12期の広場

12期の広場

アフターコロナ・貴重な体験をした物語

8組 末廣 訂
 
 コロナ禍が明け、日常を取り戻してから2年間、貴重な体験談のいくつかを披露したい。

1、桂文枝師匠「参地直笑【祭】㏌福島区」
 令和5年、福島区が昭和18年に誕生してから80年の節目をむかえた。
 といっても区は大々的な㏚や式典的な行事もなかったのだが、代わりにあるプロジェクトが進行しており、それに参画する機会をいただいた。
 落語家・桂文枝師匠が、地域の魅力を発信するため大阪市24区それぞれの特色を盛り込んだ創作落語を披露する「参地直笑(祭)」である。コロナで一時休止していたこのプロジェクトの再始動第一弾が福島区で開催されることになった。
 落語の創作にあたり文枝師匠は既に福島区について綿密な調査をされていたが、さらに区内各団体に対して協力の要請があり、我々の福島区歴史研究会、野田ふじの会、区連合町会、福島聖天通り商店街の代表4名が文枝師匠と打合せをすることとなった。二度の打合せでは師匠はメモをとり、質問され、テレビや舞台で見る芸人としての師匠とは違う一面を見ることができた。
 私は、福島区の話題や祭り、歴史など師匠の落語のネタになりそうなことを一冊のファイルにまとめたものを差し上げて協力させていただいた。
 その後、文枝師匠から本番直前の2月に入って、松下幸之助さんについてもっと知りたいと連絡があった。私自身パナソニックのOB であり、大開公園の記念碑建立にも関わっていたということで、なんばグランド花月にある吉本興業事務所でPHP松翁会のメンバーと共に幸之助さんのエピソードや大開で創業の際に苦労された話などをお伝えした。
 さらにその一週間後、門真のパナソニック・ミュージアムを見学したいとの連絡があり、パナソニック本社にも要請して、師匠を半日案内することとなった。師匠は展示物を一つ一つ時間をかけてじっくり熱心に見られ、係員に質問してメモを取られていた。  
 師匠の取材はそれにとどまらず、その後も直接電話やメールを通じて問い合わせを受け、質問は数十件にも及んだ。質問にはその都度調べて回答したが、次第に内容が細かくなり、私自身知らないことも多く、元PHP研究所の役員やパナソニック本社まで問いあわせて回答した。
 令和5年2月25日、福島区民ホールで「参地直笑(祭)㏌福島区」の本番を迎えた。
 2月の寒い日であったが、1350人の応募者から選ばれた300人でホールは満席、大盛況であった。打合せに出席した4人やパナソニックの関係者も招待を受けた。
 福島区出身の落語家、月亭八方さんをトークゲストに迎え、桂三語さん、月亭八織さんも出演し、舞台を盛り上げた。
 文枝師匠が披露した福島区についての創作落語では、福島区にまつわる野田ふじや中央卸売市場の話等、様々な情報が盛り込まれていたが、半分以上を松下幸之助さんのエピソードが占めていたのではないかと思う。会場のお客さんも盛り上がって大きな笑いに包まれていたが、文枝師匠のこの落語ができあがるまで、また、お客さんを笑いの渦に引き込むには、あの綿密な調査や準備があっての事なのだと感心させられた。
 実は、文枝師匠は約40年前にミナミの料亭で松下幸之助さんら財界の方の前で落語を披露したことがあり、その一席後、幸之助さんの隣で食事をしながらお話しをする機会があったそうだ。その時の幸之助さんとのエピソードも披露された。
 当時若い師匠に幸之助さんから「昨日の出来事は済んでしまって、変更はできない。また明日の事は何が起こるか誰にもわからない。しかし今起こっていることは自分の努力で何でもできる。だから、今という一瞬一瞬を大切にして生きなはれ」という話をされ、それを文枝師匠は今でも大切にしているそうだ。幸之助さんについて熱心に調べていた理由が分かったような気がした。少し残念であったのは、当日舞台の写真や録音が禁止ということで舞台の様子が残っていないことだ。



2、海老江・南桂寺の親鸞聖人御遠忌および本堂屋根修復工事の落慶法要
 平成30年9月4日、大阪を直撃した台風21号は、各地で大きな被害をもたらした。
 この台風で南桂寺も本堂屋根瓦が損傷し、また銀杏の木が折れて鐘楼・塀の屋根瓦にも甚大な被害があった。
 修復工事にかかる総額見積もりは約6千万円強。積み立てた保険金では到底足りず、檀家護持会や総代会、女性会等で寄付を集め、修復工事に入った。世間はコロナ禍の真最中であったが、屋根の工事は順調に進み、淡路島で出来上がった屋根瓦の寄進者による記帳儀式も無事終えることが出来た。その後、鐘撞堂、土塀の基礎、本堂内陣、畳や障子に至るまで3年かけて完成した。

 令和5年の夏の総代会で、住職から「修復工事の落成式と親鸞聖人御遠忌法要、稚児行列を来年行いたい」と話があり、総代の中から私に法要委員長になってほしいとのご指名を受けた。
 突然のことで非常に驚くも、この行事は総代全員が力を合わせやるということでその場で委員長を受け入れ、法要、稚児行列の日も令和6年4月20日と決まった。
 昭和のおわりに父親が納骨堂建立の委員をしており、私も平成の阪神大震災後の修復の際には役員だったのである程度の資料は残っていたが、詳しい記録がなく、写真やわずかな資料・記憶が頼りであった。
 早速、檀家総代6名、護持会女性部4名の10名とお寺の家族とで常任委員会を立ち上げ始動し、法要までに準備すべき案件の洗い出し、日程等の全体図作りからスタートした。進行表と役員の配置図の作成、法中(ほっちゅう)会所や稚児行列の会場の準備、法要式典でお世話する役員70名の選任、稚児行列のポスター作成や寄付者へのお礼の記念品、当日の弁当手配に至るまで、業務は多岐にわたった。
 法要まで月2回、計12回の委員会を開いた。同時に業者との打ち合わせや各会場の設置作業、稚児行列の警察への申請等、外部との交渉なども進めた。私も法要委員長として、毎回の議案の調整や課題解決、実行に向けて決断の連続であった。
 年齢が70代、80代の委員にとってはシステムやデジタル化で苦労する場面もあったが、お互い意見を出し合い最後までよく頑張ったと思う。
 本番直前には、稚児行列参加保護者への説明会、役員70名の役割説明会を開催し、本番前日は朝から本堂の飾りつけ、法中会所、稚児出発の海老江西小学校体育館の準備等、ギリギリまで業者と共に準備作業に追われたが、何とか無事に法要当日を迎えることが出来た。
 法要当日の朝、役員全員が本堂前に集まり、記念写真を撮った後、三か所の担当会場に移動してもらった。午後、正装した法中と役員が小学校に集合し、体育館で待機していた稚児と保護者含む総勢200余名の行列が出発した。華やかな行列は南桂寺本堂をめざし海老江を練り歩き、本堂に到着後は厳かに法要が執り行われた。
 法要後の式典で、委員長として当日までの過程を振り返りつつお礼の挨拶をさせていただいた。前回、30年前の阪神大震災の法要では稚児行列が229名参加したのに比べて、51名と大幅に減少していること、また、デジタル化の進展により稚児募集ポスターの作成や記念写真のデジタル配布等、我々アナログ世代が対応に苦労したことなど、時代の変化と苦労した裏話も披露させてもらった。
 式典の中で本願寺大阪教務所長より表彰式があり、永年の功労者として檀家総代と護持会女性部から各1名、そして法要委員長を務めた私にも感謝状をいただき、光栄なことだと有難く頂戴した。
 なお、次回のためにと今回の式典の記録はデータとしてすべて残しておいた。ぜひとも活用してもらいたいと思う。
    
3、東京の日本銀行本店にて旧一万円札の最終印刷の贈呈式
  令和6年7月3日、20年ぶりに新紙幣が発行されたその日に、東京の日本銀行本店にて旧紙幣の最終印刷紙幣の贈呈式が執り行われた。式典には旧一万円札の福澤諭吉にゆかりがあり、旧紙幣が発行された際に、記念の記号番号の紙幣を交付された都市や団体が招待された。慶応義塾の塾長、平等院、中津市長らに並び、我が福島区歴史研究会も招待を受けて宮本会長と共に出席し、植田総裁から宮本会長に感謝状と最終印刷の一万円札が手渡された。
平成16年福島区図書館にて 最終印刷された1万円と感謝状を日銀から贈呈
 20年前、福島区図書館で歴史研究会が新一万円札で記番号A000007A札を日銀大阪支店から交付いただき、福澤諭吉の玄孫の出席のもと、私が司会を務めたことを思い出した。
 久しぶりの東京訪問であり、寅さんの故郷・葛飾柴又に立ち寄り、映画の舞台を訪れるという永年の夢を実現させることが出来たのもよい思い出となった。
 
4、海老江東小学校創立90周年記念式典
 昨年の秋、私の出身校の海老江東小学校で創立90周年と新校舎竣工の記念式典が執り行われた。
私は事業委員会の副委員長として準備段階からお手伝いし、11月17日には記念式典・植樹式及び祝賀会を無事終えることが出来た。5階建ての新しい校舎は立派であるが、自分が通っていた頃の小学校の面影はすでになく、少し寂しい気持ちになった。一方、元気な子供たちの姿や年代の違う同窓生が集まる姿に希望も感じた。この機会に「海老江の今昔」展を前半図書館、後半区役所で初代校舎のアルバムや新旧風景を写真で展示した。                                                         

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