お知らせ

0年

「12期の広場」2023新春号のラインアップ


 明けましておめでとうございます。今年も「12期の広場」を宜しくお願い申し上げます。
 
 「12期の広場」の内容を簡略化して初めての新春号です。上の年賀状は松田修蔵君(6組)が描いてくれました。暖かく嬉しい絵手紙です。また「巻頭コラム」として上野裕通君が「新年を迎えて」を書いてくれています。その中にあるように、たしかに幼い頃、お正月の男の子は、高下駄と黒足袋が多かったようです。弟と撮った写真がでてきました。晴れ着は黒足袋に高下駄の黒い学生服姿。小学校1年生の弟は長すぎる袖と裾を折り返し、そこだけが裏地の白の輪っかがはまったようになっていて笑えます。貧しい時代でしたが、キラキラとまぶしい正月写真です。
 あれから70余年、また新しい年がスタートするのですね。新春を寿ぎ、新年に思いをはせるのが、ならいでしょうが、どうも「めでたさも中くらゐなりおらが春」(小林一茶)が正直なところで、「新年の計」にいたっては心もとないかぎりです。
 とは言え、ささやかな迎春準備を終えてのお正月の設えや、家族そろっての正月膳と賀詞交換はやはり嬉しくもあり、目出度くもあります。ややこしく不安ばかりの世情とつのる老いに向き合いながら、月並みですが、気持ちあらたに健康に、この1年を過ごせればと願っています。
 
 同窓生の皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申しあげます。
 
 昨年の12月に同窓生のご家族から喪中はがきが届きました。1組の上原(大川)澄子さん、4組の藤田勝利君、6組の佐藤裕久君が永眠されました。ここに哀悼の誠を込めて、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
 上原さん、藤田君、佐藤君の皆さんは「12期の広場」に複数回投稿して頂いています。本来ならば故人を偲び、投稿文すべてを本号で掲載すべきところですが、紙幅の関係上、上原さんの2011年4月号の「市岡12期HPをみて」を、“ひろばリバイバル”として再掲いたします。
 藤田君と佐藤君の投稿文は、「12期バックナンバー一覧」から閲覧可能ですのでご覧ください。
藤田君の投稿
 
2015年5月号    「韓国語の入門コースを終えて」
佐藤君の投稿
 
2011年1月号    「米国アラバマ在住の友からのメール」
3月号    「めぐりあわせ?~仙台に住んで50年~」
4月号    「3.11東日本大震災体験の二伸」
7月号    「高田松原の“希望の一本松”」
9月号    「我が失敗と補欠人生:その後」
2012年10月号    「夏の思い出」

 さて「12期の広場」2023新春号のラインアップは以下の通りです。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「新年を迎えて」 7組 上野 裕通
  2. 掲示板
    ・『「小出楢重と大大阪時代」の此花
     歴史研究会例会に行ってきました』
    7組 張 志朗
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「市岡12期HPをみて」(2011年4月号から) 1組 上原(旧姓 大川)澄子
以 上

巻頭コラム

新年を迎えて

7組 上野裕通
 
 新年明けましておめでとうございます。
2022年夏
山形県・酒田駅にて

 1年が経つのは早いですね。80歳、傘寿になったこの1年間は、コロナ感染防止のための外出自粛要請もあり、自宅で過ごす単調な日々が多く、日が経つのが早く感じるのかもしれません。
 私は、早生まれで1月4日に満81歳の誕生日を迎えます。昔、小学生の頃、お正月になれば、新しい黒い足袋を履き、白い鼻緒の高下駄を履いて友達と遊びに出掛けました。野田恵比寿神社へ行くのが楽しみでした。神社に行くまでの通りに様々なお店が出ていて、色々と興味をそそられました。恵比寿神社へのお参りは、付録であったように思えます。
 元旦は、父親を中心に男兄弟3人の家族5人が座卓の前に正座し、父親の「おめでとうございます」の発声で味噌雑煮や赤飯を頂きました。煮しめは母の美味しい味、小さい頃は甘い醤油味の「ごまめ」とツルツルした舌ざわりの「こいも」が大好きでした。懐かしい思い出です。
 今年のわが家のお正月の膳は、すましのお雑煮、赤飯と取り寄せたお正月用の折箱です。子どもの頃と違って、座卓がテーブルに代わり椅子に全員座っています。私は、ここ4~5年、大晦日に、昔、母が炊いてくれた煮しめを自分で炊くようになりました。里芋、人参、蒟蒻、牛蒡、大根、蓮根、椎茸、きぬさや、厚揚げなど自分で調理し、味付けは母の味を思い出して工夫しています。娘家族がここ10年間、同居しているので、元旦は、娘家族4人と私ども夫婦の6人で、私の「おめでとう」の発声で祝います。私が炊いた「煮しめ」は、年々みんなよく食べるようになり、心ひそかに喜んでいます。
 新しい年を迎えて想うことの一つは、知り合いや友達のことです。私は今年も健康な体で元気に新年を迎えることができ感謝していますが、脊柱管狭窄症で外出する事を億劫がっていた小学生時代の友はどうしているだろうか。大学時代、三ノ宮界隈をよく飲み歩いた友が近頃アルコールは少ししか飲めなくなったと衰えを語っていた事を思い出したりしています。この友達は、頭の髪の毛が一本もなくなり、お坊さんのように様変わりしています。歳を重ねることにより、肉体的な変化もありましょうが、心の持ち方にも変化が現れますね。
 古稀を迎えるまでは、家事労働は言われたらするぐらいでしたが、最近は、進んでするようになりました。でも、まだ家内の「5分の1」位かな?
 仕事を辞めて家に終日いるようになってからは、自分にできることはないかと仕事を見つけ出し、毎日の日課にしています。庭の植木の水遣り、時々の草取りから始まり、今では、掃除機を使う事、洗濯物を取り入れてきちんとたたむ事、風呂洗いとお湯はりをする事などしています。永年、家内がしてきたんだなあと思うと、感謝の気持が更にもう仕事はないかと探させます。
 この年まで生きながらえてきたのも、父母のお陰であり、家族のお陰です。また近隣の皆様、職場で共に過ごした皆様との出会いがあったお陰です。60歳まで小学校教員として勤め、定年退職後は、大阪市教育振興公社に9年間勤め、69歳から75歳まで6年間、住まいする自治会の会長を務めました。
自治会活動では、子どもの頃、向う三軒両隣みんな仲良かったことを思い出し、人とのつながりを広め、深めることが大切だと考えました。そこで、ふれあいサロン、ひとり暮らし高齢者交流会などを立ち上げると共に、趣味の会として、ゴルフ同好会、カラオケ同好会などを立ち上げました。今では、それぞれの活動が自主運営され、人の輪が広がり、親密度が増していることに嬉しさを感じています。
 81歳からはまた新しい人生の始まりだと捉え、体の自由がきく間に色々なところに出かけようと思っています。友達に会いに行くもよし、素晴らしい景色を見に行くのもよし、今しか出来ないことをして楽しもうと思っています。
 私の趣味の一つに、青春18切符で鉄道旅をすることがあります。小学校の同級生三人と行くのですが、その内の一人が老人ホームに入ってしまい、去年の夏は東北への二人旅となりました。今年の夏は、北海道へまた行こうという事で、計画を立てる段階から楽しみが始まります。いつまで続けられるかですが、毎日5000歩を歩き、規則正しい生活をして米寿まで続けられればよいと思っています。
12期の同級生は新年をどのように過ごされるのだろう?喜寿の同窓会を最後に同窓会は開催されなくなったので少し寂しいですね。また会える日が訪れます事を楽しみにしています。米寿に同窓会を開きたいですね。お元気で!

掲示板

「小出楢重と大大阪時代」の此花歴史研究会例会に行ってきました

                      
7組  張 志朗
 11月27日、此花区民ホール(千鳥橋)で午後2時から此花歴史研究会の例会–「小出楢重と大大阪時代(その1)」と題した公開講座がありました。講師は同会々員でもある圓尾博一君(6組)です。
 ご存知の通り、小出楢重は日本の近代絵画の巨匠で、旧制市岡中学校の第1期生の大先輩です。
 自宅を出る時「小出楢重先輩の公開講座に行く」と娘に話すと「すごい」と言われ鼻高々、おまけに千鳥橋は生まれ育った所でもあり高揚した気分で会場に向かいました。同窓生の酒井八郎、松田修蔵、上野裕通、伊東慎一郎君と北浦(小寺)昌子、古藤知代子、鈴木(酒井)政子さんの7名が来ていました。
 参加者は研究会会員を含めて40名。講座は準備された資料を手元に、真摯で和やかな雰囲気で終始しました。圓尾君の講演は、同業の巨匠の画業にふれることの難しさがあったのではと思いましたが、抑えて外さず、深くて親しみやすく、多面的でユーモアたっぷりの話しぶりでした。小出楢重は大阪の島之内育ちです。それに配慮してか、はたまた圓尾君の人柄か、小出楢重の言葉をなぞった時の彼の大阪弁が、たおやかで懐かしいイントネーションで聞きとれました。
 講演は大好評。「小出楢重の年譜」とエピソード、その画業と随筆集、市岡中学の同窓生、重要文化財「Nの家族」二科展特選「少女於梅之像」について、大大阪への変貌など多岐にわたる内容で、2時間があっという間でした。
 そのうちの幾つかを下に書きます。
 小出楢重の同窓生には、市岡中学校第1期卒業生(明治39年卒業)の石濱純太郎(東洋史学者)、信時潔(音楽家・チェロ奏者)がおられ第2期卒業生に津田勝五郎(鋼材商)がおられます。
 小出楢重が東京美術学校卒業後、画業に専念することを諦めかけた時、ばったり出会った石濱純太郎に「先生になんかなったらあかん。僕らで何とかするからやめとけ」と説得されます。その後、石濱は友人の画家の桑田信子、栗山清太郎を誘い「三人展」を企画します。そして小出楢重の出品作品40点に信時潔、津田勝五郎などを動員して“売約済み”の赤札を貼り回る一芝居を打って、楢重の母を安心させました。その結果、絵画制作を続けられるようになったそうです。この石濱との出会いと市岡同窓生の絆が画家小出楢重の誕生の起点であったようです。
 次に重要文化財「Nの家族」についてです。この作品には「謎が多いと思っている」としながら、楢重、妻–重子と長男の構図や異なる三人の視線、ホルベインの画集と静物の配置、背景の肖像画と壁の材質などについて話してくれました。言われて見ると、確かにミステリアスです。この絵に対する見方の幅が広がります。
 更に圓尾君は、小出楢重の数学との付き合いの悪さに触れた次の文章を紹介してくれました。誰がやっても『5+5が10で・・・10とならぬ時には落第するのだからつまらない。羽左衛門がやると100になったり、延若がやると55となり、天勝がやると消え失せたりするような事を大いに面白がる性分なのである』。 デジタルとその整合性だけが大手をふるような現代の一面を的確に射抜いているようで痛快です。
 資料の「年譜」は、明治から太平洋戦争開戦までの主要史実の抜き書き付きです。歴史研究会の例会ですから当然のことかもしれません。それによると日清戦争、日露戦争、日韓併合、大逆事件、第一次世界大戦、ロシア革命、治安維持法成立等々、小出楢重の画業は大正・昭和の激動期と重なります。この視点に、私は目から鱗が落ちる想いで、「枯れ木のある風景」の送電線上に腰かけた小出楢重の姿とその心象風景に少し近づけたように感じます。
 講座が終わったあと、参加した同窓生8人(酒井八郎、松田修蔵、上野裕通、伊東慎一郎、北浦昌子、古藤知和子、酒井政子)で軽く食事をしました。主人公の圓尾君は所用のため残念ながら同席できませんでした。
 コロナ禍の中、久しぶりの得難い会食です。皆さんそれぞれお元気で、意気軒高、嬉しさいっぱいでした。伊東君が足の具合が悪いのに遠路、杖をついて来られたのには、感激です。
 亡くなられた同窓生の話をはじめ、圓尾君の名講演の感想や健康維持のためのラジオ体操の話、リハビリの話、仕事の話、趣味の話など、話題はつきません。こうして楽しく話し、笑いころげることが出来る幸せ、市岡があってのことと再認識しました。健康で再会することを約束して別れました。

ひろばリバイバル

 ラインアップに書きましたように、上原(大川)澄子さんの投稿を再掲します。訃報をメールで知らせた所、「勉学にテニスにと、ピカ一に輝いていて眩しすぎる存在でしたね」、「よく笑う女の子でしたね」などの返信がありました。故人を偲んでお読みください。
― HP委員 記 ―
 

市岡12期HPを見て


投稿 上原澄子(旧姓大川)(1組)

 お彼岸も過ぎて桜の蕾もふくらんできました。 市岡12期の皆様にはお変わりなくお過ごしですか。3月11日の東日本大震災はまるで悪夢のようで胸が痛みます。東京電力管内の沼津は2日おき位に計画停電があり3時間ほど停電します。

 先日HPの上野裕通さんの「市岡高等学校12期同窓会を振り返る」を読み、私も北浦昌子さんとの想い出を少し話したくなりました。

 小学校・中学校・高校と一緒だった昌子さんとは家も近かったので「一緒に勉強する」という口実でよくお互いの家を行き来していました。昌子さんの亡きお母様の詠まれた歌集を見せてもらって、涙したことが思い出されます。

 私の家では細巻寿司やサンドイッチを作ったりして楽しい時間を過ごしました。
今年の年賀状の歌は「うさぎさん目と耳貸してこの一年よく見よく聴くじじばば二人」でした。

 昌子さん元気でまた会いましょう。 

 市岡の同期会は70才近い現在の生活をちょっとタイムスリップさせてくれ、元気で頑張っていた18才の頃に戻してくれます。

 高校時代は同じクラスになったことも、口をきいたこともない友とも親しく話をすることが出来ます。
「東大湖の水受けて…」とみんなで校歌を歌う時、気持ちが一緒になる様な気がします。

 そんな友達の中に8組の村崎裕昭さん、山田正敏さんがいます。

 市岡東京12期会の小旅行で箱根に行った折、自己紹介で村崎さんが「絵手紙を始めました。」と挨拶され、20数年前から水墨画の絵手紙を書いていた私は思わず「私も描いています」と言いました。それがきっかけで絵手紙のやりとりをするようになりました。描き方は違うのですが、村崎さんの絵手紙の進歩は素晴らしかったです。

 それでは、二人の絵を見て頂きたいと思います。

 まず私の作風をご覧になってください。(画像はクリックで拡大します)

 
 

 次に村崎裕昭さんの作品です。

   

 そして、私が村崎さんの絵に影響されて描いてみた作品です。

 また、陶芸をされている山田正敏さんの造られた大皿に「あけび」を描きました。

 市岡は50数年過ぎた今でもよい想い出をつくってくれています。

 最後に懐かしい写真を一枚(ご存知の母校中庭で)


「12期の広場」2022秋号のラインアップ

 突然のお知らせですが、清水誠治郎君がお亡くなりになりました。
 9月7日に外出先で倒れ救急搬送されて入院。集中治療を受けておられましたが、薬石の効無く、11日朝、永眠されました。
 ご存知のように清水誠治郎君は3年3組の同窓会幹事で、同窓会活動ではクラス幹事の役割にとどまらず、12期全体の中心幹事のお一人として大活躍してくださいました。その思い出は語りつくせません。同窓会行事の企画推進やそれへの積極参加・協力は勿論のこと、同窓会名簿原案の作成やその他の事務作業、同窓会の司会、度重なる「12期の広場」への投稿など、実に多くのご苦労をお掛けしました。
 ここに哀悼の誠を込めて、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
  故人を偲び本号では、2016年1月号に投稿された「今、物凄く幸せです」を“ひろばリバイバル”として掲載いたします。

 「12期の広場」2022秋号のラインアップは以下の通りです。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「ぶらりと福知山」 7組 張 志朗
  2. 掲示板
    ・「コロナ第七波の中、三年ぶりの夏祭り
     海老江八坂神社の夏祭りが盛大に実施」
    8組 末廣 訂
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「今、物凄く幸せです。」 (2016年1月号から) 3組 清水誠治郎
以 上

巻頭コラム

ぶらりと福知山

7組  張 志朗

 ぶらり福知山に行って来ました。
 こう書きだせば、"気楽な小旅行"となるのですが、実のところは耐えがたい猛暑とコロナ禍による巣ごもり、さらに思い通りにならない体調に"汗まみれの引きこもり老人"状態になっている筆者のセンチメンタルなフラフラ歩きの旅であったようです。
 日帰りの遠出は数年ぶり、勿論、密を避け、マスクを持ってです。8月の末、晴と気温32度以下の天気予報を確認して、JR福知山線の篠山口行の区間快速に乗りました。
 ご存知のように福知山線は東海道線の尼崎より北上し、篠山口を経て福知山で山陰線に接続します。
 篠山口で二両連結列車のワンマンカーに乗り換えです。若く、かわいい女性運転手です。「福知山まではディーゼル車ですか」と聞いて笑われました。以前から電化されているそうです。
 福知山までは車窓の左右になだらかな山を見ながら、峡谷沿いに、また狭い盆地にある田畑を縫うようして走ります。単線で、電車が木々すれすれの場所も少なくありません。空の青、白い雲、木々の緑、渓流の水しぶきが美しく、心が徐々に開いて行きます。コンバインが停まり半数位の田んぼは、稲刈りを終えてすでに初秋の風景です。2時間ほどで福知山駅に到着しました。

 福知山は京都府の北西部、人口8万人弱の中核都市。丹波高地と丹後山地に囲まれた盆地にあり、北近畿の交通の要衝です。ここから和田山、豊岡を経て城崎へ(山陰線下り)、鬼で有名な大江山を越えて宮津、天橋立へ(京都丹後鉄道)、綾部を経て舞鶴、小浜へ(舞鶴・小浜線)、また亀岡を経て京都へ(山陰線上り)いたるターミナル駅です。通過は何回もし、小休止は1~2度していましたが、ぶらり歩きは初めてです。皆さん、特に関西在住の方には、観光やスキーや登山などでおなじみの地域であることでしょう。
 とりあえずマップ片手に駅周辺をあるきました。駅の南側広場にレールを使った東屋と転車台に乗せられたC11形式40号の蒸気機関車がありました。レールは明治30年から32年に
当時の"阪鶴鉄道"が米国のカーネギー社とイリノイ社に特注したものだそうです。また蒸気機関車は昭和8年の川崎車輛株式会社製で小型機関車としては力が強く、短区間運転用として重宝され昭和19年から31年まで福知山線を走っていたそうです。転車台は機関車の方向転換や扇形車庫への入出庫を行う設備で、昭和47年まで稼働したのち、福知山駅高架化事業により撤去されたそうです。いずれも「鉄道のまち福知山」のシンボルとして保存展示されています。
 雪深い北近畿の鉄道機関区で、ラッセル車と共にもうもうと煙をはいていた雄姿が、思い浮かびます。特に私の家内の従兄が、この機関区で蒸気機関車の機関士であっただけに、思い入れもひとしおです。
 福知山は明智光秀ゆかりの地、歴史の深い城下町でもあります。
 NHKの大河ドラマ"麒麟が来る"が放送されて一躍脚光を浴びましたね。幟(のぼり)やイラストや桔梗紋(明智家の家紋)が目につきます。それらを案内するマップ通り見て歩くことはできません。なにしろこちらは、81歳を超えた老体、真昼間(まっぴるま)の炎天下の徒歩に息絶え絶えです。つばの広い網目帽子と濡れタオル、ペットボトルのお茶を頼りに、とりあえず旧城下町と思われる地域をめぐることにしました。

 懐かしい趣の駅正面通り商店街を直進して左折、アオイ通りを経て、まずは地元の人に「ごりょうさん」と親しまれる御霊神社です。由緒書きに祭神は宇賀御霊大神、配神は日向守光秀とあり、さらに「宝永元年(1704年)朽木植昌候の代 光秀の霊を併せ祀り」とありました。光秀が没したのが天正10年(1582年)ですから122年経ってようやく"配神"として祀られたのですね。
 本殿を持つ境内は高くなった丘の上にありますが、そこに頼山陽の「本能寺」と題した漢詩の石碑があります。近年建てられたものと見受けましたが、それをどう読み解くか、私にはよくわかりません。ただ詩文中の「老いの坂 西に去れば備中の道 鞭を揚げて東を指せば天なお早し」は、岐路に立たされた明智光秀に迫ります。(偶然ですが、8月初めに藤沢周平著の「逆軍の旗」を読みました。この詩文との符合に驚きました)
 この境内に日本で唯一の堤防神社があり、境内から参道を下りた広場に、昭和28年9月25日の台風13号による洪水時の"浸水位20.69m"を示す表示塔がありました。写真ではその高さが実感できませんが、側に立って見上げると私の背丈の4倍近くありそうです。浸水位20.69mは尋常ではありません。おそらく周辺の木造民家の屋根を越える高さまで水がきたでしょう。福知山は古い時代から、すぐ側を流れる由良川の豊かな恵みを受けると同時に、その氾濫による大水害に苦しめられ、不撓不屈に生きてきた町です。
 それを示すように、この神社の近くに治水記念館があります。下柳町の旧街道(山陰道)に面した二階建て民家がそれです。残念ながら休館の札がかかっていて入れませんでした。(休館日が火曜日であることを確認していたのですが・・・)資料によると二階に避難用の船とそれを吊り下げる滑車などが展示されているそうで、水害時の人々の苦闘と知恵を見たかったのに残念無念です。
 江戸期、由良川の舟運は隆盛していたようです。その拠点であった下船渡口(げせんどくち)近くから由良川堤防を歩き、福知山城に向かいました。すぐに蛇が端御藪(じゃがはなおやぶ)=明智藪が見えます。
これは由良川に土師川が合流する地点に明智光秀が築いた堤防(高さ2.0m、長さ1.5km)で、写真のように立派に育ち残っています。
 福知山城は天正7年(1579年)ころに明智光秀によって築城され明治維新まで存在しました。明治6年廃城令により石垣と一部を残して失われたのですが、昭和に入り市民による「瓦一枚運
動」などもあり、昭和61年(1986年)に再建され現在に至っています。由良川に伸びる丘陵にある「平山城」で、こじんまりとしていますが、美しい城です。時間がなくて天守閣の中には入りませんでした。石垣は400年の歳月に耐えてきたもので、多くの五輪塔などの石造物が「転用石」として使用されているのが特徴だそうです。
 天守台の広場から、はるけく福知山市街地が見下ろせます。逆に言えば市街地から福知山城が仰ぎ見えます。満々と水を湛えた由良川は230年の間に40回以上も決壊を繰り返したと言い、そのたびに人々は不屈の心意気で町を復興しました。そんな人々に光秀が築城した福知山城はどう見えたのでしょう。「瓦一枚運動」に寄せる人々の思いが伝わってくるようです。
 夕方、福知山を後にしました。滞在は5時間弱。見られなかった所や。行けなかった所ばかりで心残りですが、次回の楽しみとします。
 帰りは大阪行き"丹波路快速"一本で楽ちん。暮れなずむ里山の家々を眺めながら無事帰ってきました。
 追記:山とスキー好きの友がこの拙文を読んで「福知山線路線模式図」を作ってくれました。ご覧ください。

掲示板

コロナ第七波の中、三年ぶりの夏祭り
海老江八坂神社の夏祭りが盛大に実施

8組 末廣 訂
 
 今年・令和四年の夏は三年ぶりに地元海老江八坂神社の夏祭りが行われ盛大の内に終えることができた。
 京都の祇園祭りでは,鷹(たか)山鉾(やまぼこ)が百九十六年ぶりに新調され大きな話題となり、また大阪の天神祭りでも地車(だし)が新しくなり、久しぶりにテレビで放映されて話題になった。
 海老江八坂神社の祭りでは、祭りの華である地車・太鼓のパレードや夜の宮入りが大勢の見学者で囲まれている様子がユーチューブの動画で発信されている。
 祭り好きなものにとって,待ちに待った祭りであったが、やはり丸二年間もの空白とコロナ禍での開催は、当事者には目に見えない努力と苦労があった。
 
*海老江八坂神社 祭礼行事の移り変わり 
 海老江には、枕太鼓と地車三基がある。一つの村で四台の祭台があるのは大変珍しい。祭の盛んな岸和田、平野でも旧村や町単位で地車が一台しかないが、海老江は東西南北四町あり、それぞれが神社の庫(くら)に納庫している。
 これほど盛大に行われている祭りだが、祭りに関する書いたものが少ない。純農村であった海老江は五穀豊穣を祈って、元々秋祭りが中心であったと考えられるが、疫病予防を祈願する京都の八坂神社と同じ夏の大祭に移り現在に至っている(明治初めに牛頭(ごず)天王社(てんのうしゃ)から八坂神社に改名されている)東西南北四町の世話人の組織はおおむねよく似ており、祭礼は町総代を中心に各役割がある。各町によって法被(はっぴ)、浴衣、鉢巻きの色が決まっている。北之町は白色、東は黄色、南は桃色、西は水色、である。
 地車の囃子や手打ちの言葉は天神まつりの影響がある。「打ちましょう」で始まる手打ちは四町共通だが、北之町だけが最後に「ああ、めでたいなー」が入り、祝儀をいただいた折の手打ちも同じである。
 
*祭りの事前準備とスケジュール
 私が元老を務めている北之町(枕太鼓)の例年の行事進行スケジュールから簡単に紹介する。
 各四町にはほぼ同じ役職がある。太鼓の場合の運営(組織)委員は、町総代始め、会計、会計監査、元老、相談役、中老筆頭、安全委員、庶務委員、児童委員、進行委員、連絡委員、実行委員(若中)、等の担当がある。
 六月に入ると早速祭りの準備が始まる。例えば、六月初旬には現役の役員で実務の打合せとして、全体の役割、スケジュール調整、と巡行等の検討が始まる。一方では福島警察署への巡行コースの申請や四町の打ち合わせ等があり、また六月半ばには元老・相談役と現役役員とで全体の中身の確認会議があり、末日までに、「総会」が開かれる。  
 総会には全祭りの関係者(約百人)が集まり、総代や担当役員から神社全体の四町打合せ事項、太鼓の巡行コースの地図と時刻の確認、等々きめ細かい説明がある。質疑応答の後、直会(なおらい)に入る。
 七月の第一日曜日には、太鼓・地車の洗車、神社内外にのぼり・竹矢来(たけやらい)設置、そして各町それぞれに提灯を建て、主要道路には企業名が入った寄付による御神燈提灯が設置される。
 第二週目から太鼓の囃子の練習が始まる。そして各町は祝儀集めの「趣意書」を事前に各家庭や企業に配り了承を得る。太鼓の練習は児童四~六年生が中心で、毎夕六時から始まる。十六日は祭り用の食事や小休憩や接待場所に氷・飲みもの等を準備し、夕方は太鼓の飾りつけをする。
 今年は七月十七日(宵宮)と十八日(本宮)が日・祝で、実質十五日の金曜日に企業中心に祝儀集めが始まった。
 十七日に宵宮の行事が始まる。祭礼関係者が神社に朝九時に集まり、お祓いを受けた後、早速各町別々に手分けして各家庭に梵天を持ってお祓いし手打ちして祝儀をいただく。夕方五時から神社にて四町の競演があり、その後、夜のパレードに出立する。パレードは自町を二時間ほど巡行して八時ごろから、四町揃ってパレードを行い、神社に戻り納庫する。
 十八日の本宮行事は早朝から太鼓・地車の巡行が始まる。朝、八時に全員がお祓いを受け、神社を出立する。太鼓の場合、朝の食事を副総代宅にて、其の後は自町中心に巡行をし、三時頃から四町揃って午後のパレードを終える。夕方は総代宅で夕食を済ませ夜の宮入りに入る。夜七時頃、当宅前で太鼓の台車を取り外し肩合わせ後、太鼓を担いで宮入りに入る。今年は三年ぶりの宮入りで若中も力が入り、立派な宮入りであった。
 本宮の翌日は、朝から祭りの後片づけや祝儀の花開きがあり、午後はねぎらいの直会で終了する。北之町では祝儀をいただいた約八百件(内二千円以上)を金額順にリストアップして後日印刷し公表している。
 
*コロナの中の祭りと苦労 
 七月に入り、コロナが第七波になり、児童の感染者も増してきた。 この二年間、特に六年生の子供は四・五年生時に祭りが中止となり、今年が太鼓をたたく最後のチャンスであった。練習日の初日から待ちに待った練習が始まり、約四〇名の子供で一〇組ができ、一週間の練習が始まった。祭り目前にコロナ感染で六年生の学級閉鎖があり、半分以上が途中で参加できなくなった。
 三年目になってやっと晴れの姿をと頑張っていた六年生の気持ちは親子ともども残念であったと思う。半面、残った五年、四年生のたたき手たちは本番も少人数で二日間よく頑張ってくれた。」
 実は私の孫も、都島区から二人(五年と六年生)毎晩練習に来ていたが、六年生の孫が十七の前日の晩になって、熱が出て急遽自宅に戻し、本番は出られず大変残念がっていた。
 また、一方で祭りの一か月前に、北之町の一番長老(九四歳)の元老が亡くなられた。本来、北之町では役員が亡くなると、出棺の折は祭関係者全員で手打ちをして見送ることになっているが、コロナ禍でそれも出来なかった。そんな中、ある役員の発案で太鼓巡行の折、長老宅前で太鼓を差し上げしようということになり、私も約三〇年ぶりに長老ご家族の前で太鼓を担ぎ弔うことができた。
 後で他町の役員の話では、祭後、コロナに罹ったという祭り関係者が続出したそうで、今年の祭礼行事が大変な祭りであったことが分かった。
 パソコンやスマホを持っている方は一度「八坂神社夏祭り」を検索してユーチュウブをご覧ください。
(写真は亡くなった長老宅前で三〇年ぶりに太鼓を担いだ当年八一歳の私です)

“ひろば”リバイバル

今、物凄く幸せです

3組  清水誠治郎
 
 “元旦や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし"(一休宗純)
 私が小学4年生(昭和26年5月)の時、父は脳溢血と言う突然の病で48歳の天寿を以ってこの世を去りました。おそらく戦後の動乱期の期末とはいえ、かの歌等考えすらないままに、逝ったのだろうと思います。
  家系の血は争えないもので、私は52歳で中度の心筋梗塞があってからは、今日まで循環器系の病との戦が続いています。近代医学のお陰で、心臓を流れる動脈の支流には4個のステントが入っています。腹部の大動脈にも瘤(52ミリ)があったのですが、適切な手術処置で破裂せずに小さくなり、元気な活動ができています。
 昨年3月、10年間の町会代表や西宮市の校区のスポーツクラブの代表等々、長きに亘って社会奉仕させて頂いていましたが、立派な後継者が出来たのでスムーズに交代する事が出来ました。そして10月には会社の代表を息子に譲り、私は悠々自適の生活を満喫出来るものと確信していました。が、そう上手くはいきませんでした、何か判らないのですが日々多忙です。
 何の趣味も持たず、ひたすら仕事と奉仕に打ち込んできた私ですので、全てを後継者に託した時、家内から“貴方はこのままではすぐに呆けてきますよ!何か趣味をもちなさい!"。まだこの歳ですし、呆けるのはいやだったので考えた挙句、写真を始めようと思い立ち、最新式のレンズシャッターの高級機を購入して写し始めましたが、これがまた難しすぎて手に負いません。特に動体撮影は写そうと思っても、身体や目や頭がついていかないのです。残念で悔しいですが、動かない花や景色を撮っています。
 それともう一つ、絵を習い始めました。未だ10カ月しか経っていませんので御見せ出来るような作品はありませんが、4~5年間、健康に注意して修業が出来れば、喜寿の個展が出来ればいいなと淡い夢を持っています。でもやっぱり好きな画家(特に日本画・河合玉堂や上村松園) の絵をゆっくりと時間をかけボーと観ている方が心癒されます。
 私は今、物凄く幸せです。少し元気になった妻と息子たちと四人の孫に固まれて!
                                2016年 1月
 
(HP委員追記)
 清水誠治郎君の「広場」への投稿は上記の他に3篇があります。何より大きな感動を呼んだのは2011年7月号に掲載された「ツゥールポンロー みおつくし中学校」です。
 これは彼と故畠平雅生君が所属していた大阪西ワイズメンクラブのボランティアプロジェクト—カンボジアに中学校を建設・寄贈する事業の奮闘記です。
 彼はカンボジアの実状を目にするために2007年、建設敷地の視察に2009年、第一校舎落成式出席のために2010年と、3度カンボジアを訪れています。ツゥールポンローはタイのバンコックから4輪駆動車で15時間、二日がかりの辺境の地で、建設予定地の1/3から250個の地雷が発見処理されたそうです。下に貼り付けたのは、出来上がった校舎と落成式での記念写真です。左から3人目が清水君です。長文ですが、「ツゥールポンロー みおつくし中学校」を読んで在りし日の清水誠治郎君を偲んでいただければ幸いです。この原稿の「結び」を下に再掲いたします。
 
“ハチドリのひとしずく”   今、私にできること
 森が燃えていました。森の生き物たちは我先にと逃げて行きました。でも、クリキンディという名のハチドリだけは、いったりきたり、くちばしで水を、一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます。動物たちがそれを見て「そんな事をして一体何になるんだ」といって笑っています。  クリキンディはこう答えました。「私は、私に出来ることをしているだけ・・・」
 この物語は南アメリカの先住民に伝わる話です。(クリキンディ・・現地語で金の鳥の意)
 同窓生では畠平雅生君が同志として一緒に運動をしています。又古藤知代子さんが多額寄付者として登録されています。こころざしに感謝いたします。

「12期の広場」2022夏号のラインアップ

今号のラインアップは以下の通りです。お楽しみください。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「天正15年?6月13日の茶会」  8組 川村 浩一
  2. 掲示板
    ・「圓尾君の“大作”を見に美術文化展に行ってきました」 
    ・「World Art Day と< ダ・ヴィンチ>知の行方 についての思い」
    8組 榎本 進明
    6組 圓尾 博一
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「利根川 川歩き」 第1回(平成19年10月30日~11月1日) 
    ・「利根川 川歩き」 第9回(平成23年5月9日~11日)
    4組 川合 兵治
    4組 川合 兵治
以 上

巻頭コラム

天正15?年6月13日の茶会

8組  川村 浩一
 
 この12年、茶事(茶の湯)同好会に入れていただきお茶の世界(の端っこ)を楽しんでいます。季節ごとに初釜とか納涼茶会とか、もみじ茶会、炉開き、口切とかいろいろな趣の茶事・茶会があります。コロナでしばらく活動も制限されていましたが、この5月には飯後の茶事(はんごのちゃじ)に招待され、いま仲間が納涼茶会を企画してくれています。
 その続きで最近、茶書の勉強を始めました。まずは茶道の聖典とも言われてきた「南方録」(なんぼうろく)の読書会。利休の教えを弟子の南坊宗啓が「南方録」7巻に書き留めたものを福岡・黒田藩の家老、立花実山が利休没後100年に再発見して書写させたものとされています。
 その7巻のうちに「會」という巻があり利休の56回の茶会の記録(茶会記)が残されています。この記録には我々にも懐かしい名前が出てきます。
 
 今、7月なので陰暦6月13日の茶会をご紹介しましょう。(一部、原文のママ)
 
 六月十三日、朝。
 御成(すなわち正客は秀吉)、御相伴は黒田勘解由(すなわち黒田孝高。官兵衛。如水とも。)、細川幽斎(藤孝)、今井宗久(堺の商人・茶人。利休、津田宗及とともに三宗匠と並び称された。)
  • 醒ヶ井屋敷六畳敷。
  • 初座、後座とも床には上様(秀吉)御自筆御自詠カケ物。
    御歌「底ゐなき心の内を汲てこそ お茶の湯者とハしられたりけり」
    此御歌ハ、先年此座敷ニて被遊下候を、このたびカクル。
  • お道具類は面倒なので省略。
  • 懐石:干し葉の汁、麦の飯。膾。刺身はマナガツオ。煮物。
  • 菓子:煎榧(カヤの実を煎ったもの)、栗。
お茶の後、秀吉から即席で歌を詠めと指示され、
 幽斎「濁なき此御代とてや足引の 岩井の水もやすくすむらん」
 孝高「万代の声もけふよりまし水の 清きなかれハ絶しとそ思ふ」
 
 利休の醒ヶ井屋敷は六条堀川のかつての源氏館のあとにあったようです。いつも名水、醒ヶ井水で茶を点てていたのでしょう。醒ヶ井水はこの写真のあたりにあったということですが、いまは残っていません。京都の街も400年余りでずいぶん変わっています。昔の大通りの六条大路が今は車一台がやっとという石畳の小路。戦時中に陸軍が堀川通をやたらと広くしました。また四条通を阪急が地下鉄を通し四条以南の井戸が干上がったそうです。
 
 ところで南方録では六月十三日とあるだけで天正何年の茶会とは記していません。でも学術誌も含めて天正15年と特定しています。それは四大茶書のひとつと言われる「今井宗久茶湯書抜」に天正15年の茶会と明記されているからです。しかも孝高の歌を宗久の歌とされています。立花実山は黒田藩の人、同じ黒田藩の貝原益軒の「黒田家譜」では孝高の歌と書かれています。書き写す人の身びいき?おかしいor面白い話ですね。
 
 なぜ私がタイトルに?を付けたか、それは天正15年ではありえないからです。このとき秀吉は島津征伐のため九州に居ました。福岡・箱崎宮の本陣から討伐軍に指示を与えていたはずです。利休や津田宗及も同行しお茶会を盛んに催していました。6月9日、13日は利休が点前、13日当日は宗及の点前で秀吉にお茶。(博多の商人で茶人の神屋宗湛の「宗湛日記」による。宗湛はいずれの茶会にも御相伴。)
 では、この6月13日の茶会は何年のことでしょうか?秀吉が天下人となった天正11年から利休が自刃する前年の天正18年の間で、秀吉、利休、官兵衛、幽斎そろって在京の日を探す必要があります。かりにうまく見つからなければ6月13日を疑ってその周辺を探らなければなりません。ずいぶんしんどい作業になります。
 この茶会そのものが実山の創作茶会という研究者もいるようですが根拠を示してくれていません。当分裏千家の茶道資料館の文庫や表千家北山会館などに通って調べてみましょう。
 
 今回、単純にこの季節に合った茶会の例をご紹介するつもりでしたが、迷路に入ってしまいました。そして「天正」という年号が昭和の次になつかしい年号になってきました。