12期の広場
12期の広場
2015年7月1日
思い出を綴る (6)
3組 石井 孝和
入局3年後の昭和38年(1963年)BKに新館が完成するとともに、本館と“渡り廊下”で結んだテレビスタジオが増設された。このテレビスタジオでは、藤本義一脚本の連続ドラマ「法善寺横丁」が制作され、放送が始まった。
わたしの“にがい思い出”がこのテレビスタジオを結ぶ“渡り廊下”にあった。
ニュースに中にあって、大事な位置を占めているのが「天気予報」。固いニュースの中で、見る人の気持ちをやわらげ、何よりも日常生活に欠かせないものだ。「天気予報」の出し方に二通りあった。 一つは、スタジオに立てた大きなボードに“晴れ”や“雨”など、予想される天気の手作りの絵図を貼り付け、それをスタジオカメラで撮り、放送する方法。 もう一つは、風景や草花を撮影した映像の上に、府県名や予報の文字をスーパーするのがあった。(現在ではボードに貼り付けていたやり方を電子化している)
“泊り勤務”のある日のこと、夜遅くになって、靴をスリッパに履き替えて仕事についていた。午前0時の放送終了直前の「天気予報」の時間が迫っていた頃、技術部から電話がかかった。「お天気5分前ですよ」と。すでに用意していた音楽を録音した円盤を「お盆」のようにして、フイルムを巻いたリールや府県別のテロップ(鉄の枠に入っている)10枚を載せ、小走りでテレビスタジオに向かった。
報道部からテレビスタジオまでは2分くらいで行ける距離で「まだ放送まで余裕がある」と思っていた。ところがこの思いに反して“渡り廊下”でアクシデントが起きた。—– その頃、屋外はかなりの激しい雨が降っていた。本館から鉄の扉を押し開けて“渡り廊下”に足を踏み入れようとした途端、入り口の段差に蹴つまずき、前のめりになって、持っていたものすべてを床の上に投げ出してしまった。テロップはばらけ、リールはアレヨアレヨと転がって、側面の20センチ余りのすき間から音をたてて落下、地面の暗がりに消えてしまった。“フイルム”を失ったわたしは、何はともあれ、散らばったものをかき集め、スタジオに持ち込んだ。 放送まであと2分ほどしか残っていない。アナウンサーは“アナブース”でスタンバイ。その時、技術陣から「大阪城の写真が一枚あるよ」との声。即座に「それでいこう」と決定、オンエアースタート。技術陣の咄嗟の機転で3分間の放送に“穴”を開けずに済んだ。放送終了後、雨に濡れたフイルムも回収、修復でき、上司からのきついお叱りも受けなかった。ただ不十分な放送を出したことに反省し、この出来事以降、局内でスリッパに履き替えることはピタッとやめた。
この年のほかの出来事と言えば ―――。
▽ 名神高速道路が一部(滋賀県栗東市から兵庫県尼崎市)開通。ハイウエイ時代の幕開け。
▽ 日本最大の高さ186mのアーチ型ダム「黒四ダム」が完成。経済復興による電力不足解消へと、大きな役割を果たした。
▽ アメリカのケネディ大統領がパレード中に狙撃され死亡。NHKが人工衛星を使った初の日米リレーの実験放送が行われていたため、即座に暗殺のニュースが伝えられ日本の視聴者に衝撃を与えた。
ついでに小さな出来事として、私の家も月賦で四ッ足のテレビ受像機を買い入れた。
全国のテレビ受信契約数1500万台を突破したのもこの年だそうだ。(つづく)
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