12期の広場

12期の広場

畠平雅生君と、ともに65年

3組  清水 誠治郎
 
 今から約12年ほど前、見た事のない真剣な顔つきで、話があるとの事で聞くと検査の結果、前立腺ガンを患っていると、私は彼から聞かされます。
 それから12年間、壮絶とも云える彼のガンとの闘いが始まりました。前立腺ガンを初め、すい臓がん、肺ガン、骨ガンと次々と転移を繰り返し、ガンは彼の肉体を蝕んでいきます。そして2年前、彼自身が、自分の末期を知った時、“私の為に壁となり盾となってくれ。”と、私に最後の頼みを云って来ました。
写真左が畠平君で、右が筆者の清水君です。
どう言う事かと本意を聞きますと、“実を云うと俺は3分間の電話もしんどいし、会うのはもっと辛い。君の処に容態を聞いてきたら、正直に良い事はないと言ってくれ。そして君も来るな!やつれていく俺を君に見られたくない” と云うことです。それで、私は電話を頂いた人には奥様に電話をしてあげて下さい、会いに行くのは遠慮して下さい、と話させて頂きました。この彼の頼みは、“奥様にも内緒で!”とのことでしたので、生前の彼に会う事が出来たのは、これが最後となり、亡くなった直後、彼の自宅を訪れましたが、彼の言っていた通り、私の目には随分と痩せて、闘病の苛酷さを感じるばかりでした。彼は、2月12日、生のともし火を消し、黄泉の世界へと旅立って往かれました。
 
 初めて、私が彼と知り合ったのは、昭和29年(1954年) 4月7日の中学一年生の始業式だったと記憶しています。
 昭和25年9月3日のジェーン台風の強風と高潮で、大阪市内は壊滅的被害を受け、港区や大正区は殆どの区域が水没しましたが、すぐさま大阪市は、港区や大正区を、大阪湾や安治川からサンドポンプで土砂を汲みあげて、1.5メートル程のかさ上げ工事を行いました。
 3年の月日は経っていたものの、市岡中学校付近は風の強い日には、砂塵吹きすさぶ砂漠の様な状態でしたので、皆一様に “市岡砂漠” と呼ぶようになっていました。普通の学校であれば、桜が咲き誇り、校舎の日陰や樹木の木蔭で語り合って、交友関係を築きあっていったのでしょうが、私達の環境はそんな甘いものではありませんでした。プレハブで造られた平屋の校舎は、屋根はあるものの、断熱材が入っていなかったので、夏は地獄の釜ゆでの様な暑さで、今で言う熱中症で倒れる仲間も多くいました。
 市岡中学校は、1学年で13組もあり、1組55人、700人を超える生徒がいたので、あまりにも生徒数が多いのと、私が越境入学(本当は西中学へいかなければならない)だった為、半数ぐらいの学友としか知り合う事は出来ませんでした。
 彼と特に仲良くなったのは、一年生の二学期を過ぎたころ、彼の家が浪速区桜川町に転宅となり、一緒に通学するようになってからです。365日、雨の日も、風の強い日も、朝・夕の登下校はいつも一緒でした。二人とも取っ手の壊れた、汚い薄い汚れた帆布製の重いカバンを小脇に抱えて、通学していました。(幼いころに父親を亡くした私の家の経済事情に彼が合せてくれたのかもしれません)
 中学二年生の始業式の日、又彼と同じ学級になったことを知りました。そして中学三年生の始業式の日もそうでした。
 三年生の進学指導を受けた時、彼がこっそり話しかけてきて、”清水君や-俺と一緒に市岡高校へ行こうや” と誘ってくれました。母に高校に行ってもいいかと相談をすると、市岡やったら良いから行きなさい、との温かい言葉をくれました。私は端から高校をあきらめていたので、受験勉強を始めたのは、年の明けた正月を過ぎた頃です。彼はその為、使い古しではあったものの、貴重な参考書や辞書等々を次から次へと持ってきてくれて、勉強を助けてくれました。私にとってはこれ程有り難いものはありませんでした。どうしても受験しなければいけなかった滑り止めの桃山高校(彼も受けさせられた)も無事合格して、本命の市岡高校も合格する事が出来ました。
 高校入学式の日、学級発表を見ると、なんと彼と同じクラスになっていました。四年連続です。けれども同じクラスだったのはここまでで、彼とは違う道を、歩み始めます。
 彼は大学へと進学し、私は二人の妹を高校へ進学させるために大学を諦め、高校卒業と同時にE物産と云う中小企業の会社に就職せざるを得ませんでした。
 この会社は若き二代目社長で、私を大変可愛がってくれました。就職して四年たった5月の父親の命日の日、久しぶりに我が家に帰ると母から “頼むから家業(父は由緒・歴史ある木材業を営んでいた)を再興してくれんかね” と云う、たっての願いを伝えられました。後ろ髪をひかれる思いで5月一杯を以って会社を辞め、6月から家業を再興させる為頑張り始めました。勿論彼にも報告すると、どれだけ喜んだ事か、こちらが驚くぐらいでした。
 彼の商売は木工機械販売業でしたので、私の家業とは深いつながりがありました。ところが人生は上手くいかないのが常で、家業が動き始めた十日目に、私は左手の第一指・第二指・第三指と左手の半分以上を製材機で失くしてしまう事故が起きました。それでも彼の助けを借りて、脇目もふらず我武者羅に働き続けました。初めて革靴を履き背広を着て、繁華街へ遊びに出たのは、27歳になる前のお正月でした。
 彼は大学時代から学生ボランティア・リーダーとして活躍していましたし、私はボーイスカウト運動の奉仕者として、社会奉仕活動の事をよく理解していました。彼の奥様は、彼の大学時代からの社会奉仕活動の良き理解者であり、協力者だったと聞いています。
 私達二人とも若くて金のない時代は、実働の奉仕者として奉仕を実践する事にお互い共感を覚えて、無二の親友として付き合うきっかけになりました。
 阪神淡路大震災の時は、労働の奉仕者であり、金銭の奉仕者であったような気がします。
 二人が60歳の還暦を迎えた時、何か未来に残せる事業をしようと相談し思い立って “21世紀の杜”運動を立ち上げました。
 丁度その頃、台湾・台中で大地震があり、多くの人々が亡くなり困難に直面している事を知り、そこで一番困っている少数山岳民族(有名な民族はアミ族等々)にハーブ(ニッキ等は成長が早く、売ればすぐお金になる)の樹(百万円相当)を、送る事に決めて樹を送りました。それから2年の月日をかけて、募金運動(約六百万円を集めました)をし、台中の三か所の公園に植樹(台湾桜等々)をする事が出来ました。この公園の台湾桜は、台中の桜の名所の一つとなっていて、過日(平成31年3月16日土曜日毎日放送4チャンネルの世界不思議発見)で放映されたそうです。
 私達は毎年のようにこの桜を見に、彼と一緒に台湾を訪れていましたが、今年は彼の悲しい日があったので訪問することは叶いませんでした。
 次の運動はカンボジアに学校を創ろうと、彼と一緒に決めましたが、その時彼から告白されました、“俺は海外へ行ってお前と一緒に活動できへんのや”。 理由は抗癌剤治療による免疫の低下で、海外渡航は医師からきつく禁止されていたそうです。それでも彼はバックアップに徹しようと病気を押して資金集めの為、大変な努力を重ねて奔走してくれ、2年がかりで七百万円のお金を集めようとチャリテー寄席、ピアノ演奏会、ワンワールドフェステバルの参加等々、大変な努力をしてくれました。
 そして翌年カンボジア政府から、タイ国境に近いトールポンロー(ポル・ポトが一番覇権していた場所)の広大な土地を提供するから、この地に学校を建てる事をお願いしますとの要請です。2007年にタイを経て、60時間ほどかけてかの地を踏む事が出来(行けないかもしれないと言われた)ました。
カンボジアを訪れた清水君
 
 二日間をかけて地域の公聴会を開き、村民達が教育に対してどれほどの熱意を持っているか等を見聞きしました。彼等や彼女たちのほとばしる熱情を感じて、これは絶対建てなければと心の底から思い、日本に帰って彼にも報告しました。
 私達のOKが出ると同時に、カンボジア政府は、1年をかけて250発の対人地雷と、5発ほどの対戦車地雷の処理を行ってくれました。
 学校建設中は、私達と思いを同じくする若き日本人の明君(私達のクラブ仲間)が、現地に滞在して、見守ってくれて完成にこぎつけました。が、紆余曲折は多くあり、一番大きな問題は、あまりにも人気が出て入学希望者が倍増し、教室が足りないので倍の学校の大きさにしてほしいという要望でした。一生懸命努力しましたが、建設資金は半分(約三百五十万円)しか集まりませんでした。
 最後の手段として、ユネスコに泣きついてお力を借りる事が出来ました。完成は少し遅れましたが、二校舎十教室の堂々たる学校が、立派に出来上がり多くの卒業生が巣立っています。昨年の秋、私と明君と2人で学校を訪問して来ました。凛とたたずむ学校を見て、何回も来て苦労した当時を思い出し、喜びと嬉しさで自然と笑いが浮かびました。彼はいま日本政府のカンボジア駐在員です。 

 今やっている運動は、“うなぎの森“ と云う運動です。この運動も病魔を押して畠平君がきっかけを作りました。大阪府木材連合会と一緒に始め、今年で4年目に入りますが、淀川にウナギを復活させようと、淀川の支流がそばにある高槻の神峯山寺の山林で、毎年5月に植樹を行っています。植樹したらなんで鰻が取れるか?不思議ですねー。“森は海の恋人と云うスローガン” を掲げて養殖に取り組んでおられる、気仙沼のカキ養殖者の畠山重厚氏(世界的に有名)の著書を読めば、その謎が理解できます
 私達のこの運動の成果は、20年、30年後に判ると思います。
 皆さんはご存じないかもしれませんが、江戸や明治時代の昔、淀川の伝法や天神さん界隈は鰻屋さんが一杯あったそうです。
 彼と共に始めたこの運動は、彼のお葬式などで少し“休憩”しましたが、今年も 5月12日(日)午前10時から植樹を始めます。参加費は2000円(苗木代共)です。参加ご希望の方は清水までご連絡下さい。
 共感者は一杯います。だからこの運動も又動き始めています。前よりも、もっともっと多くの共感者を巻き込んで、大きくなっています。
 畠平雅生君がこの世を去り、また、いつの日か私が去ったとしても,植えた木々は少しづつ大きくなって大木となり、又種をまいてくれるだろうと思っています。
 今はただただ、65年の長きに亘って友人として支えてくれた畠平雅生君に感謝、友として私に彼を巡り会わせてくれた神様に感謝の気持ちで一杯です。

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