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0年

「12期のひろば」2024春号のラインアップ

 4月卯月、春です。山も川も草木も、勿論空も春色にあふれ早々と鶯の声を聞きました。遅れていた桜も見事に咲きました。友からのSMSに「もう逢う事のできない友達のことを思い出しながら花見をする」とあり、年年歳歳、花によせる想いは実にさまざまと、この短文が心に沁みます。
 先日、仕事を通じて知り合い、50数年お付き合いさせてもらった友人をなくしました。二つ年上の師匠格、得難い友人です。さだめと言えばそれまでですが、半世紀の長い時間とその折々にめぐり合った方々との記憶も重なり、“私の時代も終わるのか”と思ってしまいます。同時に、別れに向き合い、老いに向き合うことが日常になった今にあっても、その段になるとまた狼狽えてしまいます。
 
 そんな中、同級生の酒井政子さんが、NHKラジオ体操一級指導員になったと聞きました。ラジオ体操にそんな資格があったことを初めて知り、また一級指導員の資格があるとラジオ体操を主導できると聞き一寸驚きです。雨の日も、風の日も、一日も欠かさず、早朝4時半に起床、大阪城公園まで30分かけて歩いて行き、300人を前に“指揮台”に登って掛け声を掛けているそうです。昔から“元気印”は彼女の持ち前ですが、その来し方の一端を知るだけに、思わず「人生の達人」ではと言ってしまいました。“なんでもやってみたいから”と若々しい声で彼女は笑うだけです。
 
 さて今号のラインアップです。コロナの5類移行がありましたけれども、集まることへの抵抗があるのか、豚汁会も、舞洲のお花見も中止。そんなこともあり、『掲示板』の記事はありません。また『ひろばリバイバル』は人恋しい季節にあわせて、3組の高橋要君が投稿してくれた「日曜日の尋ねびと」(2012年12月号掲載)にしました。お楽しみください。
 
  1. 巻頭コラム
    「終活?・奥神鍋にスキー」 8組 榎本 進明
  2. “ひろばリバイバル”
    「日曜日の尋ねびと」 
    (2012年12月号から)
    3組 高橋 要
以 上

巻頭コラム

終活?・奥神鍋にスキー

8組 榎本 進明
 2月13日横浜を出発して奥神鍋に向かいました。
天気は良く途中の富士山は今までになく素晴らしくきれいでした。
 京都で山陰線に乗り換えて、福知山で大阪からの列車に再び乗り換えて江原駅に。そしてバスで山田に到着しました。
 バス停からすぐの「ニューみちや」が今日の宿です。荷物を置き早速レンタルスキーを借りてゲレンデに。リフトを2本乗り継ぎさっそうと滑降する・・・というイメージでしたが、1本目のリフトを降りたとたんにスッテンコロリン。20年ぶりとは言え、「こんなはずではなかった」と頭の中は真っ白。起き上がるにも滑って起き上がれない。まるで初心者と同じ格好でショックをうけました。
 リフトのおじさんも切符を買うのにもたついていると「いいですよ」と言ってタダで乗せてくれました。2本とも。よほど爺サマに見えたのでしょうね。
 もう何時間も滑ったかのように疲れたので、そのままスキーを返却して宿に戻りました。泊り客は一人だったので大浴場にはお湯はなし。近くの温泉まで送ってくれて疲れを癒すことに。
 散々なスキーとなったが、やはり温泉が似合う自分を再発見。1時間ほどで迎えに来てくれました。
 宿に戻り、奥神鍋まで来た目的である「猪太郎いたろうさん」にお線香をあげることができました。
中学、高校、大学と永きにわたりお世話になりました。当時は民宿で、ご主人の名が猪太郎さんでした。最後に訪れたのが昭和39年の1月か2月でした。4月から大阪を離れて長野県に就職するので、これが最後だと思い一人で出かけたのでした。
 市岡の山岳部では、スキー合宿の時に興梠君がスキーの先端を折ってしまいました。部員全員で雪を掘ってその先端を探したのですが見つかりません。そして雪解けの頃に猪太郎さんが見つけてくれて興梠君に届けてくれました。当時は宅急便もなく、その親切に感謝したことも思い出です。
 今は、お孫さんが旧母屋は取り崩し、少し離れたところにロッジを経営しています。夕食は広い食堂で、ご主人とお手伝いに来た親戚の人と3人ですき焼きを囲みました。懐かしい話にお酒も美味しく時間の経つのを忘れてしまいました。
 翌14日も滑る予定でしたが、急遽、引き上げることにしました。ご主人が江原駅まで送ってくださったので、大阪までの特急に乗ることができました。そして、西宮名塩で途中下車。張君が迎えてくれました。
そのまま旧福知山線廃線跡を案内してくれました。約5キロの道は武庫川に沿って武田尾まで続いています。景観もさることながら、ズーッと話し通しでした。昨日は単独行で口数が少なかったので、楽しい散策でした。

武庫川がこんなに奇岩が多く急流であるとは思いもしなかったです。
 そして宝塚で夕食をごちそうになり、彼のご自宅で一泊させていただきました。大変お世話になり有難うございました。 
 
 そして、大阪では難関の“終活”がありました。和歌山県にある「墓じまい」です。頭が痛い相談となります。
弟と妹に了解を得る必要があるからです。遠くてお墓をお守りするのが困難になっています。でも、原則賛意を得たのでやれやれ。妹宅で泊り、翌16日に横浜に帰りました。
 しかし、終活はまだ残っています。満州時代からのお付き合いの方が富山に居ます。「早く行かないと」と思いながら、もう何十年もお会いしていません。書類等を捨てる終活は一人でもできますが、一言お礼を言いたい人に会うことの終活は春以降に行おうと思っています。

ひろばリバイバル

日曜日の尋ねびと

3組   髙橋 要

 久しぶりの同窓会でした。

 先生方がそれぞれにお元気そうで何よりでした。北村先生からはわたしも読書感想文を返していただき、思いがけないプレゼントにびっくりいたしました。先生の授業中は、申し訳ないことによく寝込んでしまっていて「僕の授業、フランス革命あたりでおもしろくなります」というお声も夢のなかに残ったようです。

 西田先生の訃報に接し、バレーボール部で3年間お世話になったさまざまな記憶が頭の中を駆け巡りました。また同期の部員であった池上昇君についで、林清矩君が亡くなったことも知りました。池上君の死を連絡してきた彼の電話口での声が鮮明に蘇ります。

 

 「12期の広場」のことを最近になって知りました。寄稿された文章を読むにつけて感慨もひとしお、とりわけ武田博君の「the あの頃―ジェーン台風の写真」(12年7月号)のインパクトは、60余年前の災害と時代の空気とでもいうべきものをいっきに目の前に手繰り寄せてくれました。当時西淀川区の姫島小学校3年生だった私も武田君と同じような体験をしたのです。

 
現在の香蓑小学校 正面

 わたしは小学校時代に3度転校をし、姫島小学校に続く4校目が同じ西淀川区の香蓑(かみの)小学校で卒業まで在籍しました。今もクラスの同窓会が続いて いるのですが、古稀を前にした先年の集まりのようすを拙い文に書きとめてみました。同窓会ってなんだろう、同窓ってなに?そんなことをとりとめもなく考え ていたような気がしています。うまくお伝えできればいいのですが。


「タカちゃん、挨拶は短めェにしてや!」
 

「では幹事として挨拶させてもらいます。お知らせにも書きましたように、私たちも古稀を迎える歳に近づき、今回が初めてやったんですが、1泊でゆっくりしてもらおういう企画を立てましたところ、こんなに参加してもろて、幹事として喜んでます」

 しっかり者の多賀子が話し始めるとすぐに「タカちゃん、堅苦しい挨拶は短めェにしてや」と田中の声がとびました。

 タカちゃんはそんな声を無視して続けます。

「今日は敬老の日やのに早い時間から、それもこのあいにくのお天気のなかを京都まで出てきてもろた、千葉の加藤さん、高知の林さん、お疲れさんでした。また、この旅館の予約に便宜を図ってくれた横浜の伊藤さん、ありがとう。開宴に先立ちまして昨年お亡くなりになった担任の北尾先生のご冥福を祈って、みんなで黙祷をささげたいと思います」

 香蓑小学校6年4組の3年ぶりの同窓会が始まりました。聖護院に近い宿に集まったのは22名、京都在住はわたしひとりで、多くは大阪と兵庫です。

 撮影係の斉藤が着席したところで乾杯。かしこまった雰囲気はいっさいなくて、座はいっきに盛り上がるのですが、それには訳があります。わたし自身は4校目の小学校として4年生で転校してきたのですが、この学年は入学から卒業までの6年間、担任は変わってもクラス替えがなかったのです。そのことを知ったのは卒業後30年以上過ぎてからでしたが、親どおしの付き合いも親密だったのは、そのせいでもあったのでしょう。

 

 順に立ち上がってそれぞれの近況報告が始まりました。

 本屋の中田は2つあった店の1つをたたみ、大手の鉄工所で営業部長だった斉藤は、会社の倒産後、タクシー運転手などを経て今も建築現場の監督のようです。失業、リストラ、転職そして病気療養と、男たちの近況は明るい話ばかりではないのですが、不景気な話題を取り上げてしゃべっても、彼らはその場を盛り上げてしまいます。

 隣にいる木村の番になりました。同窓会に初参加らしい彼は、突き出た腹をゆさぶりながら、吠えるように挨拶を始めます。

「みなさん、お久しぶりです。後悔と反省ばかりの長い歳月を過ごしてきた木村です」

いくらか事情を知っている者の間から笑いが起きます。

「結婚5年で離婚し、子供もあっちへ行ってしまい・・」

「そら、奥さんに先見の明があったんや!」と田中の大声。

「・・その後、付き合うた4人目の女とも3年前に別れました」

「逃げられたと正確に言わんかい!」これは北村。

「・・今はエレベーターのメンテナンス業に首を突っ込んでいますが、不眠症と高血圧に加え、ここんとこ痛風が出て食事にも気ぃつかう情けないことになってます」

「おまえ、どない気ぃつこうてんのか知らんけど、その体重、はよなんとかせんとしまいにころっといてまうでぇ」森河のツッコミ。

「いや、これでも努力して4キロ減らしたとこやで。さっきかて、隣のカナメにおれの御膳のサイコロステーキ、みなやったとこやで。嬉しそうに食うとったわな」

 

 こんな調子の「近況報告」が一巡するのを待ちかねるように、カラオケのマイクを握ってスタンバイしているのが森下で、今も生まれ育った町で小さな会社を経営しています。その彼が、だしぬけにカラオケ大会の開会宣言をしました。

「ではみなさん、この辺でカラオケ大会と参りましょう」

「こらあ森下ァー、お前の歌、2曲までは許したるけど、3曲目歌うたら承知せんぞォ」と野原。

「だいたいお前の演歌は長すぎるんじゃ。2番まででやめとけよォ」これは中井。

 20年のアメリカ暮らしから数年前に帰国した篠田がマイクを持った時もいっこうに静かにはなりません。

「篠田ぁー、英語の歌なんか歌うなよォ、分かりやすい歌にしとけェ―」

「ではリクエストに応えて、ビートルズナンバーから1曲」

「アホかぁオマエ、なに聞いとんねん!」

 ヤジを飛ばしながらも手拍子を打ち、ともに歌って騒然としては来るのですが、座には不思議な調和が保たれています。

 

 広間での宴会が3時間半を経過したところで、仲居さんに追い立てられるようにして2次会の部屋に移りました。さすがに少し疲れが出始めたか、先ほどのような騒ぎにはなりません。

 壁にもたれて足を伸ばした原が、水割りを飲み続ける馬込順二に

「ジュンさん、手元の名簿に載ってるのは40人やけど、クラスは何人やったん?」

「50人くらいちゃうか・・おーいタカちゃん、わしらのクラスはみんなで何人やったん?」

「54人のはずやけど・・」と浅原。

 では、所在の分からない14人は誰やろうと指を折ってみるのですが、思い出せるのは8人まで。そのなかのひとり、悦子は卒業と同時に引っ越してそれっきりです。成績がよく、際立つかわいい顔で、はきはき発言したというのが共通した印象のようです。

「急におらんようになったなあ。なんでやったんやろ」と野田。

「さあ・・知らんなあ」とそっけないタカちゃん。悦子の父親が何かまずいことをやらかしたため、一家は夜逃げ同然に姿をくらましたというのが当時の噂だったはずです。

「熊谷啓ちゃんはみんなも憶えてるやろ」と、美代子が話を振りました。とびぬけて絵がうまく、父親が映画館の看板描きで彼もそのあとを継ぎたいということでした。

 学校の裏門前の空き地に建つ、小屋のような家に住んでいた恵子が飲んでいたヤギの乳のこと、病気がちだった克平の名前などがあがったものの話は途切れがちになり、夜更けの急な雨音が耳を打つなかで「みんなはいま、どこで、どうしている・・」と、尋ねびとをする気分だけが残りました。

 


「焼けた鉄と塗料の臭いの中で・・」

 

 夜が明けて日曜日、青空が広がっています。昨夜の雨に打たれて庭にこぼれているのは萩の花です。

 朝食のあと都合で帰るわたしは、定期観光バスに乗るみんなより早く宿を出ました。きょうも暑くなりそうな日差しのなかを、西に向かって丸太町通りを歩いていた時のこと、昨夜はどうしても思い出せなかった男の名前がいきなり浮かんだのです。

 金村隆一。彼はクラスのガキ大将でもなければ、格別の腕力を持っていたわけでもないのですが、言うこともすることも荒っぽくて、ときどきの感情をむき出しにする彼が、わたしは苦手でした。あるとき、何が原因だったのでしょうか、道に落ちていた馬の糞をつかんで何かを叫ぶ彼に、わたしはどこまでも追いかけられたことがありました。

 

 大阪市立香蓑小学校は、大阪府と兵庫県とを区切るように流れる神崎川沿いにありました。阪神工業地帯のどまんなかに位置する労働者の町で、のちに西淀川公害訴訟で知られる地域ですが、当時は公害という言葉もありませんでした。零細企業が寄り集まった街の通りには、朝から晩まで鉄を打ち、削り、切断するカン高い音が漏れ、焼けた鉄や塗料の臭いが流れていました。
 

 ある放課後、年配の担任がプリントを配って保護者に渡すよう言ったあと、「君たちのなかでまだ給食をとらずに弁当を持ってくる人がいるが・・」と話し始めました。そして学校の給食が栄養的にどれほど優れているかを説明したあと、給食代が安いことを強調しながら「1日の給食代はご飯と卵1個分なんだよ」とにこやかに言ったのです。卵が今ほど安い時代ではなく、卵1個がまるまる入っている弁当などわたしは見たこともありませんでした。みんなは黙ってその話を聞いていました。

 弁当でも給食でもなく家に食事に帰る者もいましたから、隆一も昼食は家でするのだとわたしたちは思っていました。ところがある日、鋼材置き場になっている雑草の茂った広い空き地で所在なげにしている隆一と克平の姿を、たまたま上がった屋上からわたしは見たのです。二人はそこで時間をつぶしていたのです。その頃のわたしの弁当は、コッペパンと小さなマーガリンだけという日が続いていました。

 

 日差しが高くなって、次第に焼けてくるアスファルトの道を歩きながら、あの隆一は今どこで何をしているのだろうと昨夜と同じ気分に浸りそうになりつつ、しかしわたしは別の思いにも捉えられていました。

 所在のわからない男の子、女の子がいまどこで何をしているのだろう、そんなことがもし分かってみたところでそれが何ほどのことだろう。幼くて、貧しくて、傷つきやすかったり、強かったり、辛いことやうれしいことや、そしてたくさんの分からないことや知らないことどもを、それぞれがいっぱい抱えていたあのころを、肉親ともまた違ったところで、わたしたちだけの空気が流れていたあのころをいまも54人が共有している、それでいいのではないだろうか。

 丸太町通りはしだいに車の往来が増してきました。「おーい、おまえはいま・・」と呼びかけるべき尋ねびとは、汗をかきかき歩いているわが身の内にあることにそのとき思いあたったのでした。 

【12期の広場】バックナンバー一覧

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(さらに…)

「12期の広場」2024年新春号ラインアップ

 同窓生のみなさん、あけましておめでとうございます。
言い古してきた賀詞ですが、元日にかわす言葉としてこれにまさる言葉はないでしょう。行く年を送り、新しい年2024年を迎えての感慨は決して一様ではありませんが、人の“ならい”です。
 心新たにここから歩み始めたいと思います。
 
 添付した写真はお正月郷土料理 『越後のっぺ』で、「広場」2012年の1月号に佐々木康之君(長岡市在住)が投稿してくれたものです。曰く、「野菜のごった煮」とあり、素朴で清々しくておいしそうです。正月は、大晦日のまな板の音、立ち込める湯気、忙しく立ち回る母の姿と、うって変わっての元日の静かさと正月膳を思い出しますね。野菜の煮しめの有難みを痛感する昨今ですが、残念ながら正月膳は市販のお重セットが主流のようです。我が家も孫が楽しみにしているとそれを買い求めました。そしてそれが正月膳の主役です。昨年末、市販のお重セットのテレビ、通販、新聞ちらしなどの宣伝の多かったこと。3~4人前で価格も上は10万円近くで驚くばかり。いわゆる「富裕層」をあてにした商のように思えてしまいますね。
 年を取り今や“立派な”老人、更に“一言居士”にあっては、「富裕層」、「優勝劣敗」、などの言葉が行きかい、それが普通になり、暮らしに忍び込んでいるのではと思いながらの正月です。
 付け加えますと『のっぺ汁』は雪深い地方食とばかり思っていましたが、大阪にもあるようです。やはり根菜が主で名前は『のっぺい汁』と異なりますが、河内の方で稲の刈り取り時の昼食に食べたとの新聞コラムがあり、ちょっと驚きました。
 
 昨年11月頃から喪中はがきが届きました。秋号でふれた以外で言えば、原清明君(4組)、三上正義君(5組)、須藤憲司君(7組)、山田正敏君(8組)の訃報です。原君は同窓会の会計として支え得て頂き、三上君には50歳を越えてテニスの手ほどきを受け、須藤君には近くに住むスポーツマンとして親しくお付き合いいただきました。特に市岡東京12期会設立時のメンバーであった山田君には公私ともにお世話になりました。皆さんとの思い出は尽きません。
 慎んでご冥福をお祈り申し上げるとともに、お知らせいたします。
 
 さて「12期の広場」2024年新春号のラインアップは以下の通りです。
「ひろばリバイバル」は山田正敏君の「趣味のギャラリー」にしました。お読みください。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「質実剛健の殻を破る」 7組 上山 憲一
  2. 掲示板
    ・『「小出楢重と大・大阪時代」(その2) の講演会に参加して』 7組 上野 裕通
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「趣味のギャラリー 陶芸について(1)」 
    (2016年4月号から)
    8組 山田 正敏
以 上

巻頭コラム

質実剛健の殻を破る

8組  上山 憲一 
 
 ウクライナへのロシアの侵攻に加えて、昨年の2023年秋にイスラエル・パレスチナ紛争が突然起こった。特にイスラエル・パレスチナ紛争では、ユダヤ人を中心としたイスラエルのテクノロジーの発展が最近著しく進み、兵器、農業技術のイスラエルによる世界シェアが地球温暖化と共に増大し、周りの人たちの自由度を制限し続けていく。
 イスラエルは、もちろん米国の強力な援助を受けているが、日本を含め世界の他の国が太刀打ちできないほど早い展開でテクノロジーのイノベーションを行っている。私の米国留学時代と、その後のユダヤ人との共同研究や、彼らとの研究上の競争を通して、独特の情報獲得の習慣と歴史の中で堅持してきた発想法の知恵を垣間見てきたので、彼らが何故将来もテクノロジーを牽引していくと感じているのかをこのコラムで紹介したい。
 私自身は1970年の秋に博士号を収得したが日本では職に就けず、米国のブルックリン工科大学にポスドク職を見つけ、ユダヤ人のマリー・グッドマン教授の下でポリマー合成の研究を行うためにその年の暮れに渡米した。米国の中では歴史の古いブルックリン地区は市岡高校旧校区と同様に大都市の一角に位置し、その昔活発なベンチャー企業が生まれた地区であったという点でも同じであり、私自身ブルックリンの町の雰囲気に馴染むのは早かった。研究室には3人のイスラエルからのユダヤ人ポスドクが働いていて、そのうち2人は世俗的ユダヤ教信奉者で、少年時代に受けてきた教育と家庭の戒律「タルムード」による躾の話をよく聞かされた。彼らの話にでてくる躾は、市岡高等学校の校則の「質実剛健」そのものと同じで、内容が曖昧な点もよく似ている。付き合っていくと彼らは時々戒律を臨機応変に破り、神を信じているが自己の経験で信じる神も変化していくという点でも、仏教を信じる私とよく似ていると思った。「質実剛健」の曖昧さもこれに縛られる個人が殻を破り易い校則になっているのだとその時初めて気が付いた。この2人は、私の知る他の多くのユダヤ人と同様、後にベンチャー企業を立ち上げ、結局それぞれに大成功を収めている。
 この大学の2人の卒業生が近くのユダヤ街で操業していたベンチャー企業ファイザー社に 勤め、第二次大戦中、苦心の末にペニシリンの大量合成に成功し、世界の製造を独占した有名な話を聞いている。また、私がいた1970年にも、大学の中の隣の研究室で教授が急死する不幸があり、ユダヤ人のポスドク仲間がその研究室の研究課題そのままを目的にしてベンチャー企業のアルザ社をサンフランシスコで起こし、我々の研究室のポスドクも何人かこれに加わり、その中に先ほどのユダヤ人ポスドクもいた。その後この企業は見る見るうちに大企業に成長し、今はジョンソンエンドジョンソン社に吸収されるなどの経過を身近で見てきた。彼らの成功の秘訣は複数の世界トップ研究者から継続的に高額の講演料を払い質疑応答で先端情報を集めることにあった。また私達の研究室でも上司のグッドマン教授は、ミーティングで討論が行き詰まり中断すると全米の著名なユダヤ人教授に直接電話で相談し、これにより驚くほどのスピードで研究を進めているのを見てきた。その他の例として、飛び級のユダヤ人高校生が夏季に大学院の研究実験単位を取る目的で研究室に
1970年代・ブルックリンのユダヤ人街から見たマンハッタンの夜景
配属されると、単純な実験でも質問があると参考書の著者に電話して答えを貰っているのを見て驚いた。若いうちから直接見も知らないユダヤ人の高名な先生から情報を得ることが許されるルールになっているらしいことをその時に知った。最高の情報を選ぶことにより、最高の知識として記憶し、最高の知恵を生み出す方法として使っている。日本の研究者はこの方法をとることは苦手で、新しい知恵は自身の直接の研究と出版された論文から得る傾向にある。
 ブルックリン工科大学の私達の実験室の真向かいの部屋がたまたま「米国の高分子の父」と呼ばれ、ナチスから逃れてウイーンからスイスへ家族共々脱出する時に、全財産を白金線に変えてレースで覆ったハンガーに服を掛けてスキー客姿で突破したという米国でも有名な逸話をもつ伝説の研究者であるハーマン・マーク教授の部屋だった。部屋の奥の壁一面が細かく仕切られた200個程の書棚になっており、所々に学術雑誌から切り取った論文冊子が入れてあった。その棚を、秘書と言ってもこの人も教授であるが、個々の棚の冊子が増える速度を観察していて、急激に増加して立ち上る瞬間を見つけたならマーク先生に連絡し、マーク先生はこの棚の数個の冊子の塊を一晩で読み、翌日には総説にまとめていた。その総説を一冊500ドルで全米の企業研究者(日本の企業も数社含む)が買いに来ていた。日本のニューヨーク駐在の企業研究者たちは、マーク先生の予想はよく当たるので日本への連絡は欠かせないという話であった。この総説の凄いところは近い将来ブームになることを予想し、豊富な知識と鋭い感性を基にして新規のキーワードを考え出していることにある。私の知るそれまでの総説は、ブームのピークを過ぎたものをまとめて紹介するものばかりで、中心となるキーワードもそれとなく現れたものであった。
 当時、日本が研究でも米国に追いつく勢いであったが、優れた日本の研究のほとんどすべての源泉が日本以外の国にあるという米国の報告書が出たために、日本の多くの大学・企業の研究者は独創的な発想能力を高めるためにKJ法や水平思考法などの訓練を行うなど苦労している時代であった。
 マークの書棚は古代アレキサンドリアの図書館でパピルスの巻物を保存する棚と同じで、
Herman H Mark先生がブルックリン工科大学に
高分子研究所を設立した時期の写真
ギリシャ時代からイスラムの文化圏を経てウイーン、ブルックリンに、常にユダヤ人の間で受け継がれていたことは想像できる。私がその当時マーク先生の好意で読ませてもらったのは「ソーラーヨット」の名の総説で、宇宙旅行のヨットの帆の材質についてであったが、このアイディアは2010年に太陽光子圧ソーラセイル推進装置をもつ惑星間航行宇宙機「イカロス」がJAXAによって打ち上げられたとき、耐熱性ポリイミドの推進帆で日本が初めて実現している。つまり、このアイディアは公の論文に出てこなかったもので、40年の間、一部研究担当者の頭の中に入っていたものであろう。 新しいアイディアは一寸先にあっても簡単に思いつくものでないが、このように我々の知らなかった一歩先を行くリテラシーの方法を受継いで、新規の領域を予想していることを知った。前述のユダヤ人研究者同志がもつ独特の情報交換網を生かして最速のスピードで研究を進めるという方法をも加えると、日本の研究者がなかなかついていけない側面をもつ。これらに対抗するために日本では情報処理の新しいアルゴリズムの開発が待たれる。
 とは言っても、ポスドク仲間であったユダヤ人が揃って信奉していた「タルムード」は、隣人であるパレスチナ人を破滅させることを教えてはいないと思う。また戒律を彼らは厳しく守るより、有効に破ることによって我々との社会生活や研究生活の国際交流の質を向上させてきていることも見てきた。「質実」をモットーにしながらいつの間にかある程度裕福になっているなどは彼らの「タルムード」の教えの真骨頂であるが、ユダヤ人の起業家が深く関与してきたGAFAMの大部分が常に世界制覇を狙っているような印象を与えているのが気になる。

掲示板

「小出楢重と大・大阪時代」(その2)の講演会に参加して

7組 上野裕通
 
 令和5年11月26日(日)此花区民センター「一休ホール」4階会議室で「小出楢重と大・大阪時代」(その2)の講演会がありました。講師は同級生の画家である圓尾博一君(3年6組)で、令和4年に続いての二回目です。同級生の参加者は、松田修藏君(6組)と伊東慎一郎君(7組)と私の3名でしたが、此花歴史研究会の例会でもあり、盛況でした。
 明治20年(1887年)生まれの小出楢重は昭和6年(1931年)、43歳で亡くなります。その生涯について、圓尾君は、当時の世界情勢、小出楢重と日本の画家、文学者との交流、フランスでの貴重な経験等について詳しく調べられ、分かりやすく話されました。
 小出楢重は、明治33年(1900年)第1期生として市岡中学に入学、心疾患で1年間休学したため、卒業時は2期生と同じでした。そのお陰で小出楢重には、津田勝五郎ら2期生との交流はもちろんのこと、1期生の信時潔、石浜純太郎、坂村養三、熊野徳義、中谷義一郎らとの交流もあり、友達に恵まれていました。後に、世に「裸婦の小出」と名声を博した小出楢重の市岡中学時代です。 画家は、人間とはいったい何なのかを追求する。そのために自画像を描く。また「なぜ、男は女性の裸像を描くのか。」それは、キリスト教の考え方からやギリシャ神話「パンドラの箱」を男性はあけてはいけないと言われていたのに開けてしまったということからきているという含蓄のある説明がありました。
 小出楢重はフランスに行ってから外国の画家から学ぶことも多く、影響を受けたようです。フランスから帰ってきてからは洋服姿になっています。今から100年前、1923年9月1日に関東大震災が発生しましたが、そのため、関東から多くの人が関西、大阪にやって来て、大・大阪時代が始まっています。岸田劉生が京都に来たこともあったそうです。
 谷崎潤一郎が「蓼喰う虫」を書き出した頃、挿絵を小出楢重が描き、潤一郎は、蓼喰う虫をすらすら書けたのは小出の挿絵のお陰だと言っていたとのエピソードもあったとか。
 1920年から1930年代は世界も戦争の危機感があり、画家は当局のいうことを聞かないと絵具や筆など手に入らなかったらしい。1937年、信時潔は日本放送協会からの委嘱により「海ゆかば」を作曲しています。天皇のためには命を惜しまず死んでいった時代の曲であり、第二国歌と言われていたようです。当時、芸術家はお上からの恩恵がなければ生きて行けなかった時代であったのでしょうね。
 しかし、小出楢重は生涯を通じて思い切り裸婦を描いて生き抜いたと締めくくられました。
 圓尾君の講演は具体的な場面を想像させながら聞き手に分りやすく話されるので、とても興味をもって聴き取ることができました。

ひろばリバイバル

『趣味のギャラリー』―「陶芸について (1)」

8組   山田 正敏
 
 昭和39年 大学卒業以来38年間、61歳でサラリーマン生活を卒業。その後の勤めについては一切考えず、生活については退職金、年金と僅かの蓄えで何とかなるだろう位の考えでいた。 問題は、仕事を離れた人生に於ける“暇”というものを、如何に潰し、残りの人生を楽しむかである。 就職するまで、高校、大学と懸命に励んだ「剣道」。その後40年近く止めていたが、その再開と「ゴルフ」、「海釣り」、「囲碁」、友人達との月1~2回の「飲み会」 等々、これで まあ何とか“暇”潰しは出来るだろうと考えていた。
平成15年頃の作品
タタラ作り長皿
 しかし、「剣道」は近くの剣友会に入会したものの、初日早々左足ふくらはぎ肉離れでダウン。2週間程度トレーニングを積んでの事であったがあまりの体力の衰えに愕然。そして再開を断念。「海釣り」は師匠としていつも同行させてもらっていた友人を交通事故で失い断念。
 結局 「囲碁」と 「飲み会」 だけで残り人生を楽しむには何となく寂しい気がしていた。
 「陶芸」 については小生なんら経験が無く、興味も無かったが、毎年、5月と11月に栃木県・益子市で「陶器市」が開催され、陶器の鑑賞を大いに趣味とする、我が女房殿のアッシーとして、50歳ぐらいから車の運転手を務め、ほとんど毎年のように年2回、陶器市に行くようになった。其処で、プロの作品を見たり、作陶の実演を見学したりする内、なんとなくやってみたい、又、自分にも出来るかもしれないと言う気になってきたのかもしれない。
平成17年頃の作品
タタラ作り花器φ24cm
 昭和50年、34歳で大阪から東京に転勤して以来、千葉県船橋市の夏見台団地という690戸の団地に住まいしているが、その東側に隣接して市の 「中央老人福祉センター」 がある。その「センター」には 書道・華道・水墨・詩吟・コーラス・カラオケ・茶道・日本舞踊・等々22のクラブがあり、その1つに陶芸クラブがある。そこに入会できる条件は船橋市民である事、4月1日付で満60歳以上である事の2点だけである。そこで平成14年4月入会。
 当時陶芸クラブの部員は104名だったと記憶している。
 この陶芸クラブに入って思ったことは、現在、小生の付き合いする仲間は、市岡の同期、大学土木科同期で関東に住まいする一部の仲間達、大学剣道部の仲間達であるが、おそらく、この陶芸クラブのメンバーが人生最後の仲間達になるであろうという事を感じている。
平成17年頃の作品
黄瀬戸釉皿φ23cm
 メンバーの年令は60歳~90歳前後、気の合う人、合わない人、耳の遠い人、足腰の不自由な人、月に何日も医者通いしている人、在籍中に亡くなる人、小生のこれからの人生が全て詰まっているような気がする。
 このクラブのシステムは未経験の新入会員は、1年間講師の指導のもと手びねりによる研修を受けることになっている。研修は、当時、月2回の金曜日であったが、やればやるほど面白く、やりかけの作品を自宅に持ち帰り、毎日毎日、女房殿があきれるほど、夜遅くまで土と格闘したものである。そして2年目以降は教室で、手びねりによる自主制作を先輩たちの指導を受けて、作陶する。
 当時、電動ロクロは3台しかなく、一部の先輩達が使う為、我々は手びねりのみの自主制作による作陶ではあったが、慣れてくると、益々のめり込み、他に用事が無い限り、センター作業室や自宅の一室を工房とし、のめり込んだ。
平成18年頃の作品
飛び鉋文茶碗
 さすがに女房殿も「電動ロクロ」を買うことを勧めてくれるようになる。金額は10万円を少し超えたが、センターで使用しているものと同じものを買い、益々の上達を確信していたが、これがなかなか思うようにいかない。
 先輩で上級者と思われる人の作陶を、一心不乱に見学させてもらったり、又、船橋の東武百貨店や東京三越百貨店で陶器市をやる時、たいがいプロによるロクロの実演がある。11時頃から昼食をはさんで1時から3時頃まで色々な作品の製作(水引きと言う)について、初めから終わるまで見学させてもらった事が、小生のロクロ上達にずいぶんと役に立ったと思っている。あまりに熱心に見学しているのでけっこう顔見知りになり、「何でも判らんことがあれば聞きなさい」と言って貰った時はさすがに嬉しくて、色々質問させて頂いた事を思い出す。
平成19年頃の作品  三島手茶碗
 見よう見まね、悪戦苦闘の毎日であったが、入会後8年、当時講師をしておられた先生が、高齢を理由で引退される事になって、その後任に部員の総意により、小生が選出され、福祉センター及び船橋市の同意を得て講師に就任。今年3月で満6年になる。技術的にはまだまだと自覚しているが、クラブ全員の技術アップの為、小生の益々の技術アップの為、精進し、もう一年講師を続け、後進に道を譲るつもりでいる。

「12期の広場」2023秋号のラインアップ

 夏号に「天候は乱れっぱなし」と書きましたが、中秋の名月を迎えてもなお、真夏日が続くこの暑さは一体何なんでしようね。例年ならば窓下にすだく虫の音を聞き、秋の夜長を楽しむ頃ですが、いまだにその気配がありません。ただただ、たけなわの秋本番を期待するばかりです。
(写真は曾爾高原のススキです。4組の古藤千代子さんが撮られたものをご提供頂きました。)

 8月4日、突然に4組の前川光永君の訃報が届きました。7日通夜、8日葬儀と、その告別式があり、酒井八郎、末廣訂、張志朗の3名が通夜に、葬儀は酒井八郎君のみ参加致しました。前川君と言えば、齢はとっても元気一杯の男、余りにも急な訃報で、言葉がありません。
 あらためて皆様にお知らせすると共に、故人のご冥福を心からお祈り申し上げます。合掌。
  
 今号の“ひろばリバイバル”は前川君を偲び、彼が2013年に投稿し、大好評であった「ミロのヴィーナスのポーズを考える」を再掲することにいたします。
 これを含めて秋号のラインアップは、以下の通りです。お楽しみください。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「盆踊り」 7組 張 志朗
  2. 掲示板
    ・「現況報告 最近の思い出」 6組 中柴 方通
    ・「第64回東京市岡会について」 8組 榎本 進明
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「ミロのヴィーナスのポーズを考える」
    (2013年7月1日号から)
    4組 前川 光永
以 上

巻頭コラム

盆 踊 り

7組 張 志朗
 今夏の酷い暑さには、ほとほと参りました。
 いつの頃からかははっきりしませんが、夏が大の苦手になっています。その度合いも齢を重ねる毎に激しくなり、今夏はいわゆる “命に危険な暑さ”を身に染むくらいに実感し、逃げ場のない部屋をいらいらと行ったりきたりし、“本当に夏を乗り切れるか”と真剣に考えたほどです。エアコンをつければ良いのですが、この冷風がまた苦手で、我ながらややこしい。年代物のせいか、温度設定をしても体が冷え切って、半袖シャツに短パンではとても辛抱ができません。部屋を出れば汗が吹き出し、熱風に息苦しくてしんどさはさらに募る始末。結局クーラーをつけたり、切ったり。首にタオルを巻いて、動かずじっと座ってテレビを見ることしかできませんでした。買ってきた大きな寒暖計のたった1°Cの上がり下がりに一喜一憂の日々がどれだけ多かったことか。老境にあるとは言え、その情けない姿にただ笑うしかありません。
 
 夏の暑さが変わる“潮目”はあるのかと、ふと考えます。そんな時に思い出すのが盆踊りです。小学校の頃だったと思いますが、早々に盆踊りから帰り、二階の窓際でぼんやり。遠くお囃子を聞きながら、頬を撫でる風に、ああ夏も終わりかと淋しい気持ちになったことを覚えています。
 
 コロナ禍が沈静化しているのか、5類相当への移行のせいか、日本各地の盆踊りが復活開催されたようです。テレビでも日本各地の有名な盆踊りが放映され、それを見ました。ここに書きますと、郡上八幡の郡上踊り、徳島の阿波踊り、秋田羽後町の西馬音内(にしもない)の盆踊り、越中八尾(やつお)のおわら風の盆などです。
 その内、現地で見たことがあるのは、風の盆だけで、それも、もう二十年ほど前になります。ひょんなことから、同窓生とその連れ合い数人で出かけました。きっかけはNHKの“ミッドナイトチャンネル”の「越中おわら風の盆」を偶然に見ての話しです。正確かどうか、一寸自信がありませんが、自裁した八尾在住の老舗商主の句「曳山や ひだの流れと 風の盆」、越中おわら節の「浮いたかひょうたん 軽るそに流る 行く先や知らねど あの身になりたや」に惹かれての富山市八尾行でした。
 名にし負う盆踊りでした。観光客でごった返す中、私たちはその雑踏が途切れた場所で、天満町の“町流し”が始まる所からに、出会いました。全くの偶然で幸運です。ゆったりとした胡弓と三味線、太鼓の地方(じかた)と越中おわら節は、心がふるえるほどの哀愁に満ちて、踊りは優美でたおやか。艶やかな女踊りといなせな男踊りに目を奪われました。
 その後、郡上踊りを見たいと思いながら果たせず、今日に到っていますが、先日のテレビで秋田羽後町の西馬音内の盆踊りを知り、驚きました。風の盆に通底する美しさと哀しさに鳥肌が立ちました。長くは書けませんので是非ネットで検索して見て下さい。
 西馬音内の盆踊りは途絶えたのが終戦の年のみで、700年も前から続けられてきたと言われています。やはり女性が編み笠をかぶり踊ります。また彦三頭巾と呼ばれる目出しがついた袋状の頭巾を被る踊り手が登場します。お囃子は笛、太鼓、鉦と多彩で、“音頭”と“かんけ”(亡者踊り)と、ゆったりとしたリズム。衣装は女性専用の“端縫”(はぬい→古い絹地のはぎれを縫い付けたもの)と男女兼用の藍染浴衣です。踊りはやはり優美、さらに言えば妖艶です。俯いた編み笠の後にのぞくうなじに、人の哀しさと靭さを見るようでゾクリとしました。
 “端縫”(写真の左)は独自のデザインをこらし、藍染浴衣(写真の右)は自ら染め上げる方がおられるそうです。古くから続く旧家で“端縫”を展示している場面がありましたが、代を継いでいくことのむつかしさに感じ入りながら、突然、はぎれを縫い付ける女性の姿が浮かんだのには我ながら驚きました。
 雪深い在所の連綿とつながる人々の営みが伝わります。また、生まれ、生き、死ぬを重ねての限りない物語に、想いが寄り添っていきます。先祖供養と豊年祈願、厳しい農作業からのつかのまの解放や娯楽と書けばそれまでですが、それを越えて多くの事を語りかけてくれるのが“私の盆踊り”のようです。
 軽快なリズムと満面の笑みの阿波踊りと、ゆったりと伏し目がちの西馬音内の盆踊りは、同じ編み笠をかぶりながらも、違いが際立ちます。双方ともに眩しすぎる“命の輝き”。弾けるように、いつくしむようにと感じてしまうのは、やはり私的な感傷が過ぎるせいでしょうか。
 
 涼しくなり人心地がついた今、あの酷い夏の暑さは烈日の夢かとおぼろになり、印象深いテレビ番組であったのに、タイトルさえあやふや。行ってみたいと思いながらも、きっと果たせずに終わることになるでしょう。
 くどくどとものを言い、いまだに覚悟も定まらないまま老いに向き合う。言ってみればごく普通の変わらない毎日が続いています。