12期の広場

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盛夏の思い出

4組 寒 川 詔 三  

 今年も夏の全国高校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」を、よく耳にするようになってきました。

 高校3年生の盛夏、暑い、口惜しい1日を忘れることができないのは、硬式野球部員だけだったでしょうか? 12期生が一丸となって青春を謳歌した学校行事は色々あったが、部活で甲子園を目指した硬式野球部の夏の高等学校野球選手権・大阪大会における激戦に、血沸き肉躍るものを感じられた方が、沢山おられたのではないでしょうか。

 

 昭和34年(1959年夏の高校野球選手権大会 大阪大会)の市岡高校は三井君の好投で準決勝に駒を進めた。1回戦:浪速工 2回戦:今宮高 3回戦:大阪商大附属高 を接戦で勝ち抜き、日生球場における準々決勝の近大附属高戦は、延長10回の激闘を1:0で制し、戦後初の夏の甲子園出場が手の届くところまできた。当時の部員は同期の3年生が三井君、森君、山田(克)君の3名がプレーヤー、私(スコアラー)と美記君はマネージャー、そして洲崎さん、田村さん(いずれも旧姓)が女子部員(女子マネージャー)であった。市岡高校は女子マネージャーを設置した最初の高校であったと思われるが、合計7名が同期生、プレーヤーは2年生4名、1年生6名、計13名の少人数の構成で参加した。

 当時の大阪府の高校野球は私立8強時代といわれ、浪商(現在の大体大浪商)、PL,興国、明星、北陽(現在の関大北陽)、上宮、近大附属、大鉄(現在の阪南大高)等が群雄割拠していた。ただ昭和34年、準決勝に勝ち残った4高校は、市岡、八尾、阿倍野の公立3高校と私立の興国で、公立優位の状況であった。私は準決勝の抽選で八尾高との対戦を引き当てた時、ぼんやりと見えていた甲子園の姿が、くっきりと見えるようになってきたものである。


 日生球場での準々決勝を終え、準決勝・決勝は藤井寺球場での戦いに臨むことになった。ただ暑さ厳しい中で延長10回を投げ抜いた三井君の疲労はピークに達していた。今と違ってスポーツの世界は戦後14年が経っても、精神論、根性論に支配されており、非科学的トレーニングで体を鍛えていた状況で、暑さ対策なども特になく、「水を飲まない」「体を冷やさない。因って水泳は禁止」といった理論が一般的であった。故に三井君も暑い中、藤井寺球場近くの旅館に着いてからは39度の高熱を発し(扁桃腺炎)、翌日13時からの準決勝を投げられる体調ではなかった。(現在の熱中症という状態であったと想定している)旅館も現在のように空調があるわけでなく、扇風機で涼をとり、三井君は肩を冷やすなとの教えのまま右腕・肩をサポーターで温めていたという過酷な環境下で宿泊していた。

 準決勝第2試合で対戦した八尾高とは、毎年よく練習試合をしており、その頃は負けたことがなかったので、とにかくここで勝てば、第1試合で勝った阿倍野高校と対戦し、間違いなく甲子園に行けるとの昂揚感で一杯であった。おそらく同期生はじめ在校生やOBも、夢が現実になるところまで達し、大変な人数の応援団が後押ししてくれていたことを思い出す。

 八尾高校について少し触れてみたい。

 その年のエースは春に中学を卒業したばかりで、夏になって頭角を現してきた1年生の久野投手であった。市岡は練習試合で彼と対戦したことがなく、どのような球質・球筋かが不透明で一抹の不安はそこにあった。彼は1年生ながらコントロールのよいピッチャーで、のちに同志社大学から阪神タイガースに進み活躍したことを見れば、素質に恵まれた1年生であったといえる。

 準決勝がはじまった。発熱の三井君が岡部監督に「注射をうったが平熱に下がらないので、2年生の渡辺に任せたい」と頼んだが、監督は「ここまで頑張ってきたのだから、お前で行く」と決断し、彼がマウンドに向かった。さすがに前日の延長戦の疲れと発熱による体調不良のままマウンドに立った1回表に、あっと言う間に3点を先取された。しかし、三井君は回を追うごとにスピードも出始め、切れの良いカーブでそれ以降0点に抑えたのは、見事という以外の言葉が見出せない。ただ打線は久野投手の徹底したアウトコース低めのコントロールに、わが市岡は沈黙したままであった。監督はデッドボール覚悟でバッターボックスのホームベースよりに立ち、アウトコースを狙い打つことを指示されていた。しかし、クレバーな久野はそれでも、内角を攻めることはほとんどなく、さすがと言わざるをえなかった。

 終盤8回の裏を迎えた。塁上にランナー2人を置き、4番ピッチャーの三井君がバッターボックスに立った。遂に彼のバットが久野の投じた1球を芯で捉え、レフトオーバーの2塁打で2点を返した。市岡が湧きに沸いた瞬間である。ベンチでスコアをつけていた私は鳥肌がたち、絶叫したことを覚えている。しかし反撃はそこまでであった。

 藤井寺に試合終了のサイレンがなったとき、それは市岡高校での硬式野球部の部活の終りを告げられたときであった。そして西日のさす中、三塁側で応援の皆様に挨拶にいったとき、無念さと非情さに涙がとまらなかった。特に三井君の好投に報いてやれなかった森君、山田君と共に、私は彼に好投と強打に対する賞賛の言葉をかけても空しさしか残らず、何を言っても慰めにならないことに気付いた。

 体調不良のままマウンドを守った三井君と共に戦いに挑んだ3年生、礼儀正しい2年生・1年生の後輩たちに感謝し、今も誇りに思っている。

 

 半世紀余りを振り返ったとき、それが高校野球であり、そして暑い夏を同期生とシェアした青春時代の大きな夏の思い出である。あの夏の日の喪失感は、聖書(イエスキリスト)によって救われた私には、神様が一人ひとりを成長させてくださるために与えられた試練であったと思えるのです。

 

 聖書:コリント人への手紙 第一 10章13節

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。」

 

 今日(2013年7月15日)万博球場で後輩達が大阪大会の2回戦、市岡高校にとっては初戦の阿武野高校に8対1のコールド勝ちをした。この試合は市岡高が夏の地方大会、通算200勝を達成した歴史に残る記念すべき1勝であり、球場で祝福できたことは、感慨深いものがあった。2年ぶりの初戦勝利に伝統ある校歌が流れ、共に歌い、応援の老若男女が歓喜している姿に接し、硬式野球部の存在の大きさを垣間見た思いである。私自身、長い人生のしばらくの間(ほんのひととき)あの硬式野球部で共に喜び、悲しんだ高校時代の夏の思い出に感謝である。

“盛夏の思い出” への1件のフィードバック

  1. 吉川貞夫 says:

    高校17期の吉川です。
    私も古関裕而さんの「栄光は君に輝く」を聞くと気持の高揚感を覚えます。今年の高校野球大阪地区予選では、市岡高校野球部は良く頑張ってくれましたね。
    私は東京の同窓会での、同窓会長や校長さんのお話で市岡が活躍していることを始めて知りました。それ以来、新聞記事の外、試合の様子をYou Tube にアップされた映像で見る等楽しませてもらいました。
    ひと時の夢では有りましたが、興奮し嬉しい経験をさせてもらいました。

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