12期の広場

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安全文化と美術文化

6組  圓尾 博一
 
 右の写真は昨年末(H15年12月)まで福島県双葉町の国道6号線を跨いで掛けられていた「原子力明るい未来のエネルギー」という原発PR看板である。ひとっこ一人いない町の中を、防護服を着た作業員がこれからこの看板を撤去しようとしているのである。この標語を考えた地元の大沼さんは、負の遺産として現場保存を求めたが、老朽化を理由に東電に不都合なこの標語は撤去されてしまった。これをもって今までの政府と東電によって喧伝されてきた原発の「安全神話」なるものは完全に払拭されたのであろうか。
  原発事故から5年、まだ10万人の人たちが帰還できない現状を差し置いて「安全文化」なる聞きなれない言葉を聞いたのは、確か1年ほど前のことであったように思う。国会中継のニュースの中で、原発再稼働についての質問に対して、安倍首相のペーパーを読みながらの答弁の中に、その言葉はあった。彼の答弁の主旨は再稼働が可能なまでに「安全文化」なるものを積み上げてきて、確固とした技術にまで達している・・・というものである。要するに「安全神話」を信じ込ませ、それが瓦解するや「安全文化」にスルリと変換したわけである。
 私は美術文化という団体に所属しているので、文化とつく言葉には日頃から敏感にならざるを得ない。その眼でみると、文化という言葉は、日常の印刷物やテレビの中で頻繁に使用され、それなり(・・・・)の意味合いで、私たちは理解して咀嚼しているのであるが、余りに安易に使われているのではないだろうか。最近は「戦争文化」なる言葉も存在するようである。その意味するところは、いかに良心の呵責なく人を殺戮し得るか、という空恐ろしいものである。「不倫は文化である」といった御仁もいるが、これはまあカワイイ方であろう。私は文化の背景に「人間の幸せ」がなければならない、と考えるのであるが如何であろうか。宮沢賢治は「農民芸術論」の中で、「世界中の人が幸せでなければ本当の幸せはない」と書いているが、文化の目指す根本の立脚点は、そこにあるように思う。その尺度によって、文化であるか非文化であるかが忖度されるのではないだろうか。
  安倍氏が答弁に使った「安全文化」は英国マンチェスター大学教授の著書「組織事故」という書物の中で使用された言葉で、頭の良い官僚がこの中から引張り出して、答弁書のペーパーとして作成したものであろう。ところで「安全文化」という訳語のもとの語は一体何なのか?原典を読んでいないので、誤っているかもしれないが、訳者は本の中の一個所PROTECTIONを安全と訳した、という注釈をつけている。PROTECTIONとは防御という意味である。すなわち安倍氏のいう「安全文化」というのは「防御文化」と置きかえられる。何に対する防御か。放射能に対する防御であろう。オリンピック招致の際に「汚染水はコントロールされている」と大見得を切っていながら、未だに山からの水を遮水壁で防御できず、日々汚染水は海に流出している。そんな状態を眼のあたりにして「安全文化」は信じられるだろうか。そもそも、それは「組織事故」という範疇のものではないと私は考える。日本にある54基もの原発はほとんど停止中であるが、その使用済核燃料は、各施設のプールに貯蔵され、ゆくゆく再処理されるにしても、最終的な核のゴミを埋蔵する施設を持たない。それらのゴミの放射能半減期は10万年という途方もない時間である。埋設されたとして、地震国日本の地殻変動によって、どんなことが起こるか、だれも想像できない。火山活動によって地上に撒き散らされるかもしれない。現在福島で起こっているように、地下水を汚染し、地球の川や海を、生命が住めないまでに汚染し続けるかもしれない。原爆と原発は同じ科学的浅知恵(・・・)によって成り立っている。そもそも核と生命は並び立ち得ない。放射性物質を対象とする限り、今の科学では「防御文化」も「安全文化」も成り立ち得ない。目先の欲から「安全文化」というような造語によって原発再稼働の正当化を誤魔化そうとしている。生命という究極の幸せをないがしろにする「安全文化」は文化ではない。
 
  次に我々の団体名である美術文化について一考察したい。聞くところによると、美術も文化もARTとCULTUREの翻訳語であるらしい。このような一般名詞を堂々と団体名につけた創立会員たちの考えは、どんなものだったのだろう。創立のテーゼに「日本の正しい美術文化を構想し・・・」とあるように、彼らの思いは「日本の美術」全般の正しい方向性を目指したもので、時代の変化に即応した、いわばコンテンポラリーなものであるように思う。公募のキャッチコピーに使われている「内なる自己に忠実」というような、内向の狭い矯小化されたものではないはずだ。文化の語源が農作業を意味するCULTUREであるように、文化は常に耕し続けなければ、その土壌は活性を失い、生き生きとした作物(作品)は生まれ出て来ないであろう。
  先の「組織事故」の著者は、最後の第九章「安全文化をエンジニアリングする」の結語としてつぎのように述べている。
 
  「最後にぜひとも指摘しておきたいことは、もしあなたが、あなたの組織がよい安全文化をもっていると確信しているならば、あなたはほとんど確実に間違っているということである。優雅さのように、安全文化は努力することであって、めったに達成されることのないものである。宗教のように、成果よりも過程のほうが重要である。美徳、そして報酬は、結果よりもこの努力にある。」
 
  この文章の「安全文化」を「美術文化」に置き換えて、もう一度読んで欲しい。この複雑にして多岐にわたる時代に沿って、コンテンポラリーな作品づくりへの努力、これが今後の「日本の正しい美術文化の構想と具現」への指向であり、その意味で美術文化の使命は永遠に続くものである。
 イタリアを代表する指揮者、リッカルド・ムーティ氏は対テロについて先日7月4日次のように語っている。
 
  文化によって問題をただちに解決することはできない。だが、文化は長期的には力強い武器になる。社会をより気高い水準に引き上げることができるからだ。
 
  「めったに達成されることのない」「正しい美術文化の構想と具現」を目指し「社会をより気高い水準に引き上げる」ために私達の努力が無駄になることは、けっしてないはずである。
 
 HP委員註 : 以上の文章は圓尾君が、所属する美術文化協会機関紙 復刊第30号(2016.10)に執筆されたものを、転載させて頂いたものです。横浜の榎本進明君から紹介を受けて、「12期の広場」への転載をお願いしたところ、快く承諾を頂きました。ご厚情に感謝申し上げながら、承諾のお手紙にありました以下の文章を紹介させて頂きます。
 
  「『美術文化協会』は1939年当時の前衛作家が集まって作った団体(特にパリで勉強してきた福沢一郎という作家が旗を振って作った)で、当時のパリ画壇ではやっていた、シュルレアリスム(日本では超現実主義と訳します)を輸入した傾向が強いとされています。ただ戦争前夜という時代的に大変不幸な時代に生まれまして、福沢はじめ多くの人々が検察に思想犯として検挙され投獄されました。1941年は太平洋戦争勃発の年で、私たちはその年に生まれた訳で、私は美術文化に所属しているのも、何かの因縁かなあ・・・と思っています。」

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