12期の広場

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市岡高校東京12期会に参加して

市岡高校東京12期会に参加して
8組  萩原 貞雄

1. 銀座の三笠会館へ
 開始時間を確認するため「市岡 12期」でグーグルを検索した。「10月31日に市岡高校東京12期会の同窓会
 
三笠会館前でニコニコ顔のみなさんです。
が銀座三笠会館で・・・」が出てきた。しかもトップに。これはすごい。HPのメンテがよく、多くの人がアクセスしているということだ。自宅最寄り駅から銀座へ50分。黒いマントを被り、猫のメークをしたハロウイーンの人々の間を抜けて地下鉄駅から地上に出る。三笠会館まですぐだ。エレベータ内で児玉さんに会う。会場のロビーに着く。すでに大石橋、張、山田、榎本、泉、西条、重松君らが歓談中。次々と集まり12時半より別室にて集合写真。三笠会館は、今年で30年連続地価日本一の銀座鳩居堂前とは目と鼻の先だ。贅沢にもロビー、集合写真室、宴会室と3つの場所を占拠。亡くなった川合君からここを何かの縁で紹介してもらったお蔭だ。13時より宴会用の円卓テーブル室へ移動。

2. 北村先生、村木君、川合君、吉岡君に黙とう。
初めての二次会で熱唱された北村先生。
最後のお姿となりました。
 生前、北村先生より「萩原の読書感想文が手元にない」趣旨のお詫びのメールをもらった。天国で気にして いるに違いない。「先生、そんなことは気にしなくていいですよ。感想文を出した記憶が本人にないのですから」と伝えたい。 川合君、前回会った時、ウイスキーをストレートで飲(や)っていました。ミラノの話をしましたね。またひょうひょうとしておっとりした印象の村木君。以前三重県から家業の合間を縫ってこの会に来られましたね。

3. 同窓会代表幹事のあいさつ
 酒井12期同窓会代表幹事挨拶。はるばる神戸から駆けつけてくれた代表幹事の身ぶり、手振りの挨拶。関西での同窓会幹事会報告と北村先生のお話。一期一会はこの歳になれば実感する。張同幹事挨拶。今年も12期の垂れ幕持参ありがとう。日頃のホームページの維持にも感謝。ビルのくい打ちの深さなど建物の安全に関する書類の審査をしているという話に聞き入る。

4. 榎本幹事長の司会により遠い所から来た人の順番に近況報告。そこでの話題。
  • 東京12期会をいつまでやるか
輪になって「校歌」を歌おうで大騒ぎ。
 80歳までとの意見の一方、酔った勢いもあり90歳までという意見も出た。東京オリンピックは2020年、まだ80歳前だ。僕は1964年の東京オリンピックではヨット競技のお手伝いで1週間ほど江の島に来ていた。その時の記念のメダルは大事にとってある。僕にとっては2度目のオリンピック。東京大阪間のリニアーモーターカーの開業は2027年だ。その年は86歳、それまでは無理かもしれないが、東京オリンピックまでは12期会に参加したい。
  • 川歩きの話。
 今回は西条君の荒川の最終報告だ。テレビ番組収録の為、たけし軍団のダンカンらの撮影隊と一緒になった由。僕はたまたまテレビでこの放送を見た。我が12期隊はテレビには登場しなかったが荒川の上流は奥秩父の北側に位置し簡単には行けないはずだ。さすがの12期隊だ。次会は多摩川の源流?いずれにしても荒川源流と反対側だ。
 
  • 仕事の話。
 僕は精密機械の英語のトリセツ(取扱い説明書)作りを始めて10年目になる。皆さんも経験のとおり、最近のカメラや電気製品は機能てんこ盛り。そのためトリセツは分厚くて、わかりにくい。読めば読むほどわからない。僕もその一人。そこでやさしく、間違いなく、簡潔を旨としているがこれがなかなか難しい。ましてや英語となると猶更だ。ジャンルは違うが亡くなった川合君も翻訳をやっていたと後で知った。一度話を聞きたかった。
  • 同窓生の思い出
 半世紀以上も前の話でうろ覚えで間違っているかも知れない。容赦願う。卒業1年後、川村君、上山君らと四国を旅行した。高知県の後免という所だったと思う。川村君の親御さんの実家?で高知名物の皿鉢料理を御馳走して貰った。大きなお皿にお寿司を盛ったものだ。そのあと小豆島に渡りユースホステルで関西の女子大生の一行と一緒になった。どんな話をしたか覚えていない。これも市岡の思い出だ。

市岡という場で我々は出会った。語り、学び、遊んだ。心の中にある市岡の記憶は永遠だ。でも今を生きている人間は変わって行く。だからこそこの同窓会が永く続いて欲しい。
やはり最後は「万歳三唱」でお開き 元気な74歳を感じるなぁー

“市岡高校東京12期会に参加して” への2件のフィードバック

  1. 川村浩一 says:

    萩原さん、ご無沙汰しています。
    川村(8組)です。
    東京の12期会にもご無沙汰しています。

    四国旅行もこと、覚えていてくれてありがとう。
    記憶違いはないようです。
    私は高校からずっと日記を付けています。
    確かめると1961年4月1日の夜9時天保山から「ひかり丸」で出かけています。
    屋島や室戸岬、桂浜のユースホステルにも泊まっていますね。
    父の叔母宅の「五右衛門風呂」も覚えておられるでしょう。
    帰りは別々のルートだったので萩原君が小豆島のYHで女子学生とどういうことがあったのかは知りません。
    (報告も受けていないようです。)
    私は足摺から松山、尾道経由で帰りました。女の子の記録はありません。

    行き当たりばったりの旅行が当たり前だった頃のお話です。
    また上山君も含めてどこかで飲みましょう。

  2. 萩原 貞雄 says:

    川村君ご無沙汰です。

    私の拙文を読んで頂きありがとう。
    天保山から船で行き、高知のあちこちを廻ったことなど
    すっかり忘れていました。高校生の時からつけている貴殿の日記の威力は
    さすがです。

    高知、日記といえば市岡に入ってすぐ古文の時間に
    土佐日記を読みました。白井先生からだったでしょうか。古文の時間はあまり好きでは
    ありませんでしたが、内容が旅日記でわかりやすく覚えています。
    土佐日記が書かれたのは934年の平安時代です。紀貫之が土佐から帆船か櫓船で
    京都へ2か月かけて帰任した時の話ですね。
    1961年の我々が天保山から船で四国へ渡り大阪に帰ってきた旅行は1週間程度
    だったでしょう。今では新幹線と四国架橋を使えば関西からでも
    東京からでも1泊程度の旅行でしょう。
    2015年の今や飛行機を使えば日帰りも可能ですね。

    時代とともに環境は大きく変わりましたが五右衛門風呂でゆったり湯に
    浸かるなど人の厚情のありがたさなどは変わらないですね。

    一度ゆっくりとお話をしたいですね。

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