12期の広場

12期の広場

塚本建生君(8組)のこと

川村 浩一(3年8組)

(写真1:若き日の塚本君)

 塚本君は3年間同じクラスで過ごした、懐かしい友です。亡くなってもう20年になろうとしています。いつまでも多くの人に思い出してもらいたいと思い、墓碑銘のつもりでここに塚本君の生涯をご紹介します。写真は藤居さん(2組)、酒井君(4組)、久保君(6組)にご提供いただきました。

 1990(H2).11.23にホテルニューオータニ大阪、鳳凰の間で卒業30年記念同窓会がありました。110人が集合し賑やかでしたが、その中でも30年振りに姿を現した塚本君の元気ぶりが今も伝説となっています。2次会でもお開きになるまで元気に騒いだ塚本君を出雲路のお宅まで送って行きました。

(写真2:一次会にて 山本君も隣にいますね。) 
(写真2:一次会にて 山本君も隣にいますね。)

(写真3:二次会にて)
(写真3:二次会にて)
 

 このときすでに膀胱がんの手術をしていましたが、同窓会であれだけ元気だった塚本君が翌年1991.11.22の夜に鞍馬口病院で亡くなりました。大将軍の妙林寺での通夜には12期生13人が集まってくれました。

(写真4:亡くなる半年前の塚本君)
(写真4:亡くなる半年前の塚本君)
 

 翌年、初盆の1992.8.16に出雲路の塚本君宅に有志が集まり、大文字の送り火を見ながら塚本君をしのびました。さらに秋には藤居さんのご尽力で塚本君を偲ぶ文集「蓬」が出来上がりました。9人が寄稿しています。塚本君は一人っ子で、しかもすでに奥様を亡くしており、お子さんもなかったことからお母様がひとり残された形になりました。そこで桜の時期、大文字送り火と命日の年3回、塚本君宅に集まるのが例となりました。このあたりのことは、50周年記念文集「みをつくし」に軽く触れております。

(写真5:塚本君のお宅前から大文字山を臨む。)
(写真5:塚本君のお宅前から大文字山を臨む。手前は鴨川。最も京都らしいところです。撮影、川村)
 

 高校時代のことは特に書きません。ぜひ、皆さんの思い出をコメント欄に付け加えてください。ただ、塚本君の数学のセンスは一流だった、という証言があります。

 市岡卒業から30周年記念同窓会で再開するまでの塚本君のことを久保君と鳥海幸子さん(学生時代から塚本君が家族同様にお付き合いしていただいていた方です。塚本君の死後は我々の仲間に入っていただいています。)にお聞きしました。

 入試は久保君と一緒に京大理学部を受けました。ずいぶん押し詰まって「京大受けようと思うんや、どんな勉強したらええやろか」と久保君に相談したそうです。私から見ると一年遅い質問です。このあたりも塚本君らしい話です。「京大は素直な問題が出るからまともに勉強したらええんちゃうか。」と答えたとのことです。結果は久保君が合格し塚本君は不合格。受験のあと合格発表までの間に塚本君と久保君は、やるせない時間をつぶすため奈良を歩いています。その時の写真があります。

(写真6:若草山にて)
(写真6:若草山にて)
(写真7:そろってキャンディ)
(写真7:そろってキャンディ)

 捲土重来を期し一年後工学部数理工学科に見事合格しました。12期生はこの年6人が浪人して京大に入りました。後日、「なんで数理工学や?」と聞くと「色弱やからここしかないんや。」という、半分わかって半分わからない答えでした。下宿さがしは東山沿いがいいというので、久保君と一緒に南禅寺から銀閣寺までの疏水沿いの二階家を片端から尋ね歩き、いくつかの候補の中から法然院の近くに決めました。私もその年の「大文字・送り火」の晩に泊めてもらいました。

 このようにして京大生としての生活が始まりましたが、スムーズには卒業までいきませんでした。塚本君らしい話です。鳥海さんのお話では、塚本君は教養課程の頃、北大路高木町の喫茶店「ユングフラウ」に入り浸っていました。(今はありません。)ここで鳥海さんの弟さんと知り合い、鳥海さんの家によく上がり、その後家族ぐるみのお付き合いになりました。教養課程2年の時、ユングフラウの美しい女性、洋子さんと結婚。下鴨神社で挙式、披露宴は神社の西隣の「生産開発科学研究所」(私も現役時代、この研究所とは共同開発テーマに取り組みました。懐かしいところです。)の生研会館。(以上は鳥海さんの話です。久保君は「披露宴は京都ホテルだった」と言っておられます。)カメラマンでもあった鳥海さんの弟さん撮影の写真が朝日新聞夕刊の家庭欄に掲載され、偶然それを見た久保君を驚かせもしました。晩年の洋子さんにお会いしたことがあります。すでに目と足が不自由になっておられましたが、お話が好きでチャーミングな人でした。

 結婚してしばらくして喫茶店を鴨川のほとり出雲路橋に開きました。自ら蝶ネクタイ姿でバーテンをしていたそうです。ヘミングウェイのようなひげを生やしていたこともあります。仕事の手際がよく、お店は好評でした。友人の間では学校をやめたといううわさが流れ、久保君も「どうすんねん」と心配して店を訪問したそうです。しかし、卒業したことは間違いありません。私が25周年記念同窓会のあと塚本君の住所を見つけたのは、京大の同窓会名簿からです。教授に「単位を下さい」と直談判して卒業させてもらった、と言っていました。一升瓶一本で首がつながる良き時代でした。

 組織に縛られない人生でした。いい大学から、いい会社に行くという世間の道からは一風変わった人生。これも塚本君らしいですね。「大文字・送り火」が来るたび塚本君を想います。

“塚本建生君(8組)のこと” への12件のフィードバック

  1. 金本美智子 says:

    感動いたしました。友情とはこのようなものなのでしょうね。川村さんの やさしい思いが
    伝わってきます。天国で 塚本さんも きっと嬉しく思ってられますよ。

  2. 川村浩一 says:

    金本様、コメントありがとうございました。
    塚本は、こちらがきつく突っ込んでも、いつもやんわり受けてくれました。たいした奴でした。
    金本さんの高知での活躍応援しています。また、この広場でも披露してください。(土佐の銘酒、おいしかったです。)

  3. 久保武治 says:

     この5月だったろうか、そのある日、久しぶりに川村君から電話がかかり「塚本君の生前をしのぶ文章を書こうと思うのだけれども、君は彼の昔の写真を持っているか?」と聞かれました。「写真なら1960年3月に奈良若草山に一緒に散歩したのがある」と答え、それは川村君のいい思いつきだと思いながら、即刻古いアルバムからはずして彼に送りました。彼の大きな尽力でこのような名文が完成し本当に良かったと思います。
     文章にありますように一年の艱難辛苦の結果、塚本君は翌1961年、工学部に入学しました。早速下宿探しが一緒に始まり、(南禅寺疎水沿いの)二階にカーテンがかかっている日本家屋を一戸一戸片っ端から訪問しました。数十軒は行ったでしょうか、努力の末、内3軒に目星が付き、決断を彼に任せました。古い百姓屋でしたが、その下宿の庭に「ポポーと言う大変珍しい南洋の果実が出来た。大変甘いらしいぞ」と暫くして持ってきてくれました。その後、彼は奥さんを早く見つけて、しかも結婚式の披露宴の写真を朝日夕刊の家庭欄に「狭いながらも楽しい我が家」の題で載せたことも、まだ学生の分際のこちとらには大変ショックでした。
     塚本君の豪放磊落な性格もさぞやお母様の愛情を一身に受けて養われたのだと思います。気に入らぬことがあろうとも相手に反対したことが無く、「アッハッハ」と受け流していた姿が思い出されます。今回、簡潔にして心温まる文章を没後20年に川村君に書いてもらい、さぞや塚本君も天上で感謝していることと思います。私も川村君に感謝申し上げます。

  4. 川村浩一 says:

    久保さん、コメントありがとうございます。文章もほめていただき光栄です。
    われわれの集まりででも、塚本君のお母様はいつもニコニコされていました。よく「薫ちゃんが・・・」と弟の別当薫さんの話も聞きました。
    監督は甲陽中学(旧制)出身ですが、本当は市岡中学(旧制)で野球がしたかったのだそうです。甲陽中学の面接で「もし市岡にも合格したらどうするの?」と訊かれて、子供だからつい「市岡に行きます。」と胸を張って答えたそうです。それで初年度は甲陽中学を落第したとのことでした。
    もし塚本君も脚が悪くなければスポーツでも頑張れたでしょう。

  5. 久保武治 says:

    川村さんのコメントを読んでいるうちにまた思い出します。高校時代でしょうか? 塚本君の大阪のうちに遊びに行きました。材木やさんの近くでした。その時に受験の話をしたかもしれません。
    おじさんが別当薫に当たることもそのとき聞きました。
    しかし、今思い出せば、本当に彼は早熟で、いろいろの事に通じており、話している内に「久保おまえなあ–、まあええか!」と今も天上で笑われている気がします。

  6. 藤居 くみ says:

    塚本さんは尼崎から八坂中学2年同じクラスに転校してこられました。
    高校では野田の駅で帰り時間に合わせて待たれてました。
    社会人になって、京都に誘われたが、むげに断ってしまった。
    気になっていたので卒業25年目の同窓会で消息を聞いて回ったが行方不明とのこと。
    30年目の同窓会では大はしゃぎしたことが有名だが私は行かなかった。
    数日後我が家に電話があり、鞍馬口の料亭で30年ぶりに4人で出会った。
    数日後二人で北野天神へ梅見に行って、今までの苦労を淡々と話された。
    満州でお父さんと弟さんを亡くされお母さんと苦労して帰ってきたけど邪魔者扱いされ、荷車から落ちて足も体も悪くされ、学校も行けず1年遅らせた。
    その後もあちこち転々として、材木屋の親戚宅に住んだ。
    学生結婚した奥さんは喫茶店をしていた個性的な人だったらしい。子供はなくて、アルコール依存症と糖尿で、目も足も悪くて、ある日会社から帰ったら亡くなっていたと云う。
    そんなことも明るく他人事のようにしゃべっていた。
    その数日後に脚が悪いと入院した。それが癌の再発とは全く気付かず、すぐに治ると思っていた。それで調子が良い時は、コンサートや花見を楽しんで、出られなくても屋上や近くを車いすで散策した。
    それであの同窓会から丁度1年目に「君の中でもうちょっと生かせてもらうわ」と言って亡くなった。お母さんは「この子の一生は終わりの1年が良かったから終わり良ければ全て良や」と喜んでおられる。同じ表情だ。その後7年お母さんと付き合っていろんなことを教えていただいて、12期の同窓生や奥様とのお付き合いも出来て喜んでいる。いまだに彼は私の中で生きているのだからと思いつつ勇気をもらって日々暮らしている。
    長々とコメントが過ぎて申し訳ありません。これも彼の要望とお許しください。

  7. 川村浩一 says:

    藤居様、コメントありがとう。
    塚本君の晩年を美しく彩っていただきありがとうございました。
    しばらく途絶えている集まりを再開させたいと思っています。

  8. 山西邦子(西海) says:

    京都の駅で藤居さんに偶然お会いして塚本さん宅のお花見に
    誘って頂いた荷がご縁でいらい藤田さん峰松さんと3人で参加させていただく
    ご縁ができました。鴨川のさくらとてもきれいでした。
    山本芳彦さんはし小学校からの連れです。なつかしかったです。
    川村さんありがとう。

  9. 川村浩一 says:

    西海様、コメントありがとうございました。
    塚本君のおかげで、12期の仲間の付き合いも広がりました。まだまだ、広げていきたいですね。
    小学校時代の山本君はどんな子供でしたか?できればご紹介ください。

  10. 山西邦子(西海) says:

    山本さんは小学生のころから大人しい秀才でしたよ。
    家が近いので高校へ歩いて通学していましたが、
    放課後図書室で勉強するために重たい参考書を
    お母さんの手編みのレースの袋に入れて通っていた姿が
    目に浮かびます。
    川村さんにお墓にまいっていただき喜んでおられることでしょう。

  11. 川村浩一 says:

    西海様、ありがとうございました。
    山本君の実家は鉄工所で、静かに勉強するには図書室がよかったのでしょうね。
    また、思い出すことがあれば紹介ください。

  12. 川村浩一 says:

    昨17日、久しぶりに蓬会の仲間が集まりました。(塚本君の一周忌をきっかけに年3回の集まりを喫茶店の名から「蓬会」とも言っていました。)琵琶湖を一望できる藤居さん宅で(藤居さん含めて)7人、雑談に花を咲かせました。

    九州は平戸・生月島で活躍している駒崎君は参加できませんでしたが、メールをいただいています。塚本君に関係するところを紹介させていただきます。
    ・塚本君の結婚披露宴は、確か小生の司会で学士会館で無かったかと記憶しています。(注1) 鳥海まこと君のカメラマン奮闘が目に浮かびます。
    ・また鳥海さんの父上(鳥海一郎)は、永年朝日新聞に音楽評論されていた著名な方であったことは、諸兄もご承知のとおりです。
    ・(新婦の)洋子さんのお父さんは、ここ九州の「き島」炭鉱閉鎖の大闘争を指揮された活動家でした。
    ・今は、唯懐かしい時代です。
    注1:京都には学士会館は無いと思います。学士会会員の私が知らないのですから。下鴨神社との位置関係からも「生研会館」が妥当なようです。

    なお、昨日の雑談で田端君も披露宴に招かれていたことを知りました。

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