12期の広場

12期の広場

ロケット技術者への道

6組 小野義雄

 電力会社に勤めていた父親の影響を受けて、小学生の頃から電信機やモーターを作って遊び、中学時代はラジオの製作がなによりも大好きで、市岡高校に入学後すぐに理研部に入りました。インターネットで調べると、現在の市岡高校でも昔と時期は異なりますが、体育祭と文化祭が行われているようです。

 高校1年の秋の文化祭前夜のことですが、自作のラジオの展示準備を行っていて、単調な信号音とともに世界最初の人工衛星の打ち上げを報じるアナウンサーの声に、理屈ではわかっていても人工物体が地球を周回していることに表現困難な感動を受けたことを今も覚えています。

筆者近影
平成24年3月17日
市岡理研部時代 学生の右端が筆者

 会社に入り最初に設計の手習いをしたのが右の写真の小さなロケットです 種子島から初めて打ち上げたロケットですが、数年にわたる漁業補償交渉がやっと決着し、入社翌年のことでした。

 これは技術試験用の小型ロケットで、合計8機打ち上げたのですが、いずれも何らかの不具合を生じて、今では許されない多くの失敗経験をさせてもらいました。

 その後、当時目指していた電気技術者からロケット技術者への道に鞍替えして現在に至っています。

 戦前の航空産業の中心地にある名古屋大学の航空学科受験希望を担任の先生に伝えると、そんな職業はないという理由で内申書の作成を拒否され、数学担当の先生を介して何とか説得。

 花の浪人時代も経験し、大学卒業後は初志貫徹して三菱重工の現在の名古屋航空宇宙システム製作所で数年前発足したばかりのロケット設計部門に職を見つけ、ついでに名古屋で女房も見つけ、すっかり名古屋人になりました。

技術試験用小型ロケットの初号機

 並行して1年間の自衛隊向けジェット輸送機の構造設計で勉強後、人工衛星打ち上げ用ロケットの構造研究を担当していましたが、当時のニクソン大統領と佐藤首相間の合意で米国からの技術導入へと方針変更がなされ、ロスアンゼルス近郊の米国企業での日米合同チームによる基礎設計に参加しました。長女誕生翌日朝早くの出発で、時間切れでの命名でしたが本人は気にいっているようです。なお、同級の特定の女性から拝借した名前ではありませんので詮索ご無用です。

 当時米国は既に宇宙飛行士の月面着陸を成し遂げ、工場には月へ向かう巨大なロケットがずらりと並んでおり、日米の力の差を痛感させられました。戦後、日本の航空産業のみならず研究も禁止されていたことから、私は戦後の航空学科の6期生です。当時日本ではYS-11という旅客機が生産され、ジェット戦闘機の開発も始まっていましたが、戦前の航空産業とは比較にならない小規模なものでした。

 細部の設計作業は帰国してから開始し、米国の企業から派遣された構造技術者が私の机の隣に座り、以後兄弟のように親しくしていましたが、12年前に私がつくば宇宙センターで単身赴任生活を始めた直後に肺がんでこの世を去りました。亡くなる前日、彼から最後のメールが宇宙センターで仕事中の私のパソコンに届き、しばらく放心状態でした。彼が私を指導してくれたように、今は若い技術者の指導に努めています。

 初めての人工衛星打上げ用ロケットの開発は順調に進み、設計開始から4年半後の昭和50年9月に最初の打ち上げが成功しました。この時打上げた人 工衛星の実物大模型(左の写真)がつくば宇宙センターの展示場にあります。重量は約80Kgで最近宇宙ステーションへ物資補給のために打ち上げる貨物機の 約200分の1です。この貨物機を打ち上げる日本最大のH-ⅡBロケットを間近で見ていますと、長くロケットの開発に関わってきた私にも、空高く飛んでい くのが不思議に思えてきます。

 その後つぎつぎとロケットは大型化され、H-Ⅱロケットの構造設計をほぼ終えた頃、私は新たな宇宙開発の仕事を始めたのですが、その話はいくつかの苦難の話とともに、次回にとさせて頂きます。

種子島から初めて打ち上げられた人工衛星



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