お知らせ

2015年

2015年 豚汁会の写真です


2015年3月1日(日)、母校の100周年記念会館で恒例の豚汁会が開かれました。

今年も皆さんの一言自己紹介がありました。
その模様をスナップ撮影しましたのでお楽しみください。

お世話になった「可信食堂」さんが都合でお店を畳まれることになりました。
長いあいだありがとうございました!
(さらに…)

「12期の広場」 3月号のラインアップ

 3月です。桜の開花予想も出て、待ちに待った春到来と言いたい所ですが、実感は「春隣」がぴったりの今日この頃のようです。

 今年は阪神淡路大震災から20年、また今月はあの東日本大震災から4年目になります。1月から今日までこのラインアップに何か書きたいと思い続けてきましたが、読んで頂けるまでの整理がつきません。いまだ東日本大震災の現場に足を踏み入れていないのが心に刺さった棘のよう。ただただ阪神淡路大震災の被災者、また建物の耐震設計を生業とする者の一人として、その「記憶」と「教訓」が風化する事に抗い続け、被災地に思いを寄せて行きたいと考えています。

 

 さて「12期の広場」先月号から石井孝和君の「思い出を綴る」の連載が始まりました。この連載は石井君の膨大な日記に裏打ちされているようです。これにならい最近あった事を日記風に書きしるします。

××日(晴れ)

 駒崎君から麻雀の誘い。午後1時半、駒崎邸に到着、遅ればせながら新年の挨拶を交わし、早速麻雀卓を囲む。メンバーは駒崎、田端、谷の面々で5時頃に塩野君が加わった。何年ぶりかの麻雀で上がり方が分からないなどと言いながら、最初に「オヤマン」を上がる。大顰蹙、特に田端、駒崎の両君から無茶苦茶に言われた。それが因果か、その後は焼き鳥の如くジリジリと弄ばれての大負け。結局、宮本武蔵宜しく満を持して現れた塩野君の一人勝ちであった。それはそれとして腰を痛めていた谷君のことが気になる。

××日(曇り時々雪)

 先日、4組の寒川君からコンサートへのお誘いメールがあった。

 「私の所属する混声合唱団<シャンテ>が、この3月29日(日)に『いずみホール』で、創立25周年記念コンサートを開催します。私も本格的な合唱の魅力にとりつかれて50年余りとなりました。あと何年オンステージできるか、毎年勝負の年代になってきました。」毎年が勝負の年代とは全くの同感。行くことを決めて連絡したところ同窓生3名と、寒川君連絡分含めて合計7名が行くことになった。久々にコンサートホールで混声合唱を楽しみ、またその後、同窓生とワイワイできると今から楽しみにしている。(写真はそのポスター。クリックすると大きくなります。)

××日(晴のち曇り)

 石井君から「思い出を綴る」の第6回目の原稿が届く。第1回目から通算すると、すでに400字詰め原稿用紙で30枚は越えたのではないか。驚き。第6回目には1963年、大阪NHK新館渡り廊下での失敗エピソードが書かれているが、それが生き生きとしているばかりか、顛末の細部までが見事に鮮明。感謝、感謝の気持ちで一杯。彼の膨大な日記、メモの底力とたゆまない日常に脱帽。

 

 以上、3日坊主が常の私らしく3日分相当に留めます。

 今月号のラインアップは1篇のみです。次号はもう少し頑張るつもりです。

 
  1. 思い出を綴る (2)」               3組   石井 孝和
 
以 上
 

思い出を綴る(2)

3組 石井 孝和

 中学校では、タブロイド版の学校新聞を発行していた。

 当時、学校は大淀区にあったが、新聞を印刷していたのは、徒歩で20分ほど離れた福島区にある小さな規模の印刷所であった。

 放課後、まだ裸電球が部屋を照らす印刷所にクラスメイトといっしょに「ゲラ刷り」をもらいに行ったときのあの部屋に漂うインクの“香り”がとても懐かしい。

『写真左下が体育部の部室です』

 中学から高校へ進む際、自分はどこへというはっきりした目標はないまま、日々楽しい学校生活を過ごしていた。そうした時期に、担任の先生から「君はK高校でも市岡高校でもいいから自分で選んで試験を受けたらいい」と言われた。わたしの1軒隣に毎日新聞の販売店があったことから「毎日新聞」を取っていたのだが、先生がそう言われた時、ふと去年、その新聞に“K高校で校内暴力”の記事が載っていたことが頭に浮かんで、即座に「市岡高校を受けます」と答えた。すると先生から「市岡高校は校風もいいそうやし、石井君の自由な意志でそうすればいいよ」と笑顔で励ましてもらった。

 幸い希望通り市岡高校に入学して間もなく授業中に驚いたことがある。英語の時間であった。There is a ・・・・を親友の泉信也君が“デェアリザ”と流暢な発音で本を読んだことだった。“英語の勉強が中学時代、僕らに比べて格段に進んでいるのだ”とショックを受けたことを覚えている。その時、わたしの発音は、“ゼアー・イズ・ア”と区切り区切りであった。特に英語に秀でた泉君は「ICU=国際基督教大学」に見事合格した。そんなわたしでも”英語”には興味を持っていた。

 クラブ活動は、「新聞部」に所属することにした。中学校で「学校新聞」を作っていた経験を生かそうと入部を決めた。酒井八郎部長をはじめ張志朗君や小寺昌子さんらが、”新聞作り”に情熱を燃やしていた。

 ところがわたしは、体育の時間、鉄棒で蹴上がりができたのが“金八先生”ならぬ日体大体操部“スワローズクラブ”でオリンピックの強化選手にも選ばれたという福井金治先生の目に止まり、「石井、おまえは体操部に入れ」と勧誘され、即刻“入部”が決まった。

 このことから「新聞部」での活動がおろそかになって部員の皆さんに多大なご迷惑をかける結果になったので、この場を借りて謝罪します。

『体操部の面々、2段目左が私です』

 さて、体操部の方は、福井先生の理論より実地に“演技”を見せていただきながら練習に励んだ。体操部は、温和な人ばかりで、後に学校長を務められた野田さんや練習中、間を見はからって講堂のグランドピアノを弾かれていて、後に大阪音大の先生をなさった沖さんの二人の先輩の他、林栄作君、貴田宗三郎君、西山吾郎君のあわせて4人の同期生が仲良く練習するのが楽しみのひとつになっていた。

 体操部は、野球部やテニス部、剣道部のように運動場をランニングすることはほとんどせず、部室で体操服に着替えると、すぐに木製の道具を使い地面で「倒立」の練習をするのが常であった。そしてその後、鉄棒や平行棒、吊り輪、跳馬、あん馬、それに道具を使わない徒手、今のゆかを日替わりで行った。ただ当時、今のような高度な「C難度」とか「G難度」といったものはなかった。器械体操は全種目にわたって練習をつみ重ねるものだが、わたしはあん馬が特ににが手で、開脚して前後に振り、両手を持ち替える技さえできなかった。ただ1種目、平行棒のみ記録を残すことができた。

『競技大会での平行棒の演技』

 大阪ナンバの府立体育館で行われた“大阪府の競技会”で種目別に出場した結果、平行棒の個人で清水谷高校の選手に次いで2位の成績をおさめることができた。

 この時、4人の審判員から自分の“演技”が評価された喜びを感じるとともに指導してもらった福井先生をはじめ先輩、同期生のみなさんに深く感謝した。

 体操は危険が伴うスポーツであるため、練習の時には、必ず演技者の傍で補助する者があることから、部員同士が支え合いながら練習に励むうちに絆が生まれるものだ。

 そうした中、ある日の放課後、いつものようにグラウンドの片隅にマットを敷いたうえ、鉄棒を立て、次々と練習に入った。そして、わたしの番がきたのでマットの上に立って構えていると、誰かが後ろから支えてくれて鉄棒につかまり、“さぁ一気に大車輪に持っていこう”と振り出した。ところが体が鉄棒の上まで達しなかったので、そのまま、もう一度前に振り出した途端、鉄棒が手から離れ、体が上向きに宙を飛んでしまった。わたしはとっさに体をひねって“猫”のようにうつ伏せになろうとしたものの、ひねりきれず、マットの上に落下した。片腕で着地したため、左の手首が“ミシッ”と鈍い音が聞こえ“あっ!折れた”と思わず叫んだ。

 この“事故”で手首の骨が2本折れ、肘を脱臼し、仲間に両脇をかかえられて学校近くの接骨院まで歩いて行った。途中、顔面蒼白、あぶら汗をかき、痛みをこらえていた。さて治療が始まった。骨折部位は後回しで、まずは脱臼部位の治療。飛び出した骨を押す人、手首に向かって引っ張る人、総勢3人がかりで“もうちょっとだ”、“もうちょっとだ”と息をはずませていた。「左カイナの表皮が引きちぎれるおそれがあるぞー」と“イタイ、イタイ”とうなるこっちをよそに・・・・。

 5分ほど辛抱していると“コツン”と音がして元のサヤにおさまり、腕がようやく動くように“修復”された。一方、骨折の方は手首から肘にかけて石膏で塗り固められる運命をたどった。(次号へ続く)
 

2015年春「バレーボールを楽しむ会」へのお誘い

平成27年2月吉日

市岡高校バレーボール部 OB・OGの皆様へ
 

「バレーボールを楽しむ会」へのお誘い
 

春寒の候 皆様方にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
さて、毎年恒例の春の「バレーボールを楽しむ会」を今春も下記のとおり開催いたします。同期の皆様等で連絡を取り合って、ふるってご参加くださいますようご案内いたします。
なお、今回は、バレーボールを楽しむ前に今季卒業生を囲む昼食会を開催し、OB・OGとの懇親を深めることとしました。昼食会にもご参加いただきますようお願いします。
つきましては、今回は「楽しむ会」後の同窓会館での懇親会は開催いたしませんので、みなさまどうしでお声をかけ合い各々で懇親を深めていただきますようお願いいたします。


敬具 (さらに…)

「12期の広場」2月号 ラインアップ

 2月、如月です。今年は元日から関西の都市部でも雪が積もりました。珍しいこと、それに冬将軍がさらに勢いを得たのか、凍える寒さが続き、老いの身に芯からこたえる今日この頃です。

 我が家の庭の蝋梅(ろうばい)が黄色の花を咲かせはじめました。1cm位のそれが、朝露に光るさまは実に可憐。いまだ寒風に揺れる春一輪の風情です。

 「冬きたりなば春遠からじ」


 久しぶりにこの文章を新聞で読みました。なんだか大層懐かしい感じで、気分は高校時代です。ちぢこまった身体と心が一寸ほっこり、早速インターネットで出典検索。イギリスの詩人シェリー(1792~1822)の「西風に寄せる歌」の一節だそうです。漢文調で古めかしい格言のような言葉が英国生まれの詩文とは、とても不思議なこころ持ちで、それがいまや日本古来の諺のような扱いになっていることに興味すらわきます。では「西風に寄せる歌」の原文(勿論翻訳されたものですが)を探して読んでみるかとなるところですが、筆者は今年も相変わらずの「真面目グズ?」、今日のところは手短なパソコン検索止まりということで、ご容赦下さい。

 

 さて「12期の広場」2月号のラインアップです。

 先月号で少しふれていますが、川合兵治君(4組)がなくなられたことについて追悼の意を込めて山田正敏君(8組)が書いてくれました。また川合君が「12期の広場」に9回の連載で書いてくれた「川歩き」の最終回を再掲します。故人を偲んでお読みください。

 次に石井孝和君(3組)が「思い出を綴る」を書いてくれました。今月号に掲載した第1回は中学時代の話で、懐かしい昭和の風が吹きわたっています。連載は長期、概ね8回程度になると思います。ご期待下さい。

  1. 川合兵治君がなくなられました」            8組  山田 正敏
  2. 第9回利根川 川歩き(平成23年5月9日~11日 )」  4組  川合 兵治
  3. 思い出を綴る 」(1)                 3組  石井 孝和
 
以上
 

川合兵治君がなくなられました

8組  山田 正敏

  川合兵治が逝った。昨年の12月12日に届いた、彼の奥さんからの喪中のハガキによれば、その日は12月2日の事であるという。11月27日に、当初から入院していた柏市の国立癌センターから、近くの辻中病院に転院して、「無事転院しました。皆さんによろしく。」との短いメールを小生にくれてから5日目の事である。

 彼が肺癌であると医者から宣告されたのは、平成25年の12月で、当時あまりにも咳きが止まらず、病院に行って診察してもらったところ、思いもかけず肺癌の宣告を受けた。その段階でステージ4であるという。彼がその事を小生に打ち明けてくれたのは、昨年(26年)の1月の終り頃だったか、彼からTELで久し振りにどうだとの誘いがあって、いつもの碁会所(柏市)で碁を打ち、その後、近くの居酒屋で一杯呑んだ時のことである。

 そのときの話で、医者いわく、検査の結果、この癌は、手術および放射線治療は出来ず、抗癌剤投与による延命治療しかないとの事。そこで彼が憤慨するのは 『今まで毎年健康診断を受けてきて、何の問題も無かったのに、今頃、 何故だ、なんなんだ 、それも末期に近いステージ4とは』という事であった。 それでも、彼は別れ際に、抗癌剤による治療でなんとか「川歩きに復帰してみせる」と言い切ったのではある。精神的には強い男であることを改めて感じた。

 しかし小生は全身の力が抜け、どう慰めたらいいのか判らず、ただ、出来るだけ頻繁に病状報告を願いたい旨、彼に告げ、別れたのである。

 その後は、20日~30日の間隔で抗癌剤投与よる治療を通院で続けていたようであるが、7回目はさすがに辛くて入院して点滴をおこなったようである。8月6日、小生からTELしたときの彼の話では、病状は大分好転しているように医師から言われているように感じられた。ただ、電話口での彼の言葉が聞き取りにくく、二度も三度も聞き直す始末で、彼に気の毒になり、早々に電話を置いたのである。

 彼からは見舞いになど来る必要は無いとは言われていたが、10月27日思い切って国立癌センターに見舞いに行った。すでに、緩和ケア病棟に入っていたが、思いのほか元気そうで、早速看護師さんに連絡し碁盤と碁石を調達。一局手合わせ。15分足らずで終局。その後5分程椅子に座って話をしていたが、疲れたから横にならしてくれと彼はベッドにもぐり込む。それが体力の限界だったのだろう。「今後は近いうちに辻中病院緩和ケアセンターに転院し、そこで最後まで緩和ケアを続ける。川歩きのメンバーにはくれぐれもよろしく伝えてくれ。見舞いは無用。」との言葉を聞き、小生、後ろ髪を引かれる思いで病院を失礼した。

 早速、11月8日、川歩きメンバー5人に報告。今後我々として出来る事について相談。最終ケアについて、泉が関係するNPO法人による、自宅療養や緩和ケア組織を紹介し、少しでも彼の精神的にも肉体的にもより良いケアが出来ればと考え、彼の奥方を通じ彼に連絡。

 11月13日付けの彼からの返事によれば、我々の申し出に対し、自宅療養は、奥方が体調不安定である事や、自分自身がもはや、ほとんど満足に動けないことで全く考えていない。又、辻中病院 転院についても、自宅から比較的に近い事で、彼なりに奥方や子息達のことを考慮し、自分で決めたようである。

 そして、我々仲間に対し、自分の我がままを伝え、お詫びして欲しいと、結んであった。

 小生が彼と親しく付き合う様になったのは、20年程前からである。熟考の上決めた事は、絶対に曲げないというすこぶる頑固な男であったが、初志貫徹、最後まで自分の気持ちを貫いたに違いない。

 昨年は、2月に松阪の「凡さん」(村木雅章)に続き、12月に川合兵治まで失った。そういう年代に今、我々は生きていると云うことを 謙虚に、肝に銘じなければなるまい。
 

第9回利根川 川歩き(平成23年5月9日~11日 )


4組 川合 兵治
 

バンザーイ!!

 平成19年10月31日に河口の銚子をスタートしたこの利根川歩きも、足掛け4年の歳月を経ていよいよ(当面の最終目的地)八木沢ダムに向かう日が来た。(当面の最終目的地)というのは、八木沢ダムに堰き止められた神秘的なムードが漂う「奥利根湖」の先にあるといわれている利根川源流までの残り約20キロの行程はボートを必要とし、沢登り、岩登りありの道なき道を行くことになり、古希を迎えた体には冒険が過ぎるということで断念した次第である。また日を改めて、別ルートで源流を確認する案も出ているが、「利根川歩き」としてはこれが最終回となる。

 また今回は、3月11日に発生した東日本大震災被災状況も配慮し、予定を延期する意見も出たが、「だからこそ元気を示そう」ということで川歩きは決行することにしたが、当初計画していた12期全体の希望者を募っての湯檜曽温泉での大打ち上げ会は取りやめとした。

 1日目 台風1号がフィリピンはルソン島近辺で発生し、その影響が危惧される中、全員5時起床で元気いっぱいJR水上駅に午前9:20集合。そこから水上高原スキー場、藤原スキー場、宝台樹スキー場などのある奥利根スキー場群の入り口「大穴スキー場」近くの前回最終地点、大穴変電所前(河口から約259キロ)までバスで移動、側のコンビニで昼飯の弁当などを調達し、10時にスタート。熊が出る可能性があるということで、西條は用意してきた小さなカウベル、川合は道端に置き忘れられていた熊除けの鈴を鳴らしながら、榎本は呼びこの笛を時々吹きながら、平均勾配約7度のバス道を歩く。この日は心配した台風1号の影響は全くなくピーカン。標高600メートル前後あるこの行程の5月は、鮮やかな新緑と満開のさくら、さらには八木沢ダム途上にある奥利根三湖のうち二つ、藤原ダムの藤原湖と須田貝ダムの胴元湖にゆったりと貯えられた水のエメラルドグリーンに彩られ、所々で利根川の清流に接することができ快適そのものであった。お蔭で大過なく(期待していた?熊に出会うこともなく)午後2時過ぎには一日目の宿「民宿やぐら」に到着。早速民宿の露天風呂を満喫。夜は近辺で獲れたという月の輪熊のクマ鍋で精をつけ、山菜料理を愉しむ(普段でも、民宿の直ぐ近辺まで熊や野ざるがエサを獲りに出没し、奥利根名物?のマムシも徘徊し、地元の人は今でもサル以外は折りにふれて食べるという)。


(さらに…)

思い出を綴る(1)

3組 石井 孝和
NHK大津放送局

 私は現在NHK大津放送局に週2日勤めている。仕事はテレビの午後6時10分から始まるローカルニュースの制作。具体的にいえば、ニュースを取材した記者が送ってきた原稿をデスクが手を加えたものをテレビで放送するために、新聞でいえば「見出し」にあたる「タイトル」や映像の撮影場所、日時のほか、ニュースの内容やインタビューなどを簡潔に文字で表記するための作業をしている。

 これまでの人生を少し逆上って思い返すと”放送”になんらか縁があるようだ。小学校6年の時、夏休みを迎える直前のある日のこと。小学校の教室に幾つもの大きな機械が持ち込まれた。機械とは録音機とか集音機のことで、”子ども会議”の模様を収録に訪れたのだった。やって来たのは当時、大阪梅田の阪急百貨店の屋上にあった新日本放送であった。

 マイクロフォンを柱のように立てたり机の上に置いたり、収録準備をしていた。そして機械の調整を終わって、耳にレシーバーを付けた人が、”議長”の私に指を差して「議会を始め」の合図「Q」を出した。

 多分、顔は強張り、緊張しながら開会を宣言して議事がスムーズに進行したように思えた。この日の議題は「近づく夏休み」だった。各議員からは「夏休みになったら学校の北部を流れる淀川には危険なので近づかないようにしよう」とか、「家では親のお手伝いをしよう」など、”優等生”のような意見が積極的に提案され、すべて全員一致で可決され、収録は約1時間で終了。やり直しはされなかった。

 収録後、放送局の人が「放送は今収録した会議の様子を20分ぐらいに編集して、次の日曜日に流します」と告げて引き揚げていった。

 日曜日の朝、私は自宅のラジオの前に立ち刻一刻と迫る「放送」に緊張して待ち構えた。いよいよ放送開始。

 アナウンサーが「今日は大阪市立浦江小学校の子ども議会の様子を・・・」と紹介したのに続いて、私の声が電波に乗って初めてラジオから流れた。その声は・・・・・

 「ただいまからぎだいをはじめます。」と言ったのだった。私は肝が飛び出すほどびっくりした。”議会を始める”と当日言ったつもりが、あがっていて”議題を始める”になってしまった。幸い傍には誰もおらず、瞬間は胸をなでおろしたものの、”放送”なので誰かが気づいているだろうと思い、とてもはずかしい気持ちになったことを今も覚えている。

ヒゲの校長と奥田先生。私がわかりますか?

 中学2年生の頃、生徒会の顧問をされていた美術の担当でフランスの印象派の画家セザンヌの影響を受けたという奥田先生に「大淀中学校にも放送設備があればいいですね」と話したところ、その後、何か月かして先生が職員会議に計られた結果、”学校放送”の実現を生み、機材が導入されるに至った。先生の指導を受けて生徒会の役員が交代で昼休みの時間に、校内に音楽を流したり、生徒の呼び出しをしたり一生懸命設備を活用した。当時音楽はLPレコードをターンテーブルに乗せてかけていたが、私は数枚のレコードの中で「ペルシャの市場」が大好きで、当番に当たると何度もこの曲をかけた思い出がある。また学校では、各教室の黒板の上辺りに四角い箱形のスピーカーが設置され、国語の時間だったか、生徒全員が席に着き、スピーカーから流れ出るNHK第一放送の「次郎物語」に聞き入っていた。

トロイのヘレンのポスター

 余談になるが、この年、奥田先生が私ともう一人の友人と一緒に大阪梅田の御堂筋にあった映画館「梅田シネマ」に招待してくださったことがある。上映していたのは55年米・伊合作の”トロイのヘレン”、一人の女性をめぐってギリシャとトロイが10年も争うという物語のシネマスコープ。この映画に出演していた美しい女優、ロッサナ・ポデスタのにわかファンになったことと”映像”に対する興味を持つきっかけにもなったと思っている。


HP委員追記:今月号から石井孝和君の「思い出を綴る」を連載します。回数は未定ですが、中学時代、高校時代、社会人になってなど長期にわたる楽しい連載になりそうです。ご期待下さい。

吹奏楽部OB・OGバンド第七回定期演奏会のご案内

大阪府立市岡高等学校吹奏楽部OB・OGバンド第7回定期演奏会

団員一同みなさまのご来場をお待ちしております。

○日時 2015年2月15日(日) 13:30開場 14:00開演

○場所 鶴見区民センター 大ホール
 ・大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線「横堤駅」4番出口方向直進北へ1分
 ・大阪市営バス「地下鉄横堤」北へ1分

             
○PROGRAM
♪「モアイ」-太陽を見つめる七体の巨像  八木澤教司 作曲
~陸上自衛隊東部方面音楽隊委嘱作品~
♪マーチ「カタロニアの栄光」  間宮芳生 作曲
♪アナと雪の女王 シンフォニックハイライト  STEPHEN BULLA 編曲
♪ニュー・シネマ・パラダイス  大島ミチル 編曲
♪お楽しみステージ  他

○入場無料

○お問い合わせ ichioka-obband@excite.co.jp

○HP http://kisekinotsubomi.jp/
 

「12期の広場」 1月号のラインアップ

 12期の皆さん 明けましておめでとうございます。


富士五湖の西湖が見える山「十二ヶ岳」からの富士山 (撮影:泉信也)
 

 昨年は春の大雪、夏の大型台風、秋の御嶽山噴火や広島の土石流など自然災害が多く、暮れの選挙の慌ただしさもあって落着かない年でした。

 今年こそは平かで、健やかな年になってほしいものと祈ります。

 「12期の広場」での交流は、昨年10月の同窓会での愉しい再会の余韻を残したまま、新しい年に入り、2011年の正月の創刊から5年目を迎えます。

 創刊号の酒井代表幹事のことばで「母校市岡にあった中庭のように、誰でも立ち寄れ、友と語り合うことができる場」として設けられたネット上の仮想広場ですが、今、バックナンバーを読み返してみると、仲間の輪が広がり、広場が大きくなっていることに自画自賛とは言え少々驚いています。

 昨年の記事の中では「北村先生からの読書感想文」や「同窓会に参加できなかった仲間の近況・短信」がとりわけ関心を集めたように思います。また学級文集「独白」や「烏合の衆」、懐かしい写真の数々の発掘も「広場」ならではのうれしい収穫です。記事から窺える仲間の活動の幅は大いに広く、ウォーキング(歩こう会、歴史散歩、川歩きなど)、スポーツ(水泳、テニス、太極拳、登山など)、国内外の旅行、文学・芸術(短歌、俳句、誌、絵画、書道、写真、舞踊、音楽など)、社会奉仕(NPOボランティア、ワイズメン、地域貢献など)はもちろん、まだまだ現役で、仕事に研究に後進の育成にと活躍されるなど、夫々が充実した人生を楽しんでいることに圧倒される思いです。なにかと口実を設けての飲み会、女子会、そして病気・健康自慢、孫自慢もまたささやかな楽しみです。

 筆者自身も8年前に始めた高齢者医療支援のNPO「ホームケアエクスパーツ協会」が、今では地域に欠かせない活動拠点の一つに成長していることに感慨をおぼえます。「大介護時代」といわれる昨今、いずれ自分が面倒をみられる側になるまでには、次の世代にバトンを渡せるよう微力を尽くすつもりです。

 さて新年号のラインアップは下記の通りですが、児玉さんに「俳句」の投稿をお願いしました。ながい俳句歴をもつ児玉さんの佳句をお楽しみください。今年は俳句や短歌の特集を組むのも面白いかもしれません。HP委員としては多くの方々の自薦他薦の投稿を期待しています。今年もますます広場での交流の輪が広がりますよう、多くの皆さんに寄稿やコメントで参加をお願いいたします。

  1. 明けましておめでとうございます」     酒井 八郎 同窓会代表幹事
  2. 俳句との出会いあればこそ」            4組 児玉 恭子
  3. 写真短信-年の瀬風景


 最後に残念なお知らせがあります。川合兵治君(4組)が昨年末に急逝されました。奇しくも「12期の広場」2011年創刊号に「利根川歩き」の達意のレポートを寄せ、その後8回に亘る連載記事で楽しませてくれた大企画も、川合君のリーダーシップがあってのことでした。2月に逝った「凡」さん(村木雅章君)のことも合わせ、ご冥福をお祈りするとともに、残された我々が日々見守られていることに合掌したいと思います。