12期の広場

12期の広場

思い出を綴る (9)

3組    石井 孝和
 
「隠元豆」(いんげんまめ)
 宇治通信部の次の勤務地は、NHK水戸放送局であった。
 小学1年生の長男と、3歳の長女、それに妻を伴って京都から新幹線で東京へ、東京上野から常磐線に乗り継いで、平坦な田園風景を眺めながら約2時間の“旅”の末、水戸駅に降り立った。昭和53年の8月だった。京都に比べて顔を撫でる風が涼しかったのが、印象的だった。
 茨城県は“農業県”で、特に養豚数は全国一といわれ、「すき焼き」には豚肉を使うのがこの地方の“常識”
 青物店の店先で野菜を品定めしていると、折板(へぎ)の値札に墨字で「円元豆」と書かれているのに目がとまった。関西では「いんげんまめ」と呼ばれるさや付きの豆(宇治黄檗宗・万福寺の開祖、隠元(いんげん)禅師が中国の明(みん)から持って来たことからその名が付いたようだ)宇治から各地に広がった豆の名が、この地方では「い」が「え」に変わって「円元」とあて字が使われたものとわたしが勝手に解釈した。
 当時、水戸放送局はテレビの電波はもたず、東京の電波を受信していた。
水戸偕楽園梅まつり(3月)
PRの写真
 赴任翌年の2月の初旬、泊り勤務の明け方に局舎の窓から雪景色がぼんやり見えた。水戸地方気象台に電話で問い合わせると“午前5時現在、水戸市の積雪量は13センチ”とのこと。わたしは正午の関東のローカルニュースに映像取材しようと梅の名所で“日本三名園”の一つ「偕楽園」に向かうことにした。
 車はタクシー。3社に次々電話したが、どこも応答なく、むなしい呼びリンの音が続いた。6時すぎ、ようやくこのうちの一社「安全タクシー」と電話が通じ、出勤早々の運転手が局に車を着けてくれた。わたしは行き先を告げた後、午前7時34分水戸駅を出る列車に、撮影したフィルムを「電車便」として乗せることを運転手に伝え、運転手もうなずいた。
 偕楽園に着くと、低い垣根を越えて庭園に入り、撮影を開始。3本レンズの「ベルハウエル」のカメラのシャッターを押し続け、真白な雪景色の梅林の小径を進んだ。片手に三脚を持ちながらの“移動ショット”を試みた。約3000本といわれる梅の木にはまだ花が見られなかった。長靴をはいたわたしは、辺りを走り回った末、偶然、白とピンク色のたった二輪が並んでいるのを発見。徳川斉昭(とくがわなりあき)ゆかりの建物「好文亭」(こうぶんてい)を向こうに見て、3分間の撮影を終えた。それからが大変—–。
 車のドアを開けて待っていてくれた運転手が「10分ほどで駅につっからね」(着くからね)とスピードをあげて車を走らせ、何と7時30分すぎに駅に到着。しかし、34分発の列車が、先頭車両を上野方面に向けて停車していた。わたしはその時点で“間にあわない”と半分“あきらめ”の気持ちで小荷物掛に“電車便”(フイルムを入れた厚紙の袋)を預け、伝票を書き始めていると、国鉄職員の一人が矢庭に“電車便”を掴み取って「まだ間にあっぺ」という言葉を残し、小雪が舞い出した中を、線路を何本も跨ぎ、5~60メートル先のプラットホームに上がり、列車の後部に向かう姿を見届けたもののその時、時刻が7時34分を過ぎており、不安がよぎった。残った職員が「けさは大雪でダイヤに遅れがでているよ」と云ってわたしに声をかけてくれた通り、間もなく先程の職員が手ぶらでプラットホームを降りこちらに向かってきたのが見えた。
 その時、わたしは放送局で朝の番組の“録画”を同僚に頼まれていたことを思い出した。「お礼は後ほどに」と伝え、待たせたタクシーに飛び乗って局に引き返してもらい、2階の放送部に駆け上がって、すかさず“録画”のスイッチON。7時45分からの番組に間に合って、約束を果たすことができた。それから間もなく、“雪”の書き原稿を東京に電話で送ったのち茨城県警察本部の記者クラブに行き、昨夜から県内で起きた交通事故などの取材にとりかかっていた。
 さて“雪を冠った偕楽園の梅の花”の方は、無事、お昼の関東ローカルニュースで放送され、多くの“茶の間”に“花と雪”を届けることができた。
「ニュース原稿執筆中のわたし」
 この時、しみじみ思った。1分余りのニュースが“茶の間”に届くまでに何と多くの人たちにお世話になったことか。タクシーの運転手を初めとして2人の国鉄職員、列車の車掌、上野駅の助役、“電車便”をNHK東京を出て持ち返るオートバイの運転手、フイルムを現像するNHKの技術職員、フイルムの編集者。一方、書き原稿は受稿者、ニュースデスク、TVのコメント担当者、アナウンサー、それに放送に携わる技術職員と続く。取材者としてこれらの多くの方々にあらためて深い感謝の気持ちをもったものだ。
 茨城県では赴任早々の10月に日立市で、翌年2月末には守谷町で誘拐事件があるなど、凶悪犯罪をはじめ、選挙違反、交通死亡事故が相次ぎ、大津放送局に転勤するまでの4年間に92市町のうち、88市町で取材したことが後でわかった。選挙違反の中には、県議会議長を巡る事件もあり、10人ほどの県議が水戸地方裁判所で判決されることがあった。
 高校1年生の時に北村先生に提出して先頃返却された作文「民主主義」のことは忘れていたが、日頃から考えていたことに挑んだ。 警察キャップをしていたわたしは地元「いはらき新聞」の他、各社のキャップに持ちかけ、
「開廷直後の法廷」(NHKニュースより)
それまで許されていなかった「法廷内の開廷後の映像を撮らせてほしい」と水戸地方裁判所に全員が「記者クラブ」として申し出た。当初、裁判所の所長は、この申し出に「最高裁が許可していないので受けつけられません」と即刻断られたものの、次の日もまた次の日も“ねばった”結果、裁判長の裁量で“2分間の代表取材”の口約束で許可された。他社のキャップたちの協力あっての画期的な出来事であったと思う。
 日本新聞協会(NHKも所属)と最高裁判所の間で「開廷直後の写真撮影」が正式に明文化されたのは、この“出来事”から6年経った昭和60年と記録されている。

 ——- この時期、関西では ——–

△ 昭和53年 → ・大阪府中央卸売市場開業  ・神戸市のバーなどで置かれたのが始
  まりといわれる「カラオケ」ブームが始まる。
△ 昭和54年 → ・三菱銀行北畠支店で猟銃殺人、人質事件  ・近鉄バッファローズ
  パリーグ初優勝
△ 昭和55年 → ・奈良東大寺大仏殿「昭和の大修理」終わる。  ・「上本町ハイハイ
  タウン」開業。  ・漫才ブーム起きる。ザ・ボンチ、島田紳助、松本竜介ら。“赤信号、
  みんなで渡れば怖くない”などの流行語を生みだす。
△ 昭和56年 → ・神戸ポートアイランド博覧会開催  ・京都大学の福井謙一教授に
  日本人初のノーベル化学賞  ・大阪駅前第4ビル完成
△ 昭和57年 → ・第1回大阪女子マラソン開催  ・大阪造幣局で五百円硬貨発
  行  ・大阪駅前横断歩道に日本初の信号待ち時間表示装置設置
                             (次号つづく)

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