12期の広場

12期の広場

思い出を綴る (最終回)

思い出を綴る (最終回)
3組   石井 孝和

 関ヶ原の戦いの翌年1601年から9年の歳月をかけて完成したといわれる姫路城。
国宝姫路城(撮影:平成4年)

 わたしがNHK神戸放送局の姫路支局(放送局から支局になった年)に転勤したのは、平成4年(1992年)の夏、満50歳で、単身赴任だった。
 新しい勤務地では、各新聞社の支局をはじめ、記者クラブ、市役所、警察、県の出先機関などを巡って“顔見世”の挨拶に伺う。この中で姫路城の管理事務所に続いて、城のすぐ近くに昭和26年に開園したという市立動物園に伺ったとき、わたしの目に衝撃的な光景が映った。屋外で日光浴をしている「姫子」という名のアジアゾウの後足の一方が太い鎖につながれていたのだった。“鎖”は危険防止の為だろうが、堀もあり、私にはいらないように思えた。
 この日、園長に「初めましてどうぞよろしくお願いいたします」と挨拶したあと“鎖”について尋ねたところ、「以前から引き継いでいることなのです」とのことだった。その翌日、姫路市役所を訪ね、戸谷松司市長に2度目の“おめもじ”。わたしが“鎖”のことを話題に引き出すと市長は「そうですね。鎖といえば、
フラミンゴの卵を抱くウコッケイ
フラミンゴの卵の大きいこと
姫路市は新日鉄広畑工場があることもあって鎖の生産量が日本一なんですよ」とさらりとかわされてしまった。その後、こ の動物園では、鶏の仲間で「ウコッケイ」という鳥が自分の卵の3倍近くもある大きさの「フラミンゴ」の卵を抱いてひなを孵(かえ)したという話題や卵から孵化した「タンチョウヅル」が成長し園内を“お散歩”など、さまざまな話題をニュースに取り上げた。そして12月22日冬至の日には象の「姫子」が登場。近くの幼稚園児たちを動物園に招待し、「姫子」が地元でとれたジャンボカボチャを食べるのを見学するという催しが予定されていた。当日、動物園にカメラマンと一緒に行き、子どもたちとともに大きな「姫子」の姿を見て驚いた。わたしは感動した。「姫子」の後足からあの太い、冷たい“鎖”が消えていた。わたしはカメラマンに“後足”もしっかり撮るように頼んだ。わたしの話を心の片隅に止めていてくれた園長や市長が自ら“発信”したことであった。「姫子」は翌々年の平成6年、老衰のため昇天した。満50歳だった。
 平成5年12月(1993年)9日、姫路城と奈良法隆寺が、日本で初めて、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
 この日に備えて姫路市の広報課と市政記者クラブの間で打ち合わせが行われた。つまり、
世界文化遺産登録の知らせを受ける戸谷市長
“演出”のことで文化庁からの知らせを市長が電話で受けるのをどこで行うか、どんな催しをその時行うかであった。わたしはテレビとしての“絵作り”を考え、しかも1台のカメラで取材できるように提案した。その結果、市長を城の管理事務所に来てもらい、そこに電話をかけてもらうことになった。事務所の横が広場になっていて、そこで催しを行うことになった。
 文化庁から「姫路城が世界文化遺産に登録された」と市長に知らせの報が入ったのは、当日の午前1時ごろであった。そのあと記者会見に続いて、広場で保存会のハッピ姿のメンバーによって樽酒が割られ、かけつけた市民に祝い酒を振る舞う催しが行われた。“暗がりの中の案外、質素な催し”だったとわたしは記憶している。
屋根の端に近づき落雷跡を撮影
 この姫路城の大天守に落雷したことがある。その日の夕刻、“落雷、屋根瓦が落下”の知らせがあり、カメラマンに現場に行ってもらった。登城閉門時刻が近かったため、映像は下に落ちた瓦の破片のみであった。翌日、わたしは城に登って屋根の様子を撮影しようと管理事務所を訪ねた。そして落雷の痕跡を取材するため城の上階に向かった。その途中、長さ1メートルほどの竹の梯子を肩に担いで階段を下ってきた人に出逢い、もう一度最上階まで登ってもらった。割れた瓦を点検に行った人だった。瓦の被害は13枚だった。わたしは梯子を使って最上階の6階の窓からカメラを担いで屋根に出た。1歩1歩急な屋根をくだって落雷の痕を撮影することに“成功”。勿論命綱をつけてもらっていた。
 ことし、平成28年(2016年)1月17日は神戸を中心に6400人超の犠牲者がでた阪神淡路大震災から21年。
 わたしはあの日の前日、新聞各社の姫路支局長らと兵庫県山崎町のゴルフ場に行き1ラウンドを楽しんだ。成績は113で、自分としては上出来であった。プレーを終えてマンションに帰り、夜は、いつものように目覚まし時計と8ミリビデオを枕元に置き、支局員の緊急呼び出しの系統図までも準備して就寝。そして明け方、グサ!ときた振動で目を覚まし、大きな横揺れの中で“山崎断層の地震か”と思いながら揺れのおさまりをまった。隣の台所では
阪神淡路大震災を報じるNHKニュース
冷蔵庫のトースターなどが大きな音をたててフローリングに転がった。“アッ撮影”と思ったところが蛍光灯の紐が揺れる様子しか目に入らなかった。続く余震の中、急いで服を着替え、上階に住むカメラマンに大声で“局に行くぞ”と言い残して、すぐマンションの隣の支局に駆け込んだ。
 兵庫県西部各地の警察、消防に順次電話して被害状況を尋ねたところ、幸い“大きな被害はない”ということだった。そこで若い記者とカメラマンを局車で神戸に向かわせた。この局車は、途中で撮影した映像を奈良生駒山の放送アンテナを中継してBKに送ることができた。わたしはタクシーで姫路市内を映像取材してまわった。電車が止まったJR姫路駅、駅周辺のことごとく割れたビルの窓ガラス、そして世界遺産に登録された姫路城の瓦が落ちるなど壊れた土塀などを取材し、次々と支局からBKへ電送した。その後の余震にも警戒し情報を神戸局に送り続けた。
わたしの寝床、ビデオカメラほかがスタンバイ
 この日から約3か月、わたしは支局のニュースの部屋で寝泊まりを続けた。この間、広島から姫路港に来ていた貨物船が明石-天保山を不定期で運航(独自ネタ)するなど被災者への救援・支援など「震災後」の取材にあたった。この間、局舎が壊れ仮住まいしていた神戸局へ泊りにも行っていた。ある日、結婚式の仲人をしてもらった元NHKの記者(当時、BK経済班キャップ)の息子さんの前田仁君がNHKの記者になってBKから応援に来ていたことを知った。別れ際“これからも頑張って!”と声をかけ、“はい”と返事と笑顔に頼もしく思った。それから10日ほどしたころだったか、大津市に住む妻から“「朝日」の夕刊を見てごらん
NHKの記者から転職して落語家になった前田仁君
”と支局に電話があった。何と彼が転職を決め、サスペンダー姿で腰にポケットベルをつけ、落語の高座に座っている写真がデカデカと載っていた。林家染丸師匠に弟子入りしたとあった。
 早速、わたしは彼に激励とポケットベルのいきさつ(ポケットベルをデスクに返上した記者のキャップがわたしの仲人)を手紙にしたためた。後日、その返事が届いた。彼は神戸大学落研出身で“今度の大震災で何人かの友達が亡くなり、その家族の悲しみがひとしおだと感じ、そうした突然の未曾有の出来事に打ちひしがれた方々に“笑い”を伝えようと転職に踏み切った”とその思いを綴っている。
 彼の芸名は林家竹丸。大阪ナンバの「ワッハ上方」や大阪天満の「繁盛亭」に出るなど芸を磨き、NHK朝のテレビ小説「あさが来た」にも出演し、いきいきした表情でお茶の間に登場していた。
 わたしは平成8年、25年ぶりにBKに戻り1年間、NHKの番組を評価する「考査室」に席をおいたのちテレビニュースの制作に就き、現在にいたっている。
―― 最終回にあたって ――
 12回にわたった「思い出を綴る」、万感の思いでペンを置くことにしました。
 市岡高校で学んだことが縁になってNHKに入り、半世紀にわたってニュースの仕事に携わってきました。
 政治・経済・社会・教育・宗教・スポーツ・文化芸術・医学・科学など、さまざまの分野で共通するのは、すべて人の営みです。ニュースは非情な表現をします。それは、物事の"事実”を客観的にとらえ、感情を交えないで伝えるためです。
 記者も人間です。平和を願い、人々の和合を願い、苦悩に陥った人の復活を願うものです。
 長い取材活動を通して、多くの方々から英知や激励をいただきました。そうしたことの"恩返し”という気持ちで放送を通じて"わかり易いニュース”を地域の方々に届けたいと思っています。
 最後になりましたが、今回のシリーズ執筆にあたりましては、同窓会代表幹事の酒井八郎君はじめ張志朗君の後押しとHP委員皆さまのお力添えをいただいたことに深く感謝いたします。また、つたない文章に目を通してくださった同窓生の方々に感謝申し上げるとともに、これからの人生をともに明るく、楽しく、エンジョイできることを願ってやみません。ありがとうございました。
2016年1月1日       石井 孝和

―― この時期の世の中の動き――
▽平成4年(1992年)
  • 7月  バルセロナ五輪競泳女子200で14歳の岩崎恭子選手優勝。女子マラソン有村裕子選手銀。
  • 10月 天皇皇后両陛下中国初訪問。"多大の苦難を与え”とお言葉。
▽平成5年(1993年)
  • 5月  サッカーJリーグ開幕
  • 7月  北海道南西沖マグニチュード7.8の大地震、奥尻島津波で壊滅的打撃。
▽平成6年(1994年)
  • 9月  大阪泉州沖人工島に関西空港開港。
▽平成7年(1995年)
  • 1月  阪神淡路大震災(淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3)神戸市などで観測史上初の震度7を記録。死者6434人、重軽傷者約1万人、被災家屋約64万棟にのぼった。
  • 3月  東京霞が関の地下鉄で5車両に猛毒のサリンがまかれ、13人が死亡、数千人が重軽傷。オーム真理教の犯行であった。
  • 4月  1ドル80円を割る。
  • 7月  ミヤンマーのアウン・サン・スーチー氏 軍事政権による自宅軟禁から解放。

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