12期の広場

12期の広場

思い出を綴る (10)

3組  石井 孝和

 大阪城天守にかがやく鯱(しゃちほこ)は、大阪湾の最低潮位(O.P)から約85メートルの高さにある。その高さから、ずーと北方に線を引いていくと滋賀県のびわ湖の湖面に達することは、あまり知られていないことだと思う。(滋賀県の調べで湖水面の標高は85.614メートル)
 近畿1400万人の「水がめ」といわれるびわ湖が、県土の6分の1を占める滋賀県のNHK大津放送局に転勤したのは、昭和57年(1982年)の夏のこと。前の年の夏、茨城県の霞ケ浦の水問題を企画ニュースに取り上げ、びわ湖の取材に訪れた所に転勤するとは思いもよらないことだったが、このことはわたし自身も家族も「関西に戻れて」ラッキーな気分であった。
 272億トンもの水(大阪市民が飲み水にすれば300年超分)を湛(たた)えたびわ湖では、夏になると「富栄養化」(水中の窒素やリンが増え、臭いがでる)に伴ってプランクトンが発生し、“淡水赤潮”と呼ばれる現象がみられ、その都度、現場にカメラマンと駆けつけて取材するなど、放送を通じて“びわ湖の環境悪化”に警鐘を鳴らし続けた。また周辺住民が、“石けん運動”など水の浄化を呼びかける様子なども度々放送で伝えた。
南方上空からのびわ湖。手前にJR東海道線や名神高速道路がみえます。
 昭和59年(1984年)には、湖や沼の環境問題を考える「第1回世界湖沼会議」が大津市で開かれた。国連はじめ欧米諸国、国内各地から識者や住民代表が集い、様々な意見が交わされたことを連日、ニュースで伝えた。
 この会議の最終日、大津市内の琵琶湖ホテルを会場に、皇太子ご夫妻をお招きしてレセプションが開かれた。会場には会議に出席した100人以上の人達の他にメディア記者、カメラマンも大勢参加した。立食パーティで飲み物のグラスを手にした人たちが歓談していた。その夜の会場では、カメラマンの撮影場所は指定されておらず、会場内を自由に動き回ることができた。わたしは、歓談されている皇太子殿下の後方にいて会場の様子を見渡していた。その時、NHKのアルバイト学生のライトマンがバッテリーを入れたリュックを背負い、両手にライトを握りしめて、わたしの前を駆け抜けようとしたところ彼の前にいた警護の担当者が“危ない”と声をかけ、咄嗟に彼の両肩に手をかけ押さえつけると、彼はペシャンと四つん這いなってしまった。彼はすぐにムクッと立ち上がり、警護の人にピョコンと頭を下げ、妃殿下の傍で彼の到着を待つカメラマンの後ろに行き、妃殿下の方にライトを灯した。会場では、何もなかったかの様子で、両殿下も全くこのことにお気づきではなかった。しかしそのままで済まなかったことがすぐに知らされた。レセプションが終わって大津放送局に戻ると、少し後から帰ってきたカメラマンが、「関西写真記者協会」の幹事社・朝日放送の報道カメラマンから“今夜の突然の出来事を宮内庁に報告しなくてはならないのでよろしく”といわれたと相談を受けた。
第1回世界湖沼会議の分科会の会場でリポート
 わたしは即座に“ぼくが書きます”と返答して、その場で「顛末書」と題して、便箋に宮内庁宛てとして“出来事の経緯(いきさつ)と謝罪”を書き記し、幹事社に託してもらった。この「顛末書」は、翌日には宮内庁の“出先”にあたる京都御所に届けられたと聞いたが、その後、宮内庁からは何の音沙汰もなかった。彼はその後、大手の証券会社に就職がきまった。
 それから2年後の昭和61年(1986年)7月には、史上2回目の衆参同日選挙が行われた。この選挙で関西で話題になったのは参議院議員選挙の大阪選挙区に立候補した漫才師だった西川きよしさんが、102万票を超える大量得票で初当選したことだろうか。
「選挙報道」はNHKにとっては「災害報道」に次いで重要な使命を担っている。公職選挙法に基づいて行われる選挙は、“固い法律の中でも人間社会の営みが反映しているものだ”と、取材を通して多くを知った。
西川きよしさん(ヘレンさんと)
 この衆参同日選挙で衆院滋賀全権区には、7人が立候補した。
 高校卒業時、成績表がオール1ながら東京大学に入り、通産省の役人を経て滋賀県知事を3期務め、のちに新党さきがけの代表となり、大蔵大臣も務めた武村正義氏。一方、中学中退後、15歳で「専検」(専門学校入学資格の検定試験)に合格、東京大学を卒業、大蔵省の官僚歴任後、国会議員となって防衛庁長官を務めた山下元利氏。山下氏と鎬(しのぎ)を削り、この選挙の3年後にわずか69日間というごく短命ながら首相を務めた宇野宗佑氏。このほか、連続当選を続けている社会党の野口幸一氏、共産党の瀬崎博義氏、現・衆議院副議長の民主党新人川端達夫氏、国鉄時代、びわ湖の西を走る湖西線を高架で建設することに携わった新人の川島信也氏。
 選挙戦は、これら7人の激しい争いとなった。告示日は雨だった。わたしはこの日の朝、滋賀県庁前で、カメラマンと一緒に、立候補の届出を済ませた7人の候補者が勢ぞろいするのを待ち構えていた。そこに順次、届出た名前の入った大きな選挙用のタスキを肩に候補者が集合した。めいめいの傘をさしていた。色のついた傘や黒いこうもり傘など様々だった。
候補者の揃踏み(全員が同じ傘)
滋賀県庁前
わたしは“選挙報道は中立・公正”ということ念頭に置きながら候補者一人ひとりと挨拶を交わしたあとで、“皆さん、そこで暫く待っていてくださいね”と言い残して、脱兎のごとく県庁内の売店へ走り「透明の傘」を調達。約5分後に戻って“仕切り直し”。“では皆さん傘をさし上げてくださーい”。こうして県庁前の“揃(そろい)踏(ぶ)み”は、全候補者が同じ条件の下、顔も明るく映像におさまった。
 記者の仕事はこのあとが重要。わたしは、投票日に向けて連日、選挙事務所や候補者と同じように全選挙区を回り、組織や団体の代表ら数多くの人たちと出会って取材を進め、候補者の得票を予測する“票読み”会議に臨んだ。当時は“出口調査”(投票所で投票を済ませた有権者にアンケート)というものはなかった。投票日、NHKの開票速報の放送が始まると、開票結果が出る以前に“最終的に当選間違いなし”と判定した候補者を“当確
この時の衆院選滋賀全県区開票結果
”と紹介していく。この日の“速報”で衆院選挙で全国で最初に“当確”となったのは、滋賀全県区の山下元利氏であった。東京の選挙班との打ち合わせ通りであった。山下氏には選挙事務所の控室で“当確”を待ってもらい、一部団体からのクレームを避け、目に墨を入れる前のダルマを舞台の脇に離してもらっておくことも事前にわたしが連絡しておいた。この選挙の3年前の昭和58年12月、京都から乗った湖西線の車中で、偶然出会い、秘かに“衆院解散は一週間後ですよ”とささやいてもらったのが山下氏であった。山下氏は当時、田中角栄首相の側近中の側近であった。この「特ダネ}を東京政治部へ“速報”したことは言うまでもない。

―― この時期の世の中 ――
▽昭和57年 ・テレビアニメ「機動戦士 ガンダム」爆発的ブーム ・歴史教科書「侵略」
        から「進出」にの表現で内外で問題化。
▽昭和58年 ・ロッキード事件判決公判で田中元首相に実刑判決 ・NHK朝ドラ「おしん」
        の視聴率62.9% ・劇団四季のミュージカル「キャッツ」のロングラ
        ン始まる。
▽昭和59年 ・グリコ森永脅迫事件社会的な注目集める。 ・ロス五輪山下選手金メダル
▽昭和60年 ・日本電信電話公社が「NTT」、日本専売公社が「JT」として新発足。 
       ・プロ野球阪神が日本シリーズで西武を下し、球団史上初の日本一。バース、
        掛布、真弓らが活躍。 ・日航ジャンボ機墜落
▽昭和61年 ・「男女雇用機会均等法」施行も批判高まる。 ・社会党に初の女性委員長
▽昭和62年 ・ゴッホの作品「ひまわり」が58億円で保険会社落札。 ・国鉄が分割民営化。

                             (次号に続く)

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