12期の広場
12期の広場
2013年12月1日
市岡高校時代の思い出(哀悼の意を込めて市岡中出身の物故者のことを中心に)
実家の転居に次ぐ転居、亡父の蔵書の処分等々のドサクサで小生は小・中・高の卒業アルバム等々一切合財を無くしてしまったので、おぼろげな記憶を頼りに以下思いつくままに記してみた。この一部は先日開催されたばかりの第6回市岡高東京12期会の席上、初参加ということで、少し長めの時間をいただき紹介させて貰った。
昭和34年度市岡高PTA会員住所録(これを先日実家の倉庫の片隅から見つけた。我ら12期生の卒業50周年時に、高校時代に借りていたので返却するとSU君から送付あり、実に52年ぶりに持ち主である小生に戻った1年生時の生物のノートと共に我が高校時代を偲ぶ唯二のもの)には全学年各生徒の氏名、住所等と共に出身中学校名が記載されている。
それによると我ら12期の3年生は男子246名、女子133名の計379名。この内、市岡中は地元だったためか市岡高への進学者が多く、男子28名、女子18名の計46名を占め一番多い。これだけ多いと家が近所だったとか、小・中・高のいずれかで同じクラスあるいは同じクラブだった、大学も同じだったとか何らかの接点がない限り、お互いよく知らないまま卒業となる。
卒業50周年記念文集[みおつくし]の[発刊に寄せて]に物故者の名前が記載されているが、その後、[12期の広場]の情報で3名が加わり、物故者は男子28名、女子8名の計36名となる。
消息不明者の中にも物故者がいるかも知れないが、少なくとも略70歳までに男子は11%、女子は6%が亡くなっていることになる。女性の方が統計的に長生きなのがこれでも証明されている。
この内、市岡中出身者が男子4名(女子は幸いにも0、但し後述するように定時制生徒も含めると1名)を占め確率が高い。(市岡中出身の男性諸君!お互い気をつけましょう。先日の第6回市岡高東京12期会での話題のように、病気の早期発見に努め、気になったら早目に「ご学友のドクター」に相談しましょう!)
この内、山本芳彦君、白石英三君及び籠谷登志夫君の3名については既に[みおつくし]と[12期の広場]に彼等と同じクラスだった川村浩一君や同じクラブ、大学だった佐藤裕久君等から心温まる追悼の文が寄せられているが、彼等を含む物故者5名を中心に市岡時代の思い出を少し語りたい。
小生、小学校から中学校1年までは大淀区(今は北区)天六の近くにある豊崎東小・豊崎中だった。小6の時、「中学生になったら英語を教えてやる」と言っていた祖父(満鉄の技師、最後の引き揚げ船で帰国)と、毎夜同じ布団で寝ていたが、冬の寒い朝、祖父は隣で冷たくなっていた。
生と死とは一体何だろうと子供心にもいろいろと考えさせられた最初の悲しい出来事だった。
豊崎中は生徒数が大変多くて二部授業が行われていた。学力レベルはかなり高かった。北野高校へ進学できる学区だったからだ。小生は実力テストで概ね学年ベスト10に入っていたので同校へ進学する積りだった。(当時はテストの成績順に名前が壁に張り出された。市岡高では確か3年生の途中から成績表に名前は公表されなくなり、「お前は何枚目や?」「俺か?俺は男前やから何時も通り当然2枚目や」等の会話が交わされていた。)
ところが、父の転勤で港区の市岡中へ2年生の時に転校となった。近所に東京から転校してきた同学年の友達がいたが、彼は大阪の学力レベルは東京よりも低いと言っていた。孟母三遷ではないが、環境の違いが育ちを左右するというのもあながち嘘ではないなと思ったものである。
転校して小生の成績順位はぐっとアップしたが、クラスの違った山本芳彦君の後塵を何時も拝していた。彼は当時から数学が大変よくできた。阪大の数学の教授になったのも当然と納得できる。
小生の高1担任は数学の手島先生だったこともあり、山本君にあやかりたいと小生、短期間ではあったが、数学研究部に籍を置いていたことがある。ある日、1年後輩のSA君から「この問題が難しくて解けません。教えて下さい。」と問題を渡された。残念ながら小生には手も足も出なかった。
面目を失い早々に退部した。山本君ならスラスラと解いたに違いない。因みに小生を困らせたSA君は現役で東大へ進学した。
高梨寛司君は中3の時に転入学して来た。同じ転校者だったからか良く一緒に遊んだ。共通の趣味だったクラシック音楽を安物のLPレコードプレイヤーで良く聴いたものだ。小生、今でもその趣味を堅持しているのは彼の影響が大である。彼とは高3でも同じクラスだった。ある日、近所の映画館で小生が洋画の2本立てを楽しんでいる時に呼び出しがあった。表に弟(市岡高18期)がいて「高梨さんが来ている」と言うので、何事かと慌てて家に戻ったが、些細なことと分かり映画代金を半分損した。彼は家業の関係で京都薬科大へ進んだ。残念ながらお互いに社会人になってからは音信不通となり、[みおつくし]で彼が亡くなっていることを初めて知った。あの世で彼に再会できたならば、美味い酒でもご馳走して貰ってあの時の損を返して貰わねばなるまい。
白石英三君は高3の秋、日本脳炎を患って亡くなった。日本脳炎ウイルスに感染した豚の血を吸った蚊が媒介する怖い法定伝染病なのだが、当時、市岡に養豚場があったのかどうか記憶にない。前途洋々な若人を無情にも奪っていく病の怖さを知ったショッキングな出来事だった。
小生にとってより一層ショッキングだったのは中3で同じクラスだった某嬢が家庭の事情で市岡高の定時制に進学していたが、高1の秋に校舎の屋上から飛び降り自殺したことだった。彼女の先輩の定時制男子生徒が自殺した二日後のことで、二人の関係について良からぬ噂も流れた。
真相は闇だが彼女の人となりを知る小生は二人共に純であったと信じる。事件のあった半月ほど前の夕方に偶々校舎の廊下で彼女とすれ違った。恐らく、その頃には彼女は既にいろいろ悩んでいたに違いない。そんなこととは露知らず「○○さん、久しぶり、元気?」と声をかけたが、彼女は黙ったまま、目礼して足早にその場を立ち去った。彼女の心の内は知るよしもないが、何故小生に何らかのサインを送ってくれなかったのか?小生が鈍感だったのか?何の力にもなれなかったことが痛恨の極みだった。
告別式での彼女の実に奇麗な死に顔、彼女と仲の良かったクラスメートの号泣、お母様と病床にあったお父様(当時、数少なかった大卒)の悲しみに打ちひしがれたご様子を今でも忘れることが出来ない。その秋は校長の特別訓話「人命の尊厳について」を契機に、父の蔵書から引っ張り出した西田幾多郎、亀井勝一郎等の著作を内容がよく分からないまでも読み耽ったものである。
今でも乱読だが読書は大好きだ。
我々は71,2歳を超えて未だ幸いにも生きている。物故者に比べてはるかに長く生きて来た。残りの人生は今までよりもはるかに短いが、志半ばでさぞかし無念だったことであろう物故者のためにも、SI君のような立派なボランティア活動は出来そうにもないが、何でもよいから少しでも自分なりに社会のために役立つことをやって恩返しをしてみよう、その上で精一杯残りの人生を楽しもう、と思う今日この頃である。
同窓会は楽しかった。幹事ご苦労様でした。又、行きます。
以上
ホームページ平成24年10月号の「同窓生の近況報告」に1組~8組の集合写真が載っています。大西君のようにアルバムをなくした方はそれをご覧ください。
今回、同窓会会場に8組の集合写真をA4版で持参したところ好評でしたので、A4版で作成することを考えています。アルバムをなくした方でご希望があればお送りします。(全組対応します)
申込はこの記事へのコメント書き込みから申し込んでください。組と氏名を書いてください。メール添付でお送りします。
写真に各人の名前を記入することも考えていますが大作業になります。お時間をいただく条件で「名前入り希望」と明記してください。
なお、HP紙面に名前入り写真を載せる計画はありません。ご了承願います。
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私も社会にお返しをしたく準備をしているところです。
亡き白井先生のお顔を拝してなつかしさが蘇りました。
お世話になります。12期生の高3時の集合写真お願いします。私もアルバムを紛失しており出来れば全クラスの写真・名前入りでお願いしたいのですが。お手数をおかけします。