12期の広場

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法格言にみるイギリス法の精神 3(上)

松 村 勝二郎
〈裁判官は事実問題に答えず、陪審は法律問題に答えず〉
 (Judges do not answer questions of fact, jurors do not answer questions of law. )
 

 いつ頃できた法格言であるか、不詳であるが、〈裁判官が、事実問題に答えないのと、まったく同様に、陪審は、法律問題には答えない。〉という法格言が、クック『リトゥルトンの不動産保有条件論注釈』(1628)に出ているというから(『守屋』224頁)、陪審制が確立し十分に機能していた時代の法格言であることが窺われる。私は、この法格言は職業法曹に宛てたもの、否、その候補生である法学生に宛てたものであろう、と推定している。格言自体には、なんのむつかしさもないからである。そして教師も法学生も、主たる関心はその内容に、法律問題とはなにか、事実問題とはなにか、どのように区別するのか、それはなぜかといった点にあったことと思われる。

 しかし、この問題に入る前に、英国の陪審とは〈似て非なる〉、我が国の裁判員に関係するある日の新聞記事を見ておこう。なぜなら、我が国の裁判員は〈法律問題にも答え、事実問題にも答える〉からである。

 

   1 ある日の新聞記事から(2013.6.20 朝日夕刊)

 東京高裁〈裁判員の死刑判決 破棄〉強盗殺人[を]無期懲役に

 上記見出しに続く〈事実の概要〉は次のとおり。「東京都港区のマンションで飲食店経営の男性を殺害したとして、強盗殺人罪などに問われたY被告に対し、東京高裁は20日、一審・東京地裁の裁判員裁判の死刑判決を破棄し、無期懲役とする判決を言い渡した。A裁判長は「一審判決は、2人を殺害した[被告の]前科を重視しすぎている」と指摘した。裁判員裁判による死刑判決は19件あるが、二審で(くつがえ)るのは初めて。」

 以上の事実の概要に続いて記された記事について、陪審制を考えるうえで、私は次の点に関心を持った。

 (1)控訴したのは誰か(被告と推定されるが、記事中に明記なし)。
陪審裁判において、英法では、控訴できるのは被告だけである。訴追側は、警察という巨大な捜査能力を持ち、国費つまり国民の税金を自由に使えるから、たとえ訴追側の不十分な立証によって無罪判決が言い渡されても、被告を拘束してはならないという人権上の配慮であろう。しかし、同時にそれは、イギリス法に存在する〈裁判は一回で完結すべし〉とする、裁判の一回性の要請が、特に陪審裁判を重視する伝統と深く結びついたものでもあろう。正しい裁判には上訴や再審は不要とみなすのである(ただし、裁判所による法令解釈・判例解釈の誤りについてだけは、検察側も上訴できる)。

 (2)記事中に、一審の裁判員であった人へのインタビュー記事が、匿名ででている。

 「本当ですか」[死刑が無期懲役に変えられたことに驚いている。]

 Y被告の一審で裁判員を務めたある女性は、驚きを隠せない。そしてこう述べている。

 「あれほど考え抜いた結論だったのに…。混乱している」と。 

 〈私の疑問〉一審の裁判員だった人物に新聞社がインタビューしているが、新聞社には人物名がわかっているのか。それはなぜか。裁判所が知らせたのか、それとも裁判員個人が知らせたのか。裁判員は、たとえ匿名であろうと、自己の担当事件についてインタビューをうけてよいのか…等々である(断っておくが、裁判員法にはこれらの事項について禁止する法文は存在しない)。言うまでもなく、英国の陪審には個人名はなく、全員番号で呼ばれ、全く無個性である。たとえば陪審長(foreman)は1番である。陪審員が担当事件を評釈したり、インタビューを受けるなどは論外であろう。

 なお、フランスにも陪審と称する裁判員制があるが、担当事件につき意見等を表明することは、法律によって一切禁止されている。
 英法の陪審の歴史から眺めると、日本国の国民は純真無垢(むく)な赤ちゃんのようなものか。もし機会があれば後述するが、陪審の歴史は陪審に対する脅迫や賄賂による陪審腐敗の歴史でもあるが、我が国の立法者は裁判員をそれらからどう防ぐかの手立てを講じていない。このことについては、手口を教えないため詳論しなかったが、裁判員制発足前の2006年の講演で一言したことがある(のちに講演原稿を記録に残した。松村「陪審の母国イギリス法が語ること」38頁。Mariners’ Law Reports, vol.6 別冊)。

 なお、我が国でも裁判官や裁判所書記官の個人情報は、一般公務員に比較して、かなり慎重に守られている。その意味で、裁判員の個人情報が明らかにされた結果、有罪判決を下した裁判員が危害を加えられたりしたら、どうするのであろうか。東大教授を定年後、最高裁の裁判官になった団藤重光氏は、死刑判決を下したとき、傍聴席から〈人ごろし〉と怒声を浴びせられ、これが同氏『死刑廃止論』執筆の一動機である、と同書中に述べている(もっとも、私個人は、双方の権利の主張が激烈に対決する裁判の審判人である裁判官を、定年を迎えた学究の再就職とでも考えているらしいこんな気弱な裁判官には決して裁かれたくはないが…。刑事の名裁判官として知られた三宅正太郎氏が『裁判の書』において述べるように、裁判、特に刑事裁判は覚悟の問題である。そしてイギリス中世法では、判決非難を理由とする上訴は、申立人と〈虚偽判決〉を下したと非難される裁判官との決闘を意味したのである。松村訳『グランヴィル』164頁)。

 

   2 〈人民の、人民による、人民のための政治〉

 今は昔、高校生の頃でもあろうか。民主主義とはと問われると、その答えの一つに、つねに顔を出していたのが上記の名言である。成人前の若者は、リンカ-ンの言というその言葉にうっとりしたものである。しかし、長じるに従い、この名言をもって解答完了とばかりに思考停止してしまうとともに、法や政治にまで必ず正解があり、ヨクデキマシタとする我が国の風潮に嫌気がさし、その内容を真剣に考え出した。私にとって法学部は、その道場であった。

 それで今では時々、学生に質問している。「民主主義とはなにか。その実現方法を述べよ。」と。

 フランス革命を一つの拠点とする近代的法制の基盤を支える原理には、次のようなものがある。所有権の自由、契約の自由、自己責任の原則である。ここには詳しく述べないが、正常な判断力を有するが、財産を持たない一般労働者には、所有権の自由と契約の自由は無縁であり、自己責任の原則は不法行為において賠償責任を、犯罪において刑罰を科せられる根拠となっている。これらの原則は、労働政策や社会政策の拡充によって意味あるものにしなければ、むしろ国家側に都合のよい統治原則であるかもしれないのに、その方面は、意識的ではないにしても、あまり語られない。それゆえに、官報などにおいて法の公布を行うと、それをもって〈法の不知は許さず〉とばかりに刑罰を科してくださるのであろうか。

 それはともかく、このような中身のない官僚法学は、国民を脱力感へと導きやすい。そして、法的・政治的無関心は、〈街頭の人気者〉―その本質は官僚のかいらいたる〈わら人形〉を選び出し、国政を、従って自己の運命を〈街頭の人気者〉の無責任な言動に託した結果の苦い経験は、歴史の教えるところである。

 法思想史から眺めるならば、市民の血と汗と涙の結晶であるとすら言える近代法の原則を、その字句だけを採りあげて問い、辞書を写したような答えを正解とし、その内容には一歩も突き進ませないことをよしとする〈官僚法学〉については、いずれ一言するとして、一定の条件においてのみ一定の解があり、その条件を含めて考えることこそが学問だと私は考えているが、正解のない問題にまで完全正解を求める我が国学問の非学問的性格を再認識し、それをどうするかを考えてみると、今流行の〈国際競争力〉にも、少しは対処できるのではなかろうか。なぜなら、我々の相手は、〈知識より能力を問う試験〉を突破してきているからである(例。青木利夫『ロンドンからの手紙』1978年、朝日新聞社)。

 民主主義の問題と同列に扱うのは慎むべきであるが、裁判員についても、民主主義と同様、通り一遍のたてまえ論に終始しているかに思われてならない。裁判員制の発足当時、推進役であった英米法専攻の東大F教授は言われた。〈裁判員になるのは、国民の義務である〉と。これは、もし言うならば、司法への参加は〈国民の権利である〉と言うべきところであろう。私は前掲の講演で述べている。「納税の義務に苦しめられ、年金と老後不安に直面している私たちは、さらにもう一つ、裁判員を務めるという厄介な義務を背負わされたわけであります」(上記拙稿35頁)。

 

   3 〈裁判官は事実問題に答えず、陪審は法律問題に答えず〉

 (1)法律問題の二面性

 法の重要な区分に実体法と訴訟法の区分があるように、法律問題にも二種類ある。実体法上の法律問題と訴訟手続上の法律問題と言えばよいであろうか。あるいは、英法のように訴訟手続を中心に発達してきた法からこれを眺めて、〈判決の準備を整えるための法律問題と当該紛争の争点を解決するための法律問題〉と言えばよいであろうか(前者はローマ法にいう先決訴訟(praejudicium)にほぼ相当するであろうか)。

 たとえば、イングランドのエクセター(E)裁判所に、Aの唯一の子であるBが、死亡したAの財産を相続したい旨申立てたとしてみよう。
 訴状の記載方法や添付書類等に誤りがないか点検したのち、E裁判所が判決の準備を整えるために処理すべき法律問題には、次のようなものがあろう。

 p E裁判所はこの事件を扱う裁判権を有しているか。特に、土地に関しては、動産と異なり、土地の所在地の裁判所に判定を委ねるべきではないか。

 q これに加えて、審理に入る前に、他の当事者や関係人の〈訴訟代理人〉(弁護士)がいれば、なにか予め決定しておくべき手続上の問題で異議がないかたずねてみなければならない。

このような問題がすべて処理されて、はじめて当該事件の判決へ向けた審理がはじまるのである。

 (2)陪審が評決すべき〈事実問題〉

 さて、争点が決定され、その争点をめぐって陪審の面前で審理が行われているとしよう。証人が証言し、証拠が提出され、いよいよ判決の場面に至る。裁判官は、〈説示〉という陪審への事件の説明において、陪審が評決を与えるために、事件の概要を説明し、問題点と証言・証拠を整理し、争点となっている法律問題を解決するためにイエスかノーかで答えることができるように単純な質問に整理してこれを提示しなければならない。たとえば次のように。

 a Aの妻は生存しているか。
 b Aは遺言をしないで死亡したか。
 c BはAの嫡出子であるか。
 d Aには他に誰も子供はいないか。
等々である。

 ご覧になってお判りのとおり、これらの質問はすべて法律問題である。あるいは、判決を左右する法にかかわる質問であって、決して事実問題ではない。しかし、陪審が問われているのは、その法律的見解ではない。法律的見解を左右する〈事実〉について尋ねられているのである(あるいは、事実について答えるかのように質問されているのである)。法律関係を構成する重要な事実についての知識を求められているのであり、その事実について法律的に判断するのは裁判官である。このことを称して〈裁判官は事実問題に答えず、陪審は法律問題に答えず〉という。

 陪審は、民事事件において過失の有無や損害賠償額を決定し、刑事事件において有罪・無罪を決定する。これが法律問題の決定でなくしてなにであろうか。しかし陪審は、その事件かぎりであり、あくまでもその事件について、人間として合理的な経験知を求められているのである。

 陪審が盛んに行なわれていた時代において―それはこの法格言が成立し、行なわれていた時代でもあろう―この争点の判定を左右する決定的な法律問題は、〈事実問題〉として、陪審にその決定を託されたのである。陪審は、Aの妻は生存しているか否か、Aは遺言をしないで死亡したか否か等々の問題について知っている〈事実〉を答えるのである。つまり陪審は、その答えが〈法律上どのような意味をもっているか〉についてではなく、陪審が知っている事実について答えるのである。それを法格言はこう述べている。〈陪審は法律問題に答えず〉と。もし訴訟の途中で、予め決定しておくべき法律問題や争点の決定を左右する異議が担当弁護士などから出されると、裁判官と弁護士は別室にひきとって、自分たちだけでその法律問題を決定する(ベイカー『法の二つの身体』)。

 
 主要参考文献
  守屋善輝『英米法諺』1973年、日本比較法研究所。(『守屋』と引用・言及する)
  小山貞夫『英米法律語辞典』2011年、研究社。(『小山』と引用・言及する)
  これ以外のものは、必要に応じて言及する。
  なお、英米法格言と言いながら、ラテン語表記のものが多い。それらについては、『小山』「序」に掲げる英米法の辞典類を、またラテン語表記の法格言の日本語訳については『小山』の該当項目か、『守屋』法諺索引から原文の日本語訳をご覧下さい。

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