12期の広場

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巻頭コラム

英語ニュース拾い読み

8組 萩原 貞雄
 
 1960年に卒業して以来63年経ちました。1988年までの28年間の昭和の時代は、戦後の復興期であり経済成長も著しかった。その後現在に至るまで経済的には伸び悩んでいるが、それまでの成果としてインフラの整備が進み、医療や年金などの社会保障制度が充実し、寿命も延び、何よりも戦争がない良い時代を生きることができました。
一方では少子高齢化と人口減少、温暖化対策としての脱炭素社会への要請、紛争による世界の分断などこれまでになかった難題が生じています。

 僕は高校の時、英語は渡辺先生に教わりました。授業中もサングラスをかけておられ、ギャングと呼ばれていました。今振り返るとその頃の英語の勉強が、随分役に立ちました。仕事が海外のプラントの建設でしたので、長年英語で仕事をしてきました。仕事の合間にISO -国際標準化機構の規格作りの為に日本代表として、ヨーロッパやアメリカでの会議に何回か出席しました。最近まで機械製品の英文取説を作っていました。
 
 定年後、時間が十分あるのでTIMEやThe Economist の週刊誌、The New York Times電子版等、英語のニュースを見るようになりました。また同好の集まりである「タイム購読会」という会に参加させて貰って10年になります。この会は数名が持ち回りで、アメリカのTIME誌を中心に事前に好きな記事を選び、週一回、東京都多摩市にあるコミュニティ館で購読会を開いています。メンバーの一人のお父さんは旧制市岡中学の、弟さんは市岡高校の卒業です。まったくの偶然です。
 
 この会で読んだ記事や、個人的に読んだ記事の中から、2022年から2023年に掲載された記事を幾つかを紹介します。記事の内容とそれに対し僕の主観も入っています。
 
 The Economist  2022年12月17日 “First-world problems”
西側先進国は1980年代や1990年代は規制緩和、移民受け入れ等の経済成長を目指す政策をとっていた。現在は成長よりも福祉、年金、医療保険の充実を目指す国が多い。人口の高齢化による労働者の減少への対策、年金や福祉への支出、コロナ禍への対策や戦争の影響によるインフレへの対策、競争力のない産業の救済等に政府の支出が増大。投資が少なく、現状維持の政策をとっている。上記以外に防衛、温室効果ガスの費用が増大している。
 
 TIME  2023年2月13日 “What falling birth rates reveal about China’s future”
中国政府は人口が2022年に過去60年間で、初めて減少に転じたことを発表。社会保障制度の再検討を迫られている。四川省を始め幾つかの省では婚外子の登録も認め社会保障を受けられるようにした。
 
 The Economist  2022年11月5 日 “Open wide your gates”
日本と韓国は人口減少の為、今後労働者が不足する。積極的に移民を導入する必要がある。国民は移民を受け入れることを認めているが政府は積極的でない。また通貨安、制度不備、言葉の問題が障害となっており、移民の数は増えていない。
 
 The Economist  2023年1月14日  “The age of the grandma”
人口の減少、増加の程度は各国で差が大きい。でもどの国も寿命が延びており、老人の比率が高くなり「おばあちゃんの時代」となっている。おばあちゃんが両親に代わって孫の面倒を見ている家庭が、世界中で増えている。家庭をおばあちゃんが預かり、母親も働きに出ている。おばあちゃんが子育て支援の担い手となり、人口減少の歯止めに一役買っている。
 
 TIME  2022年5月23/30日  “A Polar Paradox”
北極海の氷が融けて都合の良いこともある。ロシアは砕氷船を水先案内に使って、北極海を通る船から通行料を取ることも可能。アラスカのノームでは港を拡張してクルーズ船を寄港させ観光地にする計画だ。
 
 TIME  2023年1月30日/2月6日 “India’s path”
インドの人口は世界の17.7%を占める。でも現在、温室効果ガスは世界の7%しか出していない。過去、ガスを放出してきたのは先進国だ。インドは発電の燃料は60%以上石炭だ。再生可能エネルギーにも力を入れているが、社会が石炭産業に依存しており、経済性からも石炭をやめるのは簡単ではない。
 
 The Economist  2022年11月26日  “Hot tempers”
2022年11月エジプトで開かれたCOP27(国連の気候変動に関する会議)は、お題目を唱えるだけの会議に終始した。気候変動による損失や損害(例えば洪水による被害など)を発展途上国が被った場合、先進国が援助するとともに、IMFや世銀が融資する必要性が同意された。具体案は次回の会議に持ち越しとなった。

 The Economist  2022年1月29日  “Place your bets”
侵攻一か月前の記事。ロシアは2014年に併合したクリミアや、東部ウクライナに居住するロシア系住民を守るという口実とするだろう。ウクライナを分断してNATOとの緩衝地帯を設ける。その為、ベラルーシにロシア軍を駐在させ、ウクライナを北、東、南から侵攻する。冬季オリンピックが終了する2月20日から雪解け時の間に行われることを示唆(実際は2月24日に侵攻を開始した)。
 
 The Economist  2022年10月29日  “Adieu, laissez-faire”
上記下線部のフランス語の意味「さようなら 自由放任主義」。アメリカは企業や個人の経済活動に干渉せず、市場の働きに任せるという従来の政策から、国が指導する政策に転換している。国の政策として特定の分野への税制優遇、補助金などの保護を行い、自国優先に傾いている。
   
 TIME  2023年2月13日/2月20日 “Sleepwalking into a less secure future”
記事中のIMF(国際通貨基金)専務理事であるクリスタリナ・ゲオルギエバさんの言葉を引用する。「ここ数年、世界中で内向きの政策と貿易の緊張が高まっている。今、地政学的な分断は、新しい冷たい戦争という幽霊を招いている。冷たい戦争になると生産性が犠牲となり、多くのお金を失うことになる」
 
 TIME  2022年4月25日/5月2日 “Mr. Everything”
大谷翔平選手がタイム誌の表紙を飾った。彼のピッチャーとバッターの二刀流としての話題性、選手としての能力、成績が詳しく書かれている。一塁へフォアボールで向かう時、ボールボーイに丁寧にバットを手渡し、またグランドのゴミを拾う等、彼の明るさ、人を思いやる気持ち、野球への情熱が紹介されている。野球を盛り上げる救世主といった最高の誉め言葉が使われている。


 英語ニュースを読んで最近思うこと
 
 2022年の日本の出生者数は、80万人以下で一時の半分程度です。人口が少なくなることは、必ずしも悪いわけではありませんが、鎖国をしていた江戸時代の3000万人というわけにはいきません。ある程度の人口を維持する為には、食料やエネルギー源など必要な資源は輸入に頼らざるを得ません。また地球温暖化による水害などの災害以上に、もともと地震、台風、火山など自然災害のリスクが高い国土です。地形的にも再生可能エネルギーに大きく転換するのも難しい。
 
 この様に、基本的なコストが高い日本を維持する為には交易で稼ぐしかない。世界が分断化の方向に向かっているが、他国と協調関係を保ち、モノやカネが自由に行き来できる環境が常に必要です。これまで日本及び日本人は世界から比較的好感度で見られていました。できるだけ世界に貢献しながらどの国とも、共存共栄で行くことを願っています。

掲示板

市岡高校OB・OG写真展に行ってきました。

7組  張 志朗
 市岡高校OB・OG写真展が、2月16日から21日まで南森町のMAGアートギャラリで開かれたのですが、17日に同窓生を誘って行ってきました。この日は晴天、おまけに真冬とは思えない暖かさです。12期同窓生は、古藤知代子さん、松田修蔵君、上野裕通君、田端建機君、川村浩一君、塩野憲次君、末廣訂君、八島平玐君そして私(張志朗)の計9名が参加しました。
 「コロナの流行で長~い活動休止を終え、久しぶりに作品展を行います。長いブランクにも腕はなまらず、口はさらに磨きがかかり、新しいメンバーを迎えての展示です。」と案内状にありました。その嬉しさと意気込みに溢れ、久しぶりの再会を喜ぶ和気藹々の写真展です。
 作品出展者は14名、一人二作品で、展示写真総数は28点です。
 勿論共に12期で学んだ高見政博君の作品も出展されていました。高見君の作品は「蝶と花」(撮影地:奈良 法起寺界隈)と「墨絵 桜」(奈良 天理ダム)です。添付写真をご 覧ください。

蝶に合わせたピントはばっちり、滲むよう花との取り合わせが絶妙です。ダム湖の水面に写る桜を「薄墨」と切り取ったのも私好みでうれしくなりました。
 今回もそうですが、皆さんの写真に掛ける想いと美的感覚は衰えを知りませんね。また撮影地も北は北海道の美瑛から南は鹿児島の指宿まで全国各地に及び、季節も厳冬期から春爛漫と春夏秋冬の四季折々です。テーマーも「初恋」と題した桜から「深海人」と題したコラージュまで実に多様です。出展者の内、大先輩は高校7期の山田美代子さんです。大ベテランで今回も若々しい感性と巧みな美的構成力、表現技術あふれる作品に驚かされました。
 作品全体からコロナ禍による行動制限や閉塞感を乗り越える解放感と喜びが感じられ、嬉しくなりました。一緒に行った皆さんも熱心に鑑賞し、当番の出展者に質問し、気に入った作品について語りあっていました。
 
 作品展鑑賞の後、9人の同窓生で大阪天満宮の梅まつりを見学しました。天満宮は梅の名所ですが、開花はこれからと言った所でした。その後、昼食をとり、お茶しました。
 皆さんお元気で、久しぶりの再会。お喋りを沢山しました。みなは書けませんが、福島区歴史研究会の会長の末廣君が落語家の桂文枝師匠と会ってお話をしたそうで、新作落語を作るにあたって福島の歴史やエピソードを聞きたいとのことだったそうです。あらためて詳しく聞いてみたいと思っています。
 私個人的にも久しぶりの大阪市内歩きでした。コロナ禍と加齢による“引きこもり”が日常でしたが、やはり外出は大切ですね。人に触れ、ものに触れ、都市とその空気に触れると新しい刺激と元気が出るようです。
 

市岡高校吹奏楽部OB・OGバンド第13回定期演奏会


 2月26日、大阪府立市岡高等学校吹奏楽部OB・OGバンドの13回定期演奏会が阿倍野区民センター大ホールで開催されました。新型コロナウイルス感染症拡大防止対策に留意しての3年ぶりの開催で、開演は午後2時からです。
 案内のハガキを貰い、古藤千代子さんを誘って行ってきました。
 会場に着くまではコロナ禍の影響を考えて、さてどのくらいの人がおいでになるのか、少し心配していましたが、定員644名の会場はほぼ満席、大盛況でした。ほとんどが市岡にゆかりのある方だと思いますが、高齢者から幼子まで幅広い方々です。
 プログラムは二部に分かれており、第一部はオリジナルステージ、第二部はポップステージ~市岡OBプレゼンツ☆紅白歌合戦~となっていました。

 第一部は「南風のマーチ」(作曲:渡口公康)の軽快でさわやかなメロディから始まりました。赤塚弘一さん(高校42期)の指揮による総勢60名の大バンドです。舞台一杯に広がり演奏する姿は、それだけで大迫力。さらにみがかれたハーモニーに圧倒され大感激です。何よりバンドの皆さんのこの日にかける意気込みや喜びが演奏を通して直に伝わります。
 演奏は「さくらのうた」(作曲:福田洋介)、「シンフォニック・マンボ No5」(編曲:宮川彬良)、「ロマネスク」(作曲:J.スウェアリンジェン)、「その時見た夢」(作曲:清水大輔)と続き、第一部が終わりました。
 休憩をはさんで第二部です。~市岡OBプレゼンツ~の名の通り、楽しさ一杯のプログラムです。「恋愛レボリューション21(モーニング娘)」(作曲:つんく 編曲:小島里美)、「ヒットメドレー(SMAP)」(編曲:金山徹)、「夜桜お七」(作曲:三木たかし 編曲:小島里美)、「Everything(MISIA)」(作曲:松本俊明 編曲:小島里美)、{Tribute to GO HIROMI(郷ひろみ)}(編曲:福田洋介)の5曲です。
 よく耳にするメロディでアップテンポに手拍子が起こり、や気持ちが浮き立ちます。前の方の座席で曲に併せて“指揮”するごとく手を振る人や、調子を合わせダンスする幼子など盛り上がりは最高でした。
 会場で松田修蔵君にバッタリお会いました。公演後のメールに「家内と聴きに来ていました。OBバンドは楽しかったです。満員でびっくりしました」とありました。松田君のお孫さんが市岡高校で吹奏楽部員だそうです。
 個人的に残念だったのは、18期のトロンボーン高橋正憲さんの姿が舞台になかったことです。今回は所用で不参加ですが、活動は続けているとお聞きしました。次回は是非、その雄姿を舞台で拝見したいものです。

ひろばリバイバル

私、今、ヨルダンのアカバです

5組 段中 文子

 12期の皆様、毎日いかがお過ごしですか

 私はこの夏、台風が近づいていた7月19日に横浜を出航し、10月27日まで、101日間の地球一周の船旅にでました。船はピ-スボ-トのオセアニック号38,772トンです。

 豪華客船ではないので船賃も安く、船室は相部屋の一人旅です。西回りでベトナムから始まり、スエズ運河を通り、北欧、ロシアより大西洋、パナマ運河を抜けて横浜に戻るまで21カ国に寄港します。

 乗船者は1歳から92歳まで800人程で、男女 4:6位の構成です。他の客船と異なり、ポスタ-貼りなどのバイトで安く乗船出来る若者が多いのもこの船ならです。




サリーを着て船内のファッションショーに出演

 乗船前は「100日もの長旅なんて」と皆に言われたのに、レストランで同席したりして知り合った人の話を聞いているとリピ-タ-が多くて、「飛鳥」やその他の船に乗ったという人がいっぱいいるのには驚いてしまいました。

 年輩者も本当にお元気で積極的なので、この調子ならまだ当分私も大丈夫かなと安心したりしています。

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「12期の広場」2023新春号のラインアップ


 明けましておめでとうございます。今年も「12期の広場」を宜しくお願い申し上げます。
 
 「12期の広場」の内容を簡略化して初めての新春号です。上の年賀状は松田修蔵君(6組)が描いてくれました。暖かく嬉しい絵手紙です。また「巻頭コラム」として上野裕通君が「新年を迎えて」を書いてくれています。その中にあるように、たしかに幼い頃、お正月の男の子は、高下駄と黒足袋が多かったようです。弟と撮った写真がでてきました。晴れ着は黒足袋に高下駄の黒い学生服姿。小学校1年生の弟は長すぎる袖と裾を折り返し、そこだけが裏地の白の輪っかがはまったようになっていて笑えます。貧しい時代でしたが、キラキラとまぶしい正月写真です。
 あれから70余年、また新しい年がスタートするのですね。新春を寿ぎ、新年に思いをはせるのが、ならいでしょうが、どうも「めでたさも中くらゐなりおらが春」(小林一茶)が正直なところで、「新年の計」にいたっては心もとないかぎりです。
 とは言え、ささやかな迎春準備を終えてのお正月の設えや、家族そろっての正月膳と賀詞交換はやはり嬉しくもあり、目出度くもあります。ややこしく不安ばかりの世情とつのる老いに向き合いながら、月並みですが、気持ちあらたに健康に、この1年を過ごせればと願っています。
 
 同窓生の皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申しあげます。
 
 昨年の12月に同窓生のご家族から喪中はがきが届きました。1組の上原(大川)澄子さん、4組の藤田勝利君、6組の佐藤裕久君が永眠されました。ここに哀悼の誠を込めて、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
 上原さん、藤田君、佐藤君の皆さんは「12期の広場」に複数回投稿して頂いています。本来ならば故人を偲び、投稿文すべてを本号で掲載すべきところですが、紙幅の関係上、上原さんの2011年4月号の「市岡12期HPをみて」を、“ひろばリバイバル”として再掲いたします。
 藤田君と佐藤君の投稿文は、「12期バックナンバー一覧」から閲覧可能ですのでご覧ください。
藤田君の投稿
 
2015年5月号    「韓国語の入門コースを終えて」
佐藤君の投稿
 
2011年1月号    「米国アラバマ在住の友からのメール」
3月号    「めぐりあわせ?~仙台に住んで50年~」
4月号    「3.11東日本大震災体験の二伸」
7月号    「高田松原の“希望の一本松”」
9月号    「我が失敗と補欠人生:その後」
2012年10月号    「夏の思い出」

 さて「12期の広場」2023新春号のラインアップは以下の通りです。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「新年を迎えて」 7組 上野 裕通
  2. 掲示板
    ・『「小出楢重と大大阪時代」の此花
     歴史研究会例会に行ってきました』
    7組 張 志朗
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「市岡12期HPをみて」(2011年4月号から) 1組 上原(旧姓 大川)澄子
以 上

巻頭コラム

新年を迎えて

7組 上野裕通
 
 新年明けましておめでとうございます。
2022年夏
山形県・酒田駅にて

 1年が経つのは早いですね。80歳、傘寿になったこの1年間は、コロナ感染防止のための外出自粛要請もあり、自宅で過ごす単調な日々が多く、日が経つのが早く感じるのかもしれません。
 私は、早生まれで1月4日に満81歳の誕生日を迎えます。昔、小学生の頃、お正月になれば、新しい黒い足袋を履き、白い鼻緒の高下駄を履いて友達と遊びに出掛けました。野田恵比寿神社へ行くのが楽しみでした。神社に行くまでの通りに様々なお店が出ていて、色々と興味をそそられました。恵比寿神社へのお参りは、付録であったように思えます。
 元旦は、父親を中心に男兄弟3人の家族5人が座卓の前に正座し、父親の「おめでとうございます」の発声で味噌雑煮や赤飯を頂きました。煮しめは母の美味しい味、小さい頃は甘い醤油味の「ごまめ」とツルツルした舌ざわりの「こいも」が大好きでした。懐かしい思い出です。
 今年のわが家のお正月の膳は、すましのお雑煮、赤飯と取り寄せたお正月用の折箱です。子どもの頃と違って、座卓がテーブルに代わり椅子に全員座っています。私は、ここ4~5年、大晦日に、昔、母が炊いてくれた煮しめを自分で炊くようになりました。里芋、人参、蒟蒻、牛蒡、大根、蓮根、椎茸、きぬさや、厚揚げなど自分で調理し、味付けは母の味を思い出して工夫しています。娘家族がここ10年間、同居しているので、元旦は、娘家族4人と私ども夫婦の6人で、私の「おめでとう」の発声で祝います。私が炊いた「煮しめ」は、年々みんなよく食べるようになり、心ひそかに喜んでいます。
 新しい年を迎えて想うことの一つは、知り合いや友達のことです。私は今年も健康な体で元気に新年を迎えることができ感謝していますが、脊柱管狭窄症で外出する事を億劫がっていた小学生時代の友はどうしているだろうか。大学時代、三ノ宮界隈をよく飲み歩いた友が近頃アルコールは少ししか飲めなくなったと衰えを語っていた事を思い出したりしています。この友達は、頭の髪の毛が一本もなくなり、お坊さんのように様変わりしています。歳を重ねることにより、肉体的な変化もありましょうが、心の持ち方にも変化が現れますね。
 古稀を迎えるまでは、家事労働は言われたらするぐらいでしたが、最近は、進んでするようになりました。でも、まだ家内の「5分の1」位かな?
 仕事を辞めて家に終日いるようになってからは、自分にできることはないかと仕事を見つけ出し、毎日の日課にしています。庭の植木の水遣り、時々の草取りから始まり、今では、掃除機を使う事、洗濯物を取り入れてきちんとたたむ事、風呂洗いとお湯はりをする事などしています。永年、家内がしてきたんだなあと思うと、感謝の気持が更にもう仕事はないかと探させます。
 この年まで生きながらえてきたのも、父母のお陰であり、家族のお陰です。また近隣の皆様、職場で共に過ごした皆様との出会いがあったお陰です。60歳まで小学校教員として勤め、定年退職後は、大阪市教育振興公社に9年間勤め、69歳から75歳まで6年間、住まいする自治会の会長を務めました。
自治会活動では、子どもの頃、向う三軒両隣みんな仲良かったことを思い出し、人とのつながりを広め、深めることが大切だと考えました。そこで、ふれあいサロン、ひとり暮らし高齢者交流会などを立ち上げると共に、趣味の会として、ゴルフ同好会、カラオケ同好会などを立ち上げました。今では、それぞれの活動が自主運営され、人の輪が広がり、親密度が増していることに嬉しさを感じています。
 81歳からはまた新しい人生の始まりだと捉え、体の自由がきく間に色々なところに出かけようと思っています。友達に会いに行くもよし、素晴らしい景色を見に行くのもよし、今しか出来ないことをして楽しもうと思っています。
 私の趣味の一つに、青春18切符で鉄道旅をすることがあります。小学校の同級生三人と行くのですが、その内の一人が老人ホームに入ってしまい、去年の夏は東北への二人旅となりました。今年の夏は、北海道へまた行こうという事で、計画を立てる段階から楽しみが始まります。いつまで続けられるかですが、毎日5000歩を歩き、規則正しい生活をして米寿まで続けられればよいと思っています。
12期の同級生は新年をどのように過ごされるのだろう?喜寿の同窓会を最後に同窓会は開催されなくなったので少し寂しいですね。また会える日が訪れます事を楽しみにしています。米寿に同窓会を開きたいですね。お元気で!

掲示板

「小出楢重と大大阪時代」の此花歴史研究会例会に行ってきました

                      
7組  張 志朗
 11月27日、此花区民ホール(千鳥橋)で午後2時から此花歴史研究会の例会–「小出楢重と大大阪時代(その1)」と題した公開講座がありました。講師は同会々員でもある圓尾博一君(6組)です。
 ご存知の通り、小出楢重は日本の近代絵画の巨匠で、旧制市岡中学校の第1期生の大先輩です。
 自宅を出る時「小出楢重先輩の公開講座に行く」と娘に話すと「すごい」と言われ鼻高々、おまけに千鳥橋は生まれ育った所でもあり高揚した気分で会場に向かいました。同窓生の酒井八郎、松田修蔵、上野裕通、伊東慎一郎君と北浦(小寺)昌子、古藤知代子、鈴木(酒井)政子さんの7名が来ていました。
 参加者は研究会会員を含めて40名。講座は準備された資料を手元に、真摯で和やかな雰囲気で終始しました。圓尾君の講演は、同業の巨匠の画業にふれることの難しさがあったのではと思いましたが、抑えて外さず、深くて親しみやすく、多面的でユーモアたっぷりの話しぶりでした。小出楢重は大阪の島之内育ちです。それに配慮してか、はたまた圓尾君の人柄か、小出楢重の言葉をなぞった時の彼の大阪弁が、たおやかで懐かしいイントネーションで聞きとれました。
 講演は大好評。「小出楢重の年譜」とエピソード、その画業と随筆集、市岡中学の同窓生、重要文化財「Nの家族」二科展特選「少女於梅之像」について、大大阪への変貌など多岐にわたる内容で、2時間があっという間でした。
 そのうちの幾つかを下に書きます。
 小出楢重の同窓生には、市岡中学校第1期卒業生(明治39年卒業)の石濱純太郎(東洋史学者)、信時潔(音楽家・チェロ奏者)がおられ第2期卒業生に津田勝五郎(鋼材商)がおられます。
 小出楢重が東京美術学校卒業後、画業に専念することを諦めかけた時、ばったり出会った石濱純太郎に「先生になんかなったらあかん。僕らで何とかするからやめとけ」と説得されます。その後、石濱は友人の画家の桑田信子、栗山清太郎を誘い「三人展」を企画します。そして小出楢重の出品作品40点に信時潔、津田勝五郎などを動員して“売約済み”の赤札を貼り回る一芝居を打って、楢重の母を安心させました。その結果、絵画制作を続けられるようになったそうです。この石濱との出会いと市岡同窓生の絆が画家小出楢重の誕生の起点であったようです。
 次に重要文化財「Nの家族」についてです。この作品には「謎が多いと思っている」としながら、楢重、妻–重子と長男の構図や異なる三人の視線、ホルベインの画集と静物の配置、背景の肖像画と壁の材質などについて話してくれました。言われて見ると、確かにミステリアスです。この絵に対する見方の幅が広がります。
 更に圓尾君は、小出楢重の数学との付き合いの悪さに触れた次の文章を紹介してくれました。誰がやっても『5+5が10で・・・10とならぬ時には落第するのだからつまらない。羽左衛門がやると100になったり、延若がやると55となり、天勝がやると消え失せたりするような事を大いに面白がる性分なのである』。 デジタルとその整合性だけが大手をふるような現代の一面を的確に射抜いているようで痛快です。
 資料の「年譜」は、明治から太平洋戦争開戦までの主要史実の抜き書き付きです。歴史研究会の例会ですから当然のことかもしれません。それによると日清戦争、日露戦争、日韓併合、大逆事件、第一次世界大戦、ロシア革命、治安維持法成立等々、小出楢重の画業は大正・昭和の激動期と重なります。この視点に、私は目から鱗が落ちる想いで、「枯れ木のある風景」の送電線上に腰かけた小出楢重の姿とその心象風景に少し近づけたように感じます。
 講座が終わったあと、参加した同窓生8人(酒井八郎、松田修蔵、上野裕通、伊東慎一郎、北浦昌子、古藤知和子、酒井政子)で軽く食事をしました。主人公の圓尾君は所用のため残念ながら同席できませんでした。
 コロナ禍の中、久しぶりの得難い会食です。皆さんそれぞれお元気で、意気軒高、嬉しさいっぱいでした。伊東君が足の具合が悪いのに遠路、杖をついて来られたのには、感激です。
 亡くなられた同窓生の話をはじめ、圓尾君の名講演の感想や健康維持のためのラジオ体操の話、リハビリの話、仕事の話、趣味の話など、話題はつきません。こうして楽しく話し、笑いころげることが出来る幸せ、市岡があってのことと再認識しました。健康で再会することを約束して別れました。

ひろばリバイバル

 ラインアップに書きましたように、上原(大川)澄子さんの投稿を再掲します。訃報をメールで知らせた所、「勉学にテニスにと、ピカ一に輝いていて眩しすぎる存在でしたね」、「よく笑う女の子でしたね」などの返信がありました。故人を偲んでお読みください。
― HP委員 記 ―
 

市岡12期HPを見て


投稿 上原澄子(旧姓大川)(1組)

 お彼岸も過ぎて桜の蕾もふくらんできました。 市岡12期の皆様にはお変わりなくお過ごしですか。3月11日の東日本大震災はまるで悪夢のようで胸が痛みます。東京電力管内の沼津は2日おき位に計画停電があり3時間ほど停電します。

 先日HPの上野裕通さんの「市岡高等学校12期同窓会を振り返る」を読み、私も北浦昌子さんとの想い出を少し話したくなりました。

 小学校・中学校・高校と一緒だった昌子さんとは家も近かったので「一緒に勉強する」という口実でよくお互いの家を行き来していました。昌子さんの亡きお母様の詠まれた歌集を見せてもらって、涙したことが思い出されます。

 私の家では細巻寿司やサンドイッチを作ったりして楽しい時間を過ごしました。
今年の年賀状の歌は「うさぎさん目と耳貸してこの一年よく見よく聴くじじばば二人」でした。

 昌子さん元気でまた会いましょう。 

 市岡の同期会は70才近い現在の生活をちょっとタイムスリップさせてくれ、元気で頑張っていた18才の頃に戻してくれます。

 高校時代は同じクラスになったことも、口をきいたこともない友とも親しく話をすることが出来ます。
「東大湖の水受けて…」とみんなで校歌を歌う時、気持ちが一緒になる様な気がします。

 そんな友達の中に8組の村崎裕昭さん、山田正敏さんがいます。

 市岡東京12期会の小旅行で箱根に行った折、自己紹介で村崎さんが「絵手紙を始めました。」と挨拶され、20数年前から水墨画の絵手紙を書いていた私は思わず「私も描いています」と言いました。それがきっかけで絵手紙のやりとりをするようになりました。描き方は違うのですが、村崎さんの絵手紙の進歩は素晴らしかったです。

 それでは、二人の絵を見て頂きたいと思います。

 まず私の作風をご覧になってください。(画像はクリックで拡大します)

 
 

 次に村崎裕昭さんの作品です。

   

 そして、私が村崎さんの絵に影響されて描いてみた作品です。

 また、陶芸をされている山田正敏さんの造られた大皿に「あけび」を描きました。

 市岡は50数年過ぎた今でもよい想い出をつくってくれています。

 最後に懐かしい写真を一枚(ご存知の母校中庭で)


「12期の広場」2022秋号のラインアップ

 突然のお知らせですが、清水誠治郎君がお亡くなりになりました。
 9月7日に外出先で倒れ救急搬送されて入院。集中治療を受けておられましたが、薬石の効無く、11日朝、永眠されました。
 ご存知のように清水誠治郎君は3年3組の同窓会幹事で、同窓会活動ではクラス幹事の役割にとどまらず、12期全体の中心幹事のお一人として大活躍してくださいました。その思い出は語りつくせません。同窓会行事の企画推進やそれへの積極参加・協力は勿論のこと、同窓会名簿原案の作成やその他の事務作業、同窓会の司会、度重なる「12期の広場」への投稿など、実に多くのご苦労をお掛けしました。
 ここに哀悼の誠を込めて、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
  故人を偲び本号では、2016年1月号に投稿された「今、物凄く幸せです」を“ひろばリバイバル”として掲載いたします。

 「12期の広場」2022秋号のラインアップは以下の通りです。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「ぶらりと福知山」 7組 張 志朗
  2. 掲示板
    ・「コロナ第七波の中、三年ぶりの夏祭り
     海老江八坂神社の夏祭りが盛大に実施」
    8組 末廣 訂
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「今、物凄く幸せです。」 (2016年1月号から) 3組 清水誠治郎
以 上

巻頭コラム

ぶらりと福知山

7組  張 志朗

 ぶらり福知山に行って来ました。
 こう書きだせば、"気楽な小旅行"となるのですが、実のところは耐えがたい猛暑とコロナ禍による巣ごもり、さらに思い通りにならない体調に"汗まみれの引きこもり老人"状態になっている筆者のセンチメンタルなフラフラ歩きの旅であったようです。
 日帰りの遠出は数年ぶり、勿論、密を避け、マスクを持ってです。8月の末、晴と気温32度以下の天気予報を確認して、JR福知山線の篠山口行の区間快速に乗りました。
 ご存知のように福知山線は東海道線の尼崎より北上し、篠山口を経て福知山で山陰線に接続します。
 篠山口で二両連結列車のワンマンカーに乗り換えです。若く、かわいい女性運転手です。「福知山まではディーゼル車ですか」と聞いて笑われました。以前から電化されているそうです。
 福知山までは車窓の左右になだらかな山を見ながら、峡谷沿いに、また狭い盆地にある田畑を縫うようして走ります。単線で、電車が木々すれすれの場所も少なくありません。空の青、白い雲、木々の緑、渓流の水しぶきが美しく、心が徐々に開いて行きます。コンバインが停まり半数位の田んぼは、稲刈りを終えてすでに初秋の風景です。2時間ほどで福知山駅に到着しました。

 福知山は京都府の北西部、人口8万人弱の中核都市。丹波高地と丹後山地に囲まれた盆地にあり、北近畿の交通の要衝です。ここから和田山、豊岡を経て城崎へ(山陰線下り)、鬼で有名な大江山を越えて宮津、天橋立へ(京都丹後鉄道)、綾部を経て舞鶴、小浜へ(舞鶴・小浜線)、また亀岡を経て京都へ(山陰線上り)いたるターミナル駅です。通過は何回もし、小休止は1~2度していましたが、ぶらり歩きは初めてです。皆さん、特に関西在住の方には、観光やスキーや登山などでおなじみの地域であることでしょう。
 とりあえずマップ片手に駅周辺をあるきました。駅の南側広場にレールを使った東屋と転車台に乗せられたC11形式40号の蒸気機関車がありました。レールは明治30年から32年に
当時の"阪鶴鉄道"が米国のカーネギー社とイリノイ社に特注したものだそうです。また蒸気機関車は昭和8年の川崎車輛株式会社製で小型機関車としては力が強く、短区間運転用として重宝され昭和19年から31年まで福知山線を走っていたそうです。転車台は機関車の方向転換や扇形車庫への入出庫を行う設備で、昭和47年まで稼働したのち、福知山駅高架化事業により撤去されたそうです。いずれも「鉄道のまち福知山」のシンボルとして保存展示されています。
 雪深い北近畿の鉄道機関区で、ラッセル車と共にもうもうと煙をはいていた雄姿が、思い浮かびます。特に私の家内の従兄が、この機関区で蒸気機関車の機関士であっただけに、思い入れもひとしおです。
 福知山は明智光秀ゆかりの地、歴史の深い城下町でもあります。
 NHKの大河ドラマ"麒麟が来る"が放送されて一躍脚光を浴びましたね。幟(のぼり)やイラストや桔梗紋(明智家の家紋)が目につきます。それらを案内するマップ通り見て歩くことはできません。なにしろこちらは、81歳を超えた老体、真昼間(まっぴるま)の炎天下の徒歩に息絶え絶えです。つばの広い網目帽子と濡れタオル、ペットボトルのお茶を頼りに、とりあえず旧城下町と思われる地域をめぐることにしました。

 懐かしい趣の駅正面通り商店街を直進して左折、アオイ通りを経て、まずは地元の人に「ごりょうさん」と親しまれる御霊神社です。由緒書きに祭神は宇賀御霊大神、配神は日向守光秀とあり、さらに「宝永元年(1704年)朽木植昌候の代 光秀の霊を併せ祀り」とありました。光秀が没したのが天正10年(1582年)ですから122年経ってようやく"配神"として祀られたのですね。
 本殿を持つ境内は高くなった丘の上にありますが、そこに頼山陽の「本能寺」と題した漢詩の石碑があります。近年建てられたものと見受けましたが、それをどう読み解くか、私にはよくわかりません。ただ詩文中の「老いの坂 西に去れば備中の道 鞭を揚げて東を指せば天なお早し」は、岐路に立たされた明智光秀に迫ります。(偶然ですが、8月初めに藤沢周平著の「逆軍の旗」を読みました。この詩文との符合に驚きました)
 この境内に日本で唯一の堤防神社があり、境内から参道を下りた広場に、昭和28年9月25日の台風13号による洪水時の"浸水位20.69m"を示す表示塔がありました。写真ではその高さが実感できませんが、側に立って見上げると私の背丈の4倍近くありそうです。浸水位20.69mは尋常ではありません。おそらく周辺の木造民家の屋根を越える高さまで水がきたでしょう。福知山は古い時代から、すぐ側を流れる由良川の豊かな恵みを受けると同時に、その氾濫による大水害に苦しめられ、不撓不屈に生きてきた町です。
 それを示すように、この神社の近くに治水記念館があります。下柳町の旧街道(山陰道)に面した二階建て民家がそれです。残念ながら休館の札がかかっていて入れませんでした。(休館日が火曜日であることを確認していたのですが・・・)資料によると二階に避難用の船とそれを吊り下げる滑車などが展示されているそうで、水害時の人々の苦闘と知恵を見たかったのに残念無念です。
 江戸期、由良川の舟運は隆盛していたようです。その拠点であった下船渡口(げせんどくち)近くから由良川堤防を歩き、福知山城に向かいました。すぐに蛇が端御藪(じゃがはなおやぶ)=明智藪が見えます。
これは由良川に土師川が合流する地点に明智光秀が築いた堤防(高さ2.0m、長さ1.5km)で、写真のように立派に育ち残っています。
 福知山城は天正7年(1579年)ころに明智光秀によって築城され明治維新まで存在しました。明治6年廃城令により石垣と一部を残して失われたのですが、昭和に入り市民による「瓦一枚運
動」などもあり、昭和61年(1986年)に再建され現在に至っています。由良川に伸びる丘陵にある「平山城」で、こじんまりとしていますが、美しい城です。時間がなくて天守閣の中には入りませんでした。石垣は400年の歳月に耐えてきたもので、多くの五輪塔などの石造物が「転用石」として使用されているのが特徴だそうです。
 天守台の広場から、はるけく福知山市街地が見下ろせます。逆に言えば市街地から福知山城が仰ぎ見えます。満々と水を湛えた由良川は230年の間に40回以上も決壊を繰り返したと言い、そのたびに人々は不屈の心意気で町を復興しました。そんな人々に光秀が築城した福知山城はどう見えたのでしょう。「瓦一枚運動」に寄せる人々の思いが伝わってくるようです。
 夕方、福知山を後にしました。滞在は5時間弱。見られなかった所や。行けなかった所ばかりで心残りですが、次回の楽しみとします。
 帰りは大阪行き"丹波路快速"一本で楽ちん。暮れなずむ里山の家々を眺めながら無事帰ってきました。
 追記:山とスキー好きの友がこの拙文を読んで「福知山線路線模式図」を作ってくれました。ご覧ください。

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コロナ第七波の中、三年ぶりの夏祭り
海老江八坂神社の夏祭りが盛大に実施

8組 末廣 訂
 
 今年・令和四年の夏は三年ぶりに地元海老江八坂神社の夏祭りが行われ盛大の内に終えることができた。
 京都の祇園祭りでは,鷹(たか)山鉾(やまぼこ)が百九十六年ぶりに新調され大きな話題となり、また大阪の天神祭りでも地車(だし)が新しくなり、久しぶりにテレビで放映されて話題になった。
 海老江八坂神社の祭りでは、祭りの華である地車・太鼓のパレードや夜の宮入りが大勢の見学者で囲まれている様子がユーチューブの動画で発信されている。
 祭り好きなものにとって,待ちに待った祭りであったが、やはり丸二年間もの空白とコロナ禍での開催は、当事者には目に見えない努力と苦労があった。
 
*海老江八坂神社 祭礼行事の移り変わり 
 海老江には、枕太鼓と地車三基がある。一つの村で四台の祭台があるのは大変珍しい。祭の盛んな岸和田、平野でも旧村や町単位で地車が一台しかないが、海老江は東西南北四町あり、それぞれが神社の庫(くら)に納庫している。
 これほど盛大に行われている祭りだが、祭りに関する書いたものが少ない。純農村であった海老江は五穀豊穣を祈って、元々秋祭りが中心であったと考えられるが、疫病予防を祈願する京都の八坂神社と同じ夏の大祭に移り現在に至っている(明治初めに牛頭(ごず)天王社(てんのうしゃ)から八坂神社に改名されている)東西南北四町の世話人の組織はおおむねよく似ており、祭礼は町総代を中心に各役割がある。各町によって法被(はっぴ)、浴衣、鉢巻きの色が決まっている。北之町は白色、東は黄色、南は桃色、西は水色、である。
 地車の囃子や手打ちの言葉は天神まつりの影響がある。「打ちましょう」で始まる手打ちは四町共通だが、北之町だけが最後に「ああ、めでたいなー」が入り、祝儀をいただいた折の手打ちも同じである。
 
*祭りの事前準備とスケジュール
 私が元老を務めている北之町(枕太鼓)の例年の行事進行スケジュールから簡単に紹介する。
 各四町にはほぼ同じ役職がある。太鼓の場合の運営(組織)委員は、町総代始め、会計、会計監査、元老、相談役、中老筆頭、安全委員、庶務委員、児童委員、進行委員、連絡委員、実行委員(若中)、等の担当がある。
 六月に入ると早速祭りの準備が始まる。例えば、六月初旬には現役の役員で実務の打合せとして、全体の役割、スケジュール調整、と巡行等の検討が始まる。一方では福島警察署への巡行コースの申請や四町の打ち合わせ等があり、また六月半ばには元老・相談役と現役役員とで全体の中身の確認会議があり、末日までに、「総会」が開かれる。  
 総会には全祭りの関係者(約百人)が集まり、総代や担当役員から神社全体の四町打合せ事項、太鼓の巡行コースの地図と時刻の確認、等々きめ細かい説明がある。質疑応答の後、直会(なおらい)に入る。
 七月の第一日曜日には、太鼓・地車の洗車、神社内外にのぼり・竹矢来(たけやらい)設置、そして各町それぞれに提灯を建て、主要道路には企業名が入った寄付による御神燈提灯が設置される。
 第二週目から太鼓の囃子の練習が始まる。そして各町は祝儀集めの「趣意書」を事前に各家庭や企業に配り了承を得る。太鼓の練習は児童四~六年生が中心で、毎夕六時から始まる。十六日は祭り用の食事や小休憩や接待場所に氷・飲みもの等を準備し、夕方は太鼓の飾りつけをする。
 今年は七月十七日(宵宮)と十八日(本宮)が日・祝で、実質十五日の金曜日に企業中心に祝儀集めが始まった。
 十七日に宵宮の行事が始まる。祭礼関係者が神社に朝九時に集まり、お祓いを受けた後、早速各町別々に手分けして各家庭に梵天を持ってお祓いし手打ちして祝儀をいただく。夕方五時から神社にて四町の競演があり、その後、夜のパレードに出立する。パレードは自町を二時間ほど巡行して八時ごろから、四町揃ってパレードを行い、神社に戻り納庫する。
 十八日の本宮行事は早朝から太鼓・地車の巡行が始まる。朝、八時に全員がお祓いを受け、神社を出立する。太鼓の場合、朝の食事を副総代宅にて、其の後は自町中心に巡行をし、三時頃から四町揃って午後のパレードを終える。夕方は総代宅で夕食を済ませ夜の宮入りに入る。夜七時頃、当宅前で太鼓の台車を取り外し肩合わせ後、太鼓を担いで宮入りに入る。今年は三年ぶりの宮入りで若中も力が入り、立派な宮入りであった。
 本宮の翌日は、朝から祭りの後片づけや祝儀の花開きがあり、午後はねぎらいの直会で終了する。北之町では祝儀をいただいた約八百件(内二千円以上)を金額順にリストアップして後日印刷し公表している。
 
*コロナの中の祭りと苦労 
 七月に入り、コロナが第七波になり、児童の感染者も増してきた。 この二年間、特に六年生の子供は四・五年生時に祭りが中止となり、今年が太鼓をたたく最後のチャンスであった。練習日の初日から待ちに待った練習が始まり、約四〇名の子供で一〇組ができ、一週間の練習が始まった。祭り目前にコロナ感染で六年生の学級閉鎖があり、半分以上が途中で参加できなくなった。
 三年目になってやっと晴れの姿をと頑張っていた六年生の気持ちは親子ともども残念であったと思う。半面、残った五年、四年生のたたき手たちは本番も少人数で二日間よく頑張ってくれた。」
 実は私の孫も、都島区から二人(五年と六年生)毎晩練習に来ていたが、六年生の孫が十七の前日の晩になって、熱が出て急遽自宅に戻し、本番は出られず大変残念がっていた。
 また、一方で祭りの一か月前に、北之町の一番長老(九四歳)の元老が亡くなられた。本来、北之町では役員が亡くなると、出棺の折は祭関係者全員で手打ちをして見送ることになっているが、コロナ禍でそれも出来なかった。そんな中、ある役員の発案で太鼓巡行の折、長老宅前で太鼓を差し上げしようということになり、私も約三〇年ぶりに長老ご家族の前で太鼓を担ぎ弔うことができた。
 後で他町の役員の話では、祭後、コロナに罹ったという祭り関係者が続出したそうで、今年の祭礼行事が大変な祭りであったことが分かった。
 パソコンやスマホを持っている方は一度「八坂神社夏祭り」を検索してユーチュウブをご覧ください。
(写真は亡くなった長老宅前で三〇年ぶりに太鼓を担いだ当年八一歳の私です)