12期の広場

12期の広場

市岡高等学校12期同窓会を振り返る


上野 裕通(3年7組)

 市岡高等学校を卒業して25年目、私たちが42歳~43歳の年に、第1回の12期同窓会が、代表幹事の方々を中心に企画されました。当時、案内状をいただいた私は、懐かしい友だちの顔を思い浮かべ、1年生の時、2年生の時、3年生の時のクラスメイトを当時の写真や卒業アルバムで確かめたものでした。「25年の歳月を経て、昔の面影を残しておられるだろうか」と興味津々の思いで、出席の返信を出したことを思い起こします。

 あの時から、また、25年が過ぎ、今はもう、68歳になってしまいました。この25年間に12期同窓会が9回開催されました。毎回参加させていただいていますが、みんなとの出会いのほかにもう一つの楽しみがありました。毎回、会がお開きになるときに即興の短歌を詠まれます。場の雰囲気をとらえたすぐれた短歌に出合えることが楽しみの一つです。
 

 この「12期の広場」は「12期同窓会の25年」の延長線上にあります。上野裕通君の文章(卒業50周年記念文集収録)はその足跡を心暖かくまとめてくれています。一部加筆していただきここに再掲します。

-  HP委員 記 -


 第1回の12期同窓会は、1985年(昭和60年)11月24日(日)に「大阪東急イン」ホテルで行われました。卒業後、普段から仲良くしてきた5人組や酒井さんや張さんとは顔を合わせるなり、直ぐに昔に戻ることができましたが、会に参加しておられる多くの方々に出会っても、10人に2~3人しか思い出すことができませんでした。会の終わりまで、あの人は、「だれそれさんかな?」との疑心暗鬼な気持ちで過ごし、なかなか近寄り難かったように思います。

 会がお開きになる前に、女性の方が、あいさつの中で短歌を詠まれたのが大変印象に残りました。そのときに詠まれた短歌を次に紹介します。
 

菊香り 恩師囲みて みをつくし、二十五年は 短くもあり
市岡の 男の子なりぞと 頼もしき 殿方見上げ 胸躍るなり
再会の 歓びあらた みをつくし 佳き年輪(とし)重ね またの逢う日を

 詠み人は、北浦(旧姓小寺)昌子さんです。当時、余り北浦さんのことは存じあげなかったのですが、詠まれた短歌に興味をそそられ、書きとめて残しておこうと手帳にメモした次第です。「みをつくし」という言葉、確か市岡高等学校新聞部発行の新聞名が「みをつくし」でしたね。だから、「みをつくし」といえば「市岡高等学校」ということがわかると思いました。

 5年後に、第2回の12期同窓会が開催されました。1990年(平成2年)11月23日(金)の「勤労感謝の日」。私たちは、47歳~48歳になっていました。会場は、「ホテルニューオオタニ大阪」でした。でも、この時の会場の様子は、余り私の記憶に残っていません。「誰に会ってどんな会話をしたのか」「2次会へ行ったのか」など覚えていません。特記事項があったならメモが残っているのですがそれすらなく、手帳には、翌日の予定もびっしりと詰まっていましたので、仕事が忙しすぎた時代であったからだと思います。しかし、このとき詠まれた短歌はきっちりと手帳にメモされていました。


はれやかに 恩師招きて 同期会 三十年をひと飛びにして
鮮やかに 十八歳は よみがえる プール藤棚 ファイヤーストーム


 30年ぶりにあった友達もいましたが、会って一言二言ことばを交わすと在学中の友だち関係に戻っていましたので、「三十年をひと飛びにして」という文言が当を得ていると感じました。

 また、「鮮やかに 十八歳はよみがえる」のフレーズ、白髪頭を囲っている友だちを前にしながらも、気持ちは十八歳の頃に舞い戻っている事実に気づかされ、なるほどと思いました。


 それから5年の歳月が、瞬く間に過ぎました。みんなは、52歳~53歳の年齢になっていました。40代後半から50代前半は、私にとりまして、働き盛りで仕事に夢中になっていた頃でした。第3回の12期同窓会は、1995年(平成7年)10月21日(土)、「堂島ホテル」でありました。天井が高い、バンケストルーム。立食パーティーであったような記憶があります。そのときに詠まれた歌は、次のとおりです。


災害を 乗り越えここに 十二期は 恩師と共に 美酒に酔うなり


 この年の1月17日、午前5時46分にあの「阪神淡路大震災」が発生したのです。神戸にお住まいの代表幹事の酒井さんもとんでもない災害に遭われたとお伺いしました。大阪府の北東部に住んでいる私には大地震の恐ろしさを実感していなかったために、被災された多くの友のことを真剣に思いやる心にかけていたと反省しています。JR[六甲道]付近に下宿していた大学の後輩の学生が30数名亡くなっておられるのも震災後1ヶ月ぐらいして知りました。


同窓会 落ちこぼれほど よくはしゃぐ 定説通り 二次会突入


 この頃から、2次会へも参加するようになったのかな? 落ちこぼれでしたけれど、私は、余り「はしゃぐ」ことはできませんでした。


 そろそろ、定年退職も間近となった57歳~58歳の頃に、第4回の12期同窓会が開催されました。2000年(平成12年)10月28日(土) ホテルグランヴィア大阪「レストラン アブ」でした。なぜこの場所を覚えているかというと、2次会もこの場所であったからなのです。この頃から、いろいろな人たちと話すようになりました。高等学校時代、ことばも交わしたこともない女性とも、話すようになりました。年輪を重ねた結果であろうと思いました。一次会の終わりに発表された短歌はこの歌だったと思うのですが・・・・・・・・。


ミレニアム 華々しくも 集い来て ふくらむ夢の 誓い新たに


 そうでしたね。一千年単位で数えると「ミレニアム」という用語を使うのですね。ちょうど、この年は西暦2000年でした。新しい世紀(21世紀)にも「生きている」という実感からか、集い来た者すべてが 誓いも新たに夢をふくらませたのでありましょう。


市岡に 学んだことの 幸せが 誇りとなりて 還暦近し
なつかしき 顔々かおの みをつくし 会えば花咲く 友の大輪


 なるほど、そうだなと思います。還暦が近づくと人恋しくなるのでしょうか。「会えば花咲く」という部分、話しに花が咲き、友から友へとの大きな輪になって行くのがわかります。


あらためて 市岡健児に 惚れなおし 再会約して 心ほのぼの


 再会を約したけれど、次回には、この世で会えなくなった友もいました。元気な姿を次回も見せることで、心もほのぼのとしてきます。美しく「老い」を迎えていく年代に入ったと思いました。


 第5回12期同窓会は、2年後の2002年(平成14年)10月19日(土)、中国料理「翠園」で行われました。昭和17年、早生まれの私が還暦を迎えた年でした。この「翠園」は吹田市の郊外にあったのですね。広々とした敷地の中にあったように覚えています。会場は、レンガ造りのようで、バリアフリーでなく、階段が多くあったような記憶があります。


還暦で 一年毎に 若返り 次回会う日は もっと幸せ


 還暦を迎えると、心が若返りますね。重荷になった仕事から心が開放され、息子、娘もそれぞれ独立してしまった時期でした。ゆとりある心で人と出会え、今まで気づかずにいたものにも目を開き、広くアンテナ張り巡らし、感じ取ることも多くなったように思いました。


十二期の 意気を示せと 東から 西から集い 大いに語る


 仙台から、東京から、広島からなど、大阪から遠く離れた地からわざわざやって来てくださった友だち、ありがたいことでした。この歌は、遠隔の地から来られた友の心意気をしっかりと受けとめられたのですね。私には、そのように思えたのでした。


 2年後に、第6回12期同窓会が、市岡高等学校内に新たに建設された創立100周年記念会館で開催されました。2004年(平成16年)11月6日(土)のことでした。食堂の方々にもご出勤いただき、「おでん」 などを作っていただきました。「大阪のおでん」美味しかったです。


心ある 友集い来て みをつくし 恩師に近き 年齢重ねつつ


 恩師の年齢を追いかけても追いつけませんが、風貌だけは、恩師に負けぬぐらいに老け込んでいた友もいましたね。


ゆく雲に 幸せさがし たずねれば 同窓会に行けることだよ


 「幸せって何だろう?」ふと自分自身に尋ねてみました。「会いたいなぁー、あの人に」という思いで出かける同窓会に「幸せ」があるのかも知れませんね。


 第7回12期同窓会は2006年(平成18年)10月21日(土)、大阪駅北側のヨドバシカメラのビルより北西400メートルのところにある「大阪弥生会館」で開催されました。このとき、僕にとっては既に有名になり過ぎた歌人は、次の一首を詠まれました。


数学も 英語もできた 夢を見た 六十五歳の 無責任さよ


 こんな願ってもない夢を15歳から18歳までの間に見ておきたかったですね。65歳になってもそのような夢を見るということは、潜在的な願望があるということですね。私など、50歳位まで、単位が足りなくて大学を卒業できなくなった夢を何度も見ました。

 実際、卒業前に2単位あると思っていた科目が1単位しかなく、政治学のレポートを期限までに塩尻公明教授のご自宅まで届けに行ってやっと卒業できたという体験がありました。時々、そのときのトラウマが夢に出てくるのでしょう。

 夢でなくて、現実に「数学も 英語もできた」そのような素晴らしい成績を残された一部の皆さんには関係のないことですが・・・・。


ふた年に 一度の再会 いとおしむ 先生も同期も みんな恋人


 「いとおしむ」とは「惜しんで大切にする」と受けとめています。2年に1度の再会がこれから何年続けることができるであろうか。そのためには、「健康第一」です。病気にならないように、怪我をしないように、日々の過ごし方に気をつけようと思いました。


 ふた年がまた過ぎ去りました。そして、2008年(平成20年)10月18日(土)、第8回12期同窓会が、前回と同じ「大阪弥生会館」で開催されました。


時巡り コスモス揺れて 同期会 輪のまん中に 恩師の笑顔
同窓会 明日に控えて 救急車 馬鹿な女は 骨折四本


 そうでした。私にとってのこの有名な歌人は、この年、大きな交通事故に遭われたのでした。何でも、病院へ見舞いに行った帰り、病院を出たところで事故に遭われ、また病院に舞い戻られたとか。友だちに聞いたことなので不確かですが。

 (大丈夫だろうか?と思いましたが、友だちは、「電話で話したが、元気のようだったよ」とのことでした。)このことを聞いて、私は、一安心をしましたが、同窓会に来ていただけない現実にがっかりしました。今回は、楽しみにしていた短歌は詠まれないのだなあと諦めていましたところ、「読み人来たらず」の歌が会の終わりがけに、代読者から発表され、私を喜ばせてくれました。


 第9回12期同窓会は、記念すべき日、平成22年3月4日(木)に実施されました。 なぜ、記念すべき日なのでしょうか?思いを馳せてください。市岡高等学校から「12期卒業生の卒業50年を記念して、母校の卒業式にご参列ください。」という案内状が、それぞれの自宅に届けられたからです。私たちは、卒業して50年の歳月を重ね来て、まだ健在であるという証に卒業式に参列し、そのあと、弁天町のホテル大阪ベイタワー22階「白雲の間」で開催された12期同窓会に参加したのであります。


卒業して 50年とは これいかに 生涯青春 市岡万歳
メモリアル同窓会こそ 花ざかり 12期みんなの 結束固し


 遠来の友とともに再会を約し、より一層、心のつながりを深めました。残念ながら、当日までに33名の私たちの同期の仲間は他界されていました。当日いただいた記念文集「みをつくし」の「発刊に寄せて」を見ますと、物故された恩師とともに同期の仲間の名前が記されていました。

 次回の同窓会開催の頃には、みんなが古希を迎えているでしょう。「今日も無事 沈む夕日に ありがとう」という川柳を詠まれた人は、月曜日から金曜日まで平日の昼間にスポーツジムに通われ、800mを泳いでおられるとのこと。

 私も、「健康第一」をモットーにし、感謝の心を忘れずに、再会の日まで元気でいなければと思う日々です。

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