12期の広場

12期の広場

『リレー投稿』  - つれづれに -  ③

筆者が愛読している「現代俳句」と所属している「山河」の記念号
 暮れから年明けにかけて恩人が立て続けに亡くなった。「人間は死ぬものなり」と知りつつ、身近な死の衝撃は大きい。
 早や1月も過ぎようとするが、衝撃は感傷に変わりつつあり、時の癒しの早さにとまどう昨今、好きな俳句を読みかえしながら「人間の肉体」を題材とする句を見つけた。
 「からだとこころ」は一体である。
 とりあげた句は「からだ、またはその一部」を詠み「こころ」は云わない。体は滅するが心は滅びない。死者はいつでも側にいてくれると知って心が安んじられた。
 「人間紀行」と称し、拙い鑑賞を試みたのでお付きあい願えれば幸いである。
 
人体冷えて東北白い花ざかり         金子兜太(とうた)
 肉体とは頭のてっぺんから足の先まで外皮に包まれた全体を云い、類語に身体、対義語に霊体、精神などがある。人体とは自然科学的な表現だがその外観は頭、首、胴体、手、足に分けられ五体と云い、霊的なものを加えて六体と云うこともある。この骨太な兜太の句は六体をまるごと地吹雪の中に立たせ、哀しいまでに美しい。ダ・ヴィンチは「画家は自然を師とすべし」として美の真実に迫るため夥しい数の解剖図を描いたが、人間の体は未だに自然界の謎である。
 
しぐるるや 蒟蒻(こんにゃく) 冷えて (へそ) の上      正岡子規
 数多い病床吟詠の一つだが、苦痛を訴えず、腹を温めるはずの 蒟蒻(こんにゃく) の冷たさを云い放つことで上等のユーモア、俳味が生まれる。長患いの中で鍛えられた心の強さと生への執着が「死は近づきぬ。文学はようやく佳境に入らんとす」の凄絶な言葉を生む。
 
(はらわた)に春 (したた) るや (かゆ) の味         夏目漱石
 子規に誘いこまれて俳句の道に入った漱石の句は余技、低徊趣味とそしられることもある。修善寺で「卒然として閃いた生死二面の対照」を感じた後のこの句は、『朝寒や生きたる骨を動かさず』、とともに「自然はよく人間を作れり」と観じた漱石の句の白眉といえる。病は俳句の肥やし、だそうだが健康は大切にしたい。
 
なきがらや秋風かよふ鼻の穴          飯田蛇笏(だこつ)
 鼻孔が句材になるとは新鮮な驚きだ。蛇笏の句の格調の高さを些かも損なうことなく、秋風を通わす虚ろな穴を拡大することで哀切の情をいっそう深めている。子息の龍太が、『手が見えて父が落葉の山歩く』、と尊敬する所以である。
 
万緑の中や吾子の歯生えそむる        中村草田男(くさたお)
 人が初めに覚える言葉は人体のパーツである。目、鼻、口、耳、おてて、あんよ。草田男の代表作とされ、「万緑」を季語として確立したと云われるこの句では白い歯と濃い緑を対比させ、自然界と人間の生命力をためらうことなく祝福、讃美している。赤ん坊の肉体や動作は驚きであり、創造者への畏敬ともなる。
 
陽炎の我が肩にたつ (かみ)() かな        松尾芭蕉
 元禄二年、奥州への旅立ちの春である。うららかな春日、旅支度の肩に立つ陽炎に、高揚感と先へのかすかな不安、こころのゆらめきを感ずる。
 
 新しい年を迎え、我々にもそれぞれにまた人生の新しい旅立ちが待っている。
 
1月の寒い朝 ごんべ

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