お知らせ
0年
2013年10月1日
古荘さんの里帰り
今年の夏は、記録的な猛暑で我々高齢者は熱中症の心配にさらされたかと思うと、一変して豪雨と竜巻で、日本列島に甚大な被害をもたらしました。
猛暑も峠を越した9月2日、この「12期の広場」でもたびたびアップされ、恒例になっている「古荘さんを囲む会」(在カナダ38年の古荘さんの一時帰国を機に開いている食事会)に今年もお声を掛けていただきました。今年は趣向を変えて、会場を京都にしようということになり、京都在住の川村君のお世話で山荘料理貴船「ふじや」で「納涼川床」(鴨川では「ゆか」、貴船、高雄では「かわどこ」と読むのが一般的だそうです)を楽しむ計画でした。
残念ながら、当日は生憎の雨模様、足早に、貴船神社へのお参りを済ませ、「川床」はあきらめて御座敷に上がり「懐石料理を頂くことになりました。
帰り際に頂いた団扇(うちわ)に 「瀬の音に 話とられて 川床 すゞし」…泊月と、一句したためてありましたが、瀬の音に、話とられることなく、部屋の中でゆっくりと歓談できました。この一句、もとは、どこぞの酔客が落書きして帰ったもんやろぅと思っていましたが、オッとどっこい、兵庫県生(明治15年)で旧姓西山伯月と言い早稲田大学前身の東京専門学校卒で高濱虚子に師事した高名な俳人でした。
「ふじや」は貴船川に初めて床几(縁台)を置き、いわゆる元祖「貴船の川床」で、川端康成も訪れたという老舗でしたので、泊月先生の俳句の件が成る程と、うなずけました。
話が少し脱線しましたが、宴もたけなわになった頃、高校時代の「合唱コンクール」に話題が移るや、後藤さんと勝原さんのお二人が立ち上がり、当時の課題曲の合唱が始まりました。…大変お上手でしたよ。
初めて聞くびっくりした話(小生が知らぬだけかも…)に「修学旅行時の飲酒」事件があったそうです。今の時代ならば大きな問題になりそうですが、もう時効ですよね。事の顛末はというと、2年生の修学旅行時、自由時間に渡邊先生(通称ギャング)が部活の柔道部員の有段者を中心とした連中を部屋に集め、ウイスキーを振舞ったということですが、先生の真意は、彼らが夜の街へ繰り出し、問題を起こされては困るという親心からの、一種の「監禁」だったことを知り安堵しました。
古荘さんは、帰国にあたり、日本の今夏は酷暑との情報を得、熱中症の心配をしながらの帰国だったそうです。「来年の夏もまた元気なお顔を見せて下さいね」という言葉を残し無事散会いたしました。来年の夏も、地球温暖化の傾向が続く限り、また猛暑になるでしょうが、この暑い季節になると「古荘さんを囲む会」を思い出し、次回またお誘いがあったら出掛けようと思います。
当日の出席者(敬称略順不同)
古荘、後藤、勝原、高田、古藤(いずれも旧姓)…5名
川村、張、末廣、別宮、塩野、川副…6名
2013年10月1日
法格言にみるイギリス法の精神 3 (下)
4 陪審問題あれこれ
(1)イギリスとアメリカ
陪審は、地方住民の中から無作為で選ばれ、宣誓したのち事件の審理に関与するか、刑事事件について正式起訴の決定をするか、する(前者を判決陪審ないし審理陪審、後者を起訴陪審という)。そしてこれらとは別に、不審な死者について裁判手続をするか否かを決定するコロナー(検屍官)の陪審がある。
陪審は、12世紀後半から13世紀にかけて、民事・刑事の双方において、〈事実を知る人々〉として、同じ地域の人々の証言が証明方法として採用されたのに始まる。盛んに行なわれるようになるにつれて、その役割も見直され、証明から審理に参加して〈事実問題〉を判定するという方向へ変化してきている(from proof to trial)。しかし、イギリスではマグナ・カルタ39条(1215)に由来するものであろうか、〈人はその同輩によって裁判されるべし〉との憲法的法原則を形の上だけでも維持することが徐々に困難になるとともに、陪審の付和雷同性や腐敗堕落も指摘され、時代が進むに連れて、イギリスでは徐々に利用の低下を示して、現在に至っている。すなわち、刑事起訴陪審は1933年に廃止され、起訴するかどうかの決定は治安判事裁判所の予備審問に委ねられた。また、刑事事件については正式起訴された事件だけに、陪審が行われ(それも一部は強制的に陪審へと進むが一部は被告の同意で陪審へと進む)、民事事件についても契約違反や不法行為を理由とする損害賠償事件で当事者が請求したものに限られている。
他方、アメリカ合衆国では、刑事の起訴陪審(大陪審)と判決陪審(小陪審)ともに、必ず行なわれるし、民事陪審も盛んに行われている。その法的根拠は憲法の規定によるものであるが、同時に、独立期の職業法曹の不均質が法曹不信を招き、〈素人の判断〉を重視した点もたしかにある、と私は考えている。
(2)陪審の短所
陪審はコモン・ローにおいて発達した訴訟手続である。重要な刑事事件と当事者が陪審に付すことを要求する一部の民事事件において、行なわれている。契約の特定履行や違法行為の差止命令を求める訴えなど、エクイティ法上の手続では行われない。以下では、重要な刑事事件を想定して考える。
さて、陪審には、訴訟の費用や時間といった訴訟経済上の問題、さらに、イギリスでは一般に陪審を選択すると刑の幅が広くなるという傾向がある(結果的に刑が重くなるという恐れがある。)。これに加えて、陪審の短所ないし弱点として、次のような点が指摘されている(指摘は、主としてウィリアムズ『イギリス刑事裁判の研究』学陽書房による)。
- 偶然に選任された集団である。
- 陪審は、法廷において証言・証拠を精査した経験がない。
- 法廷という環境と法廷で使用される言葉に慣れていない。
- 感情に流された判断をしやすい(弁護人の弁論や裁判官の意のままにコントロールされやすい)。
- 陪審は名誉ある仕事ではない。
- 経済的損失をもたらす(その損失は、僅かな陪審手当ではほとんど補償されない)
- 公判を長引かせる。等々である。
(3)陪審支持論
陪審を信頼し、陪審を熱烈に支持する見解は、有力弁護士・裁判官に以外に、否、圧倒的に多い。陪審は、提示された証言・証拠と裁判官の説示に基づいて真の評決を行っている、とみるのである。これは、かれらが陪審制の下における成功者であるからかもしれない。
陪審制には、一般に、次のような長所が指摘される。
- 善良な人々による神聖な評決が期待できる。
- 国民の司法への参加が可能になる。
- 老若男女さまざまな人々から構成されている(裁判官は、多くの場合、高齢男性である)。
- 裁判官の仕事が軽減される(裁判官はアンパイアの仕事に専念できる)。
以上において、陪審の長所と短所を通覧してみた。結果として言えることは、陪審の抱える問題とは、〈陪審は証言を含む証拠にもとづいて真の評決を行いうるのか〉である。特に、自分が裁判に付されたとき、〈その陪審に、自分の有罪・無罪の決定を託せるか〉である。近年、イギリスなどで問題になっている、少数民族出身の被告が多数民族からなる陪審の構成に異議を申立てる背景には、つねに、裁判の原点の問題―その陪審が、証拠のみにもとづいて判決を下しているか、の問題が存在するといえよう。
なお本稿では、紙面の関係で、陪審に適しない事件や専門参審員といった陪審に代わるか補助する法制については、言及しなかった。
5 陪審員からみた裁判員―まとめに代えて
以上に述べた陪審(あるいは陪審員)についての議論を要約し、我が国の裁判員と比較してみよう。
〈両法制の簡単な比較〉陪審員 | 裁判員 | |
a 無差別に選ばれた人々である | ○ | ○ |
b 個性のない人々である | ○ | ?(1) |
c その事件かぎりの決定を下す | ○ | ○ |
d 自分たちだけで別室で判定する | ○ | ×(2) |
e 判断の理由を決して語らない | ○ | ×(2) |
f 事実問題だけしか判定しない | ○ | ×(3) |
(1)イギリス(イングランド)の陪審員は、個性のない人々(無個性)である。全員が、名前ではなく番号で呼ばれる。陪審長(foreman)は陪審員の1番である。
裁判員はどうか。無個性であるはずであるが、新聞やテレビで見る限り、匿名を理由にインタビューを受けたり、ある事件の担当裁判員全員で記者会見などしたりして、意見を表明している。悪を見たことのない人々の集団であるとも言える。
(2)イギリス(イングランド)の陪審は、決して判断理由を語らない。それゆえに、往時において、神判、すなわち、自然神の判断にもたとえられた。神判なる証明方法の代わりに導入されたという歴史的理由もあろうが、判断理由を語らないことは素人の法的判断に相応しい。聞くところでは、我が裁判員に似た法制に、ドイツの参審員制があり、これは審理において職業裁判官と同席して共同して判決を下す。ただし、参審員はなりたい旨希望し、許された者だけが就任するという。言い換えると、参審員としての資格がある程度考えられているということであろう。
自分たちだけ別室で協議し、評決を下す陪審制は、市民の司法への参加と言う利点とともに、裁判官の負担を軽くする利点がある。陪審が有罪か否かを決定し、裁判官は、刑事事件では量刑の問題だけを考えればよいからである。
裁判員制は、これと大きく異なる。裁判官は、一方で法廷の秩序維持・事件の進展を考えつつ、他方で法に不慣れな裁判員を指導して判決へと導き、しかもともに量刑まで考えねばならない。裁判員裁判における裁判官は、まさにスーパーマンさながらの活躍を期待されているのである。精神病を発症しないよう祈るのみである。
(3)事実問題と法律問題を分けたことは、イギリス法の法の叡智を示すものである、と私は考えている。法律問題と称する枠組みをこしらえて、〈陪審は法律問題に答えず〉とばかりに陪審を閉め出したことにより、ある種の法律問題の、あるいは一回かぎりではなく後続事件に関係する法律判断の、決定を職業法曹にとり込むことは、一面では責任の自覚を促したでもあろうが、それとは別にもっと重要なことは、職業法曹、特に裁判官にとって法の理論的考察が深められるという側面があろうかと思う。どのような問題にも〈市民目線〉と称する素人の議論が侵入してくる可能性のある、裁判員制と冷静に比較されたい。
ベイカー氏は、中世陪審において確立したと思われる法格言〈裁判官は事実問題に答えず、陪審は法律問題に答えず〉を持する法制が〈イングランドの実定法[実体法と訴訟法]を念入りなものにするのに役立った〉、と述べている(『法制史第4版』76頁)。深く味わうべき一言である。
主要参考文献
守屋善輝『英米法諺』1973年、日本比較法研究所。(『守屋』と引用・言及する)
小山貞夫『英米法律語辞典』2011年、研究社。(『小山』と引用・言及する)
これ以外のものは、必要に応じて言及する。
なお、英米法格言と言いながら、ラテン語表記のものが多い。それらについては、『小山』「序」に掲げる英米法の辞典類を、またラテン語表記の法格言の日本語訳については『小山』の該当項目か、『守屋』法諺索引から原文の日本語訳をご覧下さい。
2013年9月1日
「12期の広場」 9月号ラインアップ
正確には一般的な「分水嶺」ではなく、日本列島に降る雨を日本海側と太平洋側に分ける背骨部、つまり中央分水界で、それが平地に現れたものを特に谷中分水界と言うそうです。石生の谷中分水界は本州ではもっとも低いもので、その海抜は分水橋地点で101mです。
しばらく水分橋のたもとに立ち止まりましたが、どう見渡しても分水界の南北は平らな盆地、勾配がある地点とは思えません。またこの分水界が東に行っても西にいっても日本の脊梁山地(分水嶺)に連なるとはとても想像できませんでした。
石生の谷中分水界は高谷川の右岸の自然堤防に沿って東西に長さ1.25kmにわたって続いています。東は「水分れ公園」付近で山から氷上盆地に降り、海抜95.45mまで下がりながら水分橋、石生踏切付近を経て、城山の稜線をまた登って行きます。そして石生付近の盆地を南北に分け、その北側に降る雨は黒井川から由良川を経て日本海に、南側にふる雨は柏原川から加古川を経て瀬戸内海に注ぐそうです。
高谷川沿いに大和屋という立派な老舗料理旅館があるのですが、その屋根をつたう雨水は、屋根勾配によって日本海、瀬戸内海へと水分かれするのです。もっと驚いたことは、もし海面が100m程度上昇したとすれば、このあたりに若狭湾と瀬戸内海を結ぶ海峡が出現し、本州を二分することになることです。どのようにしてこの地域に分水界ができたのか、またそれは自然界や人々の生活にどのような影響を及ぼしたのかなど、自然の神秘と人々の営みへの興味は尽きません。
「水分れ公園」で豊かで美しい水の姿を堪能し、すぐ側の「丹波市立水分れ資料館」を見学しました。
夕暮れがせまり、川魚が群れる高谷川のせせらぎを眺めながらのんびりと石生駅に向かいました。1時間に1本の大阪行き普通列車に乗る頃には暑さも幾分やわらぎ、分水界である石生踏切付近を越えると列車は確かに長くて緩やかな下り勾配を進みます。すべるように軽やかな列車の加速が殊更、心地よく感じた一日でした。
さて今月号のラインアップです。今月号は記事が一つです。お楽しみ下さい。
- 「法格言にみるイギリス法の精神 3 (上)」 3組 松村 勝二郎
2013年9月1日
法格言にみるイギリス法の精神 3(上)
(Judges do not answer questions of fact, jurors do not answer questions of law. )
いつ頃できた法格言であるか、不詳であるが、〈裁判官が、事実問題に答えないのと、まったく同様に、陪審は、法律問題には答えない。〉という法格言が、クック『リトゥルトンの不動産保有条件論注釈』(1628)に出ているというから(『守屋』224頁)、陪審制が確立し十分に機能していた時代の法格言であることが窺われる。私は、この法格言は職業法曹に宛てたもの、否、その候補生である法学生に宛てたものであろう、と推定している。格言自体には、なんのむつかしさもないからである。そして教師も法学生も、主たる関心はその内容に、法律問題とはなにか、事実問題とはなにか、どのように区別するのか、それはなぜかといった点にあったことと思われる。
しかし、この問題に入る前に、英国の陪審とは〈似て非なる〉、我が国の裁判員に関係するある日の新聞記事を見ておこう。なぜなら、我が国の裁判員は〈法律問題にも答え、事実問題にも答える〉からである。
1 ある日の新聞記事から(2013.6.20 朝日夕刊)
東京高裁〈裁判員の死刑判決 破棄〉強盗殺人[を]無期懲役に
上記見出しに続く〈事実の概要〉は次のとおり。「東京都港区のマンションで飲食店経営の男性を殺害したとして、強盗殺人罪などに問われたY被告に対し、東京高裁は20日、一審・東京地裁の裁判員裁判の死刑判決を破棄し、無期懲役とする判決を言い渡した。A裁判長は「一審判決は、2人を殺害した[被告の]前科を重視しすぎている」と指摘した。裁判員裁判による死刑判決は19件あるが、二審で覆るのは初めて。」
以上の事実の概要に続いて記された記事について、陪審制を考えるうえで、私は次の点に関心を持った。
(1)控訴したのは誰か(被告と推定されるが、記事中に明記なし)。
陪審裁判において、英法では、控訴できるのは被告だけである。訴追側は、警察という巨大な捜査能力を持ち、国費つまり国民の税金を自由に使えるから、たとえ訴追側の不十分な立証によって無罪判決が言い渡されても、被告を拘束してはならないという人権上の配慮であろう。しかし、同時にそれは、イギリス法に存在する〈裁判は一回で完結すべし〉とする、裁判の一回性の要請が、特に陪審裁判を重視する伝統と深く結びついたものでもあろう。正しい裁判には上訴や再審は不要とみなすのである(ただし、裁判所による法令解釈・判例解釈の誤りについてだけは、検察側も上訴できる)。
(2)記事中に、一審の裁判員であった人へのインタビュー記事が、匿名ででている。
「本当ですか」[死刑が無期懲役に変えられたことに驚いている。]
Y被告の一審で裁判員を務めたある女性は、驚きを隠せない。そしてこう述べている。
「あれほど考え抜いた結論だったのに…。混乱している」と。
〈私の疑問〉一審の裁判員だった人物に新聞社がインタビューしているが、新聞社には人物名がわかっているのか。それはなぜか。裁判所が知らせたのか、それとも裁判員個人が知らせたのか。裁判員は、たとえ匿名であろうと、自己の担当事件についてインタビューをうけてよいのか…等々である(断っておくが、裁判員法にはこれらの事項について禁止する法文は存在しない)。言うまでもなく、英国の陪審には個人名はなく、全員番号で呼ばれ、全く無個性である。たとえば陪審長(foreman)は1番である。陪審員が担当事件を評釈したり、インタビューを受けるなどは論外であろう。
なお、フランスにも陪審と称する裁判員制があるが、担当事件につき意見等を表明することは、法律によって一切禁止されている。
英法の陪審の歴史から眺めると、日本国の国民は純真無垢な赤ちゃんのようなものか。もし機会があれば後述するが、陪審の歴史は陪審に対する脅迫や賄賂による陪審腐敗の歴史でもあるが、我が国の立法者は裁判員をそれらからどう防ぐかの手立てを講じていない。このことについては、手口を教えないため詳論しなかったが、裁判員制発足前の2006年の講演で一言したことがある(のちに講演原稿を記録に残した。松村「陪審の母国イギリス法が語ること」38頁。Mariners’ Law Reports, vol.6 別冊)。
なお、我が国でも裁判官や裁判所書記官の個人情報は、一般公務員に比較して、かなり慎重に守られている。その意味で、裁判員の個人情報が明らかにされた結果、有罪判決を下した裁判員が危害を加えられたりしたら、どうするのであろうか。東大教授を定年後、最高裁の裁判官になった団藤重光氏は、死刑判決を下したとき、傍聴席から〈人ごろし〉と怒声を浴びせられ、これが同氏『死刑廃止論』執筆の一動機である、と同書中に述べている(もっとも、私個人は、双方の権利の主張が激烈に対決する裁判の審判人である裁判官を、定年を迎えた学究の再就職とでも考えているらしいこんな気弱な裁判官には決して裁かれたくはないが…。刑事の名裁判官として知られた三宅正太郎氏が『裁判の書』において述べるように、裁判、特に刑事裁判は覚悟の問題である。そしてイギリス中世法では、判決非難を理由とする上訴は、申立人と〈虚偽判決〉を下したと非難される裁判官との決闘を意味したのである。松村訳『グランヴィル』164頁)。
(さらに…)
2013年8月1日
「12期の広場」 8月号のラインアップ
自分の住んでいるところを褒められたり、敬われたりすることは大変嬉しく気持ちの良いことですね。実は6月中旬~下旬にトルコを旅行したときにそれを経験しました。120年以上前からトルコ人は日本が好きであるとガイドが何度も何度も言い、子供たちは小学校の教育で必ず日本の串本町のことを教えられているというのである。和歌山県串本町の海で遭難し多くのトルコ人が受けた恩を決して忘れてはならないということである。紙面の都合上詳細は省くが教育の重要性まで影響を受けたようであり、今日のトルコがあるのも日本と串本町のお陰とガイドさんは思っている。
それが実感できたのは二日目のエーゲ海に面したホテルに着いたあと、海岸を散歩したり写真を撮ったり膝まで海に浸かったりしていると、海に入っていたトルコの子供たちがニコニコしながらなにやら話している。「こんにちわ」と声を掛けると応えてくる。「こんにちわ。ジャポーニア?」「エベト」頼りないが会話をする。そして「バイバイ」と何度も何度も手を振りながら去って行った。
大人の人も海から出て近づいて同じように「ヤーパン」やら「ニホン」と言いながら握手を求めたり息子や娘に何か言っている。きっとこの人たちは日本人だよと言っているようだ。
子供たちもニコニコして手を握りに来る。やはり本当なんだ。ガイドさんは2002年の日韓ワールドカップでトルコ対日本の試合、串本町の小学生たちがトルコの応援をしてくれたこと。そして勝てたこと。最終的に3位になったこと。その他たくさんのお話をしてくれました。
折りしも6月のトルコでは現政権批判のデモが渦巻いていた。そのようなことを微塵にも感じない旅でした。政教分離が徹底されて国民の90%が回教徒の国と感じさせない。国民から建国の父と尊敬されている初代大統領アタチュルクが実は日本人の教え子で、日本の精神文化を学んだことが代々伝わっているのかもしれない。考えさせられた旅行になったのは確かでした。
さて、8月号のラインナップは以下のとおりです。夏本番の8月をエンジョイしてください。
- 「盛夏の思い出」 4組 寒川 詔三
- 「東京市岡会に参加しました」 8組 榎本 進明
- 「夏の地方大会3回戦(福井高校戦)観戦記」 7組 張 志朗
- 「お祭り訪問 雑感短信 ①」 8組 末廣 訂
2013年8月1日
盛夏の思い出

今年も夏の全国高校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」を、よく耳にするようになってきました。
高校3年生の盛夏、暑い、口惜しい1日を忘れることができないのは、硬式野球部員だけだったでしょうか? 12期生が一丸となって青春を謳歌した学校行事は色々あったが、部活で甲子園を目指した硬式野球部の夏の高等学校野球選手権・大阪大会における激戦に、血沸き肉躍るものを感じられた方が、沢山おられたのではないでしょうか。
昭和34年(1959年夏の高校野球選手権大会 大阪大会)の市岡高校は三井君の好投で準決勝に駒を進めた。1回戦:浪速工 2回戦:今宮高 3回戦:大阪商大附属高 を接戦で勝ち抜き、日生球場における準々決勝の近大附属高戦は、延長10回の激闘を1:0で制し、戦後初の夏の甲子園出場が手の届くところまできた。当時の部員は同期の3年生が三井君、森君、山田(克)君の3名がプレーヤー、私(スコアラー)と美記君はマネージャー、そして洲崎さん、田村さん(いずれも旧姓)が女子部員(女子マネージャー)であった。市岡高校は女子マネージャーを設置した最初の高校であったと思われるが、合計7名が同期生、プレーヤーは2年生4名、1年生6名、計13名の少人数の構成で参加した。
当時の大阪府の高校野球は私立8強時代といわれ、浪商(現在の大体大浪商)、PL,興国、明星、北陽(現在の関大北陽)、上宮、近大附属、大鉄(現在の阪南大高)等が群雄割拠していた。ただ昭和34年、準決勝に勝ち残った4高校は、市岡、八尾、阿倍野の公立3高校と私立の興国で、公立優位の状況であった。私は準決勝の抽選で八尾高との対戦を引き当てた時、ぼんやりと見えていた甲子園の姿が、くっきりと見えるようになってきたものである。
(さらに…)
2013年8月1日
東京市岡会に参加しました
平成25年7月20日(土)13:00から新宿三井ビル54階で「第54回東京市岡会」が開催され参加しました。それに先立ち9:15~11:30まで近藤太一さん(高校15期 京都市民大学院 教授)が主催するミニツアーにも参加いたしました。今年は「東京愛宕山NHK放送博物館見学会」でした。このミニツアーは毎年恒例となっていて、今では近藤さんの旅行会社勤務での豊富なご経験から発せられる説明に聞き入るのが楽しみになっています。
案内される先々で「先生」「先生」と呼ばれて、親しみのある人柄にも魅力を感じています。
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近藤さん(写真左)の説明を聞く参加者
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愛宕山の頂上に湧き水があるのが不思議
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NHK放送博物館のある愛宕山は西郷隆盛が勝海舟と会談、内戦を回避した場所とのこと。標高25.69mの山の上になぜ水が出るのか不思議で、徳川家康は江戸防火のために神社を祀られたとされています。(愛宕神社)
博物館の中に入ると従業員の皆さんが我々を迎えてくれました。ベテランの若山さん(広島県出身)が我々の案内役で懇切丁寧に説明してくださいました。1925年(大正14年)3月22日東京芝浦にある東京高等工芸学校(1951年東京工業大学に移管)図書館の一隅に開設した仮放送所から日本初のラジオ放送が始まった。同年7月には愛宕山新局舎が完成して本放送が開始されるが、それまでの4ヶ月間マイク1本でニュース、天気予報、音楽演奏、講演、ラジオ劇、など放送された。
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富士山頂でラヂオを聴く 1925年(大正14年)
8月 |
初めての中等野球実況中継1927年(昭和2年)
8月13日 |
放送に関する技術的なものからエピソードまで詳細な説明を受けた中で、歌手の藤山一郎さんとNHKの関係は印象に残りました。昭和3年17才のとき独唱で出演したのが始まりで、昭和21年には復員第一声をラジオ「音楽玉手箱」で、また25年~26年に「愉快な仲間」にレギュラー出演、昭和26年「第1回紅白歌合戦」にキャプテンとして出演以来平成4年まで連続43回出演、また昭和26年には終身刑戦犯者の慰問もされました。晩年(81才)には国民栄誉賞を受賞され翌年82才で永眠されました。
「熱烈慰問演奏」とあるように日米安保条約締結を記念して斯界大物が連名で自署している。
文面は、「神も人も ききいる妙の 楽の音に あまの岩戸も 開けゆくらし」
昭和二十六年霜月十八日 平和安保両条約批准 国会通過の佳き日
午前中のミニツアーは地下鉄神谷町駅で終了しました。近藤さんとはひとまずお別れして13:00からの同窓会でお会いすることになります。9:15から立ちどうしのツアーでしたので、近くのカフェで休憩後新宿三井ビルに向かいました。
受付終了後、しばらくして同窓会(東京市岡会)が始まりました。今年は出席者108名で盛会となりました。幹事さんのご努力の賜物と深く感謝したいと思います。
2013年8月1日
夏の地方大会3回戦(福井高校戦)観戦記
夏、市岡高等学校とくれば高校野球です。第95回全国高校野球選手権記念大阪府大会の母校の試合を見に行ってきました。
母校硬式野球部は2回戦からの登場だったそうです。2回戦の大阪府立阿武野高校戦で夏の地方大会200勝の歴史的勝利(8対1)をしたと聞き、7月18日、あたふたと都合をつけての3回戦の応援です。相手は大阪府立福井高校(茨木市)で球場は万博球場です。
当日、午前中は曇り空、午後はカンカン照りの酷暑日。自宅を出て電車を乗り換え、最寄りの万博記念公園前駅(モノレ-ル駅)で降りて球場までの15分ほどあるいたのですが、強い日射、その照り返しと道両側の雑草の草いきれで頭がくらくらするありさまです。
球場は森の中、客席はすべて芝生席で外野は緑豊かな木々で囲まれての別世界です。外野の芝生と内野の黒土、引き直された白線が目に沁み、噴水のように水を打ち丁寧に均し整えられたマウンド周辺はまさに舞台そのもの。猛練習を耐えてきた母校球児が悲願の甲子園出場をめざす夢舞台です。三本線の鮮やかな帽子をかぶった選手の姿が一層まぶしく感じられ、「後攻市岡高校、一番キャッチャ-杉村君」、ウグイス嬢のアナウンスが遠い昔の懐かしさを運んできました。

(さらに…)
2013年8月1日
お祭り訪問 雑感短信 ①
2013年7月1日
「12期の広場」7月号のラインアップ
今日から7月、早いものです今年も365日の半分が過ぎ、いよいよ、うだる暑さの夏本番です。寒いのも駄目、暑いのも駄目と厳しい季節との折り合いが難しい年令になっていますが、同窓生の皆さん、くれぐれもお体大切にお過ごし下さい。
先日あったある勉強会での話を書きます。勉強会は台風などの強風による建築被害についてのもの。講師の先生はその分野の研究者です。先生の穏やかな語り口とユ-モア、なにより分かり易くて、知力の衰え甚だしい筆者ですら分かったような気持ちにさせて貰えた有意義なものでした。話はその結びにあった事です。
講師の先生のお母様が今年の初めに脳梗塞で倒れられ、闘病、薬石の甲斐もなく、最近お亡くなりになりました。その間、お母様は病による障害もあってか、二つの言葉以外、話されなかったそうで「二つの言葉だけで生きる事が出来るのですね」と先生が話されました。
その言葉とは「はい」と「ありがとう」だったそうです。
驚きました。同時に胸の中でこの言葉がほのかに熱を持ちました。見事な生き方と言うほかありません。
思うに、「はい」は今を肯うこと、「ありがとう」は数限りなく去来したであろう事柄に感謝すること。とてもとても私には言えそうにありません。先生が微笑みながらおっしゃった言葉。「ひょっとしたら母はたいそう偉い人であったのかもしれませんね。」が深く心に沁み入りました。
今月は私の誕生月、めでたく満72才を迎えます。72才は母のなくなった歳でもあります。いよいよ目標にしてきた母の歳を越えて行くことになります。
標高の高い三田市の永沢寺は花菖蒲の群生が今をさかりと咲き誇っているそうです。行くつもりが行けません。その代わりと言えば花に失礼ですが、雨に濡れていっそう艶やかに咲く路傍の紫陽花を楽しむことにします。
さて今月号の「12期の広場」ラインアップです。以下の二篇です。お楽しみ下さい。
- 「-カメオを通して-
ミロのヴィ-ナスのポ-ズを考える」 4組 前川 光永 - 「法格言に見るイギリス法の精神 2 (下)」 3組 松村 勝二郎
- 「同窓会ホームページ・名簿システムをリニューアルしました」について
林芳子(リム パンジャ)さんより: - 「ひろばリバイバル」について
川村 浩一さんより: - 「市岡高校18期生同窓会」について
堀義昭さんより: - 「【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご報告」について
中間 實徳さんより: - 「市岡高校卓球部OB会「市卓会」 第27回会長杯卓球大会開催」について
水谷晴信さんより: