12期の広場

12期の広場

ブータン紀行 (3)

泉 信也 (5組)

 昨秋からたどたどしく綴ってきた山旅の記録、最終回をお届けします。
 

トレッキング第七日:ヤクセ(C4)-タンブ(C5)

 昨夜の雨は上がったが今朝は曇天、気温6度。高度順化が進んだのか血中酸素飽和度が上がり食欲も回復して、朝食は定番となったおかゆから解放される。久しぶりにカリッと焼けたトーストにハムエッグと行きたいところだが、この旅では鳥インフルの心配で最初からタマゴが調達できずコックも腕の振るいようがない。

 昨日の休養のお陰で元気良く出発、空模様が気になるが難所は抜けたので足取りは軽い。谷の南側斜面に沿い樹林帯を行く。サルオガセの絡んだトウヒやダケカンバ、白や薄桃色の大きな花をつけたシャクナゲが迎えてくれる。浅い谷を二つばかり越え、更に高度を上げてゆくと三つ目の峠(4115メートル)に出る。雨がパラつき、風も出て寒い。

 峠を回り込むと高木は姿を消し、斜面はシャクナゲやツツジのような灌木で広く覆われている。ブータンでは高山帯でもハイマツが見られないことに気づく。このあたりのシャクナゲは未だ蕾。400メートルのつらい登りのあと、四つ目の峠タルン・ラ(4540メートル)に立つ。天気が良ければ遠くシッキム・ヒマラヤが見えると云うが、今日は生憎厚い雲にさえぎられて絶景を逃す。

 峠から小1時間ほど下るとタンブ、C5のキャンプサイトだ。


 峠から小1時間ほど下るとタンブ、C5のキャンプサイトだ。緑は未だ薄いが緩やかな起伏の草原が広がり、格好の放牧地となっている。さほど遠くないところには昨日上がってきたと云う遊牧民一家が大きなテントを広げている。ここに一月ほど定着し、夏の間は草が無くなると次の放牧地に移動するという生活を送っている。ヤクを追っているのはいずれも若い女性で、こちらの馬方とコックは手を振り、コールをかけ落ち着かない。デートにでも誘っているのだろうか、野次馬としても気になるところだ。


第八日:タンブ(C5)-ヘディ・ゴンパ(C6)


朝の気温は同じく6度、雲はあるが晴れ。朝から騒がしいので何事かとテントから出ると、馬がいないと馬方たちが慌てている。さては昨夜から娘たちに気を取られていたせいだとからかうと、どうやら当たりのようだ。普段の夜は馬の足をロープで数珠つなぎにして一群れにしておくのだが、昨夜は結びが疎かだったかもと弁解する。若い馬方たちが四方に散り、声をかけているうちに1時間もするとひょっこりと馬達がご帰還。こちらは気が気でなかったが、よくあることだとケロッとしているので拍子抜けだ。

 遅い朝食をとり、出発前に遊牧民の住まいと暮らしぶりを見に行く。放牧しているヤクはほとんどが子連れの雌。乳をのむ子ヤクを引き離し、母ヤクの後脚を短いロープで杭に繋いで手早く乳を搾る。鮮やかな業に感心して写真を撮らせてもらったお礼をすると、それではいけないとネックレースのように紐に通した乾燥チーズを沢山押しつけてくれた。貴重な保存食で蛋白源だ。硬くて歯がたたないが、キャラメルのように舐めていると滋味がわきだしてくる。

 草原を突っ切り東側を取り囲む尾根にとりつく。標高差はたかだか150メートルだが傾斜がきつく一気には登れない。30分かかってこの旅の最後の峠、トンプ・ラ(4270メートル)に出る。つらい登りはもうない。陽が高くなり、高度を下げると急速に暑さが増す。岩の出ている急斜面を注意しながら九十九折れに駆け下る。ロバを引いた年寄りに行きあう。ロバの背に括りつけた籠の中には二人の幼児が眠りこけているが、熱射病にならないか気がかりだ。今朝訪ねた遊牧民の長老で、娘が先行して仕事をしているので孫たちを送り届けに行くのだが、上まで7~8時間はかかるだろう。厳しい暮らしだが自足している人たちに同情は無用だ。

 ようやくパロ川に下りきると、そこからは往きに歩いた見慣れた景色を逆に辿る。最後のC6キャンプサイトの近くに民家が一軒あり、庭先に埋め込まれた一人用ドツォ(丸太を刳りぬいた浴槽)を借用。小さな流れを浴槽に引き入れ、焚火で焼いた石を長鋏みで抛りこんでお湯を沸かす。野趣満点のブータン式お風呂は泥砂混じりで後の始末が大変だが、八日ぶりの入浴でサッパリと気持ちが良い。


第九日:ヘディ・ゴンパ(C6)-ドゥゲゾン‐パロ

 最後の行程は山道具や食糧、着替えなど全てを馬に預け、身軽になって出発。

 谷が開け、人家や田畑が増え里が近い。途中新築の建前の儀式をやっているところを通りかかると招き入れられた。石積みの土台の上に真新しい木製のドアや伝統的な飾りが施された窓枠が据えられ、色とりどりの長い布飾りが巻かれて華やかな棟上げ式のようだ。長老を中心に家族やご近所が集まり、祝い酒が振舞われ、女性が歌いながらゆるやかに踊る。人々の表情に日常の幸せが満ちている。

 祝い酒でほろ酔い気分のまま、木陰のない道を汗だくで歩くのは大変だ。気温は23度、最後の坂道をほうほうの態で上がりきると出発点のドゥゲゾン。

 馬から荷を下ろし、全員で記念撮影、スタッフのサポートに感謝し、皆で無事のトレッキング完歩を喜び合う。

                           ブータン紀行 完

(後記)

 旅立ちの前には期待とともに、体力と高山病に大きな不安があった。やはり高度には悩まされたが、ブータンの自然と文化は期待をはるかに上回る喜びを与えてくれた。

 

 帰途に就く前に寺や史跡を訪ねた折には、チベット仏教がいかに日々の生活のなかに根付いているかを実感した。首都ティンプ―では政庁と簡素な王宮が一体にあり、若い国王(定年制!)による新しい王政が模索されている。首都の街は信号がひとつしかないと云うが、バイクや人出で活気にあふれ若者にはディスコも人気だ。市場にはとれたての野菜があふれ、この地に骨を埋めた日本の農業指導者ダショー西岡(西岡京治、ブータン国王から農業の父・国の恩人として同国の爵位、ダショーが贈られた)の名が今も尊敬をこめて語られる。


 今5年前の旅を振り返り、グローバル化が云われて久しく、文化の画一化が進む世界の中でブータンはその独自性を保つことができるのか深く危惧している。しかし今回の大災害に際しいち早く来日し真摯な言動で敬愛を集めた国王夫妻を見て、伝統文化を守りつつGNH(国民総幸福量)の増大を目指すというブータン王国の理想の実現を信じ、あらためて願うや切である。
 

 四回にわたり拙文にお付合いいただき、時に励まし、ご助言をいただいた皆さまに感謝の気持ちでいっぱいです、おおきにありがとうございました。

“ブータン紀行 (3)” への1件のフィードバック

  1. 八島 平玐 says:

    高山病はたいしたことなく、無事、最後まで行けて良かったですね。昨年、再度ネパールにトレッキングをしたのですが、各ロッジ(3000m級の)で、衛星放送を薄型テレビで見ており、衛星中継による携帯電話が普及してロッジの側で、子供が携帯電話で遊んでいました。仕方のないことなのでしょうが、3年前に比して新旧のいりまじが多くなっていました。文化の画一化、グローバル化に対する憂いは、我々のエゴでしょうか。

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