12期の広場

12期の広場

 「朝刊」から

3組   高橋 要

2022年2月19日 記
 緊迫するウクライナ情勢を大きく扱う朝刊のなかに、50年が経過した「あさま山荘事件」に関わるちょっとした記事があった。
 1972年、警察に追い詰められた「連合赤軍」のメンバー5人が、「あさま山荘」に管理人の妻を人質にして立てこもった10日間にわたる事件の発端が2月19日だった。クレーン車に吊り下げた巨大鉄球が山荘の外壁をぶち壊すテレビの実況に釘付けになったものだ。12期生の多くが30歳、その2年前にはあの「三島事件」もあった。
 ところで昨年12月8日は「真珠湾攻撃から80年」を多くのメディアが大々的に取り上げた。我々の多くが誕生した1941年は真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦の年であり、散々な目に遭わされての敗戦は4歳になる前後であった。
 当時私の家族は東京市荏原区(現在の品川区の西部)で暮らしていて空襲にあっている。米軍のB29爆撃機によって東京は100回以上の空襲を受けたが、荏原区が大きな被害を受けたのはよく知られた「下町大空襲」(1945年3月10日)のあとの「城南大空襲」(5月24・25日)だった。
 深夜、両親が防空壕を捨てて外へ逃れた時の記憶がある。私は父に、弟は母に背負われて地上に出ると炎と熱風に追われるように逃げた。闇の中で聞いた無数の叫び声と熱い!熱 い!の悲鳴は今も耳に残る。 
 
同窓会での校歌斉唱。中央が高橋君です。
焼け野原が広がる夜明け、なんとか自宅付近に辿り着くと、父の仕事部屋にあった背の高い機器だけが黒く焼けただれて立っていた。その場に立ちすくんだ父と母がどんな言葉を交わしたのであったか。
 大阪大空襲も同じ戦争末期に市内を中心に無差別爆撃が繰り返され(母校の木造校舎も消失)、「玉音放送」の前日にも「鶴橋駅空襲」があり、悲惨な体験のある方も皆さんのなかにはおいでのことと思う。

 
 という訳で、朝刊を手にして、とりとめもなく遠い記憶をたどることになった一日でした。

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