12期の広場

12期の広場

めぐりあわせ?~仙台に住んで50年~


投稿 6組佐藤裕久記

 今年(2011年)1月3日に、同期8組川村浩一さんから、また、2月2日に、7組小原靖夫さんから、市岡12期ホームページ:「12期の広場」に投稿した小生の記事にコメントを頂いていましたのに気がつきませんで、大変失礼致しました。(なお、小生が投稿したというより、正確には、幹事:榎本さんへの返信メールに添付したPPTファイルを、榎本さんからの指示により投稿する羽目になったということです。)川村さんのご質問に答えられるかどうか怪しげですが、小生がどんな研究をしてきたか、斜めから眺めたような思い出を記してお茶を濁させて頂きたいと思います。

 なお、小原さんとはこれまで話した記憶が小生にはないような気がしています。その事とあまり関係がないかもしれませんが、小原さんの現住所と番地のみ異なる南足柄市塚原1297-1に数年前まで住んでいた大学時代の小生の友人(Nさん)がいます。現在、Nさんは仙台近くの塩釜市に住んでいて、ギター演奏に浸っていますが、年に数回は会っています。

 私が昭和39年から所属していた、東北大学(TU)工学部・精密工学科の塑性(そせい)加工学講座では、当時の我が国の産業界でも重要な主題:多量生産に不可欠の塑性加工あるいはプレス加工に関する研究と教育が行われていました。そのため、我々は自身の所属先を塑性加工研究室とか、ボスの名字:T(教授)研究室とか呼んでおりました。工業材料の変形(=弾性変形+塑性変形)のうち、素材の形を変える変形としての塑性変形を付与する塑性加工とは、乗用車のボディの成形や、ビール缶の底付き容器の成形など、立体形状部品を、鋼板やアルミニウム合金板製の平板素材から各種金型を用いる代表的な大量生産法でもあります。なお、これら厚さ均一な薄い板材も回転するロールで圧延加工して製造されますが、この圧延加工も塑性加工の一種です。

 当時のT研究室での研究主題としては殆どが次のようなものでした。:①成形途中の板材が破壊したり、あるいは、板材に“しわ”が発生することなく旨く成形が完了するような条件(成形限界)を確立すること。

 一方、当時、複雑形状部品や大型形状部品の加工、あるいは、高強度材の加工には、爆薬などを利用する高速度塑性加工が適しているのではないかということで、②高速度の塑性加工の基本的機械的性質をどのように定め、これを当該加工の数値シミュレーションにどのように組み込むかを確立することも、新しい研究テーマとなりつつありました。昭和40年に大学院に進学した小生は、後者の“衝撃塑性”を研究テーマとして選び、以後、これに関する研究を続けることになりました。

 昭和55年にT教授が定年退官して横浜国大に移られた時、小生はまだ助教授で、従ってそれ以後は、兼担教授の指図に従って研究や教育をする必要はありましたが、同時に、それ以後の研究についても自由に考えることができました。

 話はがらりと変わりますが、昭和60年8月12日、その朝早く家内と小生は、レミーマルタン1本と菓子箱一つを持って仙台を発ち、気仙沼に向かいました。当時、我々は自動車もなく、運転免許書も放棄していたので、日帰りの場合、現在のJR気仙沼線を利用するのが便利でした。その数日前、息子を含む我々3人家族の憧れのマイホームが完成したそのお礼に、気仙沼に出向いたのでした。

 車中で家内と何の話をしたか、もうすっかり忘れましたが、「よくマイホームを建てたら、コロッと死んでしまう人が多いと聞くが、我々は大丈夫だろうか?」、などといった話くらいはしただろうと思います。我が家の建築に際して、義兄のお世話になったが、義兄の勤務する会社の社長に挨拶に伺うよう、義兄に勧められていました。初対面の社長さんに、紋切り型のお礼を述べて、早々と退散したのを憶えています。気仙沼から仙台に戻る列車は一本のみで、帰りの車中で何があったかは、記憶が飛んでいて何も浮かびません。思い出すのは、仙台市の桜名所の一つでもある三神峯公園近くの、東北大学富沢宿舎二階にあった我々の部屋に辿り着いたところです。二人で足を伸ばして、「やっと着いたな、結構疲れるもんやね。」と言いながらも、家内がお茶を入れてくれて、さあ飲もうという時に、何時もより大きな音で電話が鳴り響いたように思えました。

 その時は、家内ではなく私が電話に出て、「はい、佐藤ですが」、と言って反応を待ちました。相手は何か躊躇しているかのように、小さな声で「えっ」と言った後、早口で「佐藤君!」、「生きていたのですか!」、「よかった、よかった、私、Tです。」「あー、T先生、どういうことですか?私が生きている、というのは。」と小生が訊ねました。当時、東京に住んでおられた恩師T先生は、“日航のジャンボジェットが今日の夕方事故(昭和60年8月12日の日航123便・御巣鷹山墜落事故)を起こして多くの人が亡くなったこと”、"発表された死亡者の中に「サトウヤスヒサ(44才)」というのを見つけた”、というニュースをテレビで見たということでした。"年齢も氏名も小生と同一である”と思われたし、さらにT先生が言われるには、この便が羽田発の大阪(伊丹)行きだったことで、小生がお盆休みに大阪の実家に帰省するところだと考えて、死亡者サトウヤスヒサが小生と信じてしまったということでした。T先生の言われたことはすべて頷ける内容でした。

 その後もかなりの数の、知人や親戚の方々から、「心配していたよ。」という主旨の電話を貰ったが、T先生の時のような迫力のあるものはありませんでした。次の日の朝刊に、事故死亡者の氏名と所属が漢字で掲載されていました。「佐藤保久(44) 野村證券・部長」とありました。


 閑話休題、昭和の末頃には、モータリゼーションによる交通事故死が問題になっており、乗用車も衝突安全設計が義務付けられるようになっていました。これには、アクティブな(積極的な):事故を防ぐ安全技術とパッシブな(受動的な):事故が起きても安全な技術との2種類の安全技術とからなります。当時、我々の衝撃塑性研究では後者:パッシブな安全技術にも密接に関連していましたが、この種の問題は乗用車会社で十分解決できると小生は判断していました。しかし、航空・宇宙関連の衝撃安全設計のための基本的機械的性質に関する研究は、国内では、あまり実施されていませんでした。

 我々の衝撃塑性研究も、開始して20年も経過する頃には、研究室も実験装置が増えてきましたが、乗用車の衝突安全技術への応用という観点からは、応用できる範囲の装置だけであり、手狭にもなっていました。一方、超高速試験装置入手の予算の目処は立っていませんでした。そんな頃、何年も研究室に出入りしていた、東北学院大学(TGU)のD君が、私学助成金で6千万円程度の高速度カメラを導入できたという話を教えてくれました。その直後、TUを定年退職して、TGUに移ったM教授からの誘いが偶然あって、平成元年、小生はTGUに移りました。その約5年後、平成5年度末に、8千5百万円の私学助成金で、超高速・超高圧変形試験システムが導入でき、待望の衝撃波領域の実験ができるようになりました。

ここで、衝撃波について簡単に補則説明しておきましょう。気体や液体を総称して流体と呼びますが、流体に圧力を加えるとこれは音波(圧力波)として伝わります。極めて高い圧力は、音速を超えた伝播速度の衝撃波として伝播します。衝撃波面の前後では応力や物質(あるいは粒子)速度は不連続的に変化します。一方、流体に加える圧力がそれほど大きくない場合には、音波(圧力波)の波面の前後で、応力や物質速度は連続ですが、その一回微分:例えば、加速度は不連続的に変化します。このような波を加速度波と呼びます。

 金属、プラスチック、セラミックスなどの固体材料の場合も流体の場合とほぼ同様に、衝撃波や加速度波が存在します。

 私がTUで扱っていた衝撃変形は加速度波領域の変形で、その種の変形の計測は約1マイクロ秒(μs=1/1000000・s)毎にサンプリング(計測)できれば、大体十分でした。しかし、TGUで扱った衝撃変形は衝撃波領域の変形で約1ナノ秒(ns=1/1000000000・s)毎にサンプリング(計測)する必要がありました。

 大分、専門的になってきましたが、大学に入学して1年生の物理学で習った電磁気学が難しく、また、電気が目に見えないということもあり、機械系の精密工学科に進学しました。しかし、大学院で選んだテーマを研究するために、電気計測が不可欠であり、また、コンピュータを含むIT技術の極めて急速な進展がなければ我々の研究テーマを追求できなかったことは皮肉な運命ですが、確かな事実でもあります。

 また、TGUに移って始めた超高速変形に関する研究の応用として、離着陸時の旅客機の衝突安全の問題を考えた時期がありました。それは約四半世紀前の日航ジャンボジェットの御巣鷹山墜落事故の記憶と無縁ではなかったのではありますが、まだまだ先の話であるとも感じてその方面へ研究を移行させることは断念しました。

 衝撃波面上の応力・ひずみ特性を、航空機窓材のアクリルやポリカ-ボネ-トなどの高分子について、決定する手法を定年退職直前に、ほぼ確立することができました。しかし衝撃波領域における一般現象の数値シュミレ-ションには、なお次の課題:その衝撃方向応力のみならず、これに直交する応力成分の同時計測がさらに必要でした。そのためには、新たなセンサーの開発が必要で、これは後輩諸君の努力に期待したいと考えています。

 以上、説明は不十分ですが、これ以上長くなることは許されることではないと考えますので、この辺りで終りにします。

 もし、ご質問などありましたら、別の機会にご説明したいと思います。最後までお付き合い頂いた場合は、厚くお礼申し上げる次第です。

 早々 2011-2-6


「晩秋の太白山」-海抜321mのこの山は、仙台市街の西にあるきれいなオムスビ型で、
小生の住所、仙台市太白区の太白はこの山の名前から取られたものです。
写真は我が家から徒歩で約15分の道路端から撮影しました。
なお、この地域には、約700種の高等植物が生育するほか、
昆虫の種類も豊富で国蝶のオムラサキが生息することでも知られています。


「火薬銃」-秒速1km以上の超高速衝撃実験に使用する火薬銃の写真です。


 「火薬銃の概略図」-実験装置の写真だけでは分からないように思いますので、
念のため、装置の概略図面を添付しておきます。


 2月7日に佐藤裕久さんからHP委員チ-フの榎本進明さん宛に下記(『 』付き文章)のメ-ルが届きました。上に掲載しました「めぐりあわせ~仙台に住んで50年」とその写真はその時に添付されたものです。

 「12期の広場」開設後それに対するコメントが寄せられることは、大変嬉しいことで、更に多くの友からいろいろなご意見や感想、それにまつわる文章が届き名実共に「12期の広場」となるように頑張りたいと考えています。 

- HP委員一同-
 

 佐藤さんから榎本さんへのメ-ル

 『過日は、「12期の広場」2月号(第2号)の公開の件をご案内頂き有難うございました。 実は、今年(2011年)1月3日に、同期8組川村浩一さんから、また、2月2日に、7組小原靖夫さんから、市岡12期ホームページ、「12期の広場」に投稿した小生の記事にコメントを頂いていましたのに気がつきませんで、大変失礼しています。

 本メールは、例えば、川村さんのような、ある意味では質問と考えられそうな、コメントへの返信はどのように対処すればよいのでしょうか、ご教示いただければ幸いです。

草々

 追伸:念のため、その返信ふうの文章を作り添付しておきますが、wordで3ページほどになりました。また、川村さん、小原さんのE-mailアドレスは不明です。』
( 2011.2.7   佐藤裕久 )

“めぐりあわせ?~仙台に住んで50年~” への4件のフィードバック

  1. 川村 浩一 says:

    佐藤さん、投稿ありがとうございました。内容の詳しいところはまったく判りませんが、ご活躍の様子がわかります。
    ところで、いま(3月20日)東北が大変なことになっています。
    心配しています。もし、ご無事ならこのHPで現状をお知らせください。(コメント欄ならいつでも書き込めます。)
    佐藤さんだけでなく、東北方面の方はよろしくお願いします。

  2. 川村 浩一 says:

    先のコメント、日を間違えていました。3月13日でした。

  3. 佐藤 裕久 より: says:

    “超巨大地震”報告

     ●川村 浩一さん、コメントと地震見舞いを頂き有難うございました。それから、4組・前川 光永さん、5組・泉 信也さん、7組・岡本 成彦さん・張 志朗さん、8組・稲田 紘さん・榎本 進明さん・川副 研治さんから、地震見舞いのメールや電話を頂き有難うございました。
     なお、3月11日“超巨大地震”が勃発する前日に、4組・酒井 八郎さんから、その1‐2日前に発生した“中地震”を兼ねた先見の明のある見舞い?の電話を頂戴しておりましたのに、車のガソリンを満タンにし忘れてしまったまま、あの3.11午後2時46分を迎えてしまい、今、給油を少しは待ち遠しく思う日々を送っています。
     今回の東北地方太平洋沖地震は平成23(2011)年3月11日午後2時46分頃発生しました。地震が発するエネルギーを、ご存知のように、マグニチュード(M)といいますが、今回の東北地方太平洋沖地震は、M9.0であり、16年前の兵庫県南部地震のエネルギー(“大地震”)の約1000倍のエネルギーを発したので、地震の大きさとしては、今回の地震は“超巨大地震”と分類されています。
     実は1100年あまり前の貞観(じょうがん)11(869)年に、“巨大地震”に分類されるM8.3~8.6程度の貞観地震とその津波が仙台湾で発生したことが解明されつつあるようです。
                                               ●我々が大学を卒業した頃、ご存知の方も多いと思いますが、プレートテクトニクスという学説が一般に認められるようになっておりました。
     その学説では、日本列島の東北・関東地方の太平洋沿岸は北アメリカプレートの一部であり、地下深部のマントル対流に引き摺られて西方向に移動する太平洋プレートが先の北アメリカプレートの下に潜り込みつつ、両プレートに変形のエネルギー(ひずみエネルギー)として徐々にではあるが、常時、蓄積されています。しかし、年と共に蓄積エネルギーが増大し続けると、くっついている様に見えた2枚のプレートが耐え切れなくなって、プレート内部あるいはプレート接触境界面で、すべりや破壊を起こし、蓄積エネルギーを開放します。
    プレート(地殻の一部)が、突然、ひび割れ破壊を起こしたり、すべりあったりする‘大地の震動’が‘地震’であると説明されるようになり、現在に至っています。
     大雑把にいえば、プレートは地球の半径や直径の程度の寸法を持った巨大な地殻の一部で、かつ蓄えられるエネルギーも巨大ですので、開放されるエネルギー、すなわち、地震の発するエネルギーも巨大となるのです。
                                               ●私がニュースを聴き間違っていなければ、今回の“超巨大地震”では、プレート間及びプレート内のすべり面積は(400~500)km×100km位?もあったようです。だから、大きな揺れが数分も(4分前後?)続いたと思います。その地殻の動きに伴い発生した津波のエネルギーも巨大なものでした。東北・関東地方の太平洋沿岸の多くの地域が津波に呑まれ壊滅してしまいました。
     その結果、リアス式海岸の風光明媚な景観は見る影もなく、景色が変わってしまったところが何ヶ所もあると聞いています。
    未だ、安否不明の人々がいますので、正確ではありませんが、死者は2万人程度になるとの予測があります。16年前の阪神・淡路大震災では多くの方々が火事で亡くなられたと聞いていましたが、今回の東日本大震災では、多くの方が津波で亡くなられたということになると思います。
    なお、私共を含め、津波の来なかった地域に居られた方々は、33年前、1978年宮城県沖地震(M7.4“大地震”)の教訓が生かされて遭難を免れたものと思われます。しかし、今日(3/22)現在、地震発生後12日目になっても、30数万人という方々が、不便で、多大のストレスを被る避難の生活を続けざるを得ないという現状は、大変気の毒であると言う以外ありません。
                                               ●我が家は市の中心街から離れていて、多少不便であり、また、今回の震災後、水道&ガスも未だ来ておりませんが、2年前の退職後、私は悠々自適の生活に移行したので、今はあせる必要もありません。この機会を利用して、今後のことなど再考してみようと思っています。
    この報告を終えるにあたり、色々とお見舞いのメールや電話により元気付けて頂いた方々に、再度、お礼申し上げる次第です。                      (終)

                                               

     
     

  4. 川村浩一 says:

    佐藤様
    川村です。
    お元気な様子、安心しました。
    しかし、お知り合いやお弟子さんたちの様子も気になるでしょうね。

    (11日は大阪・南港のATCビルの11階にいましたが、大阪でもずいぶん揺れました。舞浜の息子は水道、ガスが止まり今も知人宅に退避しています。)

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