12期の広場

12期の広場

思い出を綴る(5)

3組   石井 孝和
 「キャップかサブキャップのどちらか手のあいている方一人、すぐ局に上がってきてくれたまえ」木村部長はこう“号令”して、受話器をガチャンと置いた。そしてまた例によって「クンクン」その様子がわたしには、とても滑けいに見えた。それから10分ほど経って——-。
 「部長!唯今到着しました。私に何かご用でしょうか」駆けつけたのはサブキャップの岡本幸男さん。直立不動で“赤城の子守唄”を歌っていた流行歌手の東海林太郎そっくりの人だった。それにしてもしゃべり口調がなにか兵隊さんみたいと思った。あとで気づいたことだけど、木村部長は“元帥”。
 その“元帥”が岡本サブキャップにあらためて号令した。「石井君に字を教えてやってくれたまえ」と。岡本サブキャップは「ハイ」と応えたものの「何を教えてあげようか」と首をひねっている様子だった。丁度、運良くというか、NHKと契約している共同通信社から送られてきているロール式のファクシミリーのニュース原稿の中に、その日、大阪国税局が新聞発表した近畿地方の“長者番付”があった。ニュースが帯状に出てくることから、これを部内では“ふんどし”と称していた。
 “岡本サブ”は、「いいもの見つけた」とばかりそのニュースの部分を破って、原稿をひらひらさせながら机に向かい、わたしの向かい側に腰をおろし、「ほんなら石井くんいくでー」と、気のやさしい先生が「書き取りを始めるよ」といった雰囲気だった。
 わたしは、「また試験を受けるみたいや」と内心思い、“岡本サブ”の“出題”を待った。
すると“岡本サブ”は長者番付1位の松下電器(現在のパナソニック)の社長、「まつしたこうのすけ」と名簿を読みあげたのに続いて漢字一文字ずつの字解きを始めた。「しょうちくばいのまつ」「うえしたのした」「こうふくのこう」「これ ひらがなのえやなあ」「次はすけべえのすけや」
昭和36年頃の報道部。目の前に電話がずらりと並んでいます
 わたしは、最後の「助」を書き終えてから「下品なことばやなあ」、「たすける」と言えばいいのにと思っていた。こうして次々と人名の字解きを習うことになった。「助」以外に「かいすけ(介)」「くるまへんのすけ(輔)」があることや「よこいち(一)たていち(市)」「はしごだか(髙)」などなど。
 この日のお勉強は、記者が電話で原稿を送る時に受け手に理解しやすくするためだった。
 日が経って、記者からの原稿を受け取ったり、テレタイプで原稿を他局へ送ったり、先輩諸氏の指導も受け、徐々に仕事を覚えていくようになっていった。
 その頃は、電話事情が良くないうえ、部屋がテレタイプのガチャガチャという音などで騒々しいため、堺市や岸和田市など、NHKの取材拠点である通信部などから加入電話や公衆電話を使い、しかも、放送局にある「電話交換台」を経由して原稿が送られてくる為相手の記者の声がなかなか聞き取れず、遂に机の下に潜ってしゃがみ込み、ひざをついて受話器の口を手でふさぎながら「はあ?」「はい」とワンフレーズずつ聞いては、体を起こし、原稿用紙に書きとることもしょっちゅうあり、その都度「ええ運動になるなあ」と言いあって部屋はまた明るく活気づいていた。
 わたしの職場は、総勢10人で、“内勤”と呼ばれていた。勤務は週1回“泊り”がある。“泊り”という勤務は、NHKを退職するまで、1年間の「考査室」所属を除いてずっと続いた。“内勤”の泊りは午後5時から翌日正午までが通常の勤務だった。
昭和35年、国会議事堂を取り囲んだ安保条約改定阻止の全学連デモ
 ニュースというのは「正確・迅速」が基本である。事件・事故などに該当するが「そんなに急がない」のを“ヒマネタ”という。そんな“ヒマネタ”が夜に京都・神戸・奈良・大津・和歌山の各局からドッと送られてくる。それをすべて一人で対応するものだから若いくせに“慢性肩こり症”にもなった。
 ことしは戦後70年、「日米新安全保障条約成立」55年という節目でもある。
 その安保条約改定阻止の学生運動が激しい折り“内勤”で働いていたわたしが大きなショックを受けた日があった。条約成立 昭和35年6月15日夕方、全学連主流派約4千人が国会構内に突入し、警官隊と激突する事件があり、この事件で東大文学部4年の学生一人が死亡した。
 翌日の午前10時すぎ東京からテレタイプでこのニュースが短い文章にして送られてきた。
その一部で「しぼうしたのは、とうきょうだいがく4ねんせいのかんば みちこさん(きへんにちゅうかみんこくのか しょうだみちこさんのみちこ)22さいで・・・」と打たれてきたのをわたしが、 原稿用紙に「死亡したのは、東京大学4年生の樺美智子さん(22)で」と楷書で書いて、デスクに渡すと、デスクはその原稿に目を通し、「下読み」を待ち構えるアナウンサーへ。 ラジオ第一放送の“一分ニュース”の放送時刻の10時30分、わたしはモニターのため壁に掛けられたスピーカーの下の机に向かって耳を傾けていた。
樺美智子さん(当時東大文学部4回生でした)
この年ローマオリンピックの実況を担当したアナウンサーが「かしわみちこさん・・・」と発音!わたしは「間違いやー」心で叫んだとき胸の内がキューと締まり胃袋に何か重い物がズシリと落ちた。すぐデスクへ謝りに、頭を垂れた。デスクの小林隆樹さん「石井君でなく僕の責任だよ」と。そして「ラジオは大切だからね」とも。
 小林デスクは今のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の吉田松陰に学んだ坂本龍馬が大好きなやさしい人だった。もちろん正午のローカルニュースで訂正してもらった。 (次号につづく)

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