12期の広場

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巻頭コラム

天正15?年6月13日の茶会

8組  川村 浩一
 
 この12年、茶事(茶の湯)同好会に入れていただきお茶の世界(の端っこ)を楽しんでいます。季節ごとに初釜とか納涼茶会とか、もみじ茶会、炉開き、口切とかいろいろな趣の茶事・茶会があります。コロナでしばらく活動も制限されていましたが、この5月には飯後の茶事(はんごのちゃじ)に招待され、いま仲間が納涼茶会を企画してくれています。
 その続きで最近、茶書の勉強を始めました。まずは茶道の聖典とも言われてきた「南方録」(なんぼうろく)の読書会。利休の教えを弟子の南坊宗啓が「南方録」7巻に書き留めたものを福岡・黒田藩の家老、立花実山が利休没後100年に再発見して書写させたものとされています。
 その7巻のうちに「會」という巻があり利休の56回の茶会の記録(茶会記)が残されています。この記録には我々にも懐かしい名前が出てきます。
 
 今、7月なので陰暦6月13日の茶会をご紹介しましょう。(一部、原文のママ)
 
 六月十三日、朝。
 御成(すなわち正客は秀吉)、御相伴は黒田勘解由(すなわち黒田孝高。官兵衛。如水とも。)、細川幽斎(藤孝)、今井宗久(堺の商人・茶人。利休、津田宗及とともに三宗匠と並び称された。)
  • 醒ヶ井屋敷六畳敷。
  • 初座、後座とも床には上様(秀吉)御自筆御自詠カケ物。
    御歌「底ゐなき心の内を汲てこそ お茶の湯者とハしられたりけり」
    此御歌ハ、先年此座敷ニて被遊下候を、このたびカクル。
  • お道具類は面倒なので省略。
  • 懐石:干し葉の汁、麦の飯。膾。刺身はマナガツオ。煮物。
  • 菓子:煎榧(カヤの実を煎ったもの)、栗。
お茶の後、秀吉から即席で歌を詠めと指示され、
 幽斎「濁なき此御代とてや足引の 岩井の水もやすくすむらん」
 孝高「万代の声もけふよりまし水の 清きなかれハ絶しとそ思ふ」
 
 利休の醒ヶ井屋敷は六条堀川のかつての源氏館のあとにあったようです。いつも名水、醒ヶ井水で茶を点てていたのでしょう。醒ヶ井水はこの写真のあたりにあったということですが、いまは残っていません。京都の街も400年余りでずいぶん変わっています。昔の大通りの六条大路が今は車一台がやっとという石畳の小路。戦時中に陸軍が堀川通をやたらと広くしました。また四条通を阪急が地下鉄を通し四条以南の井戸が干上がったそうです。
 
 ところで南方録では六月十三日とあるだけで天正何年の茶会とは記していません。でも学術誌も含めて天正15年と特定しています。それは四大茶書のひとつと言われる「今井宗久茶湯書抜」に天正15年の茶会と明記されているからです。しかも孝高の歌を宗久の歌とされています。立花実山は黒田藩の人、同じ黒田藩の貝原益軒の「黒田家譜」では孝高の歌と書かれています。書き写す人の身びいき?おかしいor面白い話ですね。
 
 なぜ私がタイトルに?を付けたか、それは天正15年ではありえないからです。このとき秀吉は島津征伐のため九州に居ました。福岡・箱崎宮の本陣から討伐軍に指示を与えていたはずです。利休や津田宗及も同行しお茶会を盛んに催していました。6月9日、13日は利休が点前、13日当日は宗及の点前で秀吉にお茶。(博多の商人で茶人の神屋宗湛の「宗湛日記」による。宗湛はいずれの茶会にも御相伴。)
 では、この6月13日の茶会は何年のことでしょうか?秀吉が天下人となった天正11年から利休が自刃する前年の天正18年の間で、秀吉、利休、官兵衛、幽斎そろって在京の日を探す必要があります。かりにうまく見つからなければ6月13日を疑ってその周辺を探らなければなりません。ずいぶんしんどい作業になります。
 この茶会そのものが実山の創作茶会という研究者もいるようですが根拠を示してくれていません。当分裏千家の茶道資料館の文庫や表千家北山会館などに通って調べてみましょう。
 
 今回、単純にこの季節に合った茶会の例をご紹介するつもりでしたが、迷路に入ってしまいました。そして「天正」という年号が昭和の次になつかしい年号になってきました。

“巻頭コラム” への1件のフィードバック

  1. 川村浩一 says:

    最後までお読みいただきありがとうございます。
    追補です。
     上の6月13日の茶会で濃茶のあと「薄茶ハ 上様ハシメ、御相伴トモニメンメンニ御立候て参候」の一文があります。
    濃茶のあと薄茶を点てるのは当たり前と思い上の紹介では省きましたが、あとで先生にお聞きすると「当時の茶会は濃茶だけ。薄茶を出すのが例外」とのこと。
    で、調べると濃茶のあと薄茶を出したのは南方録56回の記録のうち2例のみ。あと一つの例も秀吉との茶会でした。
     3月9日昼。御成。(すなわち客は秀吉一人)
    このとき最後に「ウスチャ、御前ニ被遊」と記録されています。
    すなわち薄茶は亭主に代わって客である秀吉が点てたということ。
    「秀吉さんはサービス精神旺盛やったんですねー」と先生のお言葉。

     さらに利休当時の茶会が現在と違うところを念のため書き足します。
    1.「茶会は男だけ」多くの茶会の記録が残っていますが、茶会に女性が参加している例は全くなし。(内々
    2.今は連客のうち末客を「お詰」と言い付属的な仕事をしてもらいますが、本来お詰とは「葉茶を製し茶壷へ詰める茶師のこと」で茶会の時はこの茶師が控えており、付属的な仕事をもっぱらに行っていたそうです。(秀吉がにじって茶碗を取りに行くことなど想像できませんね。)

     当時のお茶は特権階級のもの。明治になって庶民まで楽しめるお茶になったのです。

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