12期の広場

12期の広場

法格言にみるイギリス法の精神 2(上)

3組  松村 勝二郎
 

〈犯意なければ、行為は罪とならず〉

   1 復讐から贖罪契約へ

 法は訴訟手続に始まる。実体法は、最初、その手続の陰に潜んでおり、出現はずっと遅れるという。〈訴訟手続から実体法へ〉といういわゆる法の発展法則の一つである。しかし注意すべきは、これはあくまでも大づかみの議論であり、すべての国家の法が裁判官を上、原告被告を左右の頂点とする正三角形に描かれる三極構造の訴訟手続を有したわけでもなく、訴訟手続へと進んだわけでもない(図1参照)。この点に、法制史の面白さと重要性とがある。それらのさまざまのことが、現代各国の法を特徴づけているであろうからである。

 さて、訴訟手続は、他氏族による権利侵害に対する被害者血族の復讐権を、関係共同体が関与してどのようにして断念させ、贖罪契約(のち訴訟契約)を結んで贖罪金を受け入れ、和解させるかに始まると考えられている。この仮説に従うと、訴訟手続の始原は贖罪契約にあることになる。法記録の上でのその出現は、イングランドにおいては、7世紀、封建制へと向かいつつあった部族制の時代であった。社会は、小王・貴族を上層に、自由人、隷農などから構成されていた。

 


   2 イングランドの犯罪と不法行為

 エセルバート王法典は、602年頃に編纂(へんさん)されたイングランド(正しくは、その一部であるケント地方)最初の成文法の記録である。同法典は、〈誰かが自由人を殺害する場合には、並みの人命金100シリングで(あがな)うべし〉(21条)といった犯罪ないし権利侵害と、それに対置される贖罪金とでよく知られている(俗に、サリカ法典などゲルマン民族のこれら法典を評して〈贖罪金のカタログ〉という)。

 社会(あるいは国家)が未発達である場合、犯罪など広義の権利侵害に対する報復は、被害者とその血族に委ねられる(復讐は被害者の権利である)。社会は仲裁的役割に徹し、平和維持のために、報復にかえて贖罪金を受け入れるよう被害者側を説得するが、その受け入れを強制するだけの権力を未だ有しておらず、被害者に代わって刑罰を科す権力の樹立は、はるかに将来のことである。そして訴訟契約の受け入れが、説得から強制に代わるとき、それが公権力の成立である。この法典は、公権力への移行期を代表するものであろう。国王権力は存在するものの、権利侵害は、未だ犯罪と不法行為とに峻別されていないからである。しかしやがて、公権力の成立とともに、被害者の観念が血族から共同体へ、さらには国王へとその重点を移してゆくにつれて、その共同体にとって重要な権利侵害に対して、被害者の血族の復讐権又はそれに代わる贖罪金と並んで、共同体がさらには国王が制裁を加えるようになる。イギリス法(イングランド法)においては、この後者の観念を展開し、法秩序と刑罰の観念の核となるのが〈国王(キングス)()平和(ピース)〉である。すなわち、犯罪=国王の平和に違反する権利侵害である。

 「犯罪とは、共同体ないし国王の要請により刑罰が要求される権利侵害である。」[A] この犯罪の観念は、当初、実体法によりはより多く訴訟手続に基礎づけられている、とベイカー氏は述べる(以下、ベイカー氏への言及は次による。J.H.Baker, An Introduction to English Legal History, 4th. edn., 2002.)。加害者は〈国王の平和〉の侵害を理由に手続に付される。そして、この訴訟手続にもとづく犯罪の観念をもとにして、やがて実体法に重点を移した犯罪の観念が生み出されてゆく。

 「犯罪とは、罪深い行為であるから刑罰が要求される権利侵害である」という観念がそれである。[B] このBの観念の形成には、キリスト教会が深くかかわっていると思われる。教会は、刑罰が要求される権利侵害を〈罪〉として捉えるとともに、〈罪には悔悛が必要なり〉と教えるからである。ヨーロッパでは、ある種の権利侵害に刑罰を科し、さらにこれを罪深い行為に結びつけ、〈犯罪と刑罰〉に組み換えていくには、裁判権力の確立とともに、法の知識を備えたキリスト教会の学識が必要であったということであろうか。

 国王が、国王の平和違反を制裁する裁判権力を我がものとし、血讐が徐々に行なわれなくなるにつれて、上記のAとBの観念が結合されて刑事裁判が生み出され、その手続の下に犯罪が成立する。〈犯罪とは、国王によって刑罰が科される罪深い行為である。〉血族の請求する贖罪手続は、国王の刑事訴訟に姿を変える。そして血族の復讐権は、不法行為に対する賠償請求権として(民事訴訟として)残される。

 

   3 被疑者の発見と起訴

 犯罪の観念が成立したのちも長い間、ヨーロッパ各地の―ゲルマン法系の人々にとっての法は、権利侵害をうけた被害者血族が加害者を提訴するという体裁を保持した(刑事訴訟の主体は被害者血族であった)。この原則は、被害者血族の復讐観念とも調和し、多くの人々の支持するところでもあった(イギリス刑事訴訟は今も〈本人訴訟〉を建前としては存置している)。しかし、本人による訴追は、加害者が判明していてこそ、はじめて可能である。本人かその血族は、出訴に犯罪事実を見聞した証人が必要であったからである(この見聞証人が決闘裁判で〈闘士〉となった)。この証人なきときはどうするか。

 ノルマン征服(1066)以後、イギリス中世の王制が、中央集権的であると特徴づけられながら、つまり強権政治と言われつつも専制政治と評されなかったのはなぜか。その判断の一端が、起訴陪審の評価にかかっている。

 部族制が封建制へと移行するにつれて―9世紀以降のヴァイキング(デーン人)の侵入も一つの契機であったろう―貴族と自由人とはより強固な主従制を形成する。領主は臣下(騎士・自由人)とは相互誠実義務を負う法的関係となる。そして、ノルマン征服により、国王中心に封建制は再編成される。全人民は国王の臣民となり、忠誠義務を負う(1088、ソールスベリの大会議)。いまや、領主以下の人々は、全員が臣民として国王に忠誠義務を負いつつ、封建制を維持する。(拙訳『グランヴィル』にはその具体像が明確に示されている)。

 『グランヴィル』は、特定の訴追者が現れない場合の刑事訴訟について述べている(275ページ以下)。それは、ヘンリ2世の法(1166)によって導入されたと言われる〈起訴陪審〉である。住民代表に、宣誓の上、容疑者を起訴させるものである。手続はa,b二段階からなる。(a)人々は、犯罪を見聞していないので、「世の悪評」だけにもとづいて、犯人と疑われる人物を官憲に起訴する。この被疑者を被告とし、刑事裁判が行われる。(b)事件の真相が、被告に関して裁判官の面前で、さまざまな審問と質問によって究明される。被告有利の結果となれば解放されるが、そうでなければ、被告には神判による証明(嫌疑の雪冤(せつえん))だけが残されている。見聞証人がいないので、決闘を行なうことができないからである(図2、図3参照)。

 イングランドは、ヨーロッパの他のどの地域よりも数世紀も早く、犯罪の見聞証人のいない場合における被疑者の発見と起訴の制度を実現・遂行した。これは刑事手続における中央集権制の結果である。治安が相当よくなったことは確かであろうが、この強権的行政と結びついた刑事訴訟をどう評価するかは、イギリス法制史の課題であり続けている。 

 前近代の支配の本質を見分ける手法として、統治を〈裁判による統治〉と〈行政による統治〉、言い換えると、〈裁判が行政に優越する統治〉と〈行政が裁判に優越する統治〉とに大別し、現実の統治はそのいずれに近いか―どの要素がどの方面で強いか等による検証方法を提唱したのはマックス・ウェーバーである(この分析方法は、近代議会制が始まると裁判の行政監督の要素は議会へと移されるから、議会による行政のコントロールか行政による議会のスポイルかになる。我が国が後者の現状を呈しているのは言うまでもない)。〈行政が裁判に優位する〉か〈裁判が行政に優位するか〉である。後者は近代的統治の場合、裁判に代わって議会が主役になる(議会が裁判所の性格を保持する)。議会による行政のコントロールである。

 さて、イギリス中世の場合はどうか。自力救済を厳禁するがそれに代わる訴訟手続を充実したことや巡回裁判の展開などと併せて、迅速・的確な司法手続きの充実・実行に注力するその統治は、〈裁判による統治〉の要素が〈行政による統治〉よりも強力であるとして、強権的ではあるが、専制的ではないとみられている。これに対して旧中国や江戸時代の支配が〈行政が裁判に優位する統治〉に終始し、旧中国の裁判や〈大岡裁き〉が訴訟の三極構造を否定し、行政による裁判支配―行政官(訴追者)が裁判官を兼ねる形ばかりの裁判であったのは周知のとおりである。

 

     4 法律用語は外国語

 我が国は、法典国である。江戸時代の御定書(おさだめがき)百か条に見られたような、事例の積み重ねによる法令化の時代を経て、明治に至り、西欧列強との外交上の必要もあって、憲法・民法・刑法などの基本法を法典の形に編纂し、体裁・内容とも合理的法理論体系とした。それゆえに、法学(法知識)は、法典についての理論体系的法知識として捉えられるようになる。それは、定義にはじまる。極論すれば、定義なしには一歩も前に進めない。しかも、その定義なるものは、公共の福祉、権利の濫用、あるいは信義誠実といった、一見しただけでは内容不明の抽象的美辞麗句が少なくない。試みに、犯罪とはなにかを、法学生に尋ねてみてほしい。彼(彼女)の返事ははんで押したように次のとおりであろう。

 「犯罪とは、犯罪の構成要件に該当する違法有責の行為である1。」

 市民の法生活の感覚と、その定義はいかに隔たるものであろうか。これがドイツなど法典国の、体系的合理的な抽象的法知識からなる〈法学〉の特質である。

 イギリスはどうだろうか。その法律用語は、法格言にみるように、多くが職業法曹(法学生)向けであり、その起源は古く、多くが中世に遡る2。しかし、その法律用語は、基本的に日常語と変わらない。言い換えると、取引や犯罪といった、市民の日常の法生活の場面で使用される言葉である(スリや殺人が〈犯罪の構成要件〉という別次元の非日常語の文脈で語られることはない)。また、法廷で使用される語も、手続の込み入った問題は別にして―これを法律問題といい、裁判官と法曹だけで処理する―民事や刑事の陪審員の扱う〈事実問題〉については、つまり、訴訟の勝敗を決する決定的事実をめぐる問題については、法の素人(しろうと)である陪審員の理解できる言葉を使用するし、使用しないと勝訴はおぼつかない。かれらが理解しその支持を得ることを考えるならば、いきおい有罪の立証や契約の有無をめぐる決定的論点についての法曹間の論争は、日常語を用いて行なわれる。まちがっても信義誠実や公序良俗といった内容不明の抽象語や所有権は物の使用・収容・処分に及ぶなどという〈外国語〉は使わない。平凡で美しくもなく、その法知識は体系的合理性を欠くとしても、その言葉は、市民に親しいもの、身近なものである。

 なぜか。ヨーロッパ大陸において、判決の根拠となる慣習を法の知的体系に結びつけえたただ二つの地、それは早期ローマと中世イングランドとである(ミルソム氏)。この慣習―判決の根拠となる慣習を、私は判例法であると考えるが、早期ローマ法と中世イングランド法とは、ともに極力、定義を排した。〈法においては、あらゆる定義は危険である〉(『小山』554)とこれを避けた。なぜなら、〈誤謬(ごびゅう)は、一般的表現の中に潜む〉(『守屋』531)と考えるからである。ここには、判例法を法の基本とした早期ローマ法と中世イングランド法の本質が浮かび出ている。否、その判決は法格言そのものとすら言える。そこには既に本稿の素形が形作られているとも言える。

1 (ちな)みに、私の定義はつぎのとおり。「犯罪とは、正常な判断力を有する人が意図的に(または不注意で)違法行為を行い、それが犯罪と刑罰を定める法律の規定にあてはまるばあいである」(拙著『法学講話』)。

2 中世以来、つまり基本的法律書であるGlanvill(グランヴィル)(1189頃)やBracton(ブラクトン)(13世紀中頃)以来、用語の内容は大きく変わっているが、その基本的法律用語そのものは大きく変わっていない。また、ラテン語起源のものや、中世フランス語(ノルマン語)に由来するものが少なくない。日常語も大きく変化していないと言われ、たとえば、第一次大戦に参加した多くの兵士が16世紀の劇作家シェイクスピア(1564-1616)の廉価版を戦場に持参したことが知られている。

   漱石や鴎外の小説にルビをふらぬと読めない我が国と比較されたい。

   なお、イングランドの法律用語に興味のある向きは、ジョン・ベイカー「コモン・ローの三つの言語」『法政研究』(九州大学)65巻2号を参照されたい。

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