お知らせ
0年
2015年6月1日
第6回 荒川・川歩き (平成27年4月28日~29日)
5組 泉 信也
昨春以来の川歩きを再開した。今回は奥秩父の「甲武信岳」に発する荒川の源流をめざす最後の行程である。
メンバーはいつもの西條(3組)、山田(8組)、大石橋(6組)、榎本(8組)、泉(5組)の5人。川歩きの発案者であり、利根川の全行程を歩き通し、荒川も第4回の「長瀞」までをリードしてくれた川合兵治君(4組)に昨年末に先立たれてしまったのが、全員の心に重い。
4月28日10時、「いつまでもグズグズするな!」という川合君の声に励まされるように西武秩父駅に集合。今回は体調が万全でないメンバーもいて、榎本君の提案でレスキュー車を用意することにした。折角の芝桜の季節でもあり、先ずは駅前の羊山芝桜公園へ。ゴールデンウィーク前と云うことで大勢が訪れ、多彩な色のグラデーションを愛でているが、あまりに整い過ぎた花壇より、周りの林の新緑の方が目に沁みる。すぐに秩父往還道にもどり、前回の到達点の大滝温泉までドライブ。いざ歩行開始、の予定であったが近くに最近話題になっている「太陽寺」という天空の禅寺があるというので寄り道することとなった。700年の歴史を偲ばせる本堂の佇まいが、あたりの自然に溶け込んで、咲き残った山桜がアクセントを添えている。ここでバッタリ、タケシ軍団のダンカン、伴内のタレント登場。

BS日テレの旅番組の取材で、秩父の「癒しのパワースポット」として紹介される由だが、ダンカンさんは川歩きの老人パワーにも驚いたようだ。

うまい秩父うどんで腹ごしらえの後、更に山道にレスキュー車を乗り入れ、源頭に突き上げる支流の「入川」の偵察に向かう。どうやら昔の木材伐り出し用のトロッコ道が取りつき点のようで、明日の歩行計画が固まる。安心して今夜の宿、「中津峡・彩の国ふれあいの森」のコマドリ荘に到着16:30。山中に小さく開けた盆地に、百名山の「両神山」を借景にした素晴らしい所だが、連休前というのに泊り客は我々だけの貸切のようだ。コテージを1棟借りてアウトドア合宿気分を味わい、その上夕食は宿屋並みの豪華版。川合君に献杯の後、市岡時代の話に花が咲いて、せせらぎの音を枕に遅めの就寝となる。
29日、爽やかな山の空気に早起きして散歩、今日も好天に恵まれそうだ。
いざ入川へ、勇んで車を発進させると何やら赤ランプ。オイルの警告のようだ。


昨日のダート道でオイルパンを傷つけたようだが、漏れは少量なのでそろそろと走る。9時に入川の「夕暮キャンプ場」、標高780メートルから、最後の行程を歩きはじめる。山道とはいえトロッコの廃道なので歩きやすく、渓谷を上から覗くと魚影が見えそうなほど透きとおった流れで、釣り人が先を行く。
汗ばんだ肌に緑の薫風が心地良く、のんびりと景色を楽しみながら歩くと、これまでの体調不良がうそだったかのように回復して行く。
いくつかの小沢を渉り、山すそを回り込むと、突然けわしい山道があらわれる。

どうやら「甲武信岳」(標高2475メートル)に至る「真の沢」への取りつき点のようで、ここに荒川源流の起点があるはずとみて探してみる。ほどなく崩れたコンクリートの護岸ブロックの上に「一級河川荒川起点」の碑を見つける。4月29日10:20、標高920メートル、ここから173キロメートル先の川歩き出発点「東京湾ゲートブリッジ」に至る起点に到着、バンザイ。源流の水で川合君の好物のウイスキーの水割りを作り再び献杯。平成19年10月31日に犬吠埼からスタートした利根川の322キロメートルとあわせ、足かけ8年、合計495キロメートルの長い川歩きも大団円をむかえたわけだが、達成感と云うほどのこともなく、ひたすらこの間の自然と人とのふれあいが懐かしく、とりわけ市岡の仲間と楽しく充実した時間を過ごせたことがうれしい。

下り道は足取りも軽くスイスイと、往復7キロメートルを3時間足らずで歩き、車に戻ったところで再びバッテリー上がりのハプニング。若い釣り人の助けで事なきをえたが、レスキュー車で楽チンを試みたことにお灸がすえられたかのようだ。それでもいつもの駅前居酒屋で飲んだビールのうまかったこと。
「源流をたずね分け入る緑かな」
さてこれからどうする。
2015年6月1日
思い出を綴る(5)
3組 石井 孝和
「キャップかサブキャップのどちらか手のあいている方一人、すぐ局に上がってきてくれたまえ」木村部長はこう“号令”して、受話器をガチャンと置いた。そしてまた例によって「クンクン」その様子がわたしには、とても滑けいに見えた。それから10分ほど経って——-。「部長!唯今到着しました。私に何かご用でしょうか」駆けつけたのはサブキャップの岡本幸男さん。直立不動で“赤城の子守唄”を歌っていた流行歌手の東海林太郎そっくりの人だった。それにしてもしゃべり口調がなにか兵隊さんみたいと思った。あとで気づいたことだけど、木村部長は“元帥”。
その“元帥”が岡本サブキャップにあらためて号令した。「石井君に字を教えてやってくれたまえ」と。岡本サブキャップは「ハイ」と応えたものの「何を教えてあげようか」と首をひねっている様子だった。丁度、運良くというか、NHKと契約している共同通信社から送られてきているロール式のファクシミリーのニュース原稿の中に、その日、大阪国税局が新聞発表した近畿地方の“長者番付”があった。ニュースが帯状に出てくることから、これを部内では“ふんどし”と称していた。
“岡本サブ”は、「いいもの見つけた」とばかりそのニュースの部分を破って、原稿をひらひらさせながら机に向かい、わたしの向かい側に腰をおろし、「ほんなら石井くんいくでー」と、気のやさしい先生が「書き取りを始めるよ」といった雰囲気だった。
わたしは、「また試験を受けるみたいや」と内心思い、“岡本サブ”の“出題”を待った。
すると“岡本サブ”は長者番付1位の松下電器(現在のパナソニック)の社長、「まつしたこうのすけ」と名簿を読みあげたのに続いて漢字一文字ずつの字解きを始めた。「しょうちくばいのまつ」「うえしたのした」「こうふくのこう」「これ ひらがなのえやなあ」「次はすけべえのすけや」
わたしは、最後の「助」を書き終えてから「下品なことばやなあ」、「たすける」と言えばいいのにと思っていた。こうして次々と人名の字解きを習うことになった。「助」以外に「かいすけ(介)」「くるまへんのすけ(輔)」があることや「よこいち(一)たていち(市)」「はしごだか(髙)」などなど。
この日のお勉強は、記者が電話で原稿を送る時に受け手に理解しやすくするためだった。
日が経って、記者からの原稿を受け取ったり、テレタイプで原稿を他局へ送ったり、先輩諸氏の指導も受け、徐々に仕事を覚えていくようになっていった。
その頃は、電話事情が良くないうえ、部屋がテレタイプのガチャガチャという音などで騒々しいため、堺市や岸和田市など、NHKの取材拠点である通信部などから加入電話や公衆電話を使い、しかも、放送局にある「電話交換台」を経由して原稿が送られてくる為相手の記者の声がなかなか聞き取れず、遂に机の下に潜ってしゃがみ込み、ひざをついて受話器の口を手でふさぎながら「はあ?」「はい」とワンフレーズずつ聞いては、体を起こし、原稿用紙に書きとることもしょっちゅうあり、その都度「ええ運動になるなあ」と言いあって部屋はまた明るく活気づいていた。
わたしの職場は、総勢10人で、“内勤”と呼ばれていた。勤務は週1回“泊り”がある。“泊り”という勤務は、NHKを退職するまで、1年間の「考査室」所属を除いてずっと続いた。“内勤”の泊りは午後5時から翌日正午までが通常の勤務だった。
ニュースというのは「正確・迅速」が基本である。事件・事故などに該当するが「そんなに急がない」のを“ヒマネタ”という。そんな“ヒマネタ”が夜に京都・神戸・奈良・大津・和歌山の各局からドッと送られてくる。それをすべて一人で対応するものだから若いくせに“慢性肩こり症”にもなった。
ことしは戦後70年、「日米新安全保障条約成立」55年という節目でもある。
その安保条約改定阻止の学生運動が激しい折り“内勤”で働いていたわたしが大きなショックを受けた日があった。条約成立 昭和35年6月15日夕方、全学連主流派約4千人が国会構内に突入し、警官隊と激突する事件があり、この事件で東大文学部4年の学生一人が死亡した。
翌日の午前10時すぎ東京からテレタイプでこのニュースが短い文章にして送られてきた。
その一部で「しぼうしたのは、とうきょうだいがく4ねんせいのかんば みちこさん(きへんにちゅうかみんこくのか しょうだみちこさんのみちこ)22さいで・・・」と打たれてきたのをわたしが、 原稿用紙に「死亡したのは、東京大学4年生の樺美智子さん(22)で」と楷書で書いて、デスクに渡すと、デスクはその原稿に目を通し、「下読み」を待ち構えるアナウンサーへ。 ラジオ第一放送の“一分ニュース”の放送時刻の10時30分、わたしはモニターのため壁に掛けられたスピーカーの下の机に向かって耳を傾けていた。
樺美智子さん(当時東大文学部4回生でした)
小林デスクは今のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の吉田松陰に学んだ坂本龍馬が大好きなやさしい人だった。もちろん正午のローカルニュースで訂正してもらった。 (次号につづく)
2015年6月1日
「奈良市岡歩こう会」に行ってきました。
7組 張 志朗
5月17日、奈良市岡歩こう会主催の春の例会に行ってきました。コースは生駒山上から生駒縦走コースを経て奈良側の近鉄生駒線元山上口駅までの約11キロです。案内状にこうありました。「春の歩こう会は、役行者の開いた元山上千光寺を訪ねます。生駒山上までケーブルカーで登り、下りの多いコースです。新緑の生駒山を下ります。足元が悪い所があるのでしっかりした靴でご参加下さい」
久々の山歩き、それも11キロです。前日からリュックやトレッキングシューズその他、念をいれて準備し、朝7時半に家内ともども家を出ました。
前々日まで雨が続いたのですが、この日は文字通りの五月晴れ、視界は極めて良好。初めて乗ったケーブルカーからはるかに見下ろす町並みや両側の新緑が実に美しい。スタートは生駒山山上遊園地です。
参加者は32名で、お世話をして頂いている13期の中務さんが先頭、同じく13期の倉光さんがしんがり。10時すぎに出発です。12期は久保田靖子さん(1組)、古藤知代子さん(3組)、私の3名と家内です。関西の各テレビ局の鉄塔群を右に左に見ながら徐々に下って行くのでのんびり青空を見ながら歩いていたら、いきなりの急な下りです。先の雨ですべり易くなっていたため、足元には細心の注意が必要。20~30分も歩いていると膝と太ももに負担がかかっているのがよく分かり、先行きが心配になりました。
生駒山は海抜642m、大阪平野の眺望を楽しめるだろうと思っていたのですが、ひたすら足元のみを見なければならない状態で、それどころではありません。
日頃、見慣れている生駒山はなじみ深いなだらかだけの山ですが、やはり山は山、分け入ると木々は高く深く、また登り下りは一筋縄では行きません。ひたすら黙々と下ります。私は普段からスポーツらしきものはなにもしていないのですぐにへばりますが、久保田さん、古藤さんはじめ参加者の皆さんは健脚で、いつのまにか私が最後尾です。
しかし、さかんに鶯が鳴き続け、さながらその鳴き声のトンネルを歩いているよう。見上げれば木漏れ日と透け見える薄緑が優しくそして美しい。存分に森林浴を楽しみます。
ようやく平地に出て、暗峠への分岐あたりで小休止。谷筋の細長い棚田では農家の人が田植え前の準備を忙しそうにしていました。山でマラソンなのか、ランニングスタイルの人達が駆け足で追い越していきます。若い人達だけだろうと思っていたら、40歳くらいの女性までおられたようで、頑張っているなあと感心することしきりです。
昼食場所の休憩所まであと少し。その直前の長い登りがこの日のコースで一番きつかった。コンクリート舗装の道を前かがみでひたすら登ります。山ですから登り下りは当たり前と思いながらも身の程を思い知らされました。
昼食はこじんまりとひらけた休憩所でとりましたが木立が取り囲み、その新緑が一段と瑞々しい。(集合写真をご覧ください。)ようやく座ることができました。またペコペコのお腹におにぎりが大層おいしい。驚いたことにここで今年初めての蝉の鳴き声を聞きました。
恒例の参加者皆さんの自己紹介です。最高齢者は高校2期の方、もっと若い方が高校22期でもっとも多く参加されたのが、中務さん、倉光さんと同期の13期でした。13期は昨年、思い出の高校修学旅行コースを30数名で再訪したそうです。
2015春「奈良市岡歩こう会」全員集合です。
昼食後、千光寺に向けて出発です。またしばらくきびしい下りが続きました。食後で元気は回復しているとは言え、腰に疲れがたまります。ようやく緩勾配になった頃から右手に渓流が出てきてその沢の音に励まされながら下ります。気分は一気に清々しくなり、朽木を拾って杖替わりしたのも幸いしたのか、快調です。
ようやくたどりついた千光寺のお堂です。
千光寺は開基が役行者。大峰山(山上)を開くまでここで修業をしたそうで、行場は今も残っているそうです。そういえば途中の立派な竹林の傍に行場を示す道しるべが幾つかありました。山門は石造の階段を登ったところ、境内はそう広くはありませんが歴史を感じさせる佇まい、ここで参拝をかねて小休止です。休憩中、山門下の小さな滝で、これも今年初めてトンボが群れ飛ぶのを見つけました。
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トンボを見つけた小さな滝
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清滝石仏群付近です。
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磨崖仏の貝吹き地蔵。
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ここから清滝石仏群を右に左にしながら、ゴール地点の近鉄元山上口駅に向かいます。この付近は道もなだらか、石仏と清流と豊かな緑で独特の雰囲気があります。八尺地蔵、五智如来、はらみ地蔵、ほら吹き地蔵などの磨崖仏や小さな石仏がみられました。特に苔むした磨崖仏の貝吹き地蔵には感動の一言。出発時にもらった案内図によると八尺地蔵は鎌倉期だそうです。
いよいよゴールの元山上口、全員無事に完歩です。足や腰に痛みはありますが、ゴールは素直に嬉しい、またその達成感格別のものでした。再会を約束してここで解散となりました。
2015年5月1日
「12期の広場」 5月号 ラインアップ
5月、新緑が本当に美しい時期です。朝の散歩で少し足をのばし、通学路の傍の見晴し台付近まで行くと目の前になだらかな山並みが続いているのですが、今はまさに清々しい緑の「山笑う」です。深い常緑樹の緑の中に一かたまりや帯状に新緑がかぶさりながら連なるさまは例年とはまた違う格別の印象。耳をすませば笑い声さえもきこえるのではと思ってしまいます。先月は「菜種梅雨」の言葉通り、雨がよくふりました。お天気もほとんどが雨または曇り、時には嵐のような風と「花冷え」の寒気がありましたがここにきてやっと一段落。晴天がつづきで気温もぐんぐん上がっています。立夏目前で、野も山も貯めに貯めた力をあわただしく爆発させているようです。真新しいランドセル姿の一年生たちが目の前を通りすぎます。聞くとはなしに聞こえるお喋りはたわいもない話題、笑いといたずら声がはじけて微笑ましいかぎりです。朝日を背中に光らせながら、歩いては走り、走っては歩いて学校に向かう姿に気持ちが暖かくなります。
我が家の庭でも、今年も駄目かなと思っていたきりしまつつじが、見事な花をたくさんつけ、追いかけるように小でまり、大でまりが今盛りです。
以前この欄で、5月がゴールデンウイークから始まることについて皮肉っぽいコメントを書いたことがあります。しかし今年は素直に喜んでいます。その訳は二つです。4月から一年だけ某法人の委嘱職員になり週4日のサラリーマン勤務が始まった事と岡山から孫が来る事です。今まで自営であっただけに通勤や仕事の時間は自由になったのですが、サラリーマンになるとそうは行かないようです。当たり前のことながら、出勤、退勤は勿論、昼食休み時間の1時間も皆さんに合わせてのきっちりです。そうなるとカレンダーの連休はありがたい骨休めになります。有給休暇を上手にはさむと何日連続して休めるかなど、ほとんど初体験の「サラリーマン的思考」が新鮮です。とは言っても、今どきの若者のように豪華なレジャーの計画があるわけではなく、行きあたりばったりの休日を過ごすだけのゴールデンウイークになることでしょう。
さて「12期の広場」5月号のラインアップは次の通りです。お楽しみ下さい。
- 「市岡の森 お花見会」
- 「韓国語の入門コースを終えて」 4組 藤田 勝利
- 「思い出を綴る(4)」 3組 石井 孝和
- 「寒川君のオンステージを聞きに行きました」 7組 張 志朗
以 上
2015年5月1日
市岡の森 お花見会
4月12日(日曜日)、大阪の舞洲で恒例の「市岡の森 お花見会」(主催:此花市岡会)が開かれました。
前日までは雨、風、寒気でどうなることかと思っていましたが、久しぶりの晴れ、またぽかぽか陽気で絶好のお花見日和でした。残念ながら統一地方選挙の日に重なったせいか、参加者は例年に比べると少なく、それでも市岡ゆかりの方々約100名と母校、吹奏楽部の皆さんでお花見会は盛り上がりました。
午前11時過ぎ、同窓会会長の佐藤充利さん、此花市岡会会長の西尾賢治さん、市岡高校の上野佳哉校長の挨拶の後、賑やかに宴が始まりました。
肝心の桜ですが、雨や風が続いてすでに葉桜ではと心配したのですが、「散り始め」といった感じで、お花見には何とか間に合ったようです。
12期同窓生は、13名が参加しました。(写真をご覧ください) 昨年の同窓会以来、久しぶりの再会です。やはり元気に顔を合わせ、共にお弁当をつっつき、お酒を酌み交わすのは心も話もはずむものです。原清明君は今年も幻の焼酎と言われる「森伊蔵」を持参してくれました。
中締め頃に母校の現役吹奏楽部の皆さんによる演奏がありました。クラブ活動で大層頑張っているクラブ、大阪府下でも有名吹奏楽部だそうで、全国大会出場に手がかかるほどの腕前。部員数も飛びぬけて多い(100名を越える)と聞いています。暖かい春の日差しを受けながら桜の花の下で生演奏を聴くわけですから、一寸した風雅です。
程よい酔いと腹八分目で、大阪造幣局の通り抜けの桜見物まで足を延ばしました。
JR桜ノ宮駅を下車して、大川端をブラブラ、「通り抜け」の入り口に着くと人、人の波、その混雑に少々ひるみましたが、名だたる「通り抜け」の桜は負けていませんでした。文字通り、無数の満開の桜の見事さ美しさに圧倒されながら存分に楽しみました。この日、一日はまさに桜、桜の一色で、身も心も美しくリフレッシュされたようです。
前日までは雨、風、寒気でどうなることかと思っていましたが、久しぶりの晴れ、またぽかぽか陽気で絶好のお花見日和でした。残念ながら統一地方選挙の日に重なったせいか、参加者は例年に比べると少なく、それでも市岡ゆかりの方々約100名と母校、吹奏楽部の皆さんでお花見会は盛り上がりました。
午前11時過ぎ、同窓会会長の佐藤充利さん、此花市岡会会長の西尾賢治さん、市岡高校の上野佳哉校長の挨拶の後、賑やかに宴が始まりました。
肝心の桜ですが、雨や風が続いてすでに葉桜ではと心配したのですが、「散り始め」といった感じで、お花見には何とか間に合ったようです。
12期同窓生は、13名が参加しました。(写真をご覧ください) 昨年の同窓会以来、久しぶりの再会です。やはり元気に顔を合わせ、共にお弁当をつっつき、お酒を酌み交わすのは心も話もはずむものです。原清明君は今年も幻の焼酎と言われる「森伊蔵」を持参してくれました。
中締め頃に母校の現役吹奏楽部の皆さんによる演奏がありました。クラブ活動で大層頑張っているクラブ、大阪府下でも有名吹奏楽部だそうで、全国大会出場に手がかかるほどの腕前。部員数も飛びぬけて多い(100名を越える)と聞いています。暖かい春の日差しを受けながら桜の花の下で生演奏を聴くわけですから、一寸した風雅です。
程よい酔いと腹八分目で、大阪造幣局の通り抜けの桜見物まで足を延ばしました。
JR桜ノ宮駅を下車して、大川端をブラブラ、「通り抜け」の入り口に着くと人、人の波、その混雑に少々ひるみましたが、名だたる「通り抜け」の桜は負けていませんでした。文字通り、無数の満開の桜の見事さ美しさに圧倒されながら存分に楽しみました。この日、一日はまさに桜、桜の一色で、身も心も美しくリフレッシュされたようです。
桜の下に混雑の見物客が見えます
花が負けません(通り抜け)
花・花・花で匂いたちます(通り抜け)
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帝国ホテル前のしだれ桜の前でパチリ
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2015年5月1日
韓国語の入門コースを終えて
4組 藤田 勝利
HP委員からの呼びかけに応え、5年目にして初めて投稿します。僕の余暇のメインテーマはインドネシア(週1回の勉強会に参加)ですが、時々のサブテーマとして、今 朝鮮をかじっています。
昨年3月で、インドネシアからの帰国子女への日本語教育支援活動を終了し、ボランティア活動もストップしました。一昨年末に軽い脳梗塞にかかり2週間入院治療したこともあって、体力的に限界を感じたからです。
代わりに、昨年5月から枚方市の公民館で開かれている韓国語講座入門コースの勉強を始め、3月に一応終了しました。
30年以上も前に米国に駐在していてニューヨークの焼肉店に入ったとき、『アンニョン・ハシムニカ』と『カムサハムニダ』、以外は英語で話すしかなく、「トナリの国の人と話すのに、なぜ第三国の言葉を使うのか?」ともどかしく感じ、「何時かゆとりができたら、韓国語も勉強しよう。」と決心していました。
70歳になったときそれを思い出し、記憶力の衰えも自覚していたので、NHKのラジオ講座をレコーダーに録り、聞き流して耳を慣らすことも始めていました。昔の百済の南方(朝鮮半島西南部)に前方後円墳が6世紀ごろに造られていたことを知り、行ってみたいと思ったこともあります。
新しい文字・ハングルを習得するのには苦労しました。50年ぶりに単語カードをつくり、散歩するとき、バスや電車の中で、テレビを見ながら・・・等々にめくりながら、頭に入れる努力をしました。それで覚えたと思ってもすぐに忘れてしまいますが、加齢に伴う自然な現象と割り切り、認知症の予防になるかと考え、何度も繰り返しています。
週に1回1時間半で37回の授業ですので、あまり上達しませんが、入門コースを終了して分かったことがいくつかあります。既にご存知の方が多いと思いますが、僕にとっては新鮮でした。
一つは、韓国語にも漢字由来語がたくさんあり、漢字の読み方が日本語とは異なるが、一つの漢字には一つの発音しかないということです。例えば「家族」は『カジョク』と発音し、「家」は『カ』としか発音せず、日本語で『いえ、カ、ケ』といくつもの読み方があるのとは異なります。文字はハングルを使うが、漢字の発音を覚えさえすれば、日本人にとって漢字語の語彙を理解するのは易しいのです。中国、韓国、ヴェトナムを含めての表意文字の漢字の有難さを感じさせてくれました。
韓国語の固有語でも、日本語になっている単語もあるようです。例えば、ノップダ(背が高い)→のっぽ、ウロッタ(泣く)→うろっとする、のように。
授業の合間には、朝鮮の伝統行事や習俗、歴史などの話を挟んでくれたので、分かっているようで知らなかったことも、興味深く勉強できました。
例えば、中秋節(陰暦の8月15日)は、日本ではお月見の日ですが、韓国ではチュソク(秋夕)といい、前後3日が休日であり、帰省シーズンとなる。全家族が晴れ着に着替え、新穀でつくった酒とソンピョン(秋夕特有の松葉、栗、ゴマ、緑豆の入った蒸し餅)や、ナツメ・リンゴなどを、名月でなく祖先の祭壇に供えて祀る。秋夕前後には祖先の墓掃除・墓参りを行う。といったことも話してくれました。
また、日本では3月になればひな祭りですが、韓国で3月1日はサミルチョル(三一節)と呼ばれ、三・一独立運動を記念する日であり、この運動に参加して逮捕され、獄中で死亡したユグァンスンという女子学生が「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれている。といったことも知ることができました。
駐在したアメリカやインドネシアのことはある程度勉強もしましたが、おトナリの国のことをあまりにも知らなかったことを深く反省しています。
そんなこともあって、3か月に一度の「三国遺事(新羅・高句麗・百済等の史書)」を読む会と、月に一度の渤海史勉強会にも参加しています。
新羅から由来した仏教典に、角筆(尖った先端を紙などに押し当てて凹ませ、文字や符合や絵を書く用具)で漢字の読み方を漢字のパーツを使ってふり仮名として使っているのがみつかり、日本の独創と考えられていたカタカナの発生に影響を与えた可能性がある。とのことや、まったく知らなかった渤海(698年~926年)が、日本に33回も遣使を派遣していること、日本も13回遣使していること、遣唐使が中断されている間には、唐の文化を日本に伝える役割を果たした時期があった。例えば、861年に渤海使節により伝えられた唐の長慶宣明暦は、その後江戸時代1684年まで、約800年余も使われた。といったことも知ることができました。
5月から韓国語は初級になり、初歩的な会話の練習も始まります。少しでも会話できるようになって、古代には文化を受け入れるのが多かった朝鮮に日本から伝わった前方後円墳を見に行ける日が来ることを楽しみにしています。
2015年5月1日
思い出を綴る(4)
3組 石井 孝和
「ようこそBKへ」と明るい声で歓迎のあいさつを始めたのは大阪中央放送局の高野局長だった。高野局長は、事務系・技術系で採用された計約20人を前に静かな口調であいさつを続けた。
「ここ大阪中央放送局のことは“BK”の愛称で親しまれていますが、多くの方が建物の位置が馬場町の角にあるため、そう呼ぶのだと思っておられるそうですが、実は、ラジオのコールサインが大阪はJOBKであることからJOの2文字を飛ばして“BK”というのです。
同じように、コールサインは、東京がJOAK,名古屋がJOCK,熊本がJOGKと、放送局の免許がおりた順につけられているのですが、愛称で呼ばれているのは大阪だけのようですね。
また、NHKは“半官半民”と世間で言われていますが、国内向けの放送はすべてNHKと契約した受信者からいただいた受信料で成り立っているので“官”は入っていません、いわば“全民”と言っていいのです。
皆さんに言っておきますが、受信料はNHKに勤めているからといって、割り引きなどないのですよ。当たり前に支払っていただきます。NHKは、イギリスの『BBC』やイタリアの『RAI』あるいはフランスの放送のような『国営放送』とは違うのです。つまり“受信料”というのは、あくまで良識をもってお支払いいただいているもので、“税金”ではありません。
アメリカの放送局は、日本国内のNHK以外の放送局と同じ『商業放送』で、企業のコマーシャルの収入で運営されているのですよ。それからNHKに入られた皆さんがこれから仕事に就かれるにあたって知っておいてほしいことは、NHKの正式名称は『日本放送協会(にっぽんほうそうきょうかい)』という特殊法人であることで『放送法』や『電波法』に基づいた組織であるということです」と、局長のあいさつは訓辞に変わってきていた。
そして局長の最後の言葉が、NHKで働くわたしの心構えとなる示唆となった。
その言葉とは、「放送法の条文には、・放送は不偏不党であり・放送の自由が確保される。そして放送は健全な民主主義を貫くなどと記されています。」だった。
去年(2014年)10月11日のこと。私たち市岡高校12期生の同窓会の準備打ち合わせが母校で行われ、わたしもお手伝いで出席した。その際、同窓生全員に、1年生のときに書いた作文が北村先生から返却されるということで、それぞれの原稿が「同窓会ご案内」の封筒に同封された。
この封筒を受け取られた同窓生の皆さんは一様に感激されたことでしょう。わたしなどは、作文を書いていたことなどすっかり忘れていたし、何より驚いたのは作文の表題でした。生意気にも「民主主義とは!」だってさ。――
放送局の4階に「報道部」の部屋があった。エレベーターを降りて廊下を進むと、その突き当りにドアが開け放された部屋にたどり着き、緊張しながら初めて足を踏み入れた。
“活気に満ちた職場だな”というのが第一印象だった。
あとで知ったが、この職場には電話の他、無線機や各放送局と結ばれているテレプリンターと呼ばれる機械が備わっていて、それが可動しているとガシャガシャと工場並みの音を響かせるのが“活気”の印象をもたらせたようだ。
部屋で最初に紹介されたのが、報道部長の木村正勝さんであった。 部長の木村さんは、手塚治の漫画「鉄腕アト」ムに登場する“博士”にとてもよく似た髪型で、背丈はわたしとそうかわらない小太りの人だった。
この人が、後に東京の報道局次長になって、それまでテレビニュースで項目ごとに流していた音楽を“ニュースは情緒に流されてはいけない”として一切やめさせ、”実音“を多く取り入れる現在のスタイルを確立させたことを後に伝え聞いた。
当初、わたしは報道部長を親しみ込めて「木村さん」と呼んでいたところ、先輩の一人が「石井君、ここは報道部という組織やさかい”木村さん“ではなく”部長“と呼ぶ方がええで」と大阪弁で注意してくれたので、それ以来「木村部長」と呼ぶことにした。決して「部長さん」とは呼んだことはない。木村部長のことは部内では“元帥”とも呼ばれていたそうだ。
木村部長は、わたしをまるで子どものように見ていて、やさしい口調でわたしがする仕事の内容や直通電話がどこと結ばれているかなどを丁寧に説明してくれた。ただ説明している間、時々、鼻をクンクンといわせているのが少し気になった。けれどそれを“なぜ”と尋ねる度胸はなかった。またその必要もなかった。単なるクセなのだろう。
説明を受けた仕事とは・・・・・
記者が電話で送ってくるニュース原稿を、カーボン用紙を挟んだ大きさB5の二部取り原稿用紙に、芯の硬さが3Bの「三菱鉛筆」で書き取ることをはじめ、デスクが手直しした原稿を正式にはテレプリンターと呼ばれるタイプライターを使って、東京など他の放送局に送ること。
逆に、文章が平仮名で打ち出されるこの“テレタイプ”で送られてくるニュース原稿を、平仮名を漢字に変えながら、しかもアナウンサーが読み易いように清書すること。
天気予報の原稿を大阪管区気象台から「大阪府 あす・西の風 くもりのちはれ」のように受け、それをもとにテレビで送出すること。 ラジオの第二放送用に東京・大阪・京都・神戸の株式市場の上場銘柄すべての値動きを電話で受け、それを反復すること。「東京海上344円3円安、三菱地所 57円5円高――」というように。 木村部長は、こんな仕事の数々をおおよそ説明した後、大阪府警察本部の記者クラブとの直通電話のハンドルを勢いよく回し、例によって鼻をクンクンいわせながら「府警キャップ」に号令した。 (次号につづく)
2015年5月1日
寒川君のオンステージを聞きに行きました
3月29日(日曜日)大阪のいずみホールで4組の寒川詔三君が所属する『同志社混声<シャンテ>創立25周年記念コンサート』があり、市岡高校の同窓生6名が行きました。
同窓生で行ったのは酒井八郎君、松田修蔵君、八島平八君、八島節子さん、段中文子さんの5名と私です。松田君は奥様とご一緒でした。
当日はあいにくの雨模様、しかし観客席は、創立以来30回近いコンサートを通じての固定ファンが多いように見受けられ800余席が満席でした。
寒川君は同志社大学の卒業で、在学時から大学の混声合唱団に所属しており、卒業後もそのOB・OGが中心になって結成された「同志社混声<シャンテ>」に参加してこられたそうです。会場でもらったパンフレットで初めて知ったのですが、今回の合唱団メンバーには関東や九州など遠来のメンバーや、ご夫婦や親子での出演があるなど大層幅が広く、その熱意もなみなみならぬものであったようです。
コンサートは、ソプラノが幸田浩子さん、メゾソプラノが岡本明美さん、テノールが小貫岩夫さん、バリトンが小玉晃さんとプロの声楽家4名を中心に前列に約40名のオーケストラ、後列に80数名の混声合唱団の編成で始まりました。 第1部はバッハのマニフィカートニ長調、第2部がモーツアルトのレクイエムニ短調でした。
私にとってはひさびさのコンサート、冒頭からの合唱のハーモニーに引き込まれました。第2部のレクイエムは約1時間を越える大作で独唱や重唱、混声合唱を含めて心に響く素晴らしい演奏でした。特に合唱団員の表情は歌う喜びが一杯で、老いも若きも心一つの一体感は感動ものでした。
寒川君はベース担当。膨大な譜面を完璧に暗譜して指揮(高橋秀明さん)や合唱の流れに溶け込んでの集中で、同窓生ながらその姿にほれぼれ。また「合唱にはまった」と言っていた事や彼が敬虔なクリスチャンであることがストレートに伝わる感じで同窓生として誇らしく思いました。
コンサート後、寒川君にお願いして以下のようなコメントを頂きました。
「私と同期の高橋秀明君が、指揮者としてモーツァルトとバッハのニ大曲を仕上げた今回の25周年記念コンサートは、多くのお客様から感動した、表現力が素晴らしかったとの称賛をいただくことができ、本当に感謝しています。また今回は、市岡高校の同期生も駆けつけてくださり、コンサートを通して市岡の絆の強さも実感できました。ありがとうございました。
指揮者の高橋君が恩師として尊敬しヴォイストレーニングや指揮法を学んだ故・林達次先生は、かつてシャンテの演奏会に出席され、レセプションで次のように、コメントを下さいました。最初は『シャンテはピュアな合唱団』 二回目は『シャンテはエレガントな合唱団』との表現で評価、励ましてくれました。もし、林先生がご健在であったら、今回はどのようにコメントされるかなと、私なりに想定してみました。『25歳になった合唱団員の一人ひとりの体型のように、丸みを帯びたメロウな合唱団』とおっしゃられるような気持ちがいたします。この4月12日、シャンテは、新たなゴール(演奏曲)にむけ、スタートをきりました。」
同窓生で行ったのは酒井八郎君、松田修蔵君、八島平八君、八島節子さん、段中文子さんの5名と私です。松田君は奥様とご一緒でした。
当日はあいにくの雨模様、しかし観客席は、創立以来30回近いコンサートを通じての固定ファンが多いように見受けられ800余席が満席でした。
寒川君は同志社大学の卒業で、在学時から大学の混声合唱団に所属しており、卒業後もそのOB・OGが中心になって結成された「同志社混声<シャンテ>」に参加してこられたそうです。会場でもらったパンフレットで初めて知ったのですが、今回の合唱団メンバーには関東や九州など遠来のメンバーや、ご夫婦や親子での出演があるなど大層幅が広く、その熱意もなみなみならぬものであったようです。
コンサートは、ソプラノが幸田浩子さん、メゾソプラノが岡本明美さん、テノールが小貫岩夫さん、バリトンが小玉晃さんとプロの声楽家4名を中心に前列に約40名のオーケストラ、後列に80数名の混声合唱団の編成で始まりました。 第1部はバッハのマニフィカートニ長調、第2部がモーツアルトのレクイエムニ短調でした。
私にとってはひさびさのコンサート、冒頭からの合唱のハーモニーに引き込まれました。第2部のレクイエムは約1時間を越える大作で独唱や重唱、混声合唱を含めて心に響く素晴らしい演奏でした。特に合唱団員の表情は歌う喜びが一杯で、老いも若きも心一つの一体感は感動ものでした。
寒川君はベース担当。膨大な譜面を完璧に暗譜して指揮(高橋秀明さん)や合唱の流れに溶け込んでの集中で、同窓生ながらその姿にほれぼれ。また「合唱にはまった」と言っていた事や彼が敬虔なクリスチャンであることがストレートに伝わる感じで同窓生として誇らしく思いました。
コンサート後、寒川君にお願いして以下のようなコメントを頂きました。
「私と同期の高橋秀明君が、指揮者としてモーツァルトとバッハのニ大曲を仕上げた今回の25周年記念コンサートは、多くのお客様から感動した、表現力が素晴らしかったとの称賛をいただくことができ、本当に感謝しています。また今回は、市岡高校の同期生も駆けつけてくださり、コンサートを通して市岡の絆の強さも実感できました。ありがとうございました。
指揮者の高橋君が恩師として尊敬しヴォイストレーニングや指揮法を学んだ故・林達次先生は、かつてシャンテの演奏会に出席され、レセプションで次のように、コメントを下さいました。最初は『シャンテはピュアな合唱団』 二回目は『シャンテはエレガントな合唱団』との表現で評価、励ましてくれました。もし、林先生がご健在であったら、今回はどのようにコメントされるかなと、私なりに想定してみました。『25歳になった合唱団員の一人ひとりの体型のように、丸みを帯びたメロウな合唱団』とおっしゃられるような気持ちがいたします。この4月12日、シャンテは、新たなゴール(演奏曲)にむけ、スタートをきりました。」
(記:張 志朗)
2015年4月1日
「12期の広場 」4月号のラインアップ
桜が咲きました。こぶしも、モクレンも、ゆきやなぎも。空飛ぶ小鳥のさえずりさえもことさらに華やいで聞こえます。
見上げれば六甲の山並みは春霞の中。おまけに花粉までが飛んで、鼻がグスグス、目がかゆくなります。
行きかう人の服装も実にカラフルになりました。若い女性のミニスカートに少しドッキリし、サラリーマンのワイシャツの白が陽光に映えて眩しいくらいです。昼休みの公園では歓声が上がり、陽だまりのベンチでのうたた寝姿もちらほら。一気に人や景色や時間までもが動き出したように思え、気持ちが浮き立つようです。すべてが生き生きとして見えるのが不思議で新鮮ですね。
今日から4月、まぎれもない春、春、春です。
正月が新しい年月の始まりとすれば、新しい季節の始まりはやはり春のようです。こうしてラインアップの文章をかいているせいか、春夏秋冬、以前に比べ季節の移り変わりに少しは関心をもつようになりました。そしていままではあまり意識しなかった四季とその移ろいの美しさや味わい、またそれらへの感興に自分でも驚く事が多くなりました。
4月には新学年が始まり、多くの役所や会社でも新年度がはじまります。古い話を引っ張りだすと、私達が希望に胸ふくらませて市岡の門をくぐったのも4月です。
母校の市岡高校が単位制の高校になって6年。今年度の母校受験志願者数は定員の1.42倍でその関門をクリアーした男女合わせて320名が、入学式を迎えます。内訳は男子が132名、女子が188名の女子生徒優位です。この傾向は最近ずっと続いていると聞いていますが、それでも今学年は男子生徒の比率が幾分改善されたそうです。
『質実剛健』は男子生徒優位の言葉のように思いますが、旧制中学であったとの言も今や昔話のようで、クラブ活動で言えば、柔道部が部員一人で合気道部と一緒に練習しているとの話には硬派でならした同窓会の大先輩を含めて寂しいかぎりでしよう。
しかし、明治34年(1901年)創立以来、114年の校歴をもつ母校に今年もまた新入生を迎えることができ、その新入生がたゆまない校歴に新しい足跡をきざむことを考えると素晴らしいの一言です。
あふれるばかりの希望とひそやかな不安を胸に、新しい旅立ちに臨む70期生に心からのお祝い言葉とエールを送りたいと思います。
さて「12期の広場 」4月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
見上げれば六甲の山並みは春霞の中。おまけに花粉までが飛んで、鼻がグスグス、目がかゆくなります。
行きかう人の服装も実にカラフルになりました。若い女性のミニスカートに少しドッキリし、サラリーマンのワイシャツの白が陽光に映えて眩しいくらいです。昼休みの公園では歓声が上がり、陽だまりのベンチでのうたた寝姿もちらほら。一気に人や景色や時間までもが動き出したように思え、気持ちが浮き立つようです。すべてが生き生きとして見えるのが不思議で新鮮ですね。
今日から4月、まぎれもない春、春、春です。
正月が新しい年月の始まりとすれば、新しい季節の始まりはやはり春のようです。こうしてラインアップの文章をかいているせいか、春夏秋冬、以前に比べ季節の移り変わりに少しは関心をもつようになりました。そしていままではあまり意識しなかった四季とその移ろいの美しさや味わい、またそれらへの感興に自分でも驚く事が多くなりました。
4月には新学年が始まり、多くの役所や会社でも新年度がはじまります。古い話を引っ張りだすと、私達が希望に胸ふくらませて市岡の門をくぐったのも4月です。
母校の市岡高校が単位制の高校になって6年。今年度の母校受験志願者数は定員の1.42倍でその関門をクリアーした男女合わせて320名が、入学式を迎えます。内訳は男子が132名、女子が188名の女子生徒優位です。この傾向は最近ずっと続いていると聞いていますが、それでも今学年は男子生徒の比率が幾分改善されたそうです。
『質実剛健』は男子生徒優位の言葉のように思いますが、旧制中学であったとの言も今や昔話のようで、クラブ活動で言えば、柔道部が部員一人で合気道部と一緒に練習しているとの話には硬派でならした同窓会の大先輩を含めて寂しいかぎりでしよう。
しかし、明治34年(1901年)創立以来、114年の校歴をもつ母校に今年もまた新入生を迎えることができ、その新入生がたゆまない校歴に新しい足跡をきざむことを考えると素晴らしいの一言です。
あふれるばかりの希望とひそやかな不安を胸に、新しい旅立ちに臨む70期生に心からのお祝い言葉とエールを送りたいと思います。
さて「12期の広場 」4月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
- 「思い出を綴る (3)」 3組 石井 孝和
- 「お花見のお誘い」 4組 酒井 八郎
- 「豚汁会に行ってきました」
以 上
2015年4月1日
思い出を綴る (3) -就職試験-
3組 石井 孝和
学歴社会と言われていた時代、高校生活から次への進路を選ぶ時期を迎えていた。
“京大”を一時夢見たわたしは、一転、この頃、直接、社会に向かう道を選択した。「学問は、そのあとからでも・・・」と考えた。
校内の廊下に100近くの求人企業を紹介した貼り紙がずらりと並べられ、その辺りは就職を志した生徒で混雑していた。企業ごとの貼り紙には、給料の額が記されていた。多くの企業が、月給8000円台から9000円台であった。中には1万円超の企業もみられた。NHKの朝の連続小説「マッサン」に登場したウイスキー製造会社「サントリー」当時の社名は「寿屋」をはじめ、「東洋レーヨン」今の「東レ」、「国際電信電話会社」現在の「KDD」それに「日本放送協会大阪中央放送局」などがその一例だ。 この時「大阪中央放送局」がNHKだということを友達から知らされたことが後押しになって、受験日の異なる「東洋レーヨン」に続いて「大阪中央放送局」を受験することにした。
「東洋レーヨン」は、一次試験をパスしたあと、二次試験の面接の日が雨降りだった。
わたしは、通学の時と同じように学生服姿で黒の長靴をはいて、大阪・中之島の本社を訪れた。面接会場にあてられた部屋の外で順番を待っていたところ、「次の人」と呼ばれたので、学校で習った通り、ドアをノックして入って一瞬、後ずさりしそうな気分になった。部屋の床にじゅうたんが敷きつめられていたからだ。窓際に4~5人の面接者が座っていて「どうぞ」と声をかけられたので、そのまま“ガバガバゴソゴソ”と靴音を響かせて中央にポツンと置かれた椅子に腰をかけ、いくつかの質問を受け、それに答えた。しかし、面接する人たちの顔は、ややシルエット気味であるうえ、緊張して自分の顔もこわばっていたと思う。そんなことで、今になっては、何を質問されたか、さっぱり覚えがない。1週間ほど経って、家に「不合格」の通知が届いた。
次に受験したのが大阪・東区馬場町にあった「大阪中央放送局」だった。
一次試験は、50問あり、英語や数学などに混じり、時事問題があった。にが手の数学の問題も微分や積分などはなく、解け、49問までは“正解?”としたが、時事の問題の中で「去年、日本芸術院会員になった『日本画家のひがしやまかいい』を漢字で書きなさい」の問に対し、わたしは全く知らず、答えを放棄して試験場を出た。答えは「東山魁夷」であった。
東山魁夷画伯といえば、その後、文化勲章を受章し、10年かけて奈良・唐招提寺の障壁画の大作を完成させた昭和を代表する日本画家の一人といわれている。東山魁夷画伯とはそれから30年余り経った平成5年、兵庫県の姫路市立美術館で開かれた「東山魁夷展」の取材でお目にかかる機会があって、昔話になるが、わたしの“無知”を伝えると、画伯は「そりゃそうですよね。私ごときの者、知らなかったのはあたりまえですよ」と、この大家にして謙虚なことばが返ってきて驚いた。このとき画伯の温かく、やさしい人柄まで知ることができたことを、今も忘れていない。
さて、もう一方“作文”のテーマは「わたしとテレビ」か「わたしとラジオ」のどちらかを選ぶものであった。
NHKの統計によると、この年の2月末現在で、テレビの受信契約者数が400万を突破したそうだが、わたしの家にはまだテレビの受像機はなかった。そこでわたしは「わたしとラジオ」の方を選んで作文にとりかかった。
うまい具合に、高校3年の頃、家で2台のラジオを使って音楽を聴いたことを思い出しながら鉛筆でマス目を埋めていった。
“2台のラジオで音楽を”ということは新聞でたまたま知ったことであった。その頃、まだFM放送がなかった時代で、2台のラジオは、中波放送のため左に第1放送、右側に第2放送に置いてステレオで聴くというものだった。作文ではその時の経験を書いた。“ベートーヴェンの交響曲「田園」が2つのスピーカーから流れ出た時に、音に奥行・幅が生まれ臨場感のあることを初めて知った”と、そして、“放送は送り手の工夫と受け手の理解が大切なことだ”と、偶然のように400字の最後のマス目に句点「。」を記した。
後日、面接の日を迎えることができた。今回は天気は晴れ、意気揚々として、馬場町角の放送局(BK)に白いズックに学生服で階段を駆け登って局の受け付けを訪ねた。学生帽を脱いで五分刈りの頭を垂れ一礼するとすぐに面接の部屋に行く順路を教えてもらえた。面接の順番がきて、部屋に入ると、今度はリノリューム張りの床だったので特別驚きはなく、一礼して椅子に座った。「いしいたかかずくんですね」と4~5人の面接員のうちの一人が“確認”し、わたしの「はい」という応えを待っていた。次の質問は、「あなたは家からここまでどのようにしてきましたか」わたしは「市バスで福島から大阪駅北口まで来て、市電で大阪駅前から馬場町まで来ました」と、ここまではあたり前の質問が続いたが、次の質問からわたしを困らせるものに変わった。その1つ。別の人が「あんたは、学科で得意やったのは何?」と尋ねたので「得意というのは特になかったのですが、数学はにが手でした」とちょっとおずおずと応えた。するとその人「あんたそれやったら行く部署あれへんやん」と言われ、へこんだ。
続いてまた別の人が「きみは体格からして競馬のジョッキーになったらよかったんと違うかな」とちょっとおどけた調子で言われたのに対し、内心、「確かに身長1メートル56センチ、体重47.5キロ(今も変わらず)体操していたし、それもありなん」「あの人そういえば馬面やな」と思いながら「そうですか」と小声で応えた覚えがある。こんな日が過ぎたあと、事務系合格者十人中唯一人「報道部」に配属された。
(次号に続く)
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