12期の広場

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巻頭コラム

ぶらりと福知山

7組  張 志朗

 ぶらり福知山に行って来ました。
 こう書きだせば、"気楽な小旅行"となるのですが、実のところは耐えがたい猛暑とコロナ禍による巣ごもり、さらに思い通りにならない体調に"汗まみれの引きこもり老人"状態になっている筆者のセンチメンタルなフラフラ歩きの旅であったようです。
 日帰りの遠出は数年ぶり、勿論、密を避け、マスクを持ってです。8月の末、晴と気温32度以下の天気予報を確認して、JR福知山線の篠山口行の区間快速に乗りました。
 ご存知のように福知山線は東海道線の尼崎より北上し、篠山口を経て福知山で山陰線に接続します。
 篠山口で二両連結列車のワンマンカーに乗り換えです。若く、かわいい女性運転手です。「福知山まではディーゼル車ですか」と聞いて笑われました。以前から電化されているそうです。
 福知山までは車窓の左右になだらかな山を見ながら、峡谷沿いに、また狭い盆地にある田畑を縫うようして走ります。単線で、電車が木々すれすれの場所も少なくありません。空の青、白い雲、木々の緑、渓流の水しぶきが美しく、心が徐々に開いて行きます。コンバインが停まり半数位の田んぼは、稲刈りを終えてすでに初秋の風景です。2時間ほどで福知山駅に到着しました。

 福知山は京都府の北西部、人口8万人弱の中核都市。丹波高地と丹後山地に囲まれた盆地にあり、北近畿の交通の要衝です。ここから和田山、豊岡を経て城崎へ(山陰線下り)、鬼で有名な大江山を越えて宮津、天橋立へ(京都丹後鉄道)、綾部を経て舞鶴、小浜へ(舞鶴・小浜線)、また亀岡を経て京都へ(山陰線上り)いたるターミナル駅です。通過は何回もし、小休止は1~2度していましたが、ぶらり歩きは初めてです。皆さん、特に関西在住の方には、観光やスキーや登山などでおなじみの地域であることでしょう。
 とりあえずマップ片手に駅周辺をあるきました。駅の南側広場にレールを使った東屋と転車台に乗せられたC11形式40号の蒸気機関車がありました。レールは明治30年から32年に
当時の"阪鶴鉄道"が米国のカーネギー社とイリノイ社に特注したものだそうです。また蒸気機関車は昭和8年の川崎車輛株式会社製で小型機関車としては力が強く、短区間運転用として重宝され昭和19年から31年まで福知山線を走っていたそうです。転車台は機関車の方向転換や扇形車庫への入出庫を行う設備で、昭和47年まで稼働したのち、福知山駅高架化事業により撤去されたそうです。いずれも「鉄道のまち福知山」のシンボルとして保存展示されています。
 雪深い北近畿の鉄道機関区で、ラッセル車と共にもうもうと煙をはいていた雄姿が、思い浮かびます。特に私の家内の従兄が、この機関区で蒸気機関車の機関士であっただけに、思い入れもひとしおです。
 福知山は明智光秀ゆかりの地、歴史の深い城下町でもあります。
 NHKの大河ドラマ"麒麟が来る"が放送されて一躍脚光を浴びましたね。幟(のぼり)やイラストや桔梗紋(明智家の家紋)が目につきます。それらを案内するマップ通り見て歩くことはできません。なにしろこちらは、81歳を超えた老体、真昼間(まっぴるま)の炎天下の徒歩に息絶え絶えです。つばの広い網目帽子と濡れタオル、ペットボトルのお茶を頼りに、とりあえず旧城下町と思われる地域をめぐることにしました。

 懐かしい趣の駅正面通り商店街を直進して左折、アオイ通りを経て、まずは地元の人に「ごりょうさん」と親しまれる御霊神社です。由緒書きに祭神は宇賀御霊大神、配神は日向守光秀とあり、さらに「宝永元年(1704年)朽木植昌候の代 光秀の霊を併せ祀り」とありました。光秀が没したのが天正10年(1582年)ですから122年経ってようやく"配神"として祀られたのですね。
 本殿を持つ境内は高くなった丘の上にありますが、そこに頼山陽の「本能寺」と題した漢詩の石碑があります。近年建てられたものと見受けましたが、それをどう読み解くか、私にはよくわかりません。ただ詩文中の「老いの坂 西に去れば備中の道 鞭を揚げて東を指せば天なお早し」は、岐路に立たされた明智光秀に迫ります。(偶然ですが、8月初めに藤沢周平著の「逆軍の旗」を読みました。この詩文との符合に驚きました)
 この境内に日本で唯一の堤防神社があり、境内から参道を下りた広場に、昭和28年9月25日の台風13号による洪水時の"浸水位20.69m"を示す表示塔がありました。写真ではその高さが実感できませんが、側に立って見上げると私の背丈の4倍近くありそうです。浸水位20.69mは尋常ではありません。おそらく周辺の木造民家の屋根を越える高さまで水がきたでしょう。福知山は古い時代から、すぐ側を流れる由良川の豊かな恵みを受けると同時に、その氾濫による大水害に苦しめられ、不撓不屈に生きてきた町です。
 それを示すように、この神社の近くに治水記念館があります。下柳町の旧街道(山陰道)に面した二階建て民家がそれです。残念ながら休館の札がかかっていて入れませんでした。(休館日が火曜日であることを確認していたのですが・・・)資料によると二階に避難用の船とそれを吊り下げる滑車などが展示されているそうで、水害時の人々の苦闘と知恵を見たかったのに残念無念です。
 江戸期、由良川の舟運は隆盛していたようです。その拠点であった下船渡口(げせんどくち)近くから由良川堤防を歩き、福知山城に向かいました。すぐに蛇が端御藪(じゃがはなおやぶ)=明智藪が見えます。
これは由良川に土師川が合流する地点に明智光秀が築いた堤防(高さ2.0m、長さ1.5km)で、写真のように立派に育ち残っています。
 福知山城は天正7年(1579年)ころに明智光秀によって築城され明治維新まで存在しました。明治6年廃城令により石垣と一部を残して失われたのですが、昭和に入り市民による「瓦一枚運
動」などもあり、昭和61年(1986年)に再建され現在に至っています。由良川に伸びる丘陵にある「平山城」で、こじんまりとしていますが、美しい城です。時間がなくて天守閣の中には入りませんでした。石垣は400年の歳月に耐えてきたもので、多くの五輪塔などの石造物が「転用石」として使用されているのが特徴だそうです。
 天守台の広場から、はるけく福知山市街地が見下ろせます。逆に言えば市街地から福知山城が仰ぎ見えます。満々と水を湛えた由良川は230年の間に40回以上も決壊を繰り返したと言い、そのたびに人々は不屈の心意気で町を復興しました。そんな人々に光秀が築城した福知山城はどう見えたのでしょう。「瓦一枚運動」に寄せる人々の思いが伝わってくるようです。
 夕方、福知山を後にしました。滞在は5時間弱。見られなかった所や。行けなかった所ばかりで心残りですが、次回の楽しみとします。
 帰りは大阪行き"丹波路快速"一本で楽ちん。暮れなずむ里山の家々を眺めながら無事帰ってきました。
 追記:山とスキー好きの友がこの拙文を読んで「福知山線路線模式図」を作ってくれました。ご覧ください。

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