12期の広場

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直木三十五記念館を訪ねて

7組   張 志朗
 大阪の谷町6丁目に直木三十五記念館があるのをご存知でしょうか。この質問を同窓生6人にしてみましたら、半数がご存知でした。私はその存在すら知らず、全く偶然かつ突然のようにその場所に行きついただけに、同窓生のこの反応は驚きでした。
 1週間に3日程、谷町6丁目の友人の事務所で仕事をしています。「橋の湯食堂」という変わった名前の店があるのでそこでお昼ご飯を食べようと、「からほり商店街通り」を西に下り、北に折れたところの「桃園公園」のそばにひっそりと、その記念館がありました。
 直木三十五はペンネームで本名は植村宗一、1891年(明治24年)南区安堂寺町に生まれています。現在の「桃園公園」は彼が通った桃園尋常小学校の跡地だそうです。早速、記念館に入館し、その後も二回ほど、記念館を訪れました。
 その時に頂いたしおりには、「直木ゆかりの地に市民の力で記念館を立ち上げました。これからも『記念館』という既成の概念にとらわれず、どんどん成長して行く予定です」とあり、オープンは平成16年10月です。明らかに、公的機関またはそれに準じる組織による文豪記念館とは異なりました。建物や展示規模、収蔵量やその目指すところ(コンセプト)などとは、あっけにとられるほど違っていました。しかしかえってそれが、直木三十五の「知られざる」文学的業績や生き様、その息使いをリアルに感じさせてくれたようです。
 記念館のコンセプトとして「直木が晩年に自分で設計した家が、現在も横浜の金沢区富岡に残っています。(現在は他人が住んでいます。)直木の性格を表したようなこの家は一風変わっており、内壁は黒一色で統一され、トイレや浴室には黒いタイルが敷き詰められていたそうです。この記念館はその家をモチーフとして黒い部屋としました。また臥て書く習性のあった直木に則して畳敷きとし、みなさんに直木の視点を感じ、そしてくつろいで頂ける記念館を目指しています。」とあります。
 1階に普通の飲食店が入っている小ぶりなビルで、2階に記念館があります。広さは60mあるかなしの展示場が一室のみ。床の半分は畳敷きで黒い壁が基調、周辺に直木の作品や遺品、直木にまつわる展示物が並べられています。
 記念館に入るとすぐ左に年表が掲げられていました。以下にその主だったものを書き出します。
 明治38年 14歳、市岡中学入学とあり、「このころから書物の濫読がはじまる。図書館にもよく通った。『試験亡国論』をぶってあやうく処分されそうになる。水泳に長じ観海流で沖渡り五里の免状をものにする」とありました。
 実は直木は天王寺中学への受験に失敗して市岡に来たようです。当時はそんな事ができたようですが、自宅のあった安堂寺町から市岡までは相当な距離。電車もバスも無い時代ですから通学は徒歩で1時間くらいはかかったことでしょう。母校の同窓会名簿を広げてみると、旧制市岡中学第5期生 (明治43年卒業)に直木の本名である植村宗一の名前がありました。また創立100周年記念誌のP97~102には、直木が4年級の時(明治41年)伊勢・京都方面に修学旅行した紀行文と、翌年四国・中国地方に修学旅行した紀行文(それぞれ「澪標9号、10号」に掲載 -注:澪標は雑誌部の会報、年1回発行)が収録されています。
 市岡卒業後、第六高等学校を受験するも、初日の数学のみで放棄し、薬局勤めの後に奈良県吉野郡白銀村奥谷の小学校で代用教員になっています。早稲田大学英文科に入学したのが、明治44年の20歳のころです。しばらくして仏子須磨子と同棲し、長女が誕生しています。生活苦から月謝を滞納、除籍となるのですが、大学には通い続け、大学の卒業写真には堂々と顔を出して写っています。
 すでにこの頃から、文学はじめ文化芸術関係の書物の編集や出版にかかわっていたようで、大正7年には出版会社である「春秋社」と「冬夏社」を創立し、「ユーゴ全集」「ドストエフスキー全集」「イプセン全集」などを出版しています。しかし、赤字が続き、年表には「多額の負債を抱え、生活困窮する」ありました。年表の下のショーケースには、年表にそった遺作や遺品の一部が展示されています。
  大正12年、菊池寛が文藝春秋社をおこし、「文藝春秋」を刊行しますが、そこに辛辣なゴシップを掲載しています。9月の関東大震災により大阪に戻り、プラトン社に入社、雑誌「苦楽」の編集者になり、直木三十三の名前で、同誌に「心中雲母坂」などの小説を発表します。
 大正14年、「心中雲母坂」が映画化になり、映画に興味を持ち、プラトン社を退社、『日本映画の父』と言われるマキノ省三と提携して「連合映画芸術協会」を設立、「月形半平太」「第二の接吻」などの映画を製作しています。これもうまくいかず、
安堂寺町にある直木三十五の文学碑。
南国太平記の一節が刻まれています。
(大阪市が昭和60年に建立)
家財を差し押さえられるなど、着のみ着のままで東京に移り、作家生活に専念することになります。これが昭和2年、直木三十五、36歳の時です。
 昭和9年に肺結核・脊髄カリエスに冒され東大病院に入院後、43歳で永眠するのですが、その7年の間に、次々と作品を発表します。(左上の写真が作品の一部)
 昭和5年、「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に「南国太平記」を連載し、流行作家として人気絶頂となります。
 『直木賞はよく知っていますが、直木自身とその作品は知らない』と良く言われますが、私もその一人です。母校を代表する偉大な大先輩にたいしてあまりにも非礼と考え、代表作の『南国太平記』と、直木についての評伝『知られざる文豪 直木三十五』(山崎國紀 -著 ミネルヴァ書房)を読みました。
 『南国太平記』が梅田の紀伊国屋書店で平積みされていたのには一寸驚きました。その理由は、どうもNHKの大河ドラマ「西郷どん」の影響のようです。幕末に島津藩で起こった“お家騒動”(お由良騒動―小柳ルミ子がお由良を演じていました)に材をとった長編時代小説です。島津斉彬とその嫡子を呪術で謀殺しようとする一派とそれを阻止し、仇討ちを果たそうとする一派の死闘を軸にした青春群像小説ですが、前近代的な「呪術」と近代合理主義の相克が背景にあり、興味深く一気に読了しました。
 『知られざる文豪 直木三十五』のサブタイトルは「病魔・借金・女性に苦しんだ『畸人』」で、直木の業績と苦闘の人生をひろく捉えた評伝です。「知られざる文豪」としているように、直木の業績と日本文学への影響を高く評価しており、直木が早く亡くなったこと、またその研究者が少なかったことから、直木賞は知っていても直木とその作品への認知度が低いと指摘しています。
 『畸人』(きじん)を辞書で引くと、「身体や性質や挙動が普通と変わっている人。礼儀などにこだわらぬ人。変人」とあります。
 小説家がストイックな文筆表現者であるとの勝手な考えで言っても、たしかに直木三十五はユニークで、その枠に収まらない人のようです。私には放蕩無頼、波乱万丈の人、個性的でまた極めて人間くさい人としての姿が、浮かび上がってきました。
 昭和10年、友人であった菊池寛が、大衆文学の新人賞として直木賞を制定しています。そしてその直木賞は第160回を重ね、芥川賞に並び、またそれを越える文学賞として世に愛されています。直木三十五の文学的業績をもっとも高く評価し、深く理解していたのは菊池寛、その人であったと思えてなりません。
 「芸術は短く、貧乏は長し」(横浜にある記念碑の碑文)との直木三十五の声が聞こえてくるような、そんな「直木三十五記念館」でした。

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