12期の広場

12期の広場

国道2号線淀川大橋改修の見学と海老江と淀川の歴史 

8組   末廣 訂
 
見学日―平成30年4月20日(金)午前10時~11時半ごろまで。 参加人員11名
1.  はじめに
 当日は久しぶりに雲一つない快晴で、絶好の見学日となった。午前10時前に会員は工事事務所のある旧中津運河ベリのプレハブ事務所に集まった。
 この見学に申し込んだのは、福島区歴史研究会より総勢11名である。
 
 事務所内は会議室になっており、各テーブルに、ヘルメットや安全ベルト・反射チョッキが置いてあり、前方には、パソコン・プロジェクター・スクリーンが準備されていた。担当の方にお聞きすると、今まで約40団体が見学に来たとのことです。
 手元に説明資料が準備され、担当の方からプロジェクターを使いながら説明をいただいた。説明の内容は「淀川大橋の概要、橋の構造、淀川大橋の歴史(西成大橋から淀川大橋へ、鉄道と併用橋、大阪大空襲による被害)そして老朽化の現状と工事内容、床版取替工事、工事の日程」等であり、専門用語が多かったが写真等もあり理解しやすかった。
 この大改修工事は約3年かけ、2020年3月までかかる工事というものです。
 約30分の説明後、見学の準備として、テーブルにある反射チョッキ、ヘルメット等を各自着用した。
 
2. いよいよ工事現場の見学へ
 工事事務所から現場まで約100メートル、重装備姿で一列に並んで歩き、大橋の袂(下流側の現場)にたどり着いた。
 一歩工事現場に足を入れると、大型の機械や機材がおいてあり、まだ舗装ができていない橋道が続いており、右側には交通渋滞の車が並んでいる。舗装ができていない床版上を150メートルほど歩き、その後、橋脇の木組みの足場(幅は約1.5メートル)を100メートルほど進んだ。このあたりになるとほぼ橋の中心部で風が涼しい。ここで、案内の人が今度は下に降りる狭い階段の取手を開け、下に2メートルほど降りた.
 ここは車や人が通っている下で、所謂、橋桁の部分で鉄筋の柱がタテ斜めに乱立いるのが見える場所である。まず驚いたのは、先の大戦で数回にわたり米軍機の爆撃機による攻撃で、被害を受けた痕跡があった。いわゆる戦闘機による機銃掃射により銃弾が貫通した銃弾の痕跡が数か所あり、空襲の激しさを今に伝えている。
 一方、大橋ができて100年近くたち、床版の損傷、鋼材の腐食、また、コンクリートの剥離や鉄筋の露出があり、橋の健全度(橋単位)は4段階でレベル3の悪い状態であると説明を聴いた。
 大正末期の大工事だが、建設当時、大量の鋼材を国内製造で困難であり、八幡製鉄所、神戸製鉄所の他、アメリカやイギリスから鋼材を運んできたという刻印が確認されている。当時は丁度関東大震災(大正12年)の直後で、のちに阪神電鉄の路面電車が走る等、地震に強い橋梁の施工が要求されていた。
 まさに大阪は西成郡を大阪市に編入し、人口211万で日本第1位、世界でも6番目の大都市で大大阪の時代であった。
 橋桁の見学後、上にあがって全員で記念写真を撮った。また、工事担当の方から我々が福島区歴史研究会であるので、記念として当会へ弾痕跡が残っている橋脚部分を約70センチ四方に切取り、寄贈してもよいと提案をいただき、5月の連休前後にいただき、現在、福島図書館と福島区役所5階の2か所で展示中です。
 
3. 淀川と地元海老江の歴史
 我が家に「淀川大橋開通式記念・大正15年8月25日」の刻印がある直径15~6センチメートルの丸い鉄製の記念皿がある。祖父が竣工渡り記念式典に参列した時の記念品ときいている。
 淀川や中津川は大阪の人々の日常生活を大いに潤していたが、その反面、度重なる水害によって人々を苦しめてきた。特に明治18年の台風は被害が大きく、枚方で堤防が決壊したため、大阪市内で14,000戸が流失し、死者も出た。
 のちに治水翁と称賛された大橋房太郎が政府に働きかけ、明治29年に河川工事を国が行うという河川法が成立した。そして当時蛇のように曲がりくねっていた中津川を毛馬辺りからまっすぐ大阪湾に流すという大治水工事が31年から始まった。
 ところが、この工事により、当時の海老江村の土地65%(90町歩・甲子園球場の25倍)が川底になり、しかも海老江新家(現西淀川区花川町)は分断されてしまった。現在でも花川町に海老江南桂寺の檀家がおられ、数10軒の方がお参りに来られている。
 また、海老江村の墓は移転し、「野田福島の戦い」で織田方の陣営だった「海老江城・砦」は川底になった。しかも当時農業が主体だった海老江の農家の田畑も川底になってしまった。
 新淀川の掘削で出た土砂を運ぶため、中津運河が並行してできた。土砂は当時の井路川を通じて、梅田付近、大開や海老江にあった川や池を埋め立て、そこに新しい住宅や工場が建ち、どんどん人がうつり住み新しい町ができてきた。淀川の土砂を運んだ中津運河は昭和になって埋め立てられ、新しく淀川左岸線の高速道路の予定地になっている。この治水工事を記念して海老江八坂神社裏の公園に「疏河紀恩の碑」が建っている。(写真右)
 その後、新淀川に有料の橋がかけられ、「淀川の 銭取り橋や 寒習い」と詠んだ松瀬青々の句が残っている(海老江の住民は無料であった)。そして明治末に当時西成郡で一番大きな橋、西成大橋が完成した。現在その「西成大橋」の親柱が海老江八坂神社と花川町の鼻川神社の境内に残っている。大正末に、西成大橋の上流側に並行して、現在の淀川大橋が建設されることになった。
 明治37年生まれである父親から子供の頃、淀川の土手工事が続いており、「モッコ」を担いだ工事人が土手を行ったり来たりしていた話を聞いたことがある。
今回、淀川大橋の改修工事の見学に参加でき、親から聞いた話や街の変化、また先の大戦で1トン爆弾が淀川大橋と我が家の前に落ちたこと等を思い出し、ひとり郷愁の思いで見学した。  
 その後、歴史研究会の会員10名で上流側の床版取替工事と1トン爆弾が落ちた橋桁を11月末に2回目の見学をした。そして、10月頃から左岸線(阪神高速道路)の本格的な工事がはじまっている。したがって淀川河川敷の子供の遊び場や野球やサッカー・テニス場の利用、天気の良い日は、バーベキューを楽しむ家族や団体が見られたが、高速道路の完成までの7~8年間は進入禁止で、これらの風景は見ることができない。

 
 
 註: この文章は「福島区歴史研究会会報 第11号」に掲載されたものです。筆者の末廣訂君に「12期の広場」への転載をお願いしたところ、一部改訂頂き、掲載となりました。ありがとうございました。
 「平和の碑」の説明文にある「6月26日の死者」は、1945年のこの日、「第5次大阪大空襲」時に犠牲なられた海老江の方々のことです。( HP委員 記 )

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