12期の広場

12期の広場

掲示板

「小出楢重と大・大阪時代」(その2)の講演会に参加して

7組 上野裕通
 
 令和5年11月26日(日)此花区民センター「一休ホール」4階会議室で「小出楢重と大・大阪時代」(その2)の講演会がありました。講師は同級生の画家である圓尾博一君(3年6組)で、令和4年に続いての二回目です。同級生の参加者は、松田修藏君(6組)と伊東慎一郎君(7組)と私の3名でしたが、此花歴史研究会の例会でもあり、盛況でした。
 明治20年(1887年)生まれの小出楢重は昭和6年(1931年)、43歳で亡くなります。その生涯について、圓尾君は、当時の世界情勢、小出楢重と日本の画家、文学者との交流、フランスでの貴重な経験等について詳しく調べられ、分かりやすく話されました。
 小出楢重は、明治33年(1900年)第1期生として市岡中学に入学、心疾患で1年間休学したため、卒業時は2期生と同じでした。そのお陰で小出楢重には、津田勝五郎ら2期生との交流はもちろんのこと、1期生の信時潔、石浜純太郎、坂村養三、熊野徳義、中谷義一郎らとの交流もあり、友達に恵まれていました。後に、世に「裸婦の小出」と名声を博した小出楢重の市岡中学時代です。 画家は、人間とはいったい何なのかを追求する。そのために自画像を描く。また「なぜ、男は女性の裸像を描くのか。」それは、キリスト教の考え方からやギリシャ神話「パンドラの箱」を男性はあけてはいけないと言われていたのに開けてしまったということからきているという含蓄のある説明がありました。
 小出楢重はフランスに行ってから外国の画家から学ぶことも多く、影響を受けたようです。フランスから帰ってきてからは洋服姿になっています。今から100年前、1923年9月1日に関東大震災が発生しましたが、そのため、関東から多くの人が関西、大阪にやって来て、大・大阪時代が始まっています。岸田劉生が京都に来たこともあったそうです。
 谷崎潤一郎が「蓼喰う虫」を書き出した頃、挿絵を小出楢重が描き、潤一郎は、蓼喰う虫をすらすら書けたのは小出の挿絵のお陰だと言っていたとのエピソードもあったとか。
 1920年から1930年代は世界も戦争の危機感があり、画家は当局のいうことを聞かないと絵具や筆など手に入らなかったらしい。1937年、信時潔は日本放送協会からの委嘱により「海ゆかば」を作曲しています。天皇のためには命を惜しまず死んでいった時代の曲であり、第二国歌と言われていたようです。当時、芸術家はお上からの恩恵がなければ生きて行けなかった時代であったのでしょうね。
 しかし、小出楢重は生涯を通じて思い切り裸婦を描いて生き抜いたと締めくくられました。
 圓尾君の講演は具体的な場面を想像させながら聞き手に分りやすく話されるので、とても興味をもって聴き取ることができました。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です