12期の広場

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“ひろば”リバイバル

利根川 川歩き

4組    川合 兵治
 
 今号より(“ひろば”リバイバル)を掲載します。これは110号を数えた「12期の広場」の中から特に想い出深い投稿文をリバイバル掲載するものです。初回は「広場」開設初期、まだ手探り状態であった編集内容に、一本の筋を通してくれたユニークで、楽しい連載投稿であった「利根川 川歩き」です。スタートの第1回分(平成19年10月30日~11月1日)とゴールした第9回分(平成23年5月9日~11日)を以下に掲載します。
 筆者はリーダーの川合兵治君です。約4年にわたる“壮途”を詳しく書いていただき、また毎回手書きのコース図まで添付していただきました。ご覧のように第1回目は川合兵治君、榎本進明君、山田正敏君の3名ですが、第9回目は泉信也君、西條軍蔵君、大石橋宏次君が加わっての6名となっています。「利根川 川歩き」の後、引き続いて「荒川 川歩き」が投稿されましたが、そのリーダーは西條軍蔵君でした。
 残念ながら川合君、西條君ともにすでに亡くなられておられます。お二人を偲びながらお読みください。
 

第1回利根川 川歩き(平成19年10月30~11月1日)

その1:利根川下流には堤防がない!

1日目:10月30日は利根川歩きの壮行会。夕刻、千葉県銚子市犬吠埼、犬吠崎京成ホテルに、山田、榎本、川合の3人が集結。そぼ降る雨の中、本州で一番早く初日の出が見えるという露天風呂を満悦した後、酒宴はくたびれないよう控えめにして、いつもと違う緊張感で全員床に就く。
2日目:10月31日、快晴。AM9:00にホテルを出発。「君ヶ浜」の海岸線を利根川河口に向けて歩き始める。すると、どこからともなく丸々と太ったかわいい子犬が現われ、まるで我々を見送りに来たかのように一緒に3キロほど歩き、浜の海岸線が切れるところまで来ると、どこへともなく去っていった。

  ホテルから約5.5キロ歩いた所にある「千人塚海難漁民慰霊塔」を過ぎて、800メートルほど行くと、スタート地点となる河口の直ぐ側に漁協の「卸売市場」があり、尾びれの根元をぶった切られたマグロが沢山並んでいた。もう競りが終わったのであろうか静かだった。歩いているとこんな風景も体験できるので今後が楽しみとなった。
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「12期の広場」2022春号のラインアップ

 ウメが咲きました。サクラが咲きました。コブシも、レンギョもモクレンも。草花も一斉に花咲き、野や山は百花繚乱の春です。暖かさが本当に有り難い。かじかんでいた指先やつま先にまでに新しい血潮が蘇るようでうれしくなります。窓から差し込む透明な光に春色があると思ってしまうのは筆者だけでしょうか。こんなうららかな春の日にも、コロナ禍の終息は遠く、さらに言えばウクライナでは悲惨な戦争が始まってしまいました。胸がふさがる思いです。
 
 さてこうして時の移ろいと同窓生の消息や出来事にふれながら記事を紹介してきたラインアップも今回で最後です。
 次号以降、「12期の広場」はギアチェンジをして簡素化、ラインアップ欄もシンプルに記事の目次一覧にする予定です。また同窓生の書き込みや行事予定などをお知らせする「掲示板」と「巻頭随想コラム」、そして「バックナンバーの再掲載」の三本が柱になります。「どこでも、だれでも、いつでも同窓会」は開設時のモットーです。傘寿を超えましたが今まで通り、ゆるゆると継続していくつもりです。宜しくお願い申し上げます。
 振り返ってみますと、わが「12期の広場」は11年3カ月の長きにわたり続き、今号が110号になりました。掲載された記事数は360余篇です。これに、ラインアップと同窓会出欠返信書の近況短信の数を入れると、500篇を超えそう。また執筆者の実数は65人、近況短信執筆者を入れると100人を超えることでしょう。この文章を書くにあたって手持ち原稿を印字してみました。A4サイズで1000枚をゆうに越えました。大雑把で恐縮ですが、400字詰めの原稿用紙に直すと、2000枚位になるのではないでしょうか。正直、うろたえるばかりの迫力とボリウムです。
 なによりその一篇、一篇に12期の皆さんの人生があります。心温まる生活の記録があります。行間から溢れ出る物語があります。多彩でかけがえのない足跡と熱い友情、感動と共感があります。長文もあり短文もあります。そのすべてが楽しく、嬉しく、切なく、懐かしくあり、教えられ、励まされ、響きあえる文章群です。
 「12期の広場」は卒業50周年記念文集の「みをつくし」に連なるものです。また「広場」を通して“発掘”された学級文集「烏合の衆」(2年8組)と「独白」(3年5組)が、その原点です。そして共に学んだ高校在学時を起点として今に至る紛れもない「心の軌跡」でもあるのです。
 近況短信の「晴耕雨読しています」のさりげない言葉からその心映えが、ほのかに熱を帯びて伝わります。「12期の広場」ならではのことでしょう。
 「12期の広場」に投稿し、閲覧し、支えてくださった皆様への感謝の気持ちで一杯です。

 偶然ですが、「広場」は「東日本大震災」の地震・津波災害、福島原発のメルトダウンの年に始まっています。その後の11年、年号も平成から令和へと変わりました。そして地球環境の悪化や度重なる自然災害(最近も福島・宮城県を襲う震度6強の地震がありましたね)、「分断」と「対立」、「広がる格差」など、問題が山積する社会の中、近年は新型感染症によるパンデミック、果てはロシヤのウクライナ侵攻による戦争の惨禍が続いています。
 世の中はさらに厳しく、おおきく変わりそうです。そして自身の老いは、加速します。そのどの時にあっても、付和雷同することなくたおやかに、「市岡健児」らしく前を向いて在りたいものです。
 
 末尾になりましたが、「広場」をバックアップしてくれた代表幹事の酒井八郎君をはじめとした同窓会幹事の皆さん、ねばり強くまたパーソナリティ豊かなHP委員の皆さんと有志の皆さんに、心からの敬意と感謝を申し上げます。
 
 わが「12期の広場」2022春号のラインアップは、以下の通りです。「広場」に焦点を合わせた投稿を5人の皆さんにお願いしました。お楽しみください。
 
1. 「『12期の広場』は時空を超えて ・・・・・・・・・・ 8組  萩原 貞雄
2. 「『朝刊』から ・・・・・・・・・・ 3組 高橋  要
3. 「絆深き12期生よ 永遠に ・・・・・・・・・・ 7組 柏木 赫子(後藤)
4. 「ラストスパート ・・・・・・・・・・ 8組 川副 研治
5. 「市岡十二期の皆様へ ・・・・・・・・・・ 5組 山本久美子(古荘)
以上

「12期の広場」は時空を超えて

8組 萩原貞雄
 「広場」はどこにあるのだろうか。遠い、遠い空の彼方にある様な気もするし、直ぐ近くにある様な気もする。「広場」はいつからあったのだろうか。ずっと昔からあった様な気もするし、ついこの前からの様な気もする。バックナンバーをクリックすればすぐ行けるのだ。
 そこには18歳の頃の多感で将来に対する不安と希望を抱いた若者がいる。その頃の友にも会える。でも話をした人の数は限られている。話す時間も少なかった。この「広場」で、記憶にある友の別の面を発見することもあるし、たくさんの新しい友とも出会えるのだ。
 一生懸命生きてきた証としての記録の数々だ。迷うことなく目標に 
2019年東京12期会で熱海へ。天然記念物の大樟の前で、
中央が萩原君
向かい、努力の末、学問、教育、仕事に天職を見つけた友。ボランティアで発展途上国に貢献した人。日本の各地に根を下ろしその地域を活性させた人。旅行記やトレッキング記は、素晴らしい写真で旅行気分にさせてくれる。海外から日本に里帰りするたびに歓迎の宴を設け、再会の喜びと友情を確かめ合う。くつろぎともてなしの時間が流れる。川歩きの旅は仲間と力を合わせて何年間も探求心を持ち続け、難行苦行の末、源流に達した。感動ものだ。絵や歌は職業であれ、趣味であれ、潤いや活力を与えてくれる。
 「広場」には多種多様な経歴の人がこんなにいるのだ。
「広場」は過去を遡り、今を語り、将来を話す場だ。過去から未来まで繋がっている。そういえばあの人は逝ってしまった。心温まる弔意文もある。何よりも本人が書いた記事がある。ここに行けばいつでも会えるのだ。行先の定まらなかった18歳の時から随分経った。
 今年は81歳、もう行先に迷うことはない。
 しばらく元気で「12期の広場」でお会いしましょう。

 「朝刊」から

3組   高橋 要

2022年2月19日 記
 緊迫するウクライナ情勢を大きく扱う朝刊のなかに、50年が経過した「あさま山荘事件」に関わるちょっとした記事があった。
 1972年、警察に追い詰められた「連合赤軍」のメンバー5人が、「あさま山荘」に管理人の妻を人質にして立てこもった10日間にわたる事件の発端が2月19日だった。クレーン車に吊り下げた巨大鉄球が山荘の外壁をぶち壊すテレビの実況に釘付けになったものだ。12期生の多くが30歳、その2年前にはあの「三島事件」もあった。
 ところで昨年12月8日は「真珠湾攻撃から80年」を多くのメディアが大々的に取り上げた。我々の多くが誕生した1941年は真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦の年であり、散々な目に遭わされての敗戦は4歳になる前後であった。
 当時私の家族は東京市荏原区(現在の品川区の西部)で暮らしていて空襲にあっている。米軍のB29爆撃機によって東京は100回以上の空襲を受けたが、荏原区が大きな被害を受けたのはよく知られた「下町大空襲」(1945年3月10日)のあとの「城南大空襲」(5月24・25日)だった。
 深夜、両親が防空壕を捨てて外へ逃れた時の記憶がある。私は父に、弟は母に背負われて地上に出ると炎と熱風に追われるように逃げた。闇の中で聞いた無数の叫び声と熱い!熱 い!の悲鳴は今も耳に残る。 
 
同窓会での校歌斉唱。中央が高橋君です。
焼け野原が広がる夜明け、なんとか自宅付近に辿り着くと、父の仕事部屋にあった背の高い機器だけが黒く焼けただれて立っていた。その場に立ちすくんだ父と母がどんな言葉を交わしたのであったか。
 大阪大空襲も同じ戦争末期に市内を中心に無差別爆撃が繰り返され(母校の木造校舎も消失)、「玉音放送」の前日にも「鶴橋駅空襲」があり、悲惨な体験のある方も皆さんのなかにはおいでのことと思う。

 
 という訳で、朝刊を手にして、とりとめもなく遠い記憶をたどることになった一日でした。

絆深き12期生よ 永遠に

7組 柏木(後藤) 赫子
 
 私が同窓会に参加したのは、卒業25周年に開催された初回(昭和60年―1985年)からです。級友達とはご無沙汰、音信不通でしたので、当日、心躍らせて会場(大阪東急イン)に向かいました。
 受付を済ませ会場に入場した時、“カッちゃん”と一人の男性が声をかけて下さいました。一瞬「?」と、眼鏡の奥で笑っている目を見て“張君”と思わず大きな声を上げていました。懐かしかったです!嬉しかったです!先生方、友人達との再会に興奮している私がいました。
 その後、同窓会の出席を重ねる毎に、忘却の彼方にあった記憶が順次脳裏に蘇り、紅一点で受けた授業(英語、数学)や合唱コンクールで指揮棒を振ったこと等は、掛け替えのない思い出になっています。
 
後列左が柏木さん。2018年同窓会にて
 卒業50周年には立派な記念文集が刊行されました。そして古希を迎えてホームページ「12期の広場」が開設され新たな交流の場が出来ました。
 今回、この原稿を書くにあたって、今一度、バックナンバーに目を通し、その膨大な数に只々驚いています。
 毎月1日の更新が楽しみとなり、かかさずパソコンを開いてきました。数ある寄稿文で私が興味をそそられたのは、8組八島平玐さんの「ヒマラヤトレッキング」と5組泉信也さんの「ブータン紀行」でした。それは私には行きたくても行けない秘境でワクワクして添付された美しい写真を見ながら、現地の空気、風、匂いを想像していました。
 12期の広場から、発見、刺激、元気、勇気を貰い、私の日々の生活の活力の源になっていました。良き仲間達と共に市岡に学べたことを幸せに思い、12期生を誇りに思います。広場の運営に携わって下さった編集委員の皆様のご尽力に心からの敬意と御礼を申し上げます。今後は簡素化して継続して下さるとのことで、こんな嬉しいことはありません。何卒宜しくお願いいたします。
 さて私自身ですが、3月上旬に傘寿を迎えます。よくぞここまで生かされて来たと感謝の思いです。両親達4人を見送り、趣味としていたお煎茶と一向に上達しない英会話を再開しました。お籠り生活の中で、ラジオ体操、テレビ体操、ラジオ英会話を聴くことを日課として今の自分を保っています。俳優、画家でもある榎木孝明さんの追っかけに東奔西走し、第二の青春、人生最良の絶好調時代と思っていましたが、コロナ禍で上京も出来ず体力の衰えも感じ、そろそろ卒業かなと思っています。「憎しコロナウイルス!!」です。
 12期生の皆々様、お元気でいてくださいネ

ラストスパート

8組  川副 研治
 
 よくぞ続いた11年。色んなサークル活動においても、機関誌の発行やホームページのアップなど、10年経ずにポシャることが多い中、よく頑張ってこられたと思います。形式は少し変わるようですが、今後も同じスタッフで継続されるようで、同窓会も開かれない中、同窓生との絆が保てたようでホッとすると同時に、その労苦に感謝いたします。
 「12期の広場」は実に彩り豊かで、執筆者も多士済々です。小生にとっては、いずれの記事も門外漢とはいえ、各分野でそれぞれご活躍されている様子を興味深く、楽しく読ませていただいてきました。
 市岡東京12期会には、もう少し身体の自由が利く頃に出席したかったし、利根川、荒川川歩きの記事では、皆さんの健脚ぶりが羨ましく思いました。そのほかにも3.11東日本大震災(佐藤裕久君)、JAXA宇宙ロケットの開発と設計(小野義雄君)、再生医療の話(辻紘一郎君)世界旅行を始めヒマラヤ、ブータンの紀行文(段中文子さん、八島平玐君、泉信也君)、カメオの話(前川光永君)、作陶の日々(山田正敏君)等々、数えだすときりがありません。
 今後、「12期の広場」を継続するにあたってはスタッフ諸氏のこれからの健康と意欲の低下が心配です。我々も80歳を過ぎ、これから益々、体力の衰えや集中力の低下に拍車がかかりそうです。
 
座っているのが川副君と奥様。2018年同窓会二次会終了後、
奥様がお迎えに。
 さて私事ですが、人生終盤に差し掛かり、昨今のコロナ禍騒動には辟易するばかりで、コロナが終息するのが先か、こっちの命が終息するのが先かと思いつつ、巣籠りの毎日です。とりわけ後期高齢の他に、腎不全による人工透析(43年)をはじめ肺癌(手術済)、心臓大動脈弁置換(手術済)、腎臓癌(手術済)等々、数々の基礎疾患を抱え、主治医には、診察の度に新型コロナに罹患したら一発でアウトですよと真顔で宣告されています。
 人生100年時代、小生には100年は到底無理な話ですが、コロナ終息後、せめて2~3年でいいので普通の生活を満喫したいものです。コロナ以降ほとんど外出していないので、ダベリング、カラオケ、ランチ等々行きたいところ、したいことが山積です。
 どうかそれまで「お迎え」を少し先延ばしして頂ける様祈るばかりです。

市岡十二期の皆様へ

5組 山本(古荘)久美子
 
 傘寿を迎え、コロナ禍の中でもお元気にしていらっしゃることと思います。そんな中、川村さんより十二期の広場をどうするか意見を求められ、携わっていらっしゃる方々のご苦労も顧みず、一も二もなく存続してほしいとお答えしました。帰国出来なくなった今、猶更つながっていたいと思う気持ちが強くなっています。
 この三年間、トロントも公共の建物や買い物など、閉鎖、50パーセントの人数制限・・・等を何度も繰り返し、3月14日からすべて解除、撤廃になるようですが、その時になってみないと信じていいものやら、まだまだ安心できません。
 
トロントの自宅にて。テイクアウトのお寿司で、
蟄居生活を少しでも華やかに。
私たちの状況はといえば、昨年3月、6月、12月と3回の接種を終え、少しは安心ですが、行動範囲はこの3年間変わらず、蟄居生活です。
 昨年9月にトロントを引き上げて、日本に帰国した友人のエピソードにビックリ
日本のアパートを借りるのに「高齢者であること(75歳)」「年金生活者であること」を理由にすべて断られ、2か月経ってやっと見つけたのはいいけれど、礼金、敷金、補償金など訳の分からない名前の金額を取られたそうです。礼金って誰に対するお礼でしょうか。
 日本語も随分変化しているようで、これは私たちも帰るたびに感じてきたことですが、丁寧語や敬語等々。 言葉は変化するものだから、ある程度は仕方がないのかもしれませんネ。
 丁度海岸沿いのアパートに落ち着いた時にトンガの爆発があり、一晩中津波警報が鳴り響き、慌てて飛び起き隣り近所の様子をうかがうと、皆静かだったそうです。警報には慣れっこなんでしょうか。
 私もトロントに来て46年が過ぎました。年を得るごとに日本に対する郷愁がつのります。災害が多いのが難点ですが、丁度ウクライナのニュースが世界を騒がせている今、侵略されたことがない日本ほどいい国はない、とつくづく思います。
 一日も早く安心して帰国出来る日が来ることが今一番の願いです。

「12期の広場」2022新春号のラインアップ

 新年あけましておめでとうございます。今年も「12期の広場」を、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 写真は、美しい日の出です。泉信也君が提供してくれ、榎本進明君がレイアウトしてくれました。新しい年のスタートにふさわしい写真で、元気が出ますね。何とか収まってほしいコロナ禍はまだ続きそうですが、めげずに頑張りましょう。
 
 さて、我が 「12期の広場」 2022年新春号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
 
 
1. 「あけましておめでとうございます」 ・・・・・・・・・・ 4組  酒井 八郎
2. 「12期の広場」の形式変更のお知らせ      
3. 「市岡の森」の記念植樹の「桜」 ・・・・・・・・・・ 7組 張 志朗

あけましておめでとうございます

12期同窓会代表幹事   酒井 八郎
 明けましておめでとうございます。
 丸2年のコロナ騒動の中、12期の皆様、どのように新年をお迎えでしょうか。感染者数が激減しているとは言え、オミクロン株による感染拡大の不安を抱えての正月ですが、新しいカレンダーを前にすれば、心もあらたになり、清々しい気持ちがあふれるものですね。わが家でも元日に家族がそろって、正月膳を囲み、今年一年の平穏無事を祈っています。
 平清盛が安芸の宮島から分社していただいた厳島神社が、わが家の近くにあり、兵庫の海がすぐそこにあった昔は、大灯篭の灯が海の交通の守り灯になっていたそうです。またすこし歩けば、楠木正成ゆかりの湊川神社があり、毎年初詣の人で大賑わいです。初日を浴びた晴れ着姿の家族づれが、本殿に手を合わせる姿に、新年は祈りから始まるものと、心が暖かくなります。
 あらためて、令和4年、同窓生皆様とご家族一同様のご健康ご多幸を、慎んでお祈り申し上げます。
 
 大阪での全体同窓会を終えたあと、早や4年が経ちます。さらにこの2年間は新型コロナの影響で、東京での12期会も開くことができず、関西から出かけての交流もなく、唯一、「12期の広場」が同窓生の共通項として活動を続けてまいりました。
 古希から始め傘寿、「12期の広場」は開設して満11年です。この節目を中締めにして、今年の夏号から形式を変更することになりました。これからは「掲示板」形式を主にして、引き続き12期生のパイプ役を担ってまいります。皆様のご投稿、引き続きよろしくお願いいたします。
 長年にわたり投稿してくださった皆様、支えて下さった読者の皆様、またHP委員の皆様に心からお礼申しあげます。同時に便宜をおはかりいただいたプリンティング・サービスの皆様に深く感謝申しあげます。
 
 今号でもふれていますが、昨年の秋、大阪の舞洲、「市岡の森」へ記念植樹した桜の木の「銘板」を取り付けに行ってきました。記念碑の前の「卒業50周年植樹」の桜は「病」のため、腰の高さで切断されていましたが、まだ頑張っています。「母校創立100周年植樹」は、周辺が草ぼうぼうで特定できませんでした。残念なことです。母校南門(私たちが通学していた頃の正門)横に記念植樹したツバキは、昨秋も花を咲かせてくれました。母校へお立ち寄りの際は、一度ご覧ください。
 
 毎日南門をくぐって母校に通っていた頃、市岡高校には個性豊かな先生方がおられ、生意気な私たちを感性豊かに育てていただいたと思っています。
 「スバル座」で「道」を映画鑑賞したことがありました。ジェルソミーナが男に捨てられ、男が去っていくシーン。神澤先生は国語の時間に「なぜ彼女はあのような手の振り方をしたのか」を解説して下さいました。皆さん、憶えておられますか。「人を愛することの大切さ」をあの場面を想いうかべながら、先生の解説を通して教えていただいたと思っています。
 わが家の屋上のプランターに、昨年たくさんの小菊が咲きました。そのちいさな白い花びらが、一枚一枚、まだ元気なのに少しずつ、薄紫に色を変え、見る者の目を楽しませてくれました。
12期の私たちも80代。元気でありたいと願いつつ、つつましく、鮮やかに咲く小さな花に、わが身を重ねあわせてしまいます。
アイルランド民謡で、賛美歌にもなった歌が好きなのでここにご紹介します。
 
春の日の花と輝く うるわしき姿の
いつしかにあせてうつろう 世の冬は来るとも
わが心は変わる日なく おん身をば慕いて
愛はなお緑いろ濃く わが胸に生くべし
 
若き日の頬は清らに わずらいの影なく
おん身今あでにうるわし されどおもあせても
わが心は変わる日なく おん身をば慕いて
ひまわりの陽をば 恋うごと とこしえに思わん
 

「12期の広場」の形式変更のお知らせ

 昨年の11月3日に「12期の広場」のHP委員会議をひらき、長年続けてきた「12期の広場」の今後のあり方について話し合いました。ここには関西のHP委員である、末廣訂君、川村浩一君、八島平玐君、張志朗君の4名が出席し、また酒井八郎君、古藤知代子さんが同席しました。東京在住のHP委員として泉信也君がおられますが、遠方であることから、関西のHP委員皆さんの考え方をまとめて、泉君に連絡してその意見を反映するようにしました。3日の会議の後、約2週間にわたり、基本方針と細部を全員とメールでやり取りをして、下記の内容をHP委員全体の総意とすることにしました。
 
  「12期の広場」は私たちが古希を迎えた2011年正月から始め、傘寿の今年で満11年続けたことになります。傘寿は節目であること、加齢に伴い投稿や編集に支障が出はじめていることなどから、「ラインアップ」と複数の投稿記事・レポートが掲載されてきた従来形式から、主な内容を「掲示板」形式に変え、今まで同様に季刊更新を続けることにします。基本方針はきまりましたが、細部は手探りの部分がまだあります。皆様とともに考え、適正化を目指したいと思っていますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 
 
 
―――  記  ―――
 
★「いつでも、どこでも、だれでも同窓会」の「12期の広場」は「掲示板」を主とした形式に変更する。 
 
  1. 「従来形」の「12期の広場」は、2022年4月の「春号」で終了する。
     
  2. 「従来形」の「12期の広場」の終了は、正月の「2022新春号」でお知らせする。
     
  3. 「春号」の後の「12期の広場」は季刊更新を続けるが、そのイメージは下図による。(各号の構成は、左図=従来、右図=今後)


     
  4. HP委員は留任とする。 
以      上