12期の広場

12期の広場

思い出を綴る (11)

思い出を綴る (11)
3組  石井 孝和

 
びわ湖の出口の一つ。瀬田川の洗堰(あらいぜき)上がびわ湖です。
びわ湖の水は2つの方向に分かれて流れ出ている。1つは自然の流出口、瀬田川の洗堰(あらいぜき)で、瀬田川から宇治川、そして淀川を経て大阪湾へ流れ出る。このことはよく知られている。もう1つの大津市三井寺から明治時代に大規模工事で造られた「琵琶湖疏水(そすい)」が、京都東山区の三条蹴上(けあげ)で浄水場と「哲学の道」の脇を流れて京都市内を経由したのち宇治川に合流することは広くは知られていない。
 わたしがNHK大津放送局から京都放送局へ、今度は単身で転勤した翌年の昭和63年(1988年)の夏、宮内庁の京都事務所を訪れたところ、京都御所にある池にびわ湖と同じ“淡水赤潮”の現象が見られることを知った。
 京都事務所によると、京都御所にある3つの池には、
 
南北朝時代から京都市内を北から南に流れる鴨川の水を引き入れていたが、明治時代に琵琶湖疏水が完成したことからびわ湖の水を取り入れるようになったという。京都御所の池は、びわ湖の水位に関係することも知った。このことは早速ニュースに取り上げた。びわ湖の水位がマイナス1メートルになった前の年の夏、近江八景の一つ「堅田(かたた)の落雁」で知られる大津市堅田にある「浮御堂(うきみどう)」周辺のびわ湖が干上がり、わたしが湖底に立ってリポートしたことを思い出した。こんな思い出を京都事務所で話していると、偶然にも事務所の人が「近く、地下水を汲み上げる工事に入る」と言ったことから、これまたニュースで取り上げることにした。
 
重いテレビカメラ。これを肩にかつぐ。
工事は予定通り翌年の春には完成。京都御所の池はびわ湖の水と地下水が混じることになった。
 この取材を続けている途中、今度は「オランダの女王が“おしのび”(非公式)で御所においでになる」という話を耳にした。“おしのび”の当日、わたしは“NHKの赤い腕章”をつけ、重さ約10キロのテレビカメラを担ぎ取材に駆けつけた。他社の取材者はいなかったようだ。
 女王のお名前は「ベアトリックス」。昭和55年(1980年)にユリアナ女王から生前に王位を継承されたという。(“生前”は日本と違うところ)
 当日はおだやかな日和に恵まれ、一行約20人が御所の散策を楽しまれた。テレビカメラはビデオテープで撮影しながら音声も収録できるため、わたしは、女王に“散策の感想”をひと言いただけたらと思って、近くにいた“おつきの人”にお願いした。するとその人は女王に近い別の人に順々にそのことを伝えてくれて、間もなく“答え”が戻ってきた。はらはらした気持ちで返事を待っていたわたしの目に入ったのは、さきほどの“おつきの人”のクロスさせた“人差し指”であった。しかし、ベアトリックス女王は、終始にこやかにほほえまれて御所の佇まいを楽しんでおられるご様子で、あえて“お声”はいらなかった。
 京都は伝統産業と先端産業がともに盛んなところ。 わたしが産業界の情報が集まる「経済記者クラブ」に所属していたこの頃、西陣織のネクタイの柄にコンピューターを導入したり、立石電機(現在のオムロン) が“ファジー推論”
 
ジャイロコンパスの役割を果たす小さな電子機器の部品
(ゼロ・イチの数値とは違って「もう少し強く」とか「もう少し弱く」といった人間に近い表現・感知が可能な考え方)を活用したロボットを開発したり、更には村田機械が家庭用のファクシミリの生産を始めるなど、京都に本社を持つ企業が活発な動きをしていた。
 わたしが放送局にいたある日の夕方、精密機械メーカー村田製作所の若い広報マン2人が来局した。2人は「経済記者クラブ(京都商工会議所内)に行き、弊社の新製品の説明をしてきましたが、あなたの顔が見えなかったので、会社に帰る途中、寄せてもらいました」と言って、配布してきた資料と一緒に“小指”ほどの大きさの“製品”(部品)を見せながら説明に入った。
 「この製品は大型船舶に用いられる船のバランスを保つジャイロスコープの役割を果たすものです」と得意満面で話してくれた。この製品の用途は、海底開発や宇宙開発など、幅広い分野で
 
ジャイロコンパスを搭載し、ロボットが自転車を運転する。
活用されることが予想され、ニュースにする価値があると思ったが、「こんな小さな“製品”だけをテレビで紹介するのは難しいよね」というと、「弊社まできていただければ、この製品を搭載した“自転車”をお見せしますよ」という返事。わたしはカメラマンと一緒に会社に行くことにした。
 辺りがうす暗くなった時刻に会社に着くと、構内にあるテニスコートに照明が灯された。そしてそこに登場したのは、遠隔操作で走る人形が乗せられたおもちゃのような自転車だった。人が歩くくらいのゆっくりした速度で走る自転車は、ハンドルが右に左に操られ、バランスを保っていて倒れることがなかった。その様子をカメラマンが追いかけて撮影し、翌朝、私のリポートでBSニュースの電波に乗せられた。
 時代が昭和から平成に移る頃も京都勤務が続いた。平成に入り、街は華やかさをとり戻し、伝統文化を紹介する織物や染物などの展示会が盛んに開かれた。わたしは京都で伝承されている伝統工芸にも関心をもっており、その都度、本職のカメラマンと共に取材に行き、“茶の間”にニュースとして紹介した。
 平成3年5月には、宇治市で“京都みどりの祭典”と銘打った「第42回全国植樹祭」が開かれた。この祭典には天皇皇后両陛下が臨席された。祭典では両陛下が北山杉としだれ桜をお手植えになり、午後からは、京都府南部に建設中の関西文化学術研究都市の研究施設を視察された。この施設は精華町に完成した「国際電気通信基礎技術研究所」で、先端産業につなげるための実験が行われていた。
 両陛下の行幸啓(天皇・皇后が外出すること)に同行している宮内庁詰めの取材陣とは別に、地元京都府庁担当のわたしたち取材陣は、一行の現地到着より一足先に行き、待ち受けていた。“NHKの赤い腕章”をつけたわたしは、両陛下とおつきの人が施設に入られるのを見計らってその列に加わり、ちゃっかりと、両陛下の真後ろに並ぶ形になってしまった。
 
ユーロコンピューターの実験をご覧の両陛下(真後ろで赤いNHKの腕章がずりおちているのが私)
  この実験室で両陛下は「自動翻訳電話」と「ニューロコンピューター」(手書き文字認識)の実験に参加され、お二人とも大変ご満悦の様子であった。この内「ニューロコンピューター」の実験では、天皇陛下がコンピューターの前に座って“電子ペン”を手にされた。この時、天皇陛下が“「平成」にしようか、「平和」にしようか”と小さな声を出され、思案されたご様子。ほんの少しの間を置いてから「平和」の文字を机上のプレートに記されたのが見えた。するとすぐさま「ピース」と英語で男性の音声が流れたため、部屋いっぱいに、どっと驚きの声と拍手が沸き起こりそれまでの“緊張”から解放されたようになごやかな雰囲気が漂った。そうした中で、わたしが両陛下の真後ろで目にしたのは、お二人のほほえましいやりとりであった。実験を終えられた天皇陛下が皇后陛下を見上げられて、“あなたもやってみますか”とゆったりとしたやさしさに満ちた静かな声で尋ねられたのに対し、皇后陛下は周りの人たちに気遣われて、声をたてず、慎ましい笑顔を見せながら、右手の人差し指を軽く立て、顔の近くで、そっと左右に動かす仕草をなさった。天皇皇后両陛下の5日間にわたる行幸啓に同行取材をした中でもお二人の短いやり取りは印象深いものであった。
 ことしは戦後70年、NHKが放送した戦後を綴ったドギュメント番組を視聴した。この中で、天皇陛下が小学生だった時に習字で「平和」「建設」という文字を力強く書かれたのを見て、あの時の電子ペンで書かれた「平和」の文字がわたしの脳裏に重なっていた。

―― この時期の世の中の動き――
▽昭和62年(1987年)10月
 ・利根川進米マサチュウセッツ工科大学教授がノーベル医学生理学賞を受賞。
▽昭和63年(1988年)3月
 ・青函トンネル開通、同10月瀬戸大橋開通
▽昭和63年(1988年)9月
 ・昭和天皇病状悪化。111日に及ぶご容体報道のため終日放送。阪急ブレーブス、オリ
  ックスに球団売却。
▽昭和64年(1989年)1月7日
 ・吹上御所で昭和天皇崩御。在位史上最長の62年。
▽平成 元年(1989年)6月
 ・衛星放送第1テレビ、第2テレビ本放送開始。8月 イラク軍クエートへ侵攻。11月
  官民労組大同団結「連合」発足。
▽平成 2年(1990年)4月
 ・大阪花の万博開催。半年間に2300万人入場。11月「即位の礼」。NHK・民放各社中
  継放送。12月バブル絶頂期。株価1年で約8900円上昇。
▽平成 3年(1991年)1月
 ・湾岸戦争始まる。4月牛肉・オレンジの割当制度撤廃、自由化。5月滋賀県で開かれてい
  た「世界陶芸祭」に向かうJR快速電車と信楽高原鉄道が正面衝突。42人死亡、600
  人以上が重軽傷。6月南アフリカ大統領がアパルトヘイト(人種隔離)政策終結宣言。
▽平成 4年(1992年)3月
 ・東海道新幹線「のぞみ」運転開始。

                            (次号につづく)

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