12期の広場

12期の広場

侘言(わびごと)

 近頃「道化」という言葉がふと思い出される。何もない、理由なんてない。ただこの言葉が何か私にふさわしい様なそんな気がしてふと口ずさんでみるだけ。「太宰治は私の今の気分にぴったりします。人は不健康だと云いますが、私もそうですね。」

 これに友は答えてくれた。「太宰治は頽廃的ではありません。真に敬虔な人でなければあの様な文学を生み出すことは出来ないはずです。『表現より深いものを感じとること』。やたらに自己をあまやかす非を改めようと思います。」

 うすぐらい燈のもとで「人間失格」を読み返す。最初に読んだ時のあの胸がなる様な嫌気、自己嫌悪、自分の生活がまるで偽りの道化であるかの様な錯覚。そんなものは今は感じない。やはり友は正しい。中学三年の時のあの幼い感情、それを今までひしと抱き続けた自分のおろかさよ。でも、その時の自分の方がずっと可愛い、成長。これは成長ならばなければよい。つまらない事を針小棒大に悩み時間の浪費を心がけるのが成長ならば。
烏合の衆第2号の表紙です。作者は1号同様加藤訓子さんです。何か分かりますか?そうです。私達が使っていた教室の机です。古く、重たく、座るとプレッシャーを感じました。ガリ版で×を使っての表現には驚きました。

 「人間はあわれむべきものではない。尊敬すべきものだ。=ゴーリキ=」この言葉の横に友はつけ加える。「尊敬=飼犬の頭をなでてやる時に感じるくすぐったさ。」私には何もわかりはしない。自分で自分が信じられない。信じられるのは他人のみ。友の言葉がいやに尊大に聞える。それを又私は喜んでいるのだ。

 元旦に立てる一年の計「今年は無知であること」と友に云う。「今年は何も考えたくない。人間は深く考えずに生きることができますわね。」

 友は答える。「考えを途中で打ち切ればいい。簡単。でも理由は?虚栄心。」私には何も云えない。信念がないから。

 「知れば知るほど疑問を生じる=ゲーテ=。」この横にも友のしっかりしたペンが走っている。「知れば知るほど嫌気がさす。脳細胞の無事を望むなら無知であること。」

 試験がくればよけいに考えたくなる。考えは最も時間を有効に使いはたす。つまり精神的反発を緩和すると云う有効さに。明日は絶対に白紙答案を提出しようと決心する。その夜の気楽さ。明朝真剣な顔で単語帳をくる友を見ると決心がぐらつく。そうだ、それでいいのだ。だが妙な時だけおろかな信念を貫き通そうとする。でも本当に強いのかと云うとそうではない。何々考査となると白い答案に向かって自分の頭を恥じ、苦しまぎれの文字を書きつらね昨夜の自分を恨む。

 「白紙答案と一点の答案とどちらが立派だと思いますか。」友は書いてよこす。「私は満足にしか気をとめない。後のことはどちらでも同じ事だ。・・・・『断然白紙の方!』」と。私の哀れな虚栄心が悲鳴をあげました。

 その場の享楽をのみ追いかけ眠れることにのみその矛盾のはけ口を求める。これでも私、高校生。「勉強しませんか」「します」こう考えることにより自己を統制すれば、その義理により少しは勉強できるだろうとそれをのみ信じる。

 「希望=なまけ者を絶望に導く妄想である。希望0、欲求0にしてはじめて満足に到達する。無理せんのがよろしい。」友はこう書いてよこしました。

 「文は人なり」と云う。しかし私はこれを否定したい。人に見られるはずのない日記帳にすら警戒心を持ち自分の心を打明けられない私にどうして文に自分の姿を表せようか。

 この友も話をしている時は決してこの文中の様な事は云わない。筆談の時だけこんな事を云ってくれる。だからと云ってこの文の友の姿が本当の友の姿だとは思わない。全く正直な文なんてあるはずがないから。文はある程度人間を大胆かつ厭世的にするものだと思う。だから手紙や又その他の告白的文章を見せられた時その人の真の心が秘められているのだと思い込みたくない。

 私としては、むしろ素顔のままの自分を知ってもらった方が有難いと思う。自分はさも変り者であると云う様な人になりたくない。

 「平凡に」これが私の最大の望みである。

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