12期の広場

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ひろばリバイバル

「The あの頃」 ジェーン台風の写真

6組  武田 博

 今年、「福島区災害展」の開催にあわせて町内の方々から災害写真を集める機会がありました。

 その時に、私が親しくしていた方から頂いたのが、このジェーン台風時の写真です。

 私はその時は吉野小学校の3年生でした。その日は日曜日で学校は休みでした。2階の洗濯物を干す場所に通じる4畳半の部屋に3人の兄弟で震えながら外の風雨のビュービューと唸る音を聞きながら眺めていました。

現在の北港通りの写真です。左に「江成町」の住居表示が見えます。


 
左の写真でさらに西側を撮ったものです。玄関扉を横板で打ち付けていますが、如何に風が強かったかを示しています。
ジェ-ン台風の時は瓦が紙のようにペラペラと飛びガラス窓を壊しました。

 すると、大通り(今の北港通)の方から大きな声で「水が来たぞー」とさけびながら走って来た大人が、2人で必死に知らせてくれた。何の事かもわからず、思い切り走って東の方へ2人の後を追いかけ福島警察署に入ったのでが、すでに泥水はくるぶしあたりまできていました。警察署の2階の柔道場に上がって外を見ると、電線が切れて大きく振れながらショートして火花がパチパチと光っていました。また、4~5人が風に飛ばされながら必死で警察署に逃げ込んで来ました。大通りは水が西から東に勢いよく押し流れてきて、もう大人のヒザまで達していました。

 しばらくの間、恐ろしさのため震えがとまりませんでした。

 結局、福島警察署には父、母、弟2人と妹の家族全員6人が2~3週間ほど避難していました。

  その後、江成町の我が家’に戻ったのですが、まだ水は大人の腰上まであり、ほとんどの家が汲み取り式の和便だったので、あたり一面に汚物があふれ異臭がたちこめ、異様な光景であったことを鮮やかに覚えています。学校は1カ月近く休みだった、食べ物、飲み物、着る物は一体どうしたのか、不自由したはずですが、今となってはなかなか思い出せません。

我が家があった路地です。右上屋根の上の子供は私ではなかったかと思います。中央で水の中に立っているのは右の人物です。
近所でメリヤス加工業を営んでおられた方です。
 
上の写真の反対側からの写真です。
中央に筏に乗った人が見えますが、ロ-プを渡してこの筏からカンパンなどの救援物資の受け渡しをしました。
台風と関係はありませんが、野田阪神の南側駅前風景です。時代が不明です。「ナショナル」のネオン塔がありますが、この近くの大開町が「松下電器」創業の地です。

 東日本大震災の早期復興を祈るばかりです。 

 ジェーン台風のことについて正確を期するため少し「此花区史」を調べました。それを私なりにまとめたものを書いておきます。

 昭和25年9月3日(日)午後1時京阪神地方を襲ったジェーン台風は終戦後5年営々として廃墟から築き上げつつあった復興途中の大阪市を真正面から襲い、実に惨胆たる大災害を与えた。

 すなわち暴風による家屋の倒壊、大破はもとより特に西大阪一体は高潮の襲来をうけ、此花区・港区・大正区は全域に、福島区西淀川の両区はその大部分を、また浪速区・西区・住吉区・西成区その他東部各区も相当分の浸水をうけその面積は12,000万坪、全市の21%にも及び被災家屋106,000有余家屋、被災者総数543,000余惨状はまさに昭和9年の室戸台風による災害にも匹敵するものである。

 そして特に重工業、化学工業等が蜜集する西大阪一帯は壊滅的損害をうけ、また港湾,倉庫の被害も甚大であった。

 この台風の最大風速については大阪で45メートルといわれ、室戸台風の60メートルに比し、風速において弱かったが、暴風継続時間は7時間の長さに及び、室戸台風の2倍に近かった。そして台風が高潮時の大阪湾を北に通過し、神戸付近に上陸したため大阪湾沿岸一帯に高潮が起った。台風の気圧の低いことと、上陸前後に吹いた強烈な南風によるもので、当日の満潮面上から2.40メートルに達したと推定された。これは台風通過時が折あしく満潮時に一致したため潮位が高まった結果である。

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