12期の広場

12期の広場

思い出を綴る  (8)

3組  石井 孝和
 風光明媚な山水の中に、平安時代の技巧を極めた建造物「平等院」が京都府宇治市にある。寝殿造りの阿弥陀仏堂(鳳凰堂)は、十円硬貨の表面のデザインに使われ、現在は、世界文化遺産に登録されている。
十円硬貨のデザインである平等院(京都府宇治)
 大阪万博の翌年、昭和46年(1971年)、わたしが記者として新たなスタートを切った所が、この地、宇治市にあるいわば“取材基地”の一つNHK京都放送局・宇治通信部であった。
 当時“人口急増地帯”と言われた京都市伏見区を含む京都府南部が受け持ち範囲だが、週に一度は、京都放送局で泊り勤務についたり、京都府警本部の記者クラブに夜勤に行ったりもした。
 万博会場では、“無免許”で電気自動車を運転したが、今度はそうはいかず、広い範囲の取材には、車の運転免許証は必須条件。赴任早々、取材の合い間を縫って、宇治市内の自動車教習所に通うことにした。
鳳凰(国宝)現在は美術館にて展示されている
教習所では、教科や実技の間には、必ず受け持ち範囲の警察署に、それぞれの管内で事件や事故が起きていないか、“警戒電話”をかける。(四六時中神経をとがらせているのが記者の仕事と云われている。)この際、教習所に設置されている“赤電話” を使うのが常識で、何か“発生もの”があれば、教習所の授業を途中で抜けて、タクシーを呼び、現場に急行、取材を終えて最寄りの警察署からこれまた“赤電話”で京都放送局へ送稿(ラジオ用のニュース原稿を読んで送ること)していた。
 “赤電話”に使うのが「平等院」がデザインされた十円硬貨。仕事で“赤電話”の“お世話”になっていることを家族から伝え聞いた大阪に住む義母が、宇治の我が家を訪れるたびに、「ハイおみやげ!」と言いながら、わたしに“十円玉”をどっさり入れたずっしり重い布袋を届けてくれた。当時のわたしにとっては“十円玉”が“百円玉”以上に貴重な“玉”であった。
 教習所へは、取材のために行けない日もあり、またコースの“S字カーブ”で度々脱輪するわたしの“未熟さ”、“にぶさ?”もあってか、免許証取得に制限ギリギリの半年間を費やしてしまった。
 転勤当時、テレビ放送は、それまでのVHF電波からUHF電波に変わり、地方局でローカル放送が開始された。このことから通信部では記者が映像取材にも力を注いだ。
 映像取材は一分間で仕上がるポラロイドカメラと、16ミリフイルムを使う「ベルハウエル」と呼ばれる3本レンズのアメリカ製のカメラを用いた。映像取材についても京都放送局のデスクから折りに触れ応援を頼まれた。
 
ベルハウエル16ミリで取材中の石井君(左)と外務省発行の取材証(右)
 京都には来日したVIPが訪れることが、しばしばある。  昭和49年11月には、アメリカの大統領としては、初めて、フォード大統領が京都を訪問した。外務省発行の「取材証」を首にぶらさげて、京都御所で取材にあたった。「紫宸殿」前の指定されたポイントで30分前から大統領の姿を他社の取材陣10人とともに待っていると、突然、身の丈2メートルほどもある黒服姿のSP3人が現われ、わたしたち全員の体を両手でタッチ、”飛び道具”などを所持していなか、チェックし、無言で立ち去っていった。間もなく姿を見せたフォード大統領は紫宸殿の正面に立ち、笑顔を見せながら右手を挙げ、すぐさま次の政所の間に移動。わたしは、この間、ゼンマイを一杯に巻いたカメラを回し続けた。撮影時間はたったの30秒間で終了した。この日、NBCなどアメリカの放送局からリポーターを引き連れたカメラマンが担いでいたのは、ビデオテープ(VTR)の大きなカメラで、2人一組であった。
 
 翌年の昭和50年5月にはイギリスのエリザベス女王が、やはり京都御所を訪問。今度は御所南側の丸太町通りを走る市電の線路の真ん中に唯一人、アルミ製の脚立を置き、エリザベス女王の車列を待った。車が前方から近づくところから目の前で御所の門に向かうまで。やはり30秒間の撮影であった。
 更に次の年、昭和51年3月、ヨルダンのフセイン国王と美しいアリア王妃が京都を訪問された時は、桂離宮で庭園を散策されている様子を撮影した。この時はフイルムひと巻きを使い切り、3分間の撮影となった。
私が撮影したヨルダン国王夫妻
 ところで宇治では免許証取得後、他の通信部の廃車を1万円で買い取ったのが最初の”マイカー”となったが、すぐに故障し、2台目は新車の「スズキフロンテ」、3代目は中古ながら”黄色いロールスロイス”とはいかないけれども”黄色いカローラ”(トヨタ)を買い入れた。
 昭和52年の冬の日曜日、宇治市の大手企業の体育館でNHKのど自慢の公開収録が行われた。ゲスト出演は、デビュー4年目、当時25歳の石川さゆりさんが白い服装で出演、“津軽海峡冬景色”を披露した。
 この収録の途中、客席の後ろにいたわたしの腰につけていた例の“ポケットベル”が鳴ったので、局のデスクに”赤電話”をかけると「おとといから宇治で行方不明になっている依子(よりこ)ちゃんが遺体で発見されたそうだ」という知らせ。早速、”黄色いカローラ”のアクセルを踏み込んで現場に急行。未舗装の狭い道を”巧みな?ハンドルさばき”で走り抜けたあと、民家の近くで左にハンドルを切った際、”ガリガリガリー!?”と大きな音。道の角に置かれた大きな石がサイドミラーに映った。車の側面をこすったようだ。かまわず現場へ。構えたベルハウエルのファインダーから依子ちゃんが遺体で発見された深さ2メートルの側溝には冷たい水が流れ、小雪のちらつく中で現場検証をする捜査員たちの姿が見られた。
幼い命を奪ったのは、おととい「行方不明になった」と宇治警察署に届け出た依子ちゃんの義理父の男であることが判明、男はその日、殺人容疑などで逮捕された。
 傷ついた”黄色いカローラ”の修理代約4万円は、我が家の家計に重くのしかかってしまった。
 この”黄色いカローラ”、あるときは、警察のパトカーを”追跡”するように事故現場に走らせたり、運転しながらベルハウエルを駆使して前を走る”水垂れ不法ダンプ”を撮影したり、取材で大いに活躍したが、ある日、同じ型の車に正面衝突を起こされたのをきっかけに、”一台でも車を減らして「大気汚染の防止」につなげよう”と整備工場に引き取ってもらった。
 ところが、後日、通信部の「公用車」を運転していると、すぐ前を走る車が何と!”黄色いカローラ”ではないか!!ナンバーもそのまま。廃車にしたわけではなく、運転する人が変わっただけのことで、何の効果もなかったことに、わたしはガッカリ!わたしと共に働いてくれた “黄色いカローラ”に、あらためてごくろうさまと感謝の視線を送った。(つづく)

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