であった海老江は五穀豊穣を祈って、元々秋祭りが中心であったと考えられるが、疫病予防を祈願する京都の八坂神社と同じ夏の大祭に移り現在に至っている(明治初めに牛頭(ごず)天王社(てんのうしゃ)から八坂神社に改名されている)東西南北四町の世話人の組織はおおむねよく似ており、祭礼は町総代を中心に各役割がある。各町によって法被(はっぴ)、浴衣、鉢巻きの色が決まっている。北之町は白色、東は黄色、南は桃色、西は水色、である。
 地車の囃子や手打ちの言葉は天神まつりの影響がある。「打ちましょう」で始まる手打ちは四町共通だが、北之町だけが最後に「ああ、めでたいなー」が入り、祝儀をいただいた折の手打ちも同じである。
 
*祭りの事前準備とスケジュール
 私が元老を務めている北之町(枕太鼓)の例年の行事進行スケジュールから簡単に紹介する。
 各四町にはほぼ同じ役職がある。太鼓の場合の運営(組織)委員は、町総代始め、会計、会計監査、元老、相談役、中老筆頭、安全委員、庶務委員、児童委員、進行委員、連絡委員、実行委員(若中)、等の担当がある。
 六月に入ると早速祭りの準備が始まる。例えば、六月初旬には現役の役員で実務の打合せとして、全体の役割、スケジュール調整、と巡行等の検討が始まる。一方では福島警察署への巡行コースの申請や四町の打ち合わせ等があり、また六月半ばには元老・相談役と現役役員とで全体の中身の確認会議があり、末日までに、「総会」が開かれる。  
 総会には全祭りの関係者(約百人)が集まり、総代や担当役員から神社全体の四町打合せ事項、太鼓の巡行コースの地図と時刻の確認、等々きめ細かい説明がある。質疑応答の後、直会(なおらい)に入る。
 七月の第一日曜日には、太鼓・地車の洗車、神社内外にのぼり・竹矢来(たけやらい)設置、そして各町それぞれに提灯を建て、主要道路には企業名が入った寄付による御神燈提灯が設置される。
 第二週目から太鼓の囃子の練習が始まる。そして各町は祝儀集めの「趣意書」を事前に各家庭や企業に配り了承を得る。太鼓の練習は児童四~六年生が中心で、毎夕六時から始まる。十六日は祭り用の食事や小休憩や接待場所に氷・飲みもの等を準備し、夕方は太鼓の飾りつけをする。
 今年は七月十七日(宵宮)と十八日(本宮)が日・祝で、実質十五日の金曜日に企業中心に祝儀集めが始まった。
 十七日に宵宮の行事が始まる。祭礼関係者が神社に朝九時に集まり、お祓いを受けた後、早速各町別々に手分けして各家庭に梵天を持ってお祓いし手打ちして祝儀をいただく。夕方五時から神社にて四町の競演があり、その後、夜のパレードに出立する。パレードは自町を二時間ほど巡行して八時ごろから、四町揃ってパレードを行い、神社に戻り納庫する。
 十八日の本宮行事は早朝から太鼓・地車の巡行が始まる。朝、八時に全員がお祓いを受け、神社を出立する。太鼓の場合、朝の食事を副総代宅にて、其の後は自町中心に巡行をし、三時頃から四町揃って午後のパレードを終える。夕方は総代宅で夕食を済ませ夜の宮入りに入る。夜七時頃、当宅前で太鼓の台車を取り外し肩合わせ後、太鼓を担いで宮入りに入る。今年は三年ぶりの宮入りで若中も力が入り、立派な宮入りであった。
 本宮の翌日は、朝から祭りの後片づけや祝儀の花開きがあり、午後はねぎらいの直会で終了する。北之町では祝儀をいただいた約八百件(内二千円以上)を金額順にリストアップして後日印刷し公表している。
 
*コロナの中の祭りと苦労 
 七月に入り、コロナが第七波になり、児童の感染者も増してきた。 この二年間、特に六年生の子供は四・五年生時に祭りが中止となり、今年が太鼓をたたく最後のチャンスであった。練習日の初日から待ちに待った練習が始まり、約四〇名の子供で一〇組ができ、一週間の練習が始まった。祭り目前にコロナ感染で六年生の学級閉鎖があり、半分以上が途中で参加できなくなった。
 三年目になってやっと晴れの姿をと頑張っていた六年生の気持ちは親子ともども残念であったと思う。半面、残った五年、四年生のたたき手たちは本番も少人数で二日間よく頑張ってくれた。」
 実は私の孫も、都島区から二人(五年と六年生)毎晩練習に来ていたが、六年生の孫が十七の前日の晩になって、熱が出て急遽自宅に戻し、本番は出られず大変残念がっていた。
 また、一方で祭りの一か月前に、北之町の一番長老(九四歳)の元老が亡くなられた。本来、北之町では役員が亡くなると、出棺の折は祭関係者全員で手打ちをして見送ることになっているが、コロナ禍でそれも出来なかった。そんな中、ある役員の発案で太鼓巡行の折、長老宅前で太鼓を差し上げしようということになり、私も約三〇年ぶりに長老ご家族の前で太鼓を担ぎ弔うことができた。
 後で他町の役員の話では、祭後、コロナに罹ったという祭り関係者が続出したそうで、今年の祭礼行事が大変な祭りであったことが分かった。
 パソコンやスマホを持っている方は一度「八坂神社夏祭り」を検索してユーチュウブをご覧ください。
(写真は亡くなった長老宅前で三〇年ぶりに太鼓を担いだ当年八一歳の私です)

“ひろば”リバイバル

今、物凄く幸せです

3組  清水誠治郎
 
 “元旦や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし"(一休宗純)
 私が小学4年生(昭和26年5月)の時、父は脳溢血と言う突然の病で48歳の天寿を以ってこの世を去りました。おそらく戦後の動乱期の期末とはいえ、かの歌等考えすらないままに、逝ったのだろうと思います。
  家系の血は争えないもので、私は52歳で中度の心筋梗塞があってからは、今日まで循環器系の病との戦が続いています。近代医学のお陰で、心臓を流れる動脈の支流には4個のステントが入っています。腹部の大動脈にも瘤(52ミリ)があったのですが、適切な手術処置で破裂せずに小さくなり、元気な活動ができています。
 昨年3月、10年間の町会代表や西宮市の校区のスポーツクラブの代表等々、長きに亘って社会奉仕させて頂いていましたが、立派な後継者が出来たのでスムーズに交代する事が出来ました。そして10月には会社の代表を息子に譲り、私は悠々自適の生活を満喫出来るものと確信していました。が、そう上手くはいきませんでした、何か判らないのですが日々多忙です。
 何の趣味も持たず、ひたすら仕事と奉仕に打ち込んできた私ですので、全てを後継者に託した時、家内から“貴方はこのままではすぐに呆けてきますよ!何か趣味をもちなさい!"。まだこの歳ですし、呆けるのはいやだったので考えた挙句、写真を始めようと思い立ち、最新式のレンズシャッターの高級機を購入して写し始めましたが、これがまた難しすぎて手に負いません。特に動体撮影は写そうと思っても、身体や目や頭がついていかないのです。残念で悔しいですが、動かない花や景色を撮っています。
 それともう一つ、絵を習い始めました。未だ10カ月しか経っていませんので御見せ出来るような作品はありませんが、4~5年間、健康に注意して修業が出来れば、喜寿の個展が出来ればいいなと淡い夢を持っています。でもやっぱり好きな画家(特に日本画・河合玉堂や上村松園) の絵をゆっくりと時間をかけボーと観ている方が心癒されます。
 私は今、物凄く幸せです。少し元気になった妻と息子たちと四人の孫に固まれて!
                                2016年 1月
 
(HP委員追記)
 清水誠治郎君の「広場」への投稿は上記の他に3篇があります。何より大きな感動を呼んだのは2011年7月号に掲載された「ツゥールポンロー みおつくし中学校」です。
 これは彼と故畠平雅生君が所属していた大阪西ワイズメンクラブのボランティアプロジェクト—カンボジアに中学校を建設・寄贈する事業の奮闘記です。
 彼はカンボジアの実状を目にするために2007年、建設敷地の視察に2009年、第一校舎落成式出席のために2010年と、3度カンボジアを訪れています。ツゥールポンローはタイのバンコックから4輪駆動車で15時間、二日がかりの辺境の地で、建設予定地の1/3から250個の地雷が発見処理されたそうです。下に貼り付けたのは、出来上がった校舎と落成式での記念写真です。左から3人目が清水君です。長文ですが、「ツゥールポンロー みおつくし中学校」を読んで在りし日の清水誠治郎君を偲んでいただければ幸いです。この原稿の「結び」を下に再掲いたします。
 
“ハチドリのひとしずく”   今、私にできること
 森が燃えていました。森の生き物たちは我先にと逃げて行きました。でも、クリキンディという名のハチドリだけは、いったりきたり、くちばしで水を、一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます。動物たちがそれを見て「そんな事をして一体何になるんだ」といって笑っています。  クリキンディはこう答えました。「私は、私に出来ることをしているだけ・・・」
 この物語は南アメリカの先住民に伝わる話です。(クリキンディ・・現地語で金の鳥の意)
 同窓生では畠平雅生君が同志として一緒に運動をしています。又古藤知代子さんが多額寄付者として登録されています。こころざしに感謝いたします。

「12期の広場」2022夏号のラインアップ

今号のラインアップは以下の通りです。お楽しみください。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「天正15年?6月13日の茶会」  8組 川村 浩一
  2. 掲示板
    ・「圓尾君の“大作”を見に美術文化展に行ってきました」 
    ・「World Art Day と< ダ・ヴィンチ>知の行方 についての思い」
    8組 榎本 進明
    6組 圓尾 博一
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「利根川 川歩き」 第1回(平成19年10月30日~11月1日) 
    ・「利根川 川歩き」 第9回(平成23年5月9日~11日)
    4組 川合 兵治
    4組 川合 兵治
以 上

巻頭コラム

天正15?年6月13日の茶会

8組  川村 浩一
 
 この12年、茶事(茶の湯)同好会に入れていただきお茶の世界(の端っこ)を楽しんでいます。季節ごとに初釜とか納涼茶会とか、もみじ茶会、炉開き、口切とかいろいろな趣の茶事・茶会があります。コロナでしばらく活動も制限されていましたが、この5月には飯後の茶事(はんごのちゃじ)に招待され、いま仲間が納涼茶会を企画してくれています。
 その続きで最近、茶書の勉強を始めました。まずは茶道の聖典とも言われてきた「南方録」(なんぼうろく)の読書会。利休の教えを弟子の南坊宗啓が「南方録」7巻に書き留めたものを福岡・黒田藩の家老、立花実山が利休没後100年に再発見して書写させたものとされています。
 その7巻のうちに「會」という巻があり利休の56回の茶会の記録(茶会記)が残されています。この記録には我々にも懐かしい名前が出てきます。
 
 今、7月なので陰暦6月13日の茶会をご紹介しましょう。(一部、原文のママ)
 
 六月十三日、朝。
 御成(すなわち正客は秀吉)、御相伴は黒田勘解由(すなわち黒田孝高。官兵衛。如水とも。)、細川幽斎(藤孝)、今井宗久(堺の商人・茶人。利休、津田宗及とともに三宗匠と並び称された。)
  • 醒ヶ井屋敷六畳敷。
  • 初座、後座とも床には上様(秀吉)御自筆御自詠カケ物。
    御歌「底ゐなき心の内を汲てこそ お茶の湯者とハしられたりけり」
    此御歌ハ、先年此座敷ニて被遊下候を、このたびカクル。
  • お道具類は面倒なので省略。
  • 懐石:干し葉の汁、麦の飯。膾。刺身はマナガツオ。煮物。
  • 菓子:煎榧(カヤの実を煎ったもの)、栗。
お茶の後、秀吉から即席で歌を詠めと指示され、
 幽斎「濁なき此御代とてや足引の 岩井の水もやすくすむらん」
 孝高「万代の声もけふよりまし水の 清きなかれハ絶しとそ思ふ」
 
 利休の醒ヶ井屋敷は六条堀川のかつての源氏館のあとにあったようです。いつも名水、醒ヶ井水で茶を点てていたのでしょう。醒ヶ井水はこの写真のあたりにあったということですが、いまは残っていません。京都の街も400年余りでずいぶん変わっています。昔の大通りの六条大路が今は車一台がやっとという石畳の小路。戦時中に陸軍が堀川通をやたらと広くしました。また四条通を阪急が地下鉄を通し四条以南の井戸が干上がったそうです。
 
 ところで南方録では六月十三日とあるだけで天正何年の茶会とは記していません。でも学術誌も含めて天正15年と特定しています。それは四大茶書のひとつと言われる「今井宗久茶湯書抜」に天正15年の茶会と明記されているからです。しかも孝高の歌を宗久の歌とされています。立花実山は黒田藩の人、同じ黒田藩の貝原益軒の「黒田家譜」では孝高の歌と書かれています。書き写す人の身びいき?おかしいor面白い話ですね。
 
 なぜ私がタイトルに?を付けたか、それは天正15年ではありえないからです。このとき秀吉は島津征伐のため九州に居ました。福岡・箱崎宮の本陣から討伐軍に指示を与えていたはずです。利休や津田宗及も同行しお茶会を盛んに催していました。6月9日、13日は利休が点前、13日当日は宗及の点前で秀吉にお茶。(博多の商人で茶人の神屋宗湛の「宗湛日記」による。宗湛はいずれの茶会にも御相伴。)
 では、この6月13日の茶会は何年のことでしょうか?秀吉が天下人となった天正11年から利休が自刃する前年の天正18年の間で、秀吉、利休、官兵衛、幽斎そろって在京の日を探す必要があります。かりにうまく見つからなければ6月13日を疑ってその周辺を探らなければなりません。ずいぶんしんどい作業になります。
 この茶会そのものが実山の創作茶会という研究者もいるようですが根拠を示してくれていません。当分裏千家の茶道資料館の文庫や表千家北山会館などに通って調べてみましょう。
 
 今回、単純にこの季節に合った茶会の例をご紹介するつもりでしたが、迷路に入ってしまいました。そして「天正」という年号が昭和の次になつかしい年号になってきました。

掲示板

圓尾君の“大作”を見に美術文化展に行って来ました

8組  榎本 進明
 「作品を見て、何かを感じてくれれば、それでいいんだよ」圓尾博一君の口ぐせである。
それでも「作者の意図が知りたい」のは筆者だけではないはずである。3.11の大震災時の作品でも同じことを言われた。でも、こちらも身をもって経験しているので、説明を受けなくてもわかる。今回、東京・上野の東京都美術館展示室の高い天井から床までの大作を観て圧倒された。
添付の文書に「作者の思い」が書かれているので、筆者なりに理解できたのであった。
 
 5月12日(木)美術館に集まったのは、5組・泉信也、6組・大石橋宏次、8組・萩原貞雄、8組・榎本進明、の4人であった。約1時間、11もある広いブースを急ぎ足で歩き、いよいよ彼の作品の前に。布製の大きな作品の前で記念撮影。作品の大きさが伺える。
 
 
 あっという間に一時間が過ぎて、雨の中、上野駅の近くの居酒屋で懇親会をして、近況を語り合って、お互いの長生きを誓い合った。美術展はいつも楽しい。
 

World Art Day と<ダ・ヴィンチ>知の行方 についての思い

6 組   圓尾 博一
 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)の没後500年を記念して、彼の誕生日4月15日をWorld Art Day(世界アートデイ)とすることがユネスコIAA(国際美術家連盟)によって提唱され、昨年国連で承認されました。
 レオナルドといえば万能の天才として、世界中の人にその名声が知られています。
 ルーブルの至宝「モナリザ」は特に有名です。彼は終生手許において手を加え続けたといわれています。あの魅惑的なほほ笑みは万人の心を引きつけてはなしません。
 彼の完成作は世界に十数点と言われていますが、彼はそれらの絵画制作より多くの時間を手稿という形で、私生活から大自然や宇宙の成り立ちに至るまで膨大な論考を残しました。その中には大量殺人兵器といわれる光学兵器や戦車、速射砲などのアイデアとスケッチも残されています。
 彼の生まれた15世紀はペストによって壊滅した中世の終焉の後、ルネサンスと呼ばれる人間性への目覚めや讃歌と、自然科学の合理精神によって物事を見つめる時代の到来でした。彼が洗礼を受けた近代科学的な思考はその後の欧米の合理精神を決定づけ発展させて、今日に到っています。
 それは現在の私たちの今を規定する物差しとなっています。あの優美で高い精神性を湛えた彼の芸術作品と大量殺人兵器の間にどんな思考の架橋があるのか、それを考えてみることは、私たちの眼前にある世界のカオスの中で、芸術を試行するものにとって、その意味をみつける為の大きなヒントになると私は考えます。
 今世界には、何十回も地球を壊滅させられる数の核兵器が存在します。それを是認する愚かな論理はどこからくるのでしょう。長崎の被爆跡から発見された傷ついたマリア像とレオナルドが描いた「聖アンナと聖母子」を並置することによって、レオナルドに代表される西洋の科学的知の敷衍ふえんとして結実した核爆弾の存在をレオナルドはどのように考えるか。<ダ・ヴィンチ>知の行方—という題名で私はこの作品を提示してみたかったのです。それがWorld Art Dayに関する私の解釈でもあるからです。
 この提示は掘り下げの浅い未熟なものですが、見ていただいた皆さんの、忌憚きたんのないご意見がお聞きできれは誠に幸せです。
2021.4.15  作者拝

“ひろば”リバイバル

利根川 川歩き

4組    川合 兵治
 
 今号より(“ひろば”リバイバル)を掲載します。これは110号を数えた「12期の広場」の中から特に想い出深い投稿文をリバイバル掲載するものです。初回は「広場」開設初期、まだ手探り状態であった編集内容に、一本の筋を通してくれたユニークで、楽しい連載投稿であった「利根川 川歩き」です。スタートの第1回分(平成19年10月30日~11月1日)とゴールした第9回分(平成23年5月9日~11日)を以下に掲載します。
 筆者はリーダーの川合兵治君です。約4年にわたる“壮途”を詳しく書いていただき、また毎回手書きのコース図まで添付していただきました。ご覧のように第1回目は川合兵治君、榎本進明君、山田正敏君の3名ですが、第9回目は泉信也君、西條軍蔵君、大石橋宏次君が加わっての6名となっています。「利根川 川歩き」の後、引き続いて「荒川 川歩き」が投稿されましたが、そのリーダーは西條軍蔵君でした。
 残念ながら川合君、西條君ともにすでに亡くなられておられます。お二人を偲びながらお読みください。
 

第1回利根川 川歩き(平成19年10月30~11月1日)

その1:利根川下流には堤防がない!

1日目:10月30日は利根川歩きの壮行会。夕刻、千葉県銚子市犬吠埼、犬吠崎京成ホテルに、山田、榎本、川合の3人が集結。そぼ降る雨の中、本州で一番早く初日の出が見えるという露天風呂を満悦した後、酒宴はくたびれないよう控えめにして、いつもと違う緊張感で全員床に就く。
2日目:10月31日、快晴。AM9:00にホテルを出発。「君ヶ浜」の海岸線を利根川河口に向けて歩き始める。すると、どこからともなく丸々と太ったかわいい子犬が現われ、まるで我々を見送りに来たかのように一緒に3キロほど歩き、浜の海岸線が切れるところまで来ると、どこへともなく去っていった。

  ホテルから約5.5キロ歩いた所にある「千人塚海難漁民慰霊塔」を過ぎて、800メートルほど行くと、スタート地点となる河口の直ぐ側に漁協の「卸売市場」があり、尾びれの根元をぶった切られたマグロが沢山並んでいた。もう競りが終わったのであろうか静かだった。歩いているとこんな風景も体験できるので今後が楽しみとなった。
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「12期の広場」2022春号のラインアップ

 ウメが咲きました。サクラが咲きました。コブシも、レンギョもモクレンも。草花も一斉に花咲き、野や山は百花繚乱の春です。暖かさが本当に有り難い。かじかんでいた指先やつま先にまでに新しい血潮が蘇るようでうれしくなります。窓から差し込む透明な光に春色があると思ってしまうのは筆者だけでしょうか。こんなうららかな春の日にも、コロナ禍の終息は遠く、さらに言えばウクライナでは悲惨な戦争が始まってしまいました。胸がふさがる思いです。
 
 さてこうして時の移ろいと同窓生の消息や出来事にふれながら記事を紹介してきたラインアップも今回で最後です。
 次号以降、「12期の広場」はギアチェンジをして簡素化、ラインアップ欄もシンプルに記事の目次一覧にする予定です。また同窓生の書き込みや行事予定などをお知らせする「掲示板」と「巻頭随想コラム」、そして「バックナンバーの再掲載」の三本が柱になります。「どこでも、だれでも、いつでも同窓会」は開設時のモットーです。傘寿を超えましたが今まで通り、ゆるゆると継続していくつもりです。宜しくお願い申し上げます。
 振り返ってみますと、わが「12期の広場」は11年3カ月の長きにわたり続き、今号が110号になりました。掲載された記事数は360余篇です。これに、ラインアップと同窓会出欠返信書の近況短信の数を入れると、500篇を超えそう。また執筆者の実数は65人、近況短信執筆者を入れると100人を超えることでしょう。この文章を書くにあたって手持ち原稿を印字してみました。A4サイズで1000枚をゆうに越えました。大雑把で恐縮ですが、400字詰めの原稿用紙に直すと、2000枚位になるのではないでしょうか。正直、うろたえるばかりの迫力とボリウムです。
 なによりその一篇、一篇に12期の皆さんの人生があります。心温まる生活の記録があります。行間から溢れ出る物語があります。多彩でかけがえのない足跡と熱い友情、感動と共感があります。長文もあり短文もあります。そのすべてが楽しく、嬉しく、切なく、懐かしくあり、教えられ、励まされ、響きあえる文章群です。
 「12期の広場」は卒業50周年記念文集の「みをつくし」に連なるものです。また「広場」を通して“発掘”された学級文集「烏合の衆」(2年8組)と「独白」(3年5組)が、その原点です。そして共に学んだ高校在学時を起点として今に至る紛れもない「心の軌跡」でもあるのです。
 近況短信の「晴耕雨読しています」のさりげない言葉からその心映えが、ほのかに熱を帯びて伝わります。「12期の広場」ならではのことでしょう。
 「12期の広場」に投稿し、閲覧し、支えてくださった皆様への感謝の気持ちで一杯です。

 偶然ですが、「広場」は「東日本大震災」の地震・津波災害、福島原発のメルトダウンの年に始まっています。その後の11年、年号も平成から令和へと変わりました。そして地球環境の悪化や度重なる自然災害(最近も福島・宮城県を襲う震度6強の地震がありましたね)、「分断」と「対立」、「広がる格差」など、問題が山積する社会の中、近年は新型感染症によるパンデミック、果てはロシヤのウクライナ侵攻による戦争の惨禍が続いています。
 世の中はさらに厳しく、おおきく変わりそうです。そして自身の老いは、加速します。そのどの時にあっても、付和雷同することなくたおやかに、「市岡健児」らしく前を向いて在りたいものです。
 
 末尾になりましたが、「広場」をバックアップしてくれた代表幹事の酒井八郎君をはじめとした同窓会幹事の皆さん、ねばり強くまたパーソナリティ豊かなHP委員の皆さんと有志の皆さんに、心からの敬意と感謝を申し上げます。
 
 わが「12期の広場」2022春号のラインアップは、以下の通りです。「広場」に焦点を合わせた投稿を5人の皆さんにお願いしました。お楽しみください。
 
1. 「『12期の広場』は時空を超えて ・・・・・・・・・・ 8組  萩原 貞雄
2. 「『朝刊』から ・・・・・・・・・・ 3組 高橋  要
3. 「絆深き12期生よ 永遠に ・・・・・・・・・・ 7組 柏木 赫子(後藤)
4. 「ラストスパート ・・・・・・・・・・ 8組 川副 研治
5. 「市岡十二期の皆様へ ・・・・・・・・・・ 5組 山本久美子(古荘)
以上

「12期の広場」は時空を超えて

8組 萩原貞雄
 「広場」はどこにあるのだろうか。遠い、遠い空の彼方にある様な気もするし、直ぐ近くにある様な気もする。「広場」はいつからあったのだろうか。ずっと昔からあった様な気もするし、ついこの前からの様な気もする。バックナンバーをクリックすればすぐ行けるのだ。
 そこには18歳の頃の多感で将来に対する不安と希望を抱いた若者がいる。その頃の友にも会える。でも話をした人の数は限られている。話す時間も少なかった。この「広場」で、記憶にある友の別の面を発見することもあるし、たくさんの新しい友とも出会えるのだ。
 一生懸命生きてきた証としての記録の数々だ。迷うことなく目標に 
2019年東京12期会で熱海へ。天然記念物の大樟の前で、
中央が萩原君
向かい、努力の末、学問、教育、仕事に天職を見つけた友。ボランティアで発展途上国に貢献した人。日本の各地に根を下ろしその地域を活性させた人。旅行記やトレッキング記は、素晴らしい写真で旅行気分にさせてくれる。海外から日本に里帰りするたびに歓迎の宴を設け、再会の喜びと友情を確かめ合う。くつろぎともてなしの時間が流れる。川歩きの旅は仲間と力を合わせて何年間も探求心を持ち続け、難行苦行の末、源流に達した。感動ものだ。絵や歌は職業であれ、趣味であれ、潤いや活力を与えてくれる。
 「広場」には多種多様な経歴の人がこんなにいるのだ。
「広場」は過去を遡り、今を語り、将来を話す場だ。過去から未来まで繋がっている。そういえばあの人は逝ってしまった。心温まる弔意文もある。何よりも本人が書いた記事がある。ここに行けばいつでも会えるのだ。行先の定まらなかった18歳の時から随分経った。
 今年は81歳、もう行先に迷うことはない。
 しばらく元気で「12期の広場」でお会いしましょう。