12期の広場
12期の広場
2017年6月1日
山錦関とはどんな力士?ー豪栄道初Vで注目された鷺洲町出身力士ー
8組 末廣 訂
昨年の大相撲秋場所で大阪寝屋川市出身の大関・豪栄道が大阪出身力士として86年ぶりに優勝した。大阪人にとって久しぶりの快挙である。
さて、新聞やTVでは大阪府出身力士では昭和5年5月に優勝した山錦以来86年ぶり、とあるものの、山錦関が具体的にどこの生れで、学校や相撲部屋がどこだったのか等々一切情報が載っていない。
山錦関の記念碑があるのをご存知でしょうか。
大正14年に発行された1846頁もの分厚い「鷺洲町史」の1795頁一面に「本町(鷺洲町)が生める角界の寵児 山錦善次郎君」というタイトルで記事があり、詳しく山錦関について記載されている。
明治31年、当時の鷺洲町北浦江(現北区大淀)の山田浅吉氏の長男に生まれ、鷺洲小学校、第二盈進小学校高等科、そして当時の関大専門部商業予科、本科に進学、大正6年東京角力協会・出羽海部屋に入門、12年に入幕した。
身長5尺7寸(188cm),体重27貫5百(103kg)という少しやせ形の力士。得意手は押手であった。最終は当時の関脇まで昇進した。 只、鷺洲町史は大正14年に発行のため、昭和5年5月場所の優勝の記事はない。
山錦の化粧まわしが浦江八坂神社にあったが、昭和20年6月7日の戦災で焼けた。
記念碑は現在の大阪市北区大淀南にある「素戔嗚尊神社」(浦江八坂神社)に「小結・山錦善治郎」、「大日本相撲協会」と刻して、本殿前左右対の大きなくすのきを囲む玉垣(下の写真)として残されている。
この地、北区大淀地区は北区に合区されるまでは「大阪市大淀区」であった。またその昔、大阪市に編入されるまではこの一帯は鷺洲町と呼ばれ、海老江、浦江(現鷺洲)、大仁、塚本(現淀川区)が一つの町であった。
現在の淀川区塚本や西淀川区花川(旧海老江新家)が明治40年頃の淀川の開削により分断され、北浦江や大仁地区は福島区と大淀区に分かれてしまった歴史がある。
「鷺洲町史」は大正14年に鷺洲町が大阪市西淀川区に編入されたのを記念に発行された大変貴重な町史である。
なお、同神社内にある「王仁」神社横に明治45年頃まであったといわれる王仁の石棺が無くなっており、現在追及中も不明である。
豪栄道が初優勝し、山錦以来86年ぶりという快挙で、このようなことがなかったら、山錦の名前も出なかったことと、歴史の面白みの一端を紹介した。
なお、この記事を鷺洲小学校の校長先生にお渡ししたところ、鷺洲小学校では丁度「鷺洲町史」を手元にいただいき、読み始めたところだったが、ここまで気が付かなかったとお礼の電話をいただいた。また、末廣さんは何故この記事があることを知っていたのですかとの質問があり、私は「4年ほど前に、鷺洲女性会の方に旧浦江の歴史とまち案内をした時にこの山錦の記事を説明した」ので思い出したと話した。
鷺洲小学校ではその後、「学校通信10月号」に鷺洲のお宝「鷺洲町史」と山錦関(昭和5年5月場所優勝!)というタイトルで大きく載せ、鷺洲小学校の出身力士であり、鷺洲町史に記載されていることの喜びを報じている。
実はこれらの情報を産経新聞に送っていたが、11月末になって、産経新聞の嶋田記者から山錦関の取材をしたいと電話があり一緒に取材した。
翌九州場所で豪栄道が6敗をしてしまい、何かニュースの価値が落ちたかなーと思っていた矢先であったが、浦江の八坂神社や山錦関の親戚、関大のOB等関係者とお会いし、また昔の北浦江や大仁村の話を聞くことができ、大変貴重な経験をした。
その時に判明したことを記しておく。
- 山錦は兄弟が多い(5人) 父親は山田浅吉(八百屋)で体格のよい人であった。 母親は黒田了一元大阪府知事の母親と姉妹である。
- 山錦の化粧まわしが浦江八坂神社にあったが、20年6月7日の戦災で焼けた。刺繍されたまわしの金箔がそのまま残っていた。
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浦江八坂神社にある「小結 山錦善次郎」などの玉垣は、昭和13年に本人がくすのきと共に奉納した。
- 現役時代は押しの一手で鼻の骨を折ったことがある。たいへんまじめな性格の相撲取りであった。
- 昭和7年、天龍関らと一緒に相撲取りの待遇改善を求め、決起した。(会場の名前を取って春秋園事件といわれる)翌年、大日本相撲協会を脱退して関西角力協会を立ち上げた。一時は人気を博したが、昭和12年に解散し、山錦は引退した。
- 引退後は旅館「山錦」を開業。初めは大正駅の北側で、二度目は土佐堀の常安橋付近で。その後廃業した。
- 二人の娘さんは現在福島区と西区のマンションにお住まい。山錦時代、大学での相撲取りが少なかったので、昭和47年五月場所で輪島関(日大)が優勝した時、病床ではあったが、涙を流して喜んでいた、と娘さんの話。
- 昭和47年に死亡した山錦の墓は服部緑地公園内の大阪市墓地にある。
年末12月26日の産経新聞の夕刊に大きく「山錦・波瀾万丈の人生」というタイトルで取り上げられた。
2人の娘さんが話す父親山錦関の思い出話が中心の記事であった。特に山錦が相撲協会から手を引く複雑な思いや、同じ学生出身の輪島が初優勝した昭和47年に息を引き取った時の話が印象に残った記事でした。私として少し残念であったのは、地元の歴史研究会として、山錦の出身地を大阪市北区だけではもの足らず、せめて(旧大淀区北浦江出身)を入れてほしかったと嶋田記者にメールした。
正月3日に嶋田記者より、取材のお礼と新聞記者の立場から旧町名や区の表示をすればその説明が必要になって、取材の本筋から離れてしまうので、大変申し訳なくーと、返事をいただいた。
記者と同行して取材した経験は「松下幸之助創業の記念碑」以来である。
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初めて投稿致します。
私は山田善次郎の実弟、信治の孫にあたります山田理津子と申します。
善次郎さんは私が3歳の時に他界したため法事の記憶しかありませんが
子どもの頃から「山錦のおじちゃん」と親しみを込めて呼んでおりました。
福島区野田にあった祖父信治宅には相撲関係の品が多々あり、春秋園事件の際の血判書もあった様です。現在はおそらく既に他界しております伯父の一夫宅にあると思われます。
私の自宅には「山錦のおじちゃん」の遺品として旅館山錦で使用していた
食器類が多々あります。
そのような事もあり、この度遅ればせながらこちらの記事を拝読し
懐かしさと私の全く知らない情報とで嬉しく思い、コメントさせていただきました。
私の父博は3年前に他界しておりますので、唯一残された父の弟に早速こちらのHPを
知らせたいと思います。
ありがとうございました。
山田さま、ご投稿ありがとうございます。私は「12期の広場」のHP委員の一人です。「広場」を開設して満10年ですが、4年前の記事についてのご投稿、それも山錦関の身内の方の投稿という事で大層嬉しく思っています。手前味噌で恐縮ですが、続けていることの意義みたいなものも感じています。筆者は福島歴史研究会の会長をしている末廣訂さんです。彼と電話で話をしたところ、近いうちにこの欄にコメントを書き込みたいと申していました。今後ともよろしくお願いいたします。
張様
コメントいただき恐縮しております。
現在私は遠方に居住しおり、コロナ禍とのこともあり帰省できていない状態が続いております。状況が落ち着き、帰省できた暁には浦江八坂神社にも訪問してみたい
と思っております。
本当にありがとうございました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。