12期の広場

12期の広場

思い出を綴る(2)

3組 石井 孝和

 中学校では、タブロイド版の学校新聞を発行していた。

 当時、学校は大淀区にあったが、新聞を印刷していたのは、徒歩で20分ほど離れた福島区にある小さな規模の印刷所であった。

 放課後、まだ裸電球が部屋を照らす印刷所にクラスメイトといっしょに「ゲラ刷り」をもらいに行ったときのあの部屋に漂うインクの“香り”がとても懐かしい。

『写真左下が体育部の部室です』

 中学から高校へ進む際、自分はどこへというはっきりした目標はないまま、日々楽しい学校生活を過ごしていた。そうした時期に、担任の先生から「君はK高校でも市岡高校でもいいから自分で選んで試験を受けたらいい」と言われた。わたしの1軒隣に毎日新聞の販売店があったことから「毎日新聞」を取っていたのだが、先生がそう言われた時、ふと去年、その新聞に“K高校で校内暴力”の記事が載っていたことが頭に浮かんで、即座に「市岡高校を受けます」と答えた。すると先生から「市岡高校は校風もいいそうやし、石井君の自由な意志でそうすればいいよ」と笑顔で励ましてもらった。

 幸い希望通り市岡高校に入学して間もなく授業中に驚いたことがある。英語の時間であった。There is a ・・・・を親友の泉信也君が“デェアリザ”と流暢な発音で本を読んだことだった。“英語の勉強が中学時代、僕らに比べて格段に進んでいるのだ”とショックを受けたことを覚えている。その時、わたしの発音は、“ゼアー・イズ・ア”と区切り区切りであった。特に英語に秀でた泉君は「ICU=国際基督教大学」に見事合格した。そんなわたしでも”英語”には興味を持っていた。

 クラブ活動は、「新聞部」に所属することにした。中学校で「学校新聞」を作っていた経験を生かそうと入部を決めた。酒井八郎部長をはじめ張志朗君や小寺昌子さんらが、”新聞作り”に情熱を燃やしていた。

 ところがわたしは、体育の時間、鉄棒で蹴上がりができたのが“金八先生”ならぬ日体大体操部“スワローズクラブ”でオリンピックの強化選手にも選ばれたという福井金治先生の目に止まり、「石井、おまえは体操部に入れ」と勧誘され、即刻“入部”が決まった。

 このことから「新聞部」での活動がおろそかになって部員の皆さんに多大なご迷惑をかける結果になったので、この場を借りて謝罪します。

『体操部の面々、2段目左が私です』

 さて、体操部の方は、福井先生の理論より実地に“演技”を見せていただきながら練習に励んだ。体操部は、温和な人ばかりで、後に学校長を務められた野田さんや練習中、間を見はからって講堂のグランドピアノを弾かれていて、後に大阪音大の先生をなさった沖さんの二人の先輩の他、林栄作君、貴田宗三郎君、西山吾郎君のあわせて4人の同期生が仲良く練習するのが楽しみのひとつになっていた。

 体操部は、野球部やテニス部、剣道部のように運動場をランニングすることはほとんどせず、部室で体操服に着替えると、すぐに木製の道具を使い地面で「倒立」の練習をするのが常であった。そしてその後、鉄棒や平行棒、吊り輪、跳馬、あん馬、それに道具を使わない徒手、今のゆかを日替わりで行った。ただ当時、今のような高度な「C難度」とか「G難度」といったものはなかった。器械体操は全種目にわたって練習をつみ重ねるものだが、わたしはあん馬が特ににが手で、開脚して前後に振り、両手を持ち替える技さえできなかった。ただ1種目、平行棒のみ記録を残すことができた。

『競技大会での平行棒の演技』

 大阪ナンバの府立体育館で行われた“大阪府の競技会”で種目別に出場した結果、平行棒の個人で清水谷高校の選手に次いで2位の成績をおさめることができた。

 この時、4人の審判員から自分の“演技”が評価された喜びを感じるとともに指導してもらった福井先生をはじめ先輩、同期生のみなさんに深く感謝した。

 体操は危険が伴うスポーツであるため、練習の時には、必ず演技者の傍で補助する者があることから、部員同士が支え合いながら練習に励むうちに絆が生まれるものだ。

 そうした中、ある日の放課後、いつものようにグラウンドの片隅にマットを敷いたうえ、鉄棒を立て、次々と練習に入った。そして、わたしの番がきたのでマットの上に立って構えていると、誰かが後ろから支えてくれて鉄棒につかまり、“さぁ一気に大車輪に持っていこう”と振り出した。ところが体が鉄棒の上まで達しなかったので、そのまま、もう一度前に振り出した途端、鉄棒が手から離れ、体が上向きに宙を飛んでしまった。わたしはとっさに体をひねって“猫”のようにうつ伏せになろうとしたものの、ひねりきれず、マットの上に落下した。片腕で着地したため、左の手首が“ミシッ”と鈍い音が聞こえ“あっ!折れた”と思わず叫んだ。

 この“事故”で手首の骨が2本折れ、肘を脱臼し、仲間に両脇をかかえられて学校近くの接骨院まで歩いて行った。途中、顔面蒼白、あぶら汗をかき、痛みをこらえていた。さて治療が始まった。骨折部位は後回しで、まずは脱臼部位の治療。飛び出した骨を押す人、手首に向かって引っ張る人、総勢3人がかりで“もうちょっとだ”、“もうちょっとだ”と息をはずませていた。「左カイナの表皮が引きちぎれるおそれがあるぞー」と“イタイ、イタイ”とうなるこっちをよそに・・・・。

 5分ほど辛抱していると“コツン”と音がして元のサヤにおさまり、腕がようやく動くように“修復”された。一方、骨折の方は手首から肘にかけて石膏で塗り固められる運命をたどった。(次号へ続く)
 

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