12期の広場

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思い出を綴る (3) -就職試験-

 3組   石井 孝和

 学歴社会と言われていた時代、高校生活から次への進路を選ぶ時期を迎えていた。
“京大”を一時夢見たわたしは、一転、この頃、直接、社会に向かう道を選択した。「学問は、そのあとからでも・・・」と考えた。
 校内の廊下に100近くの求人企業を紹介した貼り紙がずらりと並べられ、その辺りは就職を志した生徒で混雑していた。企業ごとの貼り紙には、給料の額が記されていた。多くの企業が、月給8000円台から9000円台であった。中には1万円超の企業もみられた。NHKの朝の連続小説「マッサン」に登場したウイスキー製造会社「サントリー」当時の社名は「寿屋」をはじめ、「東洋レーヨン」今の「東レ」、「国際電信電話会社」現在の「KDD」それに「日本放送協会大阪中央放送局」などがその一例だ。
当時のNHK大阪中央局、前に懐かしい市電が走っています
この時「大阪中央放送局」がNHKだということを友達から知らされたことが後押しになって、受験日の異なる「東洋レーヨン」に続いて「大阪中央放送局」を受験することにした。
「東洋レーヨン」は、一次試験をパスしたあと、二次試験の面接の日が雨降りだった。
わたしは、通学の時と同じように学生服姿で黒の長靴をはいて、大阪・中之島の本社を訪れた。面接会場にあてられた部屋の外で順番を待っていたところ、「次の人」と呼ばれたので、学校で習った通り、ドアをノックして入って一瞬、後ずさりしそうな気分になった。部屋の床にじゅうたんが敷きつめられていたからだ。窓際に4~5人の面接者が座っていて「どうぞ」と声をかけられたので、そのまま“ガバガバゴソゴソ”と靴音を響かせて中央にポツンと置かれた椅子に腰をかけ、いくつかの質問を受け、それに答えた。しかし、面接する人たちの顔は、ややシルエット気味であるうえ、緊張して自分の顔もこわばっていたと思う。そんなことで、今になっては、何を質問されたか、さっぱり覚えがない。1週間ほど経って、家に「不合格」の通知が届いた。
 次に受験したのが大阪・東区馬場町にあった「大阪中央放送局」だった。
 一次試験は、50問あり、英語や数学などに混じり、時事問題があった。にが手の数学の問題も微分や積分などはなく、解け、49問までは“正解?”としたが、時事の問題の中で「去年、日本芸術院会員になった『日本画家のひがしやまかいい』を漢字で書きなさい」の問に対し、わたしは全く知らず、答えを放棄して試験場を出た。答えは「東山魁夷」であった。
就職試験でお名前を答えられなかった
東山画伯。平成5年に取材でお目にかかりそのことをお詫びしました
 東山魁夷画伯といえば、その後、文化勲章を受章し、10年かけて奈良・唐招提寺の障壁画の大作を完成させた昭和を代表する日本画家の一人といわれている。東山魁夷画伯とはそれから30年余り経った平成5年、兵庫県の姫路市立美術館で開かれた「東山魁夷展」の取材でお目にかかる機会があって、昔話になるが、わたしの“無知”を伝えると、画伯は「そりゃそうですよね。私ごときの者、知らなかったのはあたりまえですよ」と、この大家にして謙虚なことばが返ってきて驚いた。このとき画伯の温かく、やさしい人柄まで知ることができたことを、今も忘れていない。
 さて、もう一方“作文”のテーマは「わたしとテレビ」か「わたしとラジオ」のどちらかを選ぶものであった。
 NHKの統計によると、この年の2月末現在で、テレビの受信契約者数が400万を突破したそうだが、わたしの家にはまだテレビの受像機はなかった。そこでわたしは「わたしとラジオ」の方を選んで作文にとりかかった。
 うまい具合に、高校3年の頃、家で2台のラジオを使って音楽を聴いたことを思い出しながら鉛筆でマス目を埋めていった。
 “2台のラジオで音楽を”ということは新聞でたまたま知ったことであった。その頃、まだFM放送がなかった時代で、2台のラジオは、中波放送のため左に第1放送、右側に第2放送に置いてステレオで聴くというものだった。作文ではその時の経験を書いた。“ベートーヴェンの交響曲「田園」が2つのスピーカーから流れ出た時に、音に奥行・幅が生まれ臨場感のあることを初めて知った”と、そして、“放送は送り手の工夫と受け手の理解が大切なことだ”と、偶然のように400字の最後のマス目に句点「。」を記した。

高校時代に私が描いた水彩画です
 後日、面接の日を迎えることができた。今回は天気は晴れ、意気揚々として、馬場町角の放送局(BK)に白いズックに学生服で階段を駆け登って局の受け付けを訪ねた。学生帽を脱いで五分刈りの頭を垂れ一礼するとすぐに面接の部屋に行く順路を教えてもらえた。面接の順番がきて、部屋に入ると、今度はリノリューム張りの床だったので特別驚きはなく、一礼して椅子に座った。「いしいたかかずくんですね」と4~5人の面接員のうちの一人が“確認”し、わたしの「はい」という応えを待っていた。次の質問は、「あなたは家からここまでどのようにしてきましたか」わたしは「市バスで福島から大阪駅北口まで来て、市電で大阪駅前から馬場町まで来ました」と、ここまではあたり前の質問が続いたが、次の質問からわたしを困らせるものに変わった。その1つ。別の人が「あんたは、学科で得意やったのは何?」と尋ねたので「得意というのは特になかったのですが、数学はにが手でした」とちょっとおずおずと応えた。するとその人「あんたそれやったら行く部署あれへんやん」と言われ、へこんだ。
 続いてまた別の人が「きみは体格からして競馬のジョッキーになったらよかったんと違うかな」とちょっとおどけた調子で言われたのに対し、内心、「確かに身長1メートル56センチ、体重47.5キロ(今も変わらず)体操していたし、それもありなん」「あの人そういえば馬面やな」と思いながら「そうですか」と小声で応えた覚えがある。こんな日が過ぎたあと、事務系合格者十人中唯一人「報道部」に配属された。
(次号に続く)

“思い出を綴る (3) -就職試験-” への1件のフィードバック

  1. 田端建機 says:

    私は一時美術部に席を置いていたが、石井君が高校時代にこんな達者な絵を画いていたとは全然知らなかった。写真で見る限り、オーソドックスな画き方に見えるが、筆遣い、色使い、画面構成といい、見事なテクニックではないか。これは写生なのか、想像なのか、それとも失礼だが、何かを手本にしたものか。一度、この原画や他の彼の画いた絵(高校時代には限らないが)を見てみたいものである。

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