12期の広場

12期の広場

思い出を綴る (7)

3組  石井 孝和

 「貴社」の「記者」が「汽車」で「帰社」したという言葉で例えられるように同音異義語は枚挙にいとまがない。
 報道部の部屋には一冊の大学ノートが置かれていた。ニュース原稿を電話で受けたのちに他の人が、間違った文字を見つけては、この大学ノートに書きうつしていた。そしてその横には赤い文字でコメントが加わっていた。その中の一つにこんなのがあった。
 “暴力団〇〇組準更生員が・・・”正しくは、“暴力団〇〇組準構成員が・・・”で、その脇に“一日も早く暴力団から離れ更生してほしい”と赤字で記されていた。ラジオではアナウンサーの話し言葉では間違いが分からないが、テレビでこんな文字が出てしまったら大変なことになる。あらためてラジオに加え、テレビ時代到来を意識する日々であった。
春の選抜高校野球。甲子園球場バックネット裏の石井君です
 “内勤”の仕事は、原稿を受ける他は、先に書いたように“天気予報”、“株式市況”もあるが、NHKの役割として大切な“災害報道”、“選挙報道”などがあり、それらも“内勤”の仕事に属している。ニュースの重要度が上がれば上がる程、わかりやすい言葉や文字の使用にこまやかに神経を使わなければならないわけで、今でもあの大学ノートのことが懐かしく思い出される。
 ことしは高校野球百年の年。市岡高校が旧制中学時代から「名門」「古豪」とならした時代が続いたが、わたしたちが甲子園球場で取材していた時期には、残念ながら我が母校のチームを紹介することはなかった。
 夏は暑く、春は寒いネット裏での仕事は、スタンド下の格納庫に運び込んだテレタイプを通じて全国に原稿を送った。
 甲子園球場での仕事は、芦屋の竹園旅館を宿舎にしていた。この旅館は、当時、読売ジャイアンツの定宿になっていた。もちろん高校野球期間中はお休み。夏の大会のある日の夕食時に宿の主人が「皆さん、長嶋選手はうちのビフテキを二枚食べました。挑戦してみてください」と食べ放題を宣言したのです。肉は「神戸牛」のしもふり。全国から取材応援にかけつけていた10人余りの記者、カメラマン、アナウンサーたちが、日焼けした顔を見合わせながら「よっしゃー」と出てきたビフテキをパクついたことがある。結果は、二枚達成はただ一人。わたしは一枚も満足に食べられず残してしまったもったいない話。このビフテキは目方が一枚250グラムほどあったと記憶する。
 25歳になった昭和42年、遅ればせながら“後輩のお手本に”との思いで大阪住吉区の関西外国語短期大学の夜間に通い、英米語を学んだ。けれども英語はしゃべれない。
 30歳になる直前、大阪天満の天神さんで結婚式を挙げ、新婚旅行は7組の新田隆三君が、福島県に行くことをすすめてくれて、スケジュール一を組むなど大変お世話になった。お蔭さまで、紅葉と雪景色の東北地方を満喫させてもらう貴重な思い出となった。
 ことしはイタリアのミラノで食の万博』が開催されているが、昭和45年(1970年)大阪万博が竹やぶを切り開いた大阪・吹田市の会場で開かれた。(3月~9月)
おなじみの「太陽の塔」
(岡本太郎 作)
 会場には世界各国の展示場(パビリオン)が建ち並び、少し離れた所にNHKや新聞各社が取材基地とする「プレスセンター」が設けられた。
 万博開催直前、わたしは、当時の電電公社が貸し出しを始めた「ポケットベル」のことが頭に浮かび、全国から応援に来る記者に会場で持ってもらうことにした。それは会場に取材に行った記者にプレスセンターにいるデスクから緊急時に連絡するためだが、わたしの思いは、“記者が取材を終えて原稿を送ったのち、ポケットベルを持っているので、会場内で事件や事故が発生した場合、デスクから知らせが入るため安心してゆっくりパビリオンで見物が楽しめるように”ということであった。記者たちに好評であった。
 期間中、会場内で使う「電気自動車」が各社に貸し出された。この「電気自動車」は丸いハンドルの横に付けられたスイッチで、前・後・OFFを操作し、動かす時にアクセルを踏むだけの極簡易なものだった。スピードは。最速で時速5キロ(下り坂の所で15キロ)に制御されていた。
 わたしは、丸いハンドルを握るのは、子どもの頃、阪急百貨店の屋上でゴーカートに乗って以来のことだった。当番で万博会場に出勤すると、会場北端のバッテリー充電の基地に車を借りに行き、プレスセンターまで運び、夕方5時すぎに、また元に戻すのも仕事の一つであった。会場内での運転なので、運転免許証は必要としなかった。
昭和45年開催された大阪万国博覧会の会場図
この車を運転するのもその日の楽しみのひとつであったが、ある日、駐車場から出ようと気ぜわしく思っていたところ、スイッチの前進と後進を間違って入れてしまい、アクセルを踏んで“ドーン”と後の側壁にぶつけ、車を破損させてしまい、充電所に謝りに行ったことがある。(会場の広さ約330万㎡-甲子園球場80数個)
 日本万国博覧会運営本部によると、日本を含め77か国が参加し、183日間の会期中に入場した人は6400万人余り、一日平均約35万人にのぼったという。(当時「町」が「市」に昇格する条件に「人口3万人」以上が含まれていた)
 万博が終わって、ポケットベルを返却することになったが、警察や経済の担当記者には引継いで持ってもらうことになった。
 ある日の夕方、ニュース部屋に上がってきた記者が「預かったポケットベルを返します」とデスクに差し出すのを見たので、傍に近づき、事情を尋ねたところ、記者は口早やに「日銀大阪支店の記者会見中に“ピーピーピー”とポケットベルがけたたましく鳴ったため、他社の記者たちが“何や何や”と騒ぎ出したので慌ててスイッチを切ったけれどはずかしい思いをした」と言うのである。
 この記者は竹園旅館でビーフステーキ二枚たいらげた人物であった。
 他社に先んじてポケットベルを採用したことにまつわるこの思わぬ出来事に、わたしは少なからず驚かされた。(つづく)

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