12期の広場

12期の広場

「12期の広場」2月号のラインアップ

桜の木も雪で真白です。
 2月、如月です。最近の口癖が「おおっ寒い!」。外出から帰った時は勿論、暖房の効いた部屋を出る時も入る時もこの言葉が口をついて出てきます。ちじこまって身の丈までが小さくなりそうです。
 大寒を前後して寒波におおわれた関西でも今年の冬の寒さは、ことのほかきびしいものになりました。雪も良く降り、そして積ります。庭の水仙と蝋梅の蕾が寒さにふるえているようです。なんと5cmほどのつららができ、玄関アプローチの枕木までもが霜柱でうきあがる始末です。
 暦は立春が目の前ですが、春はまだ雪のなか、厳冬まっただ中です。
 
 先日、末廣君からお誘いがあって、伊丹市図書館であった「第2回浮世絵師―又兵衛まつり」の講演会に一緒に行ってきました。演題は「生き延びた村重の子孫たち」で、講演者は有岡城(兵庫県伊丹市)城主であった荒木村重の子孫にあたる荒木幹雄氏(山梨県在住。塩山市民病院皮膚科医長)でした。伊丹市は一昨年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」の重要な舞台でもあり、個人的には20年間ほど生活した所。大河ドラマの「黒田官兵衛、有岡城幽閉の段」への関心も重なっての講演会参加でしたが、内容は期待にたがわぬ、興味深いものでした。
 まず、講演をされた荒木幹雄氏の古文書調査や現地踏査が真摯で細やか、ねばり強いものであることに感嘆しました。その詳細は割愛しますが、それらを通して「黒田官兵衛は、小寺政職(こでらまさもと)に本来殺害されるところ、有岡城に幽閉されることによって荒木村重に命を助けられ、黒田官兵衛とその子孫の黒田藩主は、代々、荒木村重に感謝をしていた」とする説を主張するに至ったとの話に驚きました。荒木氏は具体的にその多くの根拠を示されましたが、その中でも、黒田家が村重の子孫を家臣にし、その多くを黒田領内(黒田藩と秋月藩)で保護していたとの複数の古文書説明は、説得力十分。もともと、大河ドラマでの官兵衛の有岡城行きと1年にも及ぶ地下牢への入牢、そこからの生還の描き方に釈然としていなかっただけに、そうであったのかもしれないと、この説が腑に落ちました。そのほかにも丹念に拾い上げた古文書調査を通して、広く知られている「通説」を覆す解釈をいくつか聞くことができました。
 世の常として「歴史」の多くが「勝者の歴史観」によるものであるだけに、取り残された多くの古文書や埋もれた「歴史資料」から立ち上がってくる「新」史実は、実に人間くさく、魅力的、今日的であると再認識することができました。また会場には末廣君(大阪福島区歴史研究会事務局長)は勿論のこと、歴史を愛好し研究しておられる多く同年輩の方々が居られましたが、それを目の当たりにしては、意義あることをするわけでもなく、漫然と過ごす時間が多い自身の来し方を、反省することしきりでした。
 
 さてわが「12期の広場」2月号のラインアップは次の通りです。中断していた東京市岡12期会の皆さんの第3回目の「川歩き」が再開されました。お楽しみ下さい。
 
 1.「 川歩き再開 」          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3組  西條 軍蔵
 2.「 第8回市岡OB写真クラブ作品展 」
 3.「 2月の写真 二枚 」
以 上

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