12期の広場

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尼崎道意新田開発と海老江村

8組 末廣 訂

 先般の6月号に続いて我が故郷「海老江」に関する歴史物語を披露したく再度投稿します。

思いもかけないきっかけ

 我が家の近所に小さな祠「たかの巳社」があり石碑も建っていて、この祠が何か歴史的史実があるのか以前から不思議に思っていた。「巳さん」を祀っている事は知っていたが、「たか」とは何かもう1つよくわからなかった。

 もう5~6年前になるが市岡高校同期の川村浩一君から「末廣君知っているか–阪神電車尼崎センタープール駅前にある道意神社境内に説明板があり、海老江の人が新田を開いたと書いていたで—-」と教えてくれた。
 



 早速、尼崎の道意神社を訪問、見学した後社務所にお邪魔して由緒書をいただき説明を聞いた。確かに江戸時代に海老江の住人が当時の尼崎藩の殿様の要請でこのあたりを開発したことがわかってきた。また道意神社は海老江八坂神社の分祠で大いに関わりがあることがわかった。
道意神社の由緒書を読むと、「承応2年(1653年)大坂海老江の人、道意翁当地を開拓し、まもなく郷里の八坂神社を勧請し奉れり。 道意翁の姓を西村、名は九郎右衛門と称す博学篤農の長老なり、また鍼を能くす、承応2年春尼崎太守青山大膳様御鷹狩りの砌、道意翁宅の御休息相成りしを機にその後度々入座あり、翁の鍼を殊のほか御意に召され、尼崎城にも伺候する間大いに信望を得たり 云々-」とある。
 



*「図説尼崎の歴史」と京都大学、岩城先生との出会い

 またそうこうする間に、尼崎市が市制90周年を記念して「図説尼崎の歴史」を発行、新田開発の記事に道意新田が詳しく書かれている事を知った。

 執筆の担当者が京都大学人文研究所の岩城 卓二先生であるとわかり、一度詳しいお話を聞きたいと考え、先生にコンタクトした。

 今年6月19日、岩城先生をお招きして福島区民センターの会議室で講演会が実現できた。先生をお招きするまで長い道のりであったが講演会は大成功で、しかも先生の話を拝聴して今まで頭の中でブツブツと切れていた話が繋がってきて更に興味がわいてきた。

 岩城先生に「尼崎藩と海老江村」という題で歴史的背景、地元尼崎から見た新田開発、そして海老江村との関係を縷々パワーポイントを使ってわかりやすく話をいただき、感銘を受けた。
 



岩城先生の話の骨子

*軍事拠点大坂と尼崎藩:

 江戸初期の大坂はまだ豊臣秀吉の残影が残っており、しかも大坂は西国の防塞基地として重要な町であった。
したがって大坂は経済の拠点、商人の町以外に幕末まで大阪城は軍事基地として幕府の要人が勤めており、特に尼崎藩と岸和田藩がその要の藩で西国からの要塞と大坂城の警護にあたっていた。
そして、尼崎藩の青山大膳は鷹狩りと称して当時まだまだ湿地帯で広大な原野が広がる海老江付近に鷹狩りの陣をひき、度々軍事訓練をしていたと言うことです。ちなみに関西大学の薮田 貫先生が最近、サンケイ新聞に大阪城内に約3,500人の武士が常駐して警備をしていたと「大阪城復興80年」の記事に書いている。

*海老江と尼崎藩との繋がり:

 海老江村には先祖代々村の庄屋を務めた家があり、今でも当時の古文書がそっくり残されている。その中に、延宝5年に実施された検地帳が2冊あり、表紙に「摂州西成郡海老江村検地帳」、尼崎藩青山大膳の名前の下に3名の検地者の名前が記している。まさしく、鷹狩りの軍事訓練をしていた尼崎藩が海老江の検地を担当しており、当時の深い関係がよくわかる。また、海老江の庄屋や尼崎の地元の旧家にある文書の中に「道意新田開発記」なる記事があり、どちらも道意神社由緒書きとほぼ同じ内容で道意翁が開発した経緯が書かれている。
 



 実際の開発にあたった「地親」3人は海老江村の中野中兵衛(道意の子)、海老江村、西村次郎兵衛、と大坂玉造、鍵屋九郎兵衛(西村の親戚で質商を営む富商)であり、実際は3人以外に野里村,九条村、等からも応援を得て開発された。開発には多大の経済的な負担と人出が必要であった。

*道意新田の概要

 現在の道意町付近は高速道路が走り、家々が建っており開発当時の面影は残っていないが、当初は武庫川下流でしかも海岸沿い。新田は2メーター近く土盛をしているが、地盤が塩田でしかも軟弱、何度も高潮、洪水の被害を受けている。

 したがって,田畑は十分な栄養がなく、検地では上田、上畑がなく、村の石高は643石(寛文9年、1669年)面積69町25歩、人口230人(延亨元年)とあり、田畑の耕作には大変苦労が多かったと容易に推察される。
(参考:検地の目的から収穫がよい順位に田畑は上上田、上田、中田、下田等のクラスに分けられるが、道意新田は塩害等があり、最高位で中田しかなかった。ただし、石高は643石と当時の全国平均の村石高500石を超えている。)
以上が岩城先生の講演の要旨であった。

 先生のお話で海老江の庶民が経済力のある親戚や関係者のパワーを集め、尼崎の殿様の要請に応えた新田を開発した史実が浮かび上がってきた。
そして、その後の新田入村者たちが洪水や高潮等の自然災害と戦いながら今日の村や町を作り上げてきた努力に頭が下がる思いである。

結びにあたって—それでは中野道意翁とはどんな人物でその子孫や関係者はその後どうなったのか—と言う疑問が湧いてくる。地元の郷土史家や古老に尋ねたことや、手元の資料で調べたことをまとめると―――。

 1つは新田開発の経済的な応援をした西村家の親戚「玉造の鍵屋九郎兵衛」が延宝7年に発行された「難波雀」に 大坂質年寄 玉造 かぎや乗恩として記載されている。(岩城先生の講演から)

 2つ目は 大阪市北区の大淀(旧浦江村)に「禅宗、勝楽寺の墓地」がある。この墓地内に海老江のある人が昭和35年頃に先祖の碑を建てていることを発見した。墓碑が3碑あり、その1つに「HA家中兵衛道意290回忌供養塔」とある。他の2碑は天文学に関係する先祖のもののようだ。

 また、寺の塀に刻印されているHA3家の大きな石版の由緒書があり、「慶長、元和の頃先祖の中兵衛兄弟が江州から出て云々――とあり、この中兵衛が尼崎道意新田を開発した」と刻している。
参考:この勝楽寺は摂津名所図会の「暁 鐘成」の墓所であり、また八木式アンテナで有名な八木家一族の墓がある。

 3つ目は、前述の勝楽寺に墓碑と先祖の由緒を刻印した同一人物が地元海老江の「たかの巳社」を昭和44年に再建された時、自筆で「たかの巳社再建の由来書」を書いている。

 由来書の中身を要約すると「当時鷹狩りに来た尼崎の殿様が休憩された海老江にある中野町の道意宅に云々―と」中野名を町名に変え、地元海老江の人には勝楽寺墓碑とまったく異なった説明をしており、興味深い話である。

 4つ目、海老江にはまだまだ旧家が現存しており、古文書の中身、系図等が今後の研究課題になってくる。歴史を検証する楽しみは幾らでもあり、余生が多忙である。

以上 

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