お知らせ

0年

「12期の広場2020夏号」のラインアップ

 いよいよの夏です。季節の移ろいを味わう余裕すら失くしたような3か月でしたが、梅雨に加えての暑さに、“猛暑の夏到来”を予感しています。昨年の統計だそうですが、ひと夏の気温30度以上の日数は、大阪が一番多かったそうです。
 多くが70歳台最後の夏です。花火大会は無理のようでも、入道雲に蝉しぐれ、夕立、よしずに冷やし西瓜、金魚に風鈴などなどの夏の風物詩を楽しみ、なんとか元気に乗り切りたいものです。
 
 それにしても新型コロナウイルス感染による影響は甚大です。それが私たちの生活の隅々にまでおよんでいるのには、驚きを超えて、もううんざりと言うのが率直な気持ち。マスク常用、手洗いにうがいは当然としても、何のことやらと思った、「三密」「ソーシヤルディスタンス」も、いまや「社会常識」、「行動規範」のようになりましたね。細心の注意をはらっていますが、マスクを忘れたり、落としたりすることがあります。それで街なかを歩き、特に電車に乗ろうものなら、非難の視線にさらされて、身の置き場がありません。わざわざ「細心の注意」とするところに、笑えないコロナ禍の深刻さがあります。
 新しい言葉もその意味を含めて、たくさん覚えました。「パンデミック」「PCR検査」「エクモ」「テレワーク」「リモート」「ウイズコロナ」「アフターコロナ」「ウーバーイーツ」「〇〇モデル」「〇〇アラート」等々、何故かカタカナ語が多いのですが、数えきれません。
 また緊急事態宣言当初は、まったくの巣ごもり状態で、情けない話、時間を持て余しては、日なが一日をどう過ごせばよいかと戸惑う始末の鬱状態であったようです。
 結果、庭に小さな畑を作り、朽ちかけていたウッドデッキを日曜大工でやり替えました。今では畑も葉物野菜が食べられる程度になり、ガタガタ鳴っていたウッドデッキは、新品同様の出来栄えで家族に喜んでもらっています。皆さん、同じようなことを考えられるようで、数回出かけたホームセンターの家庭菜園と日曜大工コーナーは、思いのほかの人出でした。
 今、新型コロナウイルスの感染は小康状態、社会生活は徐々に以前の状態に戻りつつあるようです。プロ野球をはじめプロスポーツも無観客試合ではありますが、漸く開幕、再開されました。しかし、「第二波」「第三波」がささやかれているように、今後の感染拡大が確実に予想され、その対応に知恵がしぼられています。その対応策として「大阪モデル」などが喧伝されていますが、いまだ感染者が一人も出ていない「岩手モデル」はどうなのと思ってしまいます。
 「ウイズコロナ」は当たり前になり、「アフターコロナ」では社会生活の考え方やそのモデルまでもが変わると言われています。バーチャル世界は新たな広がりを見せ、例えば「テレワーク」の多用で、テナントビルの貸室の需要が減っているといいます。変化はその程度では済まないでしょう。ただ何とか、人をないがしろにするような市場経済と、最大効率至上主義の世の中が更に酷くなることだけは避けてほしいと願うばかりです。
 
 5月に3組の西條軍蔵君の訃報が届きました。
 ご存じの通り西條君は、市岡東京12期会の中心的メンバー、その存在感は大きかっただけに、残念でなりません。西條君と筆者は、高校1年次に同じクラスでした。穏やかで心優しい男前で、仲良くしてくれた記憶が鮮明です。名前の恰好よさもあってか、将来はきっと俳優になるのではないかと思ったりしたものです。期待に違わず、ダンディを地で行くもの静かな慶応ボーイ、そのスマートさは更に磨きがかかっていたと言えるでしょう。同窓会で毎回のようにお会いしていたのに、もっとたくさんのお話をしておけば良かったのにと、悔やまれてなりません。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。 合掌。
 
 さて、わが「12期の広場2020夏号」のラインアップは以下の通りです。
西條君を偲んで、榎本進明君(8組)が一文を寄せてくれました。また、川村浩一君が所属している「茶事同好会」(プライベートグループ)の記念誌に、彼が書いた「明治三十四年の茶会」の転載をお願いしました。ご覧ください。
 
1.「西條軍蔵君の思い出」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・8組  榎本 進明
2.「明治三十四年の茶会」 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 8組  川村 浩一
 
以 上

西條軍蔵君との思い出

8組 榎本進明
 
 編集委員の張志朗君から「西條君を偲ぶ」記事を書いてほしいと頼まれて、何日も西條君とのことを考え始めると走馬灯のように浮かんできて長文になってしまいました。 
 故人を偲ぶ文章は、短く心のこもったものが常識だとは思いますが、どうしても皆様にお人なりを伝えたくなって、偲ぶというには適切でない長文になってしまいました。奥様をはじめご家族の皆様にはお悔やみのご挨拶をさせていただきましたが、本稿は少し外れてしまい、彼との楽しい思い出しか浮かんでこなくて、常識外れの原稿になってしまいました。
 
人文地理部 ・ 保屋野先生の後ろ 3組・ 江本学級 ・ 後列 右から 5番目

 それは、去る5月3日のこと。 酒井八郎君から電話あり。「西條君が亡くなった。詳細不明。八阪中学同級生からのルートのようだ」とのこと。彼も相当慌てていて、筆者もガクガクと腕は震えて、顔がこわばり、まず落ち着かせるのに半日かかりました。そして、ご自宅にお電話をして奥様からお亡くなりになったことをお聞きしました。奥様は落ち着かれてお話をしていただきました。
 5月4日に「東京12期会」の方々と編集委員の張志朗君にメールでお知らせしました。内容は以下の通りです。
 今朝のご連絡ほど悲しいことはありません。3組の西條軍蔵君がお亡くなりになりました。
昨年11月11日の「東京12期会」でお会いしたのが最後となりました。
 昨日(5月3日)ご自宅にお電話をしたとき、奥様から彼のご逝去を伝えられました。
4月3日の早朝6時過ぎに、気分が悪くなり、救急車で近くの日赤病院に搬送されました。
人工呼吸等の緊急処置の甲斐もなく、アッと言う間に息を引き取りました。虚血性心不全でした。
 彼は「川歩き」のメンバーで、川合君の亡きあと、リーダーを務めてくれていました。
過去に「利根川」「荒川」を完結して、今は「多摩川」を始めたばかりでした。
小生(榎本)の体調を考慮して中断していましたが、奥様のお話によると、いつも楽しみにしていたそうです。また、12期会の幹事もしていただき、心から感謝しています。
 お葬式は、4月8日に、お身内のみの家族葬で見送られたそうです。
今は、コロナの緊急事態宣言のなか、お参りは叶いませんが、一段落後にお伺いすることにしています。12期会の皆さまには、「試練のとき」が続きますが、どうぞくれぐれもお気をつけてお過ごしください。全員無事で、またの再会を楽しみにしております。

 高校時代、筆者は彼とはほとんどお話をしたことはありません。それが、2003年11月7日の東京12期会発足以来徐々に話すようになり、利根川歩きのメンバーになられてからは、一挙に近しい仲間になりました。利根川は13泊22日、荒川は6泊12日、同じ目的で寝食を共にした「仲間」でした。奥様も「川歩きを本当に楽しみにしていました」と仰ってくれた時は、涙があふれて来ました。それからこの原稿を書くまで、彼とは楽しい思い出しか浮かんで来ず、文頭で書いたように、亡くなって悲しいという心情ではなく、一緒にいて楽しかったことしか浮かんで来ないのです。不謹慎ですみません。以下に楽しかった写真を数枚載せて「西條軍蔵君との思い出」といたしました。
 また、市岡時代の「人文地理部」の知識でいろいろ教えてくれました。特に荒川の第2回で、ホームページに次のような報告がありました。「海のない埼玉県のほぼ中央に日本一の川幅を誇る地点・御成橋の付近は2,537メートル。しかし橋の眼下に見える荒川の流れそのものは、20~30メートルの幅なのである。広大な河川敷は田畑が広がり、民家も点在している。不思議・・・」
 
2017年11月26日 大石橋夫人(青の衣装)のシャンソンコンサート。6人の12期生とその夫人が参加。そのあとの打ち上げで、恒例になっている金婚式のハグをする西條夫妻(右奥二人)
 
2012年3月17日JAXA見学
 
2011年7月14日高尾山・利根川完歩記念
 
2018年8月20日・圓尾君画展・銀座の画廊
 
2019年8月19日・圓尾君画展・銀座の画廊
 
2014年4月20日・第5回荒川二日目終了
 
2016年11月9日・多摩川・第1回で中断
 
 
1987年3月7日の同窓会。45才の西條君
 最後の多摩川を歩いてから約3年後の今年3月に、筆者の体調も良くなり川歩き再開を提案するつもりでした。ところがコロナの感染者が増え無理かな?と思い提案しませんでした。今はそれをとても悔やんでいます。彼がそこまで楽しみにしていたことを知り、せめて2月にそれを言っていれば良かったと。これからは自分の気持ちも早く切り替えて、多摩川・第2回をコロナ禍後の目標とし、これを完歩するまで彼と一緒に歩くつもりです。

 

明治三十四年の茶会

8組  川村浩一
 
 明治三十四年は西暦でいうと1901年。二十世紀の初っ端の年、日本は日清戦争に勝利し間もなく日露戦争に向かっている頃です。夏目漱石も正岡子規も三十四歳。漱石は熊本の五高教授でロンドン留学中。一方、子規は肺結核から脊椎カリエスで寝たきりになり根岸の子規庵で療養中でした。しかし子規は寝たきりであっても意気軒昂。短歌や俳句の革新に取り組み、根岸の子規庵には門人たちがひっきりなしに訪問しており、にぎやかに「わいがや」を楽しんでいました。
 そのような病床生活の中での茶会の様子が新聞「日本」のコラム「墨汁一滴」に報告されています。この中に出てくる人物は3人、いずれも短歌の門人たち。まず伊藤左千夫、この人は「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」と子規のあと短歌の改革に力を尽くしました。小説「野菊の墓」でも有名です。茶の湯にも詳しく「茶の湯の手帳」という一文も残しており、子規から茶博士と呼ばれていました。次は香取秀真ほつま。鋳金工芸家にして歌人。文化勲章も受賞している。3番目は岡ふもと、書家にして歌人。「嘆きてもかひなきことはおもはずに明日はけさより早めに起きむ」はいい歌ですね。
 さて、墨汁一滴の中身。煩わしいので歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに変えて紹介します。
二月二十八日、左千夫が大きな古釜を携えてやってくる。釜の蓋は左千夫がデザインし秀真が鋳たもの。つまみは車形。麓が利休手簡の軸を持ってくる。牧谿もっけいの画をほめた手紙。床は桃と連翹れんぎょう。これは子規の指示。
 左千夫が茶を点て麓が主人役。献立は次のごとし。
・みそ汁は三州味噌の煮漉にごし、実は嫁菜よめな
なますは鯉の甘酢。
・平は小鯛の骨抜四尾。独活うど、花菜、山椒の芽、小鳥の叩き肉。
・肴はかれいを焼いて煮たようなもの。
・口取は焼き卵。栄螺さざえ、栗、杏子、柑類を煮たもの。
・香の物は奈良漬けの大根。
酒も出て飯も太鼓飯から順次出てきた。飯終われば湯桶に塩湯を入れて出してきた。子規にとって初めての懐石。懐石を食すと寿命七十五日延びるという言い伝えがあるらしい。
 その後雑談。左千夫が釜について一首詠めと言う。子規が「湯のたぎる音は如何」と訊く。左千夫答えて曰く「釜大きけれど音かすかなり、波の遠音とおねにも似たらんか」と。
で、子規の句「氷解けて水の流るゝ音すなり」
 真情の籠った茶会ですね。私ももうしばらくお稽古を続けて親しい人たちとの茶会を楽しみたいと思っています。子規の文、このあと独自の茶の湯論を展開していますが煩雑になるので省略。「茶道はなるべく自己の意匠によりて新方式を作らざるべからず」と月次を排しています。短歌、俳句と同じ姿勢です。学ぶべきでしょう。

「12期の広場 2020春号」のラインアップ

 春です。待ちに待った爛漫の春と言いたいところですが、降ってわいたような新型コロナウイルス感染症の拡大で予断を許さない状況です。季節の移ろいも、「早春賦」の“春は名のみの風の寒さよ”の情緒を味わう暇もあればこその記録的暖かさで、一足飛び。戸惑いながらの4月ですね。
 それにしてもコロナウイルスの感染症の影響は計り知れません。春の風物詩、選抜高校野球のまさかの中止にとどまらず、東京2020オリンピックまでもが延期。身近なところで言えば、恒例の市岡の森のお花見も中止になりました。その他諸々を考えても、イライラはつのるばかりです。コロナウイルスは、いまだに分からない事の方が多いようで、病状や治療法、治療薬がはっきりしていません。感染防止対策も決定的なものがなく、人的接触を避けるなどのごく普通の予防対策にとどまっているのが現状です。高度文明社会とグローバルゼーション、特に医療技術の発達が喧伝されていても、もろ刃の剣とも思えるその脆弱さと人間の我欲、それを基盤に成り立っている生活の危うさに気が滅入ります。終息への対策でも何に忖度しているのか、“隔靴搔痒(かつかそうよう)”の歯がゆさが見え隠れしているように感じてしまうのは、筆者だけでしょうか。
付和雷同せず、平常心を大切に生活して、一日でも早い感染症終息に合力して行きたいと思っています。
 
 4月は、晴れやかな旅たちと出会いの時節でもあります。特に今年は、私たちが母校、大阪府立市岡高等学校を卒業して60周年の節目に当たります。
今年の卒業生が72期生と聞けば、今更ながら過ぎ去った年月の長さに思いが至ります。同時に、2月27日、開催規模と時間に自粛制約を掛けたようですが、無事、通常通りの卒業式が行われたと聞き安堵しています。新一年生のための入学式ができるのかどうか、この文章を書いている時点ではわかりませんが、同窓生になる若人(という言うより孫世代)の、72期生と75期生皆さんの前途に幸多かれと、心からのエールを送ります。
 私たちも60年前の春に、恩師、後輩、父母兄弟の祝福を受けて母校を卒業し、それぞれの夢や希望に向かって歩み始めました。そして今、その長い人生の道のりを振り返り、充足感や悔恨、数えきれない浮き沈みに喜怒哀楽など、様々な感慨に揺れ動きます。深夜、突然のように目が覚めてすっかり忘れ去っていた昔の失敗を、鮮明に思い出して、なかなか寝付けないことが一度や二度ではありません。恥多き道のりでもあったと言えそうです。しかしそれでも、一生懸命に生きてきたことだけは間違いありません。人生は櫂を手に大海に漕ぎ出すようなものとすれば、その櫂の力の多くは、母校市岡で培ったもののようです。
 私ごとで恐縮ですが、奇しくもこの春、一番上の孫が高校を卒業し、大学入試に挑みました。幸いなことに希望する大学に合格し、めでたく大学生です。暫く見ぬ間に身長は、仰ぎ見るように伸び、風貌も幼さより自我の青臭くさが目について、もう手が届かない存在になってしまったのではと感じてしまいます。何か一言と力んでみても、お祝いを渡して月並みの“頑張るように”が精一杯。なんともふがいなく、情けない話とちょっとへこみました。
 
 さて、わが「12期の広場2020春号」のラインアップは、以下の通りです。コロナウイルスの影響と段取りの悪さもあって、以下の二編になりました。ご容赦ください。
 「四季の花篭 ― つれづれに 」は今号の④で終了です。執筆して頂いた高見政博君のご苦労に感謝・感謝です。
 
「12期の広場2020春号」のラインアップ
 
1.「四季の花篭 ― つれづれに ④ 」 ・・・・・・・・・・・・  6組   高見 政博
2.「市岡のOB・OGの皆さんが、頑張っています ・・・・・・・・・・・・ 7組 張  志朗
 
以  上

四季の花籠 ― つれづれに ④

6組  高見 政博
 
 「山笑う」季節になりました。寒さに耐え眠っていた木々、草たちが一斉に目覚めて花を咲かせます。
 春の花と言うとすぐ思い浮かぶのは桜です。人々は桜の開花とともに花見に繰り出しますが、新型コロナウイルスの影響で今年の花見はどうなるのでしょう。
 桜の他にも「花桃」「木蓮」「ツツジ」「コブシ」などなど、野の花では「レンゲ」「タンポポ」「スミレ」と、まさに「百花繚乱」の様相で、今回、どの花を選ぶか迷ってしまいました。
 そこで、私の花写真のテーマに戻って、あまり目立たない、路傍や野山の片隅でひっそりと、しかし精一杯咲いている花を取り上げて見ようと思います。
 
 「 オオイヌノフグリ」です。道端で何処にでも見かけます。
 「フグリ」というのは陰嚢のことで、種子の姿が雄犬のそれに似ているところからの命名と言います。
 爽やかな、まるで夜空の星のように咲く、瑠璃色の花にいささか不名誉な名前と憤慨していましたが、最近この花に「ホシノヒトミ」というロマンティックな名前があることを知りました。
 よくぞ言ってくれたと感謝したい名前です。
 


 「フデリンドウ」です。リンドウというと秋の花のイメージが強いのですが、春に咲くリンドウです。春に咲くリンドウはこの他にずばり「ハルリンドウ」があります。リンドウは漢字で書くと「竜胆」、この草の根はものすごく苦くて熊の胆よりも苦い竜の胆のようだと言うことから、漢名で「竜胆」。これを音読みにして、「リンダウ→リンドウ」となったと言います。
 この花は太陽の光で開花し、曇って光が無くなると閉じてしまいます。
 春の山歩きの時に出会うと爽やかで綺麗なブルーの花は幸せな気分にさせてくれます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 何の花か分かりますか?
刺身を食べるときに必ずついてくるもの、「ワサビ」です。
 ワサビがこんな花を咲かせると言うことを知ったのは長野県の安曇野にある「大王わさび園」に行ったときの事でした。
 大王わさび園ではこの花を食用として売っています。花茎と共に熱湯に浸してしんなりした所でお浸しとして食べるか、だし醤油漬けにして食べます。わさび特有のツンと鼻にとおる辛さがあって、癖になる食感です。
 お酒のつまみとしても乙なものです。
 六甲高山植物園で撮影しました。




 
 
 

 この花も何の花か分かりますか?よくご存じの野菜です。春の七草の「スズシロ」、そう「ダイコン(大根)」です。
 アブラナ科の植物らしく4枚の花弁で先端に紅をさしたおしゃれな花です。
 畑から逃げ出して、野生化したものが「ハマダイコン」として浜辺などで見かけます。
 以前、佐賀県の呼子の海岸で群生している所を見たことがあります。
 普段よく見ている野菜も子孫を残すためにこんなおしゃれで可憐な花を咲かせて虫たちにアピールをしているのです。
 けなげだと思いませんか。
 
 
 
 
 
 
 

 「ハクサンハタザオ」といいます。
里山で見られますが、あまり一般的ではありません。
 この花は昔の山師が鉱脈を探すときにガイドの植物にしていたそうです。
 兵庫県の多田に多田銀銅山跡があり、今は史跡になっていますが、此処を訪ねたときに周辺に沢山咲いていました。
 このとき、ガイドをして下さった地元のボランティアの方が教えて下さって、なるほどそれで此処にこの花が多いのかと思ったものです。
奈良東大寺の大仏建立の時にこの多田銀銅山の銅が使われたとか。
 また、豊臣家の台所を豊にしたといわれ、秀吉が亡くなる前に、この鉱山の何処かに息子秀頼のために財宝を隠したと伝えられて「豊臣の埋蔵金」として今でも探す人がいるとボランティアの人が説明をしてくれました。本当に隠されているのなら探して一攫千金を目指すのも悪くないかなと思いますが、いかが?



 

 「マイズルソウ」です。
この花も亜高山の花で、私の好きな花です。
花茎の長さは3㎝くらい、一輪の大きさは5㎜足らずの花です。
 ハート型の葉が2枚、折り鶴の羽根を広げたようについていることからの命名といいます。
六甲高山植物園で大群落を見ることが出来ます。また、栂池自然園など高山の少し日陰になるところに群生しています。
 なにしろ小さい花ですから、ピント合わせが難しく、もう何年も開花時期に行って撮影をしていますが、未だ満足のいく作品はできていません。
そんな未完成の作品ですが、こんな花があることを知っていただきたくて、あえて掲載しました。




 昨年の夏から編集委員の方からのご依頼で、「四季の花籠―つれづれに」と題して夏、秋、冬、そして今回と、それぞれの花を紹介してきました。今回が最終回となります。作文能力の無さを痛感する毎回でした。花の美しさ、けなげさと、思いも懸けないしたたかな強さを伝え切れてはいないとおもいますが、今は肩の荷を下ろしてホッとしています。

市岡の OB・OGの皆さんが頑張っています

7組    張 志朗
 

第11回市岡OB写真クラブ写真展

 
 新年を迎えて最初の市岡高校関連恒例行事は、市岡OB写真クラブの作品展です。ここ数年は、会場も大阪天満宮や堀川戎神社が近い南森町のMAGギャラリーと固定され、時期も“十日戎”に重なる事が多かったのですが、今年は、会場は変わらず、開催期間は、“エベッさん”の賑わいがおさまった1月16日~21日の6日間でした。17日、大阪市内でちょっとした仕事を済ませての夕方、作品展に行き、皆さんの作品を楽しんで来ました。
 出品者数16名で、各二点の作品展示、総数は32作品。毎回ほぼ同じ規模のように思いますが、作品はいずれも豊かな感性と魅力が溢れる力作でした。今回の写真展の特徴は、風景写真が多かったことのようです。当然、撮影場所も身近な場所から日本の各地、はては北欧にまでおよび、山上から、海辺から、また近景、遠景、そのアングルも多彩です。引き込まれて作品に顔を近づけ、メガネをはずして見入ってしまった作品が沢山ありました。ずぶの素人が言うのもなんですが、“皆さん大層、腕を上げているなぁ”と言うのが正直な感想で、同時に撮影のご苦労もなんのその、シャッターチャンスを逃すまいとの若々しい気迫と、喜びが伝わってきました。
 同期の高見政博君の作品も“花の写真の手練れ”には珍しい風景写真です。「幣舞橋ぬさまいばし夕景」(撮影場所:北海道釧路)と「天空の橋」(撮影:長野県白馬村八方池)の二枚。いずれも美しく、幻想的で味わい深く、詩情あふれる作品です。紙幅の関係で「天空の橋」のみを貼り付けました。写真上部は後立山連峰(白馬連峰)。唐松岳から延びる尾根で「八方尾根」として知られています。天空に浮いた橋のように見える道は、唐松岳登山の登山道でもあり、その標高2060Mだそうです。
 思わず一人言。
 「行ってみたい。こんな景色に巡り会い、それを写真に撮れたら感激・感動ものだろうな」

 

市岡高校吹奏楽部OB・OGバンド第12回定期演奏会

 
 2月23日、大阪府立市岡高等学校吹奏楽部OB・OGバンドの第12回定期演奏会に行ってきました。
 毎回、案内状を頂きながら、前の何回かは欠席をして久し振りの演奏会です。今は亡き4組の内田勝章君に誘われて初めて演奏会に行ったことを思い出しながら会場の城東区民センターへ。出来るだけ歩こうと、タクシー利用をさけたのですが、結局道に迷い40分近く歩く始末で、開演時間ギリギリの到着でした。
 新型コロナウイルス感染の初期段階とは言え、その影響をちょっと心配したのですが、観客は市岡ゆかりの人達を中心に、定員800名の会場、ほぼ満席状態でした。
 定刻2時に開演、舞台には69名のメンバーが勢ぞろいで圧巻です。第1部は『オリジナルステージ』で、「オリンピックマーチ」「炎のランナー」「バンドのための『ゴジラ』ファンタジー」の三曲でした。2020東京オリンピックにちなんでの構成だそうですが、まずは手始めのオーソドックスな大編成バンドサウンドに圧倒されます。
 
 第2部は恒例の『アンサンブルステージ』です。これが楽しい。大小さまざまなリコーダーを使った優しく、懐かしい音色の合奏から始まり、サックスアンサンブル、金管アンサンブル、打楽器アンサンブルと続き、音色や音域が異なる同種楽器のハーモニーの新鮮さに驚き、またそれを楽しみました。小編成だけに息が合う事が要になるようですが、練習時間や場所の制約を克服しての舞台に苦労がしのばれました。個人的にはサックスアンサンブルの「ブエノスアイレスの春」が気にいりました。
 第3部はいつも大人気の『ポップスステージ』です。「MOVE ON」(報道ステーションのスポーツコーナーBGM)から、お馴染みの「ゴーストバスターズ」「美女と野獣」と続き、2020年12月に活動休止する「嵐」の楽曲12曲のメドレーで大盛り上がりです。手拍子あり、掛け声あり、立ち上がっての演奏ありなど、舞台と観客席が一体化して雰囲気は最高潮です。
 アンコールはなんと「東京音頭」と「パプリカ」で、大きな拍手喝采で終演となりました。
 トロンボーン奏者の高橋正憲さんは高校18期の最年長、すぐ傍で28日に卒業式を迎える高校72期の玉置優里さんが演奏していましたが、市岡のOB・OGバンドならではの光景に嬉しくなりました。

「12期の広場 」 2020 新春号のラインアップ

 
 明けましておめでとうございます。
 令和になって初めてのお正月、2020年のスタートです。少々、不本意な迎春準備で迎えた元日ですが、やはり身も心も新たになり、新年の喜びと期待が溢れてくるものですね。カット写真を十国峠からの富士山にしました。雄大にして壮麗、荘厳で実に美しく、清々しい心持ちで一杯。今年もきっと良い事が沢山あるような気がするのは、名にし負う、霊峰、富士の力でしょうか。
 今年も「12期の広場」を、どうぞよろしくお願い申しあげます。
 
 実はこの写真、昨年の11月11日の市岡東京12期会の翌日、同窓生の皆さんと熱海に小旅行した時に撮ったものです。十国峠は中学校の修学旅行に訪れていますが、その時の記憶が全くありません。雲一つない秋晴れの中の360度の眺望は、まさに絶景の一言。前日の同窓会の余韻と、今ここに友と共に在る感慨もあってか、2019年のハイライトになりました。
 東京12期会の同窓会は、一昨年、大阪での同窓会が終了しただけに、格別なものでした。会場は高度成長真っただ中、そのシンボルとして建てられた日本初の超高層建築の「霞が関ビル」。30歳代にこのビル内で仕事をしていた緒方君の言葉によれば、ここから東京湾が見えたそうです。今は周辺に超高層ビルが林立し、東京は大変貌。我が同窓生の足跡も、「夢の跡」のように埋もれていき、また、老は日常にさまざまな影を落としているようです。それでも市岡健児・健女の意気は高くありました。また学友との再会は何にも代えがたい喜びでした。「歳を“とる”ことを引き算で考え、日一日と若くありたいと思っています」と話した杲田さんの言葉に、心がぼぅと温かくなりました。
 今年は、「2020東京オリンピック・パラリンピック」の年でもあります。12期会で、萩原君から、添付写真の1964年東京オリンピックの時の役員証が披露されました。これは、彼が江の島でのヨット競技開催時に競技役員として参加し、その記念として贈呈されたものだそうです。一気にオリンピックが身近なものに感じられました。すでに、卓球、バドミントン、柔道などなど、東京五輪出場をかけての厳しいドラマが報じられています。オリンピック・パラリンピックは全世界からアスリートが集う平和の祭典。本番は、さらなる人間ドラマと鍛え抜かれた心技体の素晴らしさを目の当たりにすることでしょう。
 今からどきどき、わくわく、楽しみにしています。
 
 さてわが「12期の広場 」 2020新春号のラインアップです。市岡東京12期会の報告ほかに加え、11月16日に亡くなられた三井健司君を偲んで、酒井君が文章を寄せてくれました。
 三井健司君は12期の野球部エース、夏の甲子園にあと一歩に迫ったあの熱い夏の記憶はいまだに色褪せることがありません。心からのご冥福をお祈り申しあげます。
 新春号の記事は以下の5編です。ご覧ください。

1. 「第9回市岡高校東京12期会と熱海小旅行」  ・・・・・・・・・・・・・・8組 萩原 貞雄
2. 「東京12期会に参加して」  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7組 小原 靖夫
3. 「『 甲子園への夢をありがとう !!  』— 三井健司君を偲んで」 ・・・・4組 酒井 八郎
4. 「野球と人生」(卒業50周年記念文集からの転載)  ・・・・・・・・・・4組 三井 健司
5. 「四季の花籠 ― つれづれに ③ 」  ・・・・・・・・・・・・・・・・6組 高見 政博

以  上

第9回市岡高校東京12期会と熱海小旅行

8組 萩原貞雄

霞が関ビルへ

 今日は令和1年11月11日、東京霞が関ビル35階での市岡高校東京12期会の日だ。熱海小旅行参加組は12期会終了後熱海へ移動することになる。
この霞が関ビルからは眼下に皇居が見える。昨日は天皇・皇后両陛下の即位パレードが皇居から赤坂御所まで4.5kmにわたっておこなわれた。霞が関ビルは建設当時日本一高い超高層ビルであった。戦後日本の成長を象徴するビルだ。高層ビルが乱立する東京にあって、建設後50年が経った古いビルだがまだまだ健在だ。我々も昭和、平成を経て令和元年のこの日、卒後60年目の同窓会を迎えるのだ。
 

開会


 定刻になり榎本幹事による12期会のスタートだ。大石橋東京12期会会長の開会宣言に続き酒井12期会会長の祝辞を頂く。
長きに亘りこの会が続くのも両会長と幹事達、歴代の会長のお陰であろう。酒井会長から東京12期会の開催に当たり12期会本部よりお祝い金を頂く。今回の資金の一部とした。



 

物故者への黙とう

 2018年4月27日ご逝去の4組・野田播磨 君に対し全員で黙とうを捧げる。
 

ショートスピーチ


 司会の榎本幹事の計らいで今回は3時間たっぷりとってあった。遠来の山本さん、近くは都内在住の児玉さんから始まった。病気と付き合いながら元気に活躍している人。会社勤めを終え地域コミュニティへの貢献、孫のお世話に忙しい人。年金だけでは生活できないとして働き出した人もいる一方、趣味に旅行にと贅沢な時間を過ごしている人も居る。総じて女性達ははつらつとして活動的だ。スピーチの話題は尽きない。


 

参加者

 今回の参加した全員23名で記念撮影をする。写真の中に名前を榎本幹事が入れてくれた。このうち酒井会長、張、末廣、梶、古藤、藤井(鍋島)、段中(高田)さんは関西から、山本(古荘)さんはカナダから、柏木(後藤)さんは三重からの参加だ。遠くからよく来てくれました。
 この会を終わってそのまま熱海小旅行に参加する人は張、榎本、児玉(青木)、古藤、大石橋、山本(古荘)、段中(高田)、杲田(鵜飼)、柏木(後藤)、萩原、末廣、泉君の男性6名、女性6名の計12名だ。
 

今後の市岡高校東京12期会

 歓談とスピーチの時間もあっという間に過ぎ、今後のこの会の運営について皆さんの意見を聞く。以前にもいつまでこの会を続けるかについてこの会で話し合った。東京オリンピックは大分先と思っていたがやってきた。寿命も延びている。我々も体に気を配りながら年齢を重ねて行く。結局期限を定めず、可能な限りこの会を続けるということになった。
また会長、幹事についてもこれまでのご努力に感謝するとともに今まで通り続投していただくということを参加者一同で確認し合った。
 
 最後に皆さんで肩を組み校歌「東太湖の水受けて、溶々西に20余里・・・」を歌い、次回の再会を願って散会する。

熱海小旅行

 霞が関ビルから東京駅まで直線距離ではたったの2.5 km。虎ノ門から地下鉄に乗る。新橋駅で山手線に乗り換え東京駅に向かう。1時間半もかかった。12人の皆さんは旅慣れた人たちだ。それでも通勤客の激流にもまれ、東京駅で新幹線の特急券を買うのに手間取った。この混乱の中、とうとう12人は3つのグループに分かれてしまった。児玉さんらの第一グループ、段中さんらの第二グループ、榎本君らの第三グループだ。児玉さんらは先の新幹線で行ってしまったらしい。第二、第三グループは首尾よく、同じこだまの車内で一緒になった。最後は熱海駅の改札で第一グループの児玉、山本、杲田さんから出迎えを受け無事再会する。
 

熱海KKRホテル

 児玉さんのお世話で予約済みの熱海の海岸沿いにあるホテルで夕食を一緒にする。市岡という同じ高校で育ち、昭和、平成と比較的平和な時代を過ごしてきたが、60年の歳月にはそれぞれ違った山谷があっただろう。夕食を挟んでお互いの近況を話し、級友の消息を確かめ合い、夜中まで話は続く。
 

太平洋に朝日が昇る

 このホテルは熱海の海岸に面している。朝、カーテン越しに朝日が射す。カーテンを開けると太平洋に朝日が昇る。初島、伊豆大島は目の前だ。早速ホテルの7階にある露天風呂で一風呂浴びる。絶景である。今日は快晴だ。
貫一・お宮の像のある熱海の海岸から海抜771mの十国峠展望台までバスとケーブルカーの旅だ。我々12人は乗り合いバスの後部座席を陣取る。バスは熱海の街並みを見下ろしながら喘ぎながら登っていく。十国峠登り口でバスを降りケーブルカーに乗り換え頂上へ向かう。
 

十国峠


 ケーブルカーを降り立った我々を待っていたのは360度広がる景色だ。雲一つない快晴。展望台の係の人がいうにはこれほど視界の良い日はめったにないと。富士山はもとより伊豆半島の大室山、眼下の沼津、熱海、太平洋に浮かぶ伊豆大島。また目を東に転ずれば手前の三浦半島、はるか房総半島まで見える。横浜のみなとみらいにあるランドマークタワーが見えたのは感激だ。



 

来宮神社へ

 十国峠への往路、バスの運転手からバスとケーブルカー往復乗り降り自由の一日フリーパス1200円の紹介があった。全員これを買っていた。これで来宮神社に向かう。
身を清めてお参りする。
60年後の再会が果たせたことに感謝し、皆さんでこれからの健康と無事を祈る。

 

再び熱海駅へ


 フリー切符で再び熱海駅に向かう。熱海は、退職後の終の棲家として移り住んでくる人も多い。また観光地としても復活してきた。
その為か駅前は平日にも関わらず人出が多い。
昼時に12人の食事ができる居酒屋を見つけてここでも歓談の花が咲く。大分長居をしたがここで関西組と関東組はお別れとなった。

 

再会を約して

 これからもそれぞれ違った環境で違った道を歩むことになる。いつかまた再会し、来し方行く末を語り合うことがあろう。同窓会、英語でリユニオンという。簡単に言えば再会ということだ。
あの世での再会はまだ早い。あの世での同窓会の案内も当分来ないだろう。
それまで健康でいよう。また今回病気などで参加を見合わせた人は健康を取り戻して再会しよう。

 
 
                          

 写真アラカルト

霞が関ビルからの皇居 ♪♪東太湖の水受けて♪♪
スピーチに聞き入る フムフム、それでどうしたの?
旧交を温める イョー!待ってました
十国峠 真鶴半島、三浦半島、房総半島を望む 十国峠 上の地図の様に10の国が見える
ケーブルカーの中で 十国峠ケーブル駅から富士山
皆さん良い笑顔ですね
2020年もこの笑顔で行きましょう!

 
写真提供:榎本幹事、萩原

東京12期会に参加して

7組   小原靖夫
 2019年11月11日東京霞ヶ関ビル35階で開催された同窓会には、関西地方の方始め全国から参集され、和やかな中に各自の人生から湧き出た情報の交換で学びの多い大変幸せな3時間を共有することができました。
 思い起こしますと1960年3月に卒業して60年目になり、この継続を支えられてこられた方々のご尽力には並ならぬものを感じ、敬意を表し感謝申しあげます。私は今回が2回目にすぎず、この貴重な会報に載せて頂くには相応しくないと心得ておりますが、おゆるしくださいますようお願い申しあげます。
 
 歴史(人生)は過去を包含しながら現在を突破し未来に向かっていますが、私は過去を振り返る勇気を長い間、持つことができませんでした。惨めな過去に存在を見出せない自分にある種の嫌悪感を持ち続け、学生時代は劣等感との戦いの毎日であり、社会に出てからは人間関係が上手くゆかず悪戦苦闘の連続で少数者意識に逃げていました。それ故に、ひたすらに未来に向かって邁進するほかありませんでした。同窓会の案内を頂く度に、心が痛み、それを無視する自分の二面性を自覚していました。
 
 今回、私にとっては驚くべき出会いがあり、大いなる過去を気づかせて頂き感謝に耐えません。それは柏木姉(旧姓後藤姉)が、私が市岡高等学校に存在していたこと、私が全く忘却の彼方に追いやっていた時を鮮明に語ってくだり、過去の一点に火が灯されました。柏木姉は、「あるとき席が前後であったこと、私が卒業式には受験で出席できなかったこと」を思い起こしてくださったのです。そのことから鮮明に思い出したことは「人の5倍努力していた自分」でした。
 入学した最初の試験が220番でした。担任の吉田先生との個人面接で、厳しい指導を頂き、素直に従いました。次の試験では8番になり、吉田先生自慢の生徒になりました。それは範囲のある試験でしたから、人の5倍努力すれば可能なことでした。しかし、実力は低く、次の試験では98番になりました。その後も激しい変動が続き、どんなに努力しても物理と生物についていくことができなくなり自己嫌悪に陥りました。今ならそれを受け入れられる知識もあります。
 「この世に生まれる一人一人は、何か今までに存在しなかった新しいもの、独自なものを表している。一人一人は彼と同じ存在がいまだかって世になかったことを知る義務がある。一人一人は彼にしか果たせない使命を果たすべく、この世に存在している。もし、彼と同じ存在が過去においてあったとしたら、彼はこの世に今いる必要はないのだ」(マルチン・ブーバー)
 
 次に、大切なことを想起しました。内向的で暗い性格を丸出しにしていたので、同期のM君が「君には聖書があっているよ」と助言してくれました。同じ時期に川村君が何かの集会に私を誘ってくれたような記憶があるのですが。
 これを確かめたく来年は同君に会いたいと思っています。その何かの集会で私は聖書を読もうと決心しました。読んでも分かりません。M君が教会いけば、と言われ場所まで探してくれました。音楽が苦手な私に讃美歌を歌うのが辛く長続きはしませんでした。この聖書への芽がこのとき、私の中に植えられたと感じたのはずっと後のことでした。とても大事な出会いを忘れ過去を否定し続けた自分が過去の一瞬に助けられていたことに気づいたのは、今回の同窓会に出席して、柏木さんから声をかけて頂いたお蔭です。張兄は現役時代にお助けと励ましを頂いてずっと私を見守ってくださっていました。
 47歳の時に仏教詩人で有名な坂村真民さんと出会いました。最も有名な詩は「二度とない人生だから」で、多くの方の知るところです。もう一つ抜きんでているのが「念ずれば花ひらく」でこの言葉が700近く国内のみならず5大陸に建てられています。私はイスラエルの平和を願い、この仏教詩人の言葉をヘブライ語と英語に訳して、キリストの教えに従い、ヘブライ大学の植物園に建立しました。(1994年3月31日)
 今はひたすら母が残した「希望に目覚め、使命を果たし、感謝に眠る」日の来たらんことを願っています。
 この拙文にお目通し頂く皆さんに感謝いたします。

「 甲子園への夢をありがとう !! 」 — 三井健司君を偲んで

4組  酒井 八郎
 
 市岡高校の野球部エースだった三井健司君が、昨年の11月16日、彼岸へ旅立たれました。
 11月11日、東京で市岡東京12期会の同窓会が開催されて5日後のことでした。ご冥福をお祈りいたします。
 2月、6組の畠平雅生君に続いてのお別れです。お通夜、お葬式には二十人近い12期の同窓生が参列し、三井君を偲び、お見送りしました。京都から7組の別宮君が来ておられたのですが、三井君とは幼稚園、小、中、高校、そして大学まで20年近く同じ学舎で、共に過ごされた間柄だそうです。お二人がまだ幼い頃、三井君の父上が、馬車で荷物を運搬されておられたお姿を憶えておられます。
 荷車と言えば、私にも想い出があります。桶作りの職人であった父の手伝いで、子供の頃、西区の材木問屋へ行ったことです。「すしはんぼ」(ご飯を冷やし、すし飯にする時などに使う“半切り”)や「おひつ」などの木桶を作る材料の「さわら」という木材、ひとかかえもある太くて、長い原木を大八車にくくりつけ、川口町、玉川町、野田、西九条、千鳥橋を経て四貫島迄、汗びっしょりになりながら、何度も運んだことでした。
 別宮君の想い出話を聞かせていただいた後、祭壇横に置かれてある、三井君がコツコツ整理されたアルバムを拝見させてもらいました。
 息子さんや娘さん達と、そしてお孫さん達とのなごやかな家族写真と共に、川西君が撮影された写真が、笑顔の写真が何枚もありました。
 添付の写真は、昭和62年、市岡高校が第59回の春の選抜に出場した時、甲子園からの帰路、応援に行った12期の皆さんで、三井君を中心に撮ったものです。
 高校三年生の夏、藤井寺球場での大阪大会準決勝戦、彼はピッチャーズマウンドで、力投を続け、私はスタンドで、手を振り、声をはりあげ応援、八尾高校を相手に一つになっての試合でした。「もし、あの時八尾高校に勝っていたら !」の想いは、この春の選抜出場で実現されました。
 平成7年、阪神淡路大震災の年にも、市岡高校は春の選抜で甲子園に出場しています。「 甲子園出場 !! 」が、どれだけ多くの人を勇気づけ、元気づけたことでしょう。後輩のプレーに一喜一憂しながら応援し、みんなで校歌を歌い、ふたたびの夢の実現を喜び合いました。
 阪神淡路大震災の当日、三井君の運送会社の車両が貨物運送中に神戸で被災、その救援にご苦労された話を聞かせてもらいました。自宅と商店が全壊した私へも「ハッチャン、がんばりや !!」と声をかけてくれました。
 母校同窓会の佐藤会長から、12期生からも同窓会役員を出すように要請された時、心よく引き受けてくれたのが三井君です。副会長として、野球部の支援のみならず、母校同窓会の運営にも、力を注いでくれました。
 舞洲のお花見には、奥様とお孫さんと一緒に、市岡の森まで登ってこられたこともあり、やさしい「オジイチャン」でもありました。
 三井健司君、本当に長い間、甲子園への夢をありがとう !!   合掌