12期の広場

12期の広場

“ひろば”リバイバル

今、物凄く幸せです

3組  清水誠治郎
 
 “元旦や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし"(一休宗純)
 私が小学4年生(昭和26年5月)の時、父は脳溢血と言う突然の病で48歳の天寿を以ってこの世を去りました。おそらく戦後の動乱期の期末とはいえ、かの歌等考えすらないままに、逝ったのだろうと思います。
  家系の血は争えないもので、私は52歳で中度の心筋梗塞があってからは、今日まで循環器系の病との戦が続いています。近代医学のお陰で、心臓を流れる動脈の支流には4個のステントが入っています。腹部の大動脈にも瘤(52ミリ)があったのですが、適切な手術処置で破裂せずに小さくなり、元気な活動ができています。
 昨年3月、10年間の町会代表や西宮市の校区のスポーツクラブの代表等々、長きに亘って社会奉仕させて頂いていましたが、立派な後継者が出来たのでスムーズに交代する事が出来ました。そして10月には会社の代表を息子に譲り、私は悠々自適の生活を満喫出来るものと確信していました。が、そう上手くはいきませんでした、何か判らないのですが日々多忙です。
 何の趣味も持たず、ひたすら仕事と奉仕に打ち込んできた私ですので、全てを後継者に託した時、家内から“貴方はこのままではすぐに呆けてきますよ!何か趣味をもちなさい!"。まだこの歳ですし、呆けるのはいやだったので考えた挙句、写真を始めようと思い立ち、最新式のレンズシャッターの高級機を購入して写し始めましたが、これがまた難しすぎて手に負いません。特に動体撮影は写そうと思っても、身体や目や頭がついていかないのです。残念で悔しいですが、動かない花や景色を撮っています。
 それともう一つ、絵を習い始めました。未だ10カ月しか経っていませんので御見せ出来るような作品はありませんが、4~5年間、健康に注意して修業が出来れば、喜寿の個展が出来ればいいなと淡い夢を持っています。でもやっぱり好きな画家(特に日本画・河合玉堂や上村松園) の絵をゆっくりと時間をかけボーと観ている方が心癒されます。
 私は今、物凄く幸せです。少し元気になった妻と息子たちと四人の孫に固まれて!
                                2016年 1月
 
(HP委員追記)
 清水誠治郎君の「広場」への投稿は上記の他に3篇があります。何より大きな感動を呼んだのは2011年7月号に掲載された「ツゥールポンロー みおつくし中学校」です。
 これは彼と故畠平雅生君が所属していた大阪西ワイズメンクラブのボランティアプロジェクト—カンボジアに中学校を建設・寄贈する事業の奮闘記です。
 彼はカンボジアの実状を目にするために2007年、建設敷地の視察に2009年、第一校舎落成式出席のために2010年と、3度カンボジアを訪れています。ツゥールポンローはタイのバンコックから4輪駆動車で15時間、二日がかりの辺境の地で、建設予定地の1/3から250個の地雷が発見処理されたそうです。下に貼り付けたのは、出来上がった校舎と落成式での記念写真です。左から3人目が清水君です。長文ですが、「ツゥールポンロー みおつくし中学校」を読んで在りし日の清水誠治郎君を偲んでいただければ幸いです。この原稿の「結び」を下に再掲いたします。
 
“ハチドリのひとしずく”   今、私にできること
 森が燃えていました。森の生き物たちは我先にと逃げて行きました。でも、クリキンディという名のハチドリだけは、いったりきたり、くちばしで水を、一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます。動物たちがそれを見て「そんな事をして一体何になるんだ」といって笑っています。  クリキンディはこう答えました。「私は、私に出来ることをしているだけ・・・」
 この物語は南アメリカの先住民に伝わる話です。(クリキンディ・・現地語で金の鳥の意)
 同窓生では畠平雅生君が同志として一緒に運動をしています。又古藤知代子さんが多額寄付者として登録されています。こころざしに感謝いたします。

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