お知らせ
0年
2016年7月1日
『中務淳行写真展』に行ってきました。
7組 張 志朗
6月3日(金曜日)の午後、「やまと郡山城ホール」(奈良県大和郡山市)で開かれた『金魚 その池 その街・中務淳行写真展』(開催期間 6月1日~4日)に行ってきました。
中務淳行さんは、市岡の13期、写真部出身で、読売新聞の元写真部部長。また「奈良市岡歩こう会」や「市岡OB写真クラブ」のお世話をされるなど、13期は勿論、市岡の全体同窓会諸行事で活躍されておられる方です。私の個人的なおつきあいでも、時節ごとのすばらしい作品をメールで送って頂き、楽しませて頂いていることや「12期の広場」にその作品を提供いただいて
いるなどいろいろとお世話になっています。
平日の午後、多くの方々が訪れて熱心に写真展を楽しんでおられました。
中務さんの個人名を冠した写真展は、読売新聞退社後二回目だそうで、今回のテーマは全国的に有名な大和郡山の金魚です。金魚は夏の風物詩、美しくく詩情あふれる写真展でした。
久しぶりの古都奈良。近鉄大和郡山駅に降りるのは初めてで、深い緑におおわれた郡山城址を左に見ながらのんびりと会場まで歩きました。晴天の昼下がり、初夏のさわやかな風が吹き、大阪や京都の喧騒はありません。時間までもがゆっくりと流れるようでした。
写真展会場入り口付近に中務さんの「ごあいさつ」文が、かかっていました。以下に全文、紹介いたします。
「私が大和郡山市に移り住んだのは8年前。大和郡山市は金魚の国内三大生産地の一つ。朝はカメラを持って、金魚の養魚池の周辺を歩きます。
春は産卵、ふ化。金魚すくいの夏に出荷が最盛期を迎えます。また酸素補給のため窒素肥料を入れた水は植物性プランクトンで濃いみどり色になり、水面はエサが作る模様で変化し、周りの風景が映ります。秋から冬には強風で波立つ池で群れをなして元気に泳ぎます。
冬はそこにじっとしていることが多いが、水面に姿を見せることもあり、池に氷が張っても氷を透かして群れ泳いでいるのが見られます。
金魚池は一年一度、水を入れ替え、干しあげられて、鳥たちの足跡やひび割れた水底の泥が幾何学模様を見せ、水のない池が大きく変化します。
城下町の名残りがある郡山の街には、金魚が泳ぐ飾りものや公衆電話ボックスなどがみられ、金魚の街らしい装いが見られます。金魚とその池、その街の四季をどうぞごゆっくりご高覧ください。」
作品は41点です。右回りで挨拶文にある春から冬までの四季それぞれの作品が展示されていました。
始まりがユーモラスな金魚の絵が入った「マンホール」。金魚の街、歴史が深い城下町への愛着が一杯です。「S字に群遊」「孵化」「色変わり」と春の金魚のさまざまな姿が続きます。「大群泳」は盛り上がるような緋色の塊。また養魚池に鳥害から金魚を守る鳥よけの糸が張られているのですが、それをカメラは五線譜と捉え金魚が泳ぐ様を「五線譜をスイスイ」と題していました。楽しくなりました。
池には金魚を囲い込むためにびわ湖の「エリ」のような「すだれ」があります。それをアップで切り取った作品は、水面にゆれる光と陰と金魚の饗宴で、さながらアブストラクトのような魅力一杯の作品でした。そのすべてについてご紹介できないのが残念ですが、ご提供いただいた作品2枚を添付します。ご覧ください。
上は写真展の案内状にも載せられた作品で、凍った水面に野鳥が訪れ、その下に金魚が群れているすばらしい写真です。得難いシャッタチャンスをものにする精進と感性、その技術に感動しました。次の写真は丹精して育てた金魚の出荷です。
写真展では併設された小スペースで「大和百景+α」と題したスライドショウがありました。
ここで紹介された写真の数は100点以上で、吉野、宇陀、曽爾、佐保川など、奈良県各所の風景写真と中国などの海外の風景写真をスライドにしたものです。やさしい目線と自然体のカメラアングルで、美しく豊かにうつろう風景を切り取っていますが、そうであればあるほど、詩情にあふれて奥深く感じたのは私だけではなかっただろうと思っています。
まさに、写真家、中務淳行の世界。この一日は「中務ワールド」にどっぷりの一日でした。
1日から4日の写真展は盛況だったようです。市岡の同窓生が見にこられていたのは勿論ですが、私が居た短い時間内でも、一般客と思われる方々が次々とおいでになっていました。
12期の同窓生では、3日の午前中(残念ながら午後に行った私とは行き違いになりましたが)1組の久保田靖子さん、4組の古藤知代子さんが来ておられました。
会場を出た後、折角ですので郡山城址を散策しました。
郡山城は、天正8年(1580年)織田信長と組んだ筒井順慶が明智光秀の指導のもとにその整備を始めたとのことです。後に豊臣秀吉の弟の秀長の居城になり、100万石の城郭の大増築と城下町の建設が進められ、徳川幕府の時代、柳澤吉里(柳澤吉保の子)が入部の後、城下を中心に心学、国学、漢学、俳諧、茶道、花道などが栄えたそうです。有名な金魚の養殖や赤膚焼がこの時代にさかんになり、特に金魚の養殖は武家の副業としてひろまったとのことでした。
残っている城郭あとはそう広くはありませんでした。おまけにその大部分が工事中で、高い堀端の石積みの上からの眺望を楽しめただけです。
城址を囲み、緑にうもれるように創立120年の「奈良県立郡山高等学校」の諸施設が広がっていて、夕方の静けさの中、クラブ活動の学生たちの歓声が響きわたっていました。
2016年7月1日
『 フォークダンスの先生 』
高校時代の課外行事で思い出深いものの一つに「フークダンス」があるのではないでしょうか。
体育祭後のファイアーストームで踊ったことは、今も記憶に鮮やかですが、授業のない土曜日午後、校舎裏の運動用スペースでもフォークダンスをやった記憶があります。
高校生になって初めて女子生徒と手を取って踊る経験、照れくさかったけれども心踊る楽しい思い出です。
フォークダンスが初めて母校に入ってきたのは、私達が入学する一年前の昭和31年度のことだったそうです。そのいきさつについて保健体育科 辻井美智子先生が「みをつくし」第84号(学校新聞)に文章を書いておられます。卒業アルバムを開いてみると、保健体育科の先生に辻井先生のお名前がありません。永井先生の誤りではないかと思うのですが、どうでしょうか。
以下にその文章をご紹介します。(「母校創立百周年記念誌」P272から転載)
「いつのまにやら、どこからともなく『フォークダンスの先生』と呼ばれるようになってしまいました。本校のフォークダンスはようやく満一歳の誕生をむかえたばかりですが、府下の高校では第一といってもいいと思います。
昨年の夏、アメリカからマイケル・ハーマン氏一行が来阪された際、府立体育館での講演会に参加して、神沢先生と私が、ファーマン夫妻の手を取って踊る光栄に浴したものです。他に参加された本校の先生方といえば、あなた方が初めて経験をされた当時と全く同じで、『リズムオンチ』人の足をふむ、ロボットのようにかたく、ステップは全くわからないというありさまでした。でもみんな楽しい冷汗を出して、涙ぐましい努力をされました。それでいいんです。フォークダンスはあくまでもやるものであって、見るものでもなく、見せるものでもないのです。みんな一緒に楽しむもので苦しむものではないのです。自分一人で楽しむものでもなく、ただ踊りの手ぶりや、足どりを上手にやるだけのものではないのです。
フォークダンスをやる人が多くなったことは喜ばしいことだと思っています。しかし一部ではソーシャルダンスなどが反面として持っている享楽的な面ばかりを見る立場から、フォークダンスの在り方について一概に白い目で見る向きもないではないのですが、私達が参加しているフォークダンスが、もっとも健康な明るいものであることは皆さんが体験でおわかりと思います。私達はフォークダンスを通じてすっきりして、明るい交際を楽しむべきなのです。またリズム感覚や、正しい歩行と歩き方を、若さとはちきれるような健康を学びとりたいのです。
昨年の運動会、夕焼け空の下で運動場いっぱいになって、ほとんど、全校生に近い生徒が市岡のテーマソングともいうべき『オクラホマ・ミクサー』を踊った時、私は感激のあまり涙がとまりませんでした。
また、秋の遠足で六甲山カントリーハウスで緑の大芝生のもと、まばゆく太陽を浴びながら、2,3時間踊ったことが思い出されます。」
あらためて卒業アルバムを調べたのですが、フークダンスに関連した写真が、体育祭後の「ファイヤーストーム」と、「秋に遠足」の二枚しかありませんでした。いずれも何年次であったのかが不明です。ご容赦下さい。
フークダンスにまつわるエピソードや思い出話をご記憶の方は是非、ご投稿下さい。
体育祭後のファイアーストームで踊ったことは、今も記憶に鮮やかですが、授業のない土曜日午後、校舎裏の運動用スペースでもフォークダンスをやった記憶があります。
高校生になって初めて女子生徒と手を取って踊る経験、照れくさかったけれども心踊る楽しい思い出です。
フォークダンスが初めて母校に入ってきたのは、私達が入学する一年前の昭和31年度のことだったそうです。そのいきさつについて保健体育科 辻井美智子先生が「みをつくし」第84号(学校新聞)に文章を書いておられます。卒業アルバムを開いてみると、保健体育科の先生に辻井先生のお名前がありません。永井先生の誤りではないかと思うのですが、どうでしょうか。
以下にその文章をご紹介します。(「母校創立百周年記念誌」P272から転載)
「いつのまにやら、どこからともなく『フォークダンスの先生』と呼ばれるようになってしまいました。本校のフォークダンスはようやく満一歳の誕生をむかえたばかりですが、府下の高校では第一といってもいいと思います。
昨年の夏、アメリカからマイケル・ハーマン氏一行が来阪された際、府立体育館での講演会に参加して、神沢先生と私が、ファーマン夫妻の手を取って踊る光栄に浴したものです。他に参加された本校の先生方といえば、あなた方が初めて経験をされた当時と全く同じで、『リズムオンチ』人の足をふむ、ロボットのようにかたく、ステップは全くわからないというありさまでした。でもみんな楽しい冷汗を出して、涙ぐましい努力をされました。それでいいんです。フォークダンスはあくまでもやるものであって、見るものでもなく、見せるものでもないのです。みんな一緒に楽しむもので苦しむものではないのです。自分一人で楽しむものでもなく、ただ踊りの手ぶりや、足どりを上手にやるだけのものではないのです。
フォークダンスをやる人が多くなったことは喜ばしいことだと思っています。しかし一部ではソーシャルダンスなどが反面として持っている享楽的な面ばかりを見る立場から、フォークダンスの在り方について一概に白い目で見る向きもないではないのですが、私達が参加しているフォークダンスが、もっとも健康な明るいものであることは皆さんが体験でおわかりと思います。私達はフォークダンスを通じてすっきりして、明るい交際を楽しむべきなのです。またリズム感覚や、正しい歩行と歩き方を、若さとはちきれるような健康を学びとりたいのです。
昨年の運動会、夕焼け空の下で運動場いっぱいになって、ほとんど、全校生に近い生徒が市岡のテーマソングともいうべき『オクラホマ・ミクサー』を踊った時、私は感激のあまり涙がとまりませんでした。
また、秋の遠足で六甲山カントリーハウスで緑の大芝生のもと、まばゆく太陽を浴びながら、2,3時間踊ったことが思い出されます。」
あらためて卒業アルバムを調べたのですが、フークダンスに関連した写真が、体育祭後の「ファイヤーストーム」と、「秋に遠足」の二枚しかありませんでした。いずれも何年次であったのかが不明です。ご容赦下さい。
フークダンスにまつわるエピソードや思い出話をご記憶の方は是非、ご投稿下さい。
2016年6月1日
「12期の広場」6月号のラインナップ
6月です。
大川さんの絵手紙をこの欄に載せ始めてから今回で10回目です。1年のお約束でお願いしましたから、後、2回を残すのみです。感謝、感謝です。今月号の絵手紙は、「紫陽花」です。この原稿を自宅で書いているのですが、丸窓から、そぼふる雨に濡れる紫陽花が見えます。今年は花芽がたいそう多いようで、数えて見ると30をこえています。咲くのが、今から楽しみです。
絵手紙の表書きに「梅雨の季節になると『つめ色の雨』という歌を想い出します。『えんぴつ色の 角だしてまいまいつぶろが 見ています 静かに・・・』とありました。「つめいろの雨」とはどんな色の雨なのでろう。思わず、自分の爪を見てしまいました。また、そんな歌があったのだろうかと思ったのですが、大川さんは電話口で、そのメロディをはっきりと口ずさんでくれました。
早速、ネットで検索。ありました。おまけに、その歌まで聞けました。
なんと、サトウハチロウの作詞(大正8年、サトウハチロウが23歳の時に出版した処女詩集『爪色の雨』に収録されている)で、ボニージャックスが歌っています。ちょっと長くなりますが、書き出してみます。
爪色の雨が降ります しずかに しずかに
あじさいの花がけむります しずかに しずかに
誰にも知れないように お風呂場の壁がぬれて行きます しずかに しずかに
鉛筆色の 角だして まいまいつぶろが 見ています しずかに しずかに
爪色の雨の降るたびに あなたと旅した あの頃を
あなたのお下髪(さげ)を ほほえみを 耳のうぶ毛を はじらいを
あの山脈を あの指を 爪色の雨の降るたびに
情緒豊か、情感あふれる詩ですね。
若い頃、ある女性が「優しく雨が降る日がすきです。音が消えたように感じられ、光る屋根の家々を長時間眺めていても飽きません。」と話していたことを思い出しました。
一昨年も、昨年も、6月号のこの欄で梅雨が慈雨でありますようにと書きましたが、今年は殊更に、瑞穂の国の穏やかな梅雨であってほしいと願うばかりです。
さて、わが「12期の広場」6月号のラインナップは、次の通りです。お楽しみください。
1. 「兵庫市岡歩こう会が開催されました」 6組 高見 政博
2. 「ツーセル(社長:辻紘一郎)、中外製薬と膝軟骨再生治療でライセンス契約」
3. 「陶芸のこと (3) ー川歩きー」 8組 山田 正敏
大川さんの絵手紙をこの欄に載せ始めてから今回で10回目です。1年のお約束でお願いしましたから、後、2回を残すのみです。感謝、感謝です。今月号の絵手紙は、「紫陽花」です。この原稿を自宅で書いているのですが、丸窓から、そぼふる雨に濡れる紫陽花が見えます。今年は花芽がたいそう多いようで、数えて見ると30をこえています。咲くのが、今から楽しみです。
絵手紙の表書きに「梅雨の季節になると『つめ色の雨』という歌を想い出します。『えんぴつ色の 角だしてまいまいつぶろが 見ています 静かに・・・』とありました。「つめいろの雨」とはどんな色の雨なのでろう。思わず、自分の爪を見てしまいました。また、そんな歌があったのだろうかと思ったのですが、大川さんは電話口で、そのメロディをはっきりと口ずさんでくれました。
早速、ネットで検索。ありました。おまけに、その歌まで聞けました。
なんと、サトウハチロウの作詞(大正8年、サトウハチロウが23歳の時に出版した処女詩集『爪色の雨』に収録されている)で、ボニージャックスが歌っています。ちょっと長くなりますが、書き出してみます。
爪色の雨が降ります しずかに しずかに
あじさいの花がけむります しずかに しずかに
誰にも知れないように お風呂場の壁がぬれて行きます しずかに しずかに
鉛筆色の 角だして まいまいつぶろが 見ています しずかに しずかに
爪色の雨の降るたびに あなたと旅した あの頃を
あなたのお下髪(さげ)を ほほえみを 耳のうぶ毛を はじらいを
あの山脈を あの指を 爪色の雨の降るたびに
情緒豊か、情感あふれる詩ですね。
若い頃、ある女性が「優しく雨が降る日がすきです。音が消えたように感じられ、光る屋根の家々を長時間眺めていても飽きません。」と話していたことを思い出しました。
一昨年も、昨年も、6月号のこの欄で梅雨が慈雨でありますようにと書きましたが、今年は殊更に、瑞穂の国の穏やかな梅雨であってほしいと願うばかりです。
さて、わが「12期の広場」6月号のラインナップは、次の通りです。お楽しみください。
1. 「兵庫市岡歩こう会が開催されました」 6組 高見 政博
2. 「ツーセル(社長:辻紘一郎)、中外製薬と膝軟骨再生治療でライセンス契約」
3. 「陶芸のこと (3) ー川歩きー」 8組 山田 正敏
以 上
2016年6月1日
兵庫市岡歩こう会が開催されました。
5月15日(日)兵庫市岡歩こう会が開催されました。当日の天気は快晴。初夏の日差しは少し暑いくらいでした。参加者は50名。最高齢は旧中42期の大先輩。最年少は30期生で、12期生は古藤さん、段中さんと私、髙見の3名。最多参加者の期は13期生の14名でした。
今回の行き先は、猪名川町にある「多田銀銅山跡巡り」です。
多田銀銅山は猪名川町を中心に北摂地域に東西約25kmにわたり坑道が開削された広大な鉱山です。ボランティアガイドさんの説明では1000を越える間歩(坑道)があり、うかつに山の中に入ると竪穴が隠れていて危険だそうです。歴史も古く、奈良時代には東大寺大仏建立にあたってこの地の銅が献上されたと言われています。一帯は多田源氏発祥の地で、多田源氏が力を持ったのもこの地の銀、銅が一役買ったのではとのこと。
安土桃山時代に、豊臣秀吉が本格的に開発し、江戸時代には3千軒の家があった程の賑わいだったようです。また、秀吉が息子秀頼の将来を案じ、4億5000万両の大金を隠したといわれ、埋蔵金探しも最近まで行われていたといいます。
コースは、能勢電鉄日生中央駅→多田銀山悠久の館→(昼食)→代官所跡→伝代官所の門→青木間歩→金山彦神社→日生中央駅でした。
昼食の後は現地のボランティアの方が案内をして下さって、青木間歩では入口から15m程が見学出来ました。行程は急な坂も無く舗装路でしたが、距離が少し長かったので、日生中央駅に着いた時には結構疲れていました。しかし全員無事完歩、楽しく終了しました。
今回の行き先は、猪名川町にある「多田銀銅山跡巡り」です。
多田銀銅山は猪名川町を中心に北摂地域に東西約25kmにわたり坑道が開削された広大な鉱山です。ボランティアガイドさんの説明では1000を越える間歩(坑道)があり、うかつに山の中に入ると竪穴が隠れていて危険だそうです。歴史も古く、奈良時代には東大寺大仏建立にあたってこの地の銅が献上されたと言われています。一帯は多田源氏発祥の地で、多田源氏が力を持ったのもこの地の銀、銅が一役買ったのではとのこと。
安土桃山時代に、豊臣秀吉が本格的に開発し、江戸時代には3千軒の家があった程の賑わいだったようです。また、秀吉が息子秀頼の将来を案じ、4億5000万両の大金を隠したといわれ、埋蔵金探しも最近まで行われていたといいます。
コースは、能勢電鉄日生中央駅→多田銀山悠久の館→(昼食)→代官所跡→伝代官所の門→青木間歩→金山彦神社→日生中央駅でした。
昼食の後は現地のボランティアの方が案内をして下さって、青木間歩では入口から15m程が見学出来ました。行程は急な坂も無く舗装路でしたが、距離が少し長かったので、日生中央駅に着いた時には結構疲れていました。しかし全員無事完歩、楽しく終了しました。
( 記 —– 高見 政博 )
2016年6月1日
ツーセル(社長:辻紘一郎)、中外製薬と膝軟骨再生治療でライセンス契約
辻紘一郎君(8組)が代表取締役社長を務める株式会社ツーセルが、自社の膝軟骨再生細胞治療製品に関するライセンス契約を中外製薬株式会社と締結したという、うれしいニュースが報道されました。すでに各種メディアを通じてご存知の同窓生も居られると思いますが、ここに紹介させていただきます。4月26日の日本経済新聞によれば、『広島大発バイオベンチャーのツーセル(広島市)は25日、軟骨の再生細胞治療に関して、中外製薬とライセンス契約を締結したと発表した。契約により受け取る一時金や成功報酬は数十億円規模になるとみられる。大手製薬会社との契約により、早期の臨床試験(治験)開始や実用化をめざす。』とあります。
2003年4月の創業以降、一貫して間葉系幹細胞(MSC)による再生医療の研究・開発にたずさわってきたツーセルが、いよいよ本格的に再生医療市場にその治療製品を提供する段階に入ったと、大きな期待をもって注目をあびています。
13年にわたり社長をつとめ、ツーセルを牽引してきた辻紘一郎君は『当社は、自社開発の無血清培地で間葉系幹細胞を大量培養し、医薬品で治療できない疾患に対して移植することで、多くの患者さんの治療に貢献したいという思いから再生医療製品の開発に取り組んできました。大阪大学や広島大学との共同研究により開発したgMSC®1は、"広島を世界の再生医療の拠点の一つにする”を合言葉に掲げ開発を進めてきた「広島発同種移植用細胞製剤の第1号」です』と語っています。
2年前の12期同窓会での特別講演で、人の自然治癒力と再生医療への想いを語ってくれた辻君の姿が思い起こされますね。
中国新聞の報道では『ツーセルによると、膝を痛めている患者は全国に約2900万人に上る。スポーツ選手や高齢者への移植を想定する』とあり、日経バイオテクONLINEでは『ツーセルが開発を進めているのは健常人の滑膜細胞から間葉系幹細胞(MSC)を採取、培養した他家の軟骨製品。負傷か所に注射で投与すると軟骨が再生する。拒絶反応を起こしにくいため、ヒト白血球型抗原(HLA)のタイプにかかわらず使用でき、免疫抑制剤の投与も必要ないという。』とありました。また『他家のため価格も押さえられ、「市販時の価格を1桁下げられる」(辻社長)』とあります。2017年から治験を開始、2020年の発売の見込みのようで、変形性関節症にも適用拡大していくそうです。膝関節の疾患に苦しむ患者さんにとって、すばらしい希望、福音になるようです。
私の身の周りでいえば、家内が若い頃、ソフトボールで膝を痛めて苦しんだことがあり、また息子が移植治療で拒絶反応と免疫抑制剤の投与に苦しみ、未だにその後遺症悩まされています。自身が後期高齢者になったことと考え合わせると今回の再生医療製品は、実に身近なもの、またそのすぐれもの度合いが腑におちます。
年齢を重ねてますます磨きがかかった磊落でエネルギッシュ、熱い気持ちのかたまりとも言える辻紘一郎君の更なる活躍に期待したいと思っています。
(文責:張 志朗)
- 追記:「ツーセル」で検索すると株式会社ツーセルのホームページが閲覧できます。
MSC(間葉系幹細胞)を詳しく知りたい方は是非、検索して見て下さい。
2016年6月1日
陶芸のこと (3) ー川歩きー
陶芸について2回にわたって書いたが、退職後の生活でもう一つの大切にしているのが市岡の同窓生と行う「川歩き」である。
小生65歳の時であった。今は亡き河合兵治の発案により始めた1泊2日の「川歩き」の第1弾が“利根川川歩き”である。
銚子漁港が出発地点であるが前日、壮行会をやろうと言う事で、犬吠岬のホテルに一泊した。泉は当日、所要で欠席。一日目の宿泊地、潮来のホテルで合流するとの事で川合、榎本、山田の三人がいよいよ出発。平成19年(2007年)10月31日に始まった。潮来のホテルまで地図上約40km。9時ごろホテルを出発、出発地点の銚子漁港を経由、昼食時間30分を除いてその日の日没まで(午後4時半か)を考えると7時間で真っ暗になる。計画ミスである。とても宿泊地の潮来には着けない。潮来まで宿はない。そこで、比較的近い成田線香取駅までなんとかタクシーを拾って出て、潮来まで一駅ではあるが電車に乗る事にしたのである。三人共クタクタ、完全な計画ミスであった。
潮来の宿で泉と合流。今後のことも含め打ち合わせ。泉の提案で「もう少し余裕を持った計画にする事」。「行路の途中の近くの名所旧暦のあるところを見学する事」。そして「夕食はうなぎを食する事」。全員、反省も含めて納得、大賛成。
2回目、3回目からは、大石橋と西条が参加。6人のメンバーとなる。
4年後、平成23年(2011年)5月9日の9回目、群馬県 奥利根湖の八木沢ダム横に建つ「利根川源流の碑」でもってで完了。踏破距離は約300km。
「利根川川上り」最後の9回目に先立ち、踏破完了後、その記念報告会を群馬県水上市でする為、しかるべきメンバーに案内状を発送するべく、その作成中に発生した「東北大地震と大津波」。案内状の発送は当然中止。「利根川川歩き」踏破記念パーテーは、後日、メンバーのみで行った。人生一寸先は闇。小生当時69歳。大地震と津波で亡くなった、多くの人々の事に思いをはせるに、これからの人生、謙虚に精一杯 頑張ろうと思った次第である。
そして、第2弾の「川歩きは」関東第2の大河、“荒川”に決定。平成24年3月11日、スタート。27年4月28日、6回目で踏破。(延長173km)
その間、26年12月 川合が肺癌の為、逝去。3回目以降は5人(泉、榎本、大石橋、西条、山田)となる。
第3弾目の「川歩きは」メンバー5人の協議の結果、荒川と同じく東京湾を河口とする関東の名流「多摩川」(延長138km)に決定。4~5回程度で踏破か?川合が抜けたのは実に無念である。他の参加者を募っているが、なかなか参加してくれるメンバーがいないようだ。
川歩きを始めてから、他のメンバーに遅れないようについて行く為、又、体調維持の為
日・祭日や暇なときに船橋市内を3時間程度、時々ルートを変えて、「早足散歩」と称し12~15km歩く事にしている。その為か、医者から糖尿病と言われていたが、最近すこぶる体調が良く、現在体重は10kg減の65kg。糖尿病の数値が改善、酒が旨い。これも「川歩き」の為の「早足散歩」の効用である。 陶芸と3時間の「早足散歩」、暇を持て余す事がない。出来れば、90歳までは続けたいと思っている。
小生、日頃から皆さんに人生90年、長生きしようと言ってきたが、最近もう少し長生きしなくてはならなくなった。
それは、小生の長男家に一昨年8月、孫娘が生まれたのである。我が山田家としては初孫であり、可愛さでは何処に出しても引けを取らない自慢の孫娘で、2ヶ月に一度、我が家に来てくれ、3~4日泊まっていくのであるが、来る度にその成長が見受けられ、何事にも代えがたい喜びを味わっている。成人したらどんなに美人になるのだろう。成人式の孫娘をなんとしても見たいものだと考えたとき、小生の寿命90歳では3年、時間が足りない。93歳まで長生きしなくてはならない。
選挙権が20歳から18歳に2年早くなった今日、成人式もそうはならないのか !! いやいや、そんなセコイ事は考えまい。
そこで、小生「人生93年」93歳まで生きる事を宣言する。
その為、「陶芸」と「早足散歩」を絶対続ける事を決心した次第である。
ご拝読有難うございました。
小生65歳の時であった。今は亡き河合兵治の発案により始めた1泊2日の「川歩き」の第1弾が“利根川川歩き”である。
銚子漁港が出発地点であるが前日、壮行会をやろうと言う事で、犬吠岬のホテルに一泊した。泉は当日、所要で欠席。一日目の宿泊地、潮来のホテルで合流するとの事で川合、榎本、山田の三人がいよいよ出発。平成19年(2007年)10月31日に始まった。潮来のホテルまで地図上約40km。9時ごろホテルを出発、出発地点の銚子漁港を経由、昼食時間30分を除いてその日の日没まで(午後4時半か)を考えると7時間で真っ暗になる。計画ミスである。とても宿泊地の潮来には着けない。潮来まで宿はない。そこで、比較的近い成田線香取駅までなんとかタクシーを拾って出て、潮来まで一駅ではあるが電車に乗る事にしたのである。三人共クタクタ、完全な計画ミスであった。
潮来の宿で泉と合流。今後のことも含め打ち合わせ。泉の提案で「もう少し余裕を持った計画にする事」。「行路の途中の近くの名所旧暦のあるところを見学する事」。そして「夕食はうなぎを食する事」。全員、反省も含めて納得、大賛成。
2回目、3回目からは、大石橋と西条が参加。6人のメンバーとなる。
4年後、平成23年(2011年)5月9日の9回目、群馬県 奥利根湖の八木沢ダム横に建つ「利根川源流の碑」でもってで完了。踏破距離は約300km。
「利根川川上り」最後の9回目に先立ち、踏破完了後、その記念報告会を群馬県水上市でする為、しかるべきメンバーに案内状を発送するべく、その作成中に発生した「東北大地震と大津波」。案内状の発送は当然中止。「利根川川歩き」踏破記念パーテーは、後日、メンバーのみで行った。人生一寸先は闇。小生当時69歳。大地震と津波で亡くなった、多くの人々の事に思いをはせるに、これからの人生、謙虚に精一杯 頑張ろうと思った次第である。
そして、第2弾の「川歩きは」関東第2の大河、“荒川”に決定。平成24年3月11日、スタート。27年4月28日、6回目で踏破。(延長173km)
その間、26年12月 川合が肺癌の為、逝去。3回目以降は5人(泉、榎本、大石橋、西条、山田)となる。
荒川の源流に到着。「源流の水で川合君の好物のウイスキーの水割りを作り再び献杯。
・・・ひたすらこの間の自然と人とのふれあいが懐かしく、とりわけ市岡の仲間と楽しく充実した時間を
過ごせたことがうれしい。」(泉信也)
・・・ひたすらこの間の自然と人とのふれあいが懐かしく、とりわけ市岡の仲間と楽しく充実した時間を
過ごせたことがうれしい。」(泉信也)
第3弾目の「川歩きは」メンバー5人の協議の結果、荒川と同じく東京湾を河口とする関東の名流「多摩川」(延長138km)に決定。4~5回程度で踏破か?川合が抜けたのは実に無念である。他の参加者を募っているが、なかなか参加してくれるメンバーがいないようだ。
川歩きを始めてから、他のメンバーに遅れないようについて行く為、又、体調維持の為
日・祭日や暇なときに船橋市内を3時間程度、時々ルートを変えて、「早足散歩」と称し12~15km歩く事にしている。その為か、医者から糖尿病と言われていたが、最近すこぶる体調が良く、現在体重は10kg減の65kg。糖尿病の数値が改善、酒が旨い。これも「川歩き」の為の「早足散歩」の効用である。 陶芸と3時間の「早足散歩」、暇を持て余す事がない。出来れば、90歳までは続けたいと思っている。
小生、日頃から皆さんに人生90年、長生きしようと言ってきたが、最近もう少し長生きしなくてはならなくなった。
それは、小生の長男家に一昨年8月、孫娘が生まれたのである。我が山田家としては初孫であり、可愛さでは何処に出しても引けを取らない自慢の孫娘で、2ヶ月に一度、我が家に来てくれ、3~4日泊まっていくのであるが、来る度にその成長が見受けられ、何事にも代えがたい喜びを味わっている。成人したらどんなに美人になるのだろう。成人式の孫娘をなんとしても見たいものだと考えたとき、小生の寿命90歳では3年、時間が足りない。93歳まで長生きしなくてはならない。
選挙権が20歳から18歳に2年早くなった今日、成人式もそうはならないのか !! いやいや、そんなセコイ事は考えまい。
そこで、小生「人生93年」93歳まで生きる事を宣言する。
その為、「陶芸」と「早足散歩」を絶対続ける事を決心した次第である。
ご拝読有難うございました。
以上。
利根川歩きの途上の一里塚ならぬ河口からの距離表示。はるか彼方に赤城山、子持山、小野子山が見えています。ここまでで行程は181.5km。この倍近くの距離を川合君を含めた同窓生と踏破したのですね。
2016年5月1日
「12期の広場」5月号のラインアップ
5月です。「風薫る5月」と書き始めたいところですが、熊本市を中心とした地震とその被害に心が晴れません。と言うより、この地震に大きな衝撃を受けています。震度7の前震に続いてそれを上回るエネルギーを持つ震度7の本震、過去に事例がない程に続発する余震とそれによる大被害に言葉がありません。東日本大震災、特に私自身が阪神淡路大震災を経験しただけに、地震への恐怖とその惨状の記憶が甦り、被災地の方々の心労、心痛や如何ばかりかと胸がふさがる思いです。
九州に12期同窓生が何人か在住していますが、同窓生名簿によると、熊本県にはおられないようです。震央に近い市域で言えば、福岡県大牟田市内に田中健治君(7組)が在住しています。大牟田市は、震度5強の揺れがあった玉名市に県境で接しています。電話で連絡を取ったところ、震度4から5弱程度、自宅の建物被害も大きくなく、家族、親戚一同の人的被害もなかったとのことで、まずは安堵しました。
新聞、テレビの報道によれば、地域差はあるものの、被災地の懸命の努力と基幹インフラの復旧や被災者支援が進むことによって、入浴など、ささやかな日常の回復がようやく始まったように見受けられます。
余震が一分一秒でも早く沈静化し、心と体のケア、生活の再建と復旧が加速することを願うばかりです。
今月号の上原澄子さんの「絵手紙」は端午の節句にちなんでの「兜」です。その表書きにこうありました。「新緑の良い季節になりましたね。思いがけない熊本の震災には地震国日本の恐ろしさを思い知らされました。熊本城も悲しくなります。今月は兜を描きました。」
震災に思いを馳せ、そして描いてくれた味わい深い「絵手紙」に感謝、感謝です。
新緑が美しい野や山には百花が咲き誇り、大空に雄々しく鯉のぼりが泳ぐ。まさに端午の節句の5月なのですね。
端午の節句は5節句(七草の節句、桃の節句、端午の節句、七夕の節句、重陽の節句)の内の一つ、調べてみると紀元前3世紀ころに始まったとのことです。そのいわれと長い歳月をかさねあわせると、営々とつづく人の願いやそのたおやかな営みへのいとおしいさが、一層、つのるように思えてなりませんが、「感傷」に過ぎるでしょうか。
さて今月号の「12期の広場」のラインアップは、次の通りです。
舞洲の此花市岡会のお花見の後、幹事会が開かれ、今秋の同窓会の要項が決定されました。まずはその報告記事です。今年も多くの同窓生と再会できることを楽しみにしています。
『趣味のギャラリ』は山田正敏君の「陶芸」の2回目です。無理を言って、陶芸クラブの内容についても追加投稿して頂きました。作品写真を合わせてお楽しみ下さい。
1. 「市岡の森のお花見と幹事会の報告」
2. 『趣味のギャラリー』 「 陶芸のこと -②」 8組 山田 正敏
以 上
2016年5月1日
市岡の森のお花見と幹事会の報告
4月10日(日曜日)、大阪舞洲の市岡の森で此花市岡会による恒例のお花見が開かれました。当日は晴天とはいきませんでしたが、おおむね晴れ。気温も20度前後でお花見には申し分ありませんでした。
午前11時前に“舞洲ロッジ”の玄関前に集合し、注文しておいたお弁当を受け取り、小高い丘陵地である“夕陽が丘”に登り、会場の市岡の森に向かいました。ここには我が12期同窓会をはじめ、各期同期会や市岡ゆかりの方々が植樹した桜、数十本があります。12期は母校創立100周年と卒業50周年の2回、ソメイヨシノ二本の記念植樹をしています。樹勢はまだまだ若木といった感じですが、立派に育ち、さながら桜の森といった風情でした。また市岡の森について、玉田先生が『森は市岡の名を冠して人々が集うところ』と話されたことを思い出しました。
2~3日前の強い雨と風で桜の花が散ってしまったのではと心配していましたが、市岡の森の桜は満開から散り始めの状態で、美しい桜を十分に楽しめました。
11時過ぎにお花見会が開会。
此花市岡会の副会長である大山泰正さん(高校19期)が挨拶され、恒例のお花見会開催に大きく尽力され、3月に急逝された此花市岡会西尾賢治会長(高校21期)への黙祷をささげました。『人を楽しませる達人』と言われた篤志の人、西尾会長の突然の訃報に言葉がありません。
お花見会の参加者は全体で約200名、12期は16名でした。12期の参加者は、八島節子(1組)さん、山西邦子さん、北浦昌子さん、熊谷郁代さん(2組)、清水誠二郎君(3組)、酒井八郎君、原清明君、竹田裕彦君、古藤知代子さん(4組)、段中文子さん(5組)、武田博君、畠平雅生君ご夫妻(6組)、張志朗(7組)、末廣訂君、川村浩一君(8組)の皆さんでした。
12期は市岡の森のあずま家で車座になり、おいしいお花見弁当とビールやお酒(此花市岡会の城山先輩からの差し入れ)とお喋りで宴をスタートさせました。
例年、“幻の”お酒とあて、コップや氷まで持ってきてくれる原清明君が、今年はなんと高級シャンパン“ドンペリ”を持ってきてくれました。まずは“女の子”にとみずから注いでくれて大盛り上がりでした。
八島節子さんは今年お一人の参加。同窓生の御主人(八島平玐君)は野田の自宅から自転車で大阪城公園にある弓道場に試合に出かけたそうで、元気一杯。
武田博君は地域のラジオ体操の担当で、毎朝6時半にラジオを持って公園に出かけて体操をしているそうです。冬は大変で一人も出てこないことがあるそうですが、かかさず出かけるそうです。先月号の“豚汁会の報告”を書いてくれた末廣訂君もこの日は杖なしで元気な顔を見せてくれました。竹田裕彦君は長い介護の末、お父様を103才で、お母様を99才で見取られたとの事でした。12日違いの葬儀、お父様の49日とお母様の35日が同じ日だったそうです。あれやこれや、皆さんの近況よもやま話は、つきることがありませんでした。
お花見の会では母校吹奏楽部の演奏がありました。今年の母校新入生は「定員割れ」でしたが、そのショックをのり越えての元気で楽しい演奏を聞かせてくれました。特に“美空ひばりメドレー”には参加者の大きな手拍子が起こり、大喝采でした。吹奏楽部の伴奏で校歌を斉唱してお花見会は午後1時過ぎに中締めとなりました。
その後、「市岡の森記念碑」の前での記念撮影です。この前と横に12期が記念植樹した桜があるのですが、数年前の暴風でその「銘板」が飛ばされてどれがその桜か分からなくなっています。木工機械と木工の専門家である畠平君に相談して復旧することになりました。
12期の私たちは会場を舞洲ロッジのレストランのバルコニーに移して、今秋の同窓会のための幹事会を開催しました。ここには幹事14名が参加し、下記のように『2016同窓会』の要項を決定しました。ご覧ください。
― 記 ―
名 称: 「大阪府立市岡高等学校12期 2016同窓会」
日 時: 平成28年10月16日(日曜日) 午後12時30分 受付開始
午後 1時 開 会
場 所: ホテルクライトン新大阪( 大阪市淀川区西中島 2-13-32 )
TEL 06(6885)1211 FAX 06(6885)7011
*地下鉄西中島南方 徒歩 5分で前回と同じ会場です。
会 費: 本会 ¥8,500- 二次会 ¥1,500-
主内容: ・1時~4時 本会 (同窓生による特別講演も予定しています。)
・4時半~6時半 同ホテル別室にて二次会
その他: 8月20日 案内状発送予定。
午前11時前に“舞洲ロッジ”の玄関前に集合し、注文しておいたお弁当を受け取り、小高い丘陵地である“夕陽が丘”に登り、会場の市岡の森に向かいました。ここには我が12期同窓会をはじめ、各期同期会や市岡ゆかりの方々が植樹した桜、数十本があります。12期は母校創立100周年と卒業50周年の2回、ソメイヨシノ二本の記念植樹をしています。樹勢はまだまだ若木といった感じですが、立派に育ち、さながら桜の森といった風情でした。また市岡の森について、玉田先生が『森は市岡の名を冠して人々が集うところ』と話されたことを思い出しました。
2~3日前の強い雨と風で桜の花が散ってしまったのではと心配していましたが、市岡の森の桜は満開から散り始めの状態で、美しい桜を十分に楽しめました。
11時過ぎにお花見会が開会。
此花市岡会の副会長である大山泰正さん(高校19期)が挨拶され、恒例のお花見会開催に大きく尽力され、3月に急逝された此花市岡会西尾賢治会長(高校21期)への黙祷をささげました。『人を楽しませる達人』と言われた篤志の人、西尾会長の突然の訃報に言葉がありません。
お花見会の参加者は全体で約200名、12期は16名でした。12期の参加者は、八島節子(1組)さん、山西邦子さん、北浦昌子さん、熊谷郁代さん(2組)、清水誠二郎君(3組)、酒井八郎君、原清明君、竹田裕彦君、古藤知代子さん(4組)、段中文子さん(5組)、武田博君、畠平雅生君ご夫妻(6組)、張志朗(7組)、末廣訂君、川村浩一君(8組)の皆さんでした。
12期は市岡の森のあずま家で車座になり、おいしいお花見弁当とビールやお酒(此花市岡会の城山先輩からの差し入れ)とお喋りで宴をスタートさせました。
例年、“幻の”お酒とあて、コップや氷まで持ってきてくれる原清明君が、今年はなんと高級シャンパン“ドンペリ”を持ってきてくれました。まずは“女の子”にとみずから注いでくれて大盛り上がりでした。
八島節子さんは今年お一人の参加。同窓生の御主人(八島平玐君)は野田の自宅から自転車で大阪城公園にある弓道場に試合に出かけたそうで、元気一杯。
武田博君は地域のラジオ体操の担当で、毎朝6時半にラジオを持って公園に出かけて体操をしているそうです。冬は大変で一人も出てこないことがあるそうですが、かかさず出かけるそうです。先月号の“豚汁会の報告”を書いてくれた末廣訂君もこの日は杖なしで元気な顔を見せてくれました。竹田裕彦君は長い介護の末、お父様を103才で、お母様を99才で見取られたとの事でした。12日違いの葬儀、お父様の49日とお母様の35日が同じ日だったそうです。あれやこれや、皆さんの近況よもやま話は、つきることがありませんでした。
お花見の会では母校吹奏楽部の演奏がありました。今年の母校新入生は「定員割れ」でしたが、そのショックをのり越えての元気で楽しい演奏を聞かせてくれました。特に“美空ひばりメドレー”には参加者の大きな手拍子が起こり、大喝采でした。吹奏楽部の伴奏で校歌を斉唱してお花見会は午後1時過ぎに中締めとなりました。
その後、「市岡の森記念碑」の前での記念撮影です。この前と横に12期が記念植樹した桜があるのですが、数年前の暴風でその「銘板」が飛ばされてどれがその桜か分からなくなっています。木工機械と木工の専門家である畠平君に相談して復旧することになりました。
12期の私たちは会場を舞洲ロッジのレストランのバルコニーに移して、今秋の同窓会のための幹事会を開催しました。ここには幹事14名が参加し、下記のように『2016同窓会』の要項を決定しました。ご覧ください。
― 記 ―
名 称: 「大阪府立市岡高等学校12期 2016同窓会」
日 時: 平成28年10月16日(日曜日) 午後12時30分 受付開始
午後 1時 開 会
場 所: ホテルクライトン新大阪( 大阪市淀川区西中島 2-13-32 )
TEL 06(6885)1211 FAX 06(6885)7011
*地下鉄西中島南方 徒歩 5分で前回と同じ会場です。
会 費: 本会 ¥8,500- 二次会 ¥1,500-
主内容: ・1時~4時 本会 (同窓生による特別講演も予定しています。)
・4時半~6時半 同ホテル別室にて二次会
その他: 8月20日 案内状発送予定。
(文責:張 志朗)
2016年5月1日
『趣味のギャラリー』―「陶芸のこと (2)」
8組 山田 正敏
今回はわが陶芸クラブの詳細を紹介する。
「クラブの組織」
部長 (1名)
会計 (1名)
会計監査 :1名
業務 責任者(1名)、担当者(2名)
A班・・・ 班長(兼・副部長)・・・副班長(1名)、総務幹事(1名)
B班・・・ 班長(兼・副部長)・・・副班長(1名)、総務
幹事(1名)
C班・・・ 班長(兼・副部長)・・・副班長(1名)、総務
幹事(1名)
D班(新人研修班)・・・責任者:講師、補佐:副講師(2名)
( D班は1年のみにて、2年目以後はA、B、C班のいずれかに配属。)
「釉薬管理」: 釉薬の作成及び作業日に於ける釉薬の撹拌。
統括責任者・・・1名
A班責任者・・・1名、 補佐・・・2名
B班責任者・・・1名、 補佐・・・2名
C班責任者・・・1名、 補佐・・・2名
「窯当番」: 素焼、本焼時に於ける作品の窯詰及び焼成管理。
4班編成にて、それぞれ責任者:1名、担当者:3名。
窯出は当日の作業班が全員で作業する。
「講師・指導援助体制」
講師 : (1名)、 副講師 : 1~2名
指導援助 : 2~3名
「作業日」
- A、B、C班はそれぞれ月2回、年24回のロクロ及び手びねりによる自主研修。
- D班は第2、第4の土曜日に於ける月2回、年24回の講師による研修。
- 講師・副講師によるロクロ研修は、陶芸クラブ専用で使用できる釉薬室を使用して、第1、3週の木曜日は講師の担当で、第2、4週の木曜日は副講師が担当して研修している。いずれも月2回、年24回である。
- 各班の作業日以外の釉薬室使用による、6台のロクロ使用による自主研修については、希望者による6人を抽選によって選定している。 作業時間は陶芸クラブ全て9時半~15時迄で終わるようにしている。
クラブで扱っている粘土は、「半磁土」「白土」「赤土」の三種類で、業者から一括購入して、原価でクラブ員に販売(1kg150円)。他の粘土の使用に関しては、自前で購入して使用しても可。
さて、作品造りであるが、方法として、大きくは 「ロクロ成形」と「手びねり成形」がある。(その他、粘土をドロドロにして、型に入れて造る、「鋳込み」があるが説明を省く)ロクロ成形は電動ロクロを廻しながら、水ですべりを良くし目的の形に成形する。
そして、壷とか、皿とか大きな器のような作品一ヶを作る場合に、必要な量の粘土で作る “一個引き“ と、茶碗とか湯呑、徳利、ぐい呑みのような小さな作品を数多く作る場合は、3Kg前後の粘土をロクロに設置、上から順番に作品作成に応じた量を判断しながら成形。その都度、タコイトを40センチほどに切った、シッピキという糸を使い切り離していく “数引き” とがある。
手びねりの場合は、粘土を紐状にして積重ねていくので、丸くない歪な物や、超大物にむいているが製作に時間が掛かる。そして紐状粘土の接着部分を良く均して、必要な水分を使い平にする事と、その部分の接着に気をつけて、乾燥時にヒビが行かないように注意する事が大事である。又、乾燥の段階でどうしても歪が出たりするが、その為、緻密な乾燥管理が必要である。そしてその後、作品の大きさにもよるが、大体1~3日後、ある程度乾いてから底の“高台”を削って成形が完了する。
「素焼」
成形完了後、大きさにもよるが、3~7日して完全乾燥後 素焼(月1回・年12回)となる。素焼は本焼と同じ電気窯を使用、最高温度750℃、焼成時間8時間。
土が石になり元には戻らない。焼成日は通常土曜日。窯出は3日後の火曜日。
「釉掛」
素焼完了後、各自、備え付けの釉薬(12種類ある)を掛けて本焼(月2回・年24回)となる。釉薬掛けは、自前で購入した釉薬を使用しても良い。
釉掛は、直接、作品を釉薬容器に浸す「ズブ掛」と、柄杓などで「流し掛け」する方法と、霧吹を使う「吹き付け」等の方法があるが、全体として、いかに釉薬を均等に所定の厚さに掛けるかが、最大のポイントである。
「本焼」
通常、素焼1回に付き、本焼は2回予定している。素焼は重ねて焼く事が出来るが、釉薬を掛けた本焼の場合はそれが出来ない。焼成日は素焼と同じく土曜日。窯出は3日後の火曜日。本焼温度は最高1240℃。本焼時間は15時間30分。酸化焼成である。
本焼の窯出日は、その日の作業日の班員だけでなく、他班のメンバーも出てくる。クラブ員、全てが楽しみにしている最大のイベントでもある。
小生、初心者の頃、出来上がった作品を手にとって見て、感じたことは、作品の寸法があまりにも小さくなっていることである。それは、収縮率の関係で、生の粘土から乾燥して約7%、本焼後にさらに約7%、トータルで寸法は約85%になると言う事で、これが粘土の最大の特徴であり、欠点でもあると言えよう。今後はその事を頭に入れながら、作陶時に寸法を決めなければならない。
クラブに入って1年目だったか、自分の晩酌用の「ぐい呑み」を造るつもりが、出来上がって見るとあまりにも小さく、結局 ぐい呑みとして使うのは諦め、“楊枝入れ” として今も使っている。
さて、本焼後の窯出が済み、各自、自分の作品を手にして良く出来た人、そうでない人、悲喜こもごもである。そうでない人からは、よくその原因を小生に訊ねられるが、その答えは難しい。成形段階でいかに丁寧に仕上たかどうか、釉掛で手際良く、釉薬を均等に掛けたかどうか。いつもその場に居合わせている訳ではないので答えに窮する事が多い。
又、いい加減で、雑に造る人の作品が、本焼窯出後、たまに、素晴らしい出来の場合がある。これが陶芸というものかもしれない。
「個人の必要経費」
個人の必要経費としては、当初の入会金5,000円 、 道具代4,000円~5,000円、年会費14,000円 、粘土代はそれぞれ造る作品の種類、作品数によって違うが、茶碗一個造るのに要する粘土の量を、約350gとすると、0.35Kg×150円=52.5円 程度。 (釉薬作成、素焼、本焼経費は全て年会費に含まれている。電気代は市の負担。)
「作品展」
年1回、10月頃「福祉センター」文化祭が2日間あり、他のクラブの作品展や、催し物があるが、陶芸クラブも協力して文化祭に花を添えている。
他に、大体10月~12月に1週間の予定で他の施設を利用して作品展を開催するが、強制的に全員に1人3点出展のノルマが与えられる。
これがクラブのメンバーの最大のプレッシャーになるらしく、2~3ヶ月前から、日頃怠けている人も必死に作陶に取り組む。しかし、これは高齢者達にとって生き生きしていると感じられる数ヶ月である。
「講師としての小生の役目」であるが、大まかには下記の通りである。
- 全般的には手びねり、ロクロによる作陶及び釉掛の指導。
- D班(新入会員)の1年間の「手びねり」による技術研修を副講師と共に、月2回(年24回)おこなう。
- 入部2年目以降で希望者による1年毎のロクロ研修班(1班6名で2班ある)を副講師と1班ずつ受け持ち、月2回(年24回)基礎から指導。
- 焼成後、良く出来上がった作品の選別・講評。
- 1年間の全作業・行事の年間スケジュールの作成等々である。
最後に : この我等の陶芸クラブがこれほど充実し、発展してこられたのは、37年前(1979年)。
創部に努力され、その発展に尽力された先輩諸氏のお陰であり、それに協力賜った「船橋市役所 高齢者福祉課」のご理解のお陰である。
(次号につづく)
2016年4月1日
「12期の広場 」4月号のラインアップ
4月です。いよいよ春本番です。
今月号の上原さんの絵手紙も「蓮華草の花と蝶々」で、そこに「春が来た、野にも山にも、心にも」とあります。長くわすれていた唱歌『春が来た』そのものずばりです。嬉しくなって思わず口ずさんでしまいますね。蝶々は「もん黄蝶」、蓮華草は「亡き母と摘み草に行った時の思い出の花」だそうです。
桜前線も北上中です。薄紅いろの桜が時とともに日本列島を染め上げる様子は、想像するだけですが、美しさをこえて壮麗でさえあり、それに寄せる人々の想いもそれぞれに格別なものであることでしょう。
関西の同窓生は10日(日曜日)、『市岡の森』がある舞洲での「此花市岡会のお花見」に集います。この数日の冷え込みのせいで満開の時期がずれて、今年は爛漫の桜が楽しめそうと期待しています。また花見の後、同窓会幹事会が開かれ、10月16日(日曜日)に予定されている12期同窓会の具体的な準備が始まります。
『 いのちふたつの 中に咲きたる さくらかな 』
( 『のざらし紀行』:松尾芭蕉 )
現代国語を教えて頂いた田中順三先生が、この句を何回か前の同窓会の御挨拶で引用されました。この句は芭蕉が同郷(伊賀上野)の旧友で弟子でもある服部土芳と、滋賀県の水口宿で20年振りの再会を果したときに詠んだものです。田中先生はこの句を通して、同窓会に集う私たちの縁の奥深さとその得難さについてお話しされたように記憶しています。
今年、私たちの多くは『後期高齢者』に仲間入りしますが、齢をかさねるごとに元気に学友と再会できる喜びは大きくなります。幹事一同、この桜に思いを寄せて、今秋の同窓会に一人でも多くの学友が集えるようにしっかり準備したいと考えています。
さてわが「12期の広場」今月号のラインアップは、次の通りです。
母校の伝統的恒例行事である「豚汁会」について末廣訂君がその報告と感想を書いてくれました。次に今月号から『趣味のギャラリー』のコラムを設け、その第1弾として山田正敏君の「陶芸について」を連載致します。『趣味のギャラリー』は絵、書、写真、手芸、俳句などなど、皆さんの趣味を紹介する欄にしたいと考えています。幅広い投稿をお待ちいたします。
お楽しみ下さい。
1. 「久しぶりに豚汁会に参加して」 8組 末廣 訂
2. 『趣味のギャラリー』-「陶芸について ①」 8組 山田 正敏
今月号の上原さんの絵手紙も「蓮華草の花と蝶々」で、そこに「春が来た、野にも山にも、心にも」とあります。長くわすれていた唱歌『春が来た』そのものずばりです。嬉しくなって思わず口ずさんでしまいますね。蝶々は「もん黄蝶」、蓮華草は「亡き母と摘み草に行った時の思い出の花」だそうです。
桜前線も北上中です。薄紅いろの桜が時とともに日本列島を染め上げる様子は、想像するだけですが、美しさをこえて壮麗でさえあり、それに寄せる人々の想いもそれぞれに格別なものであることでしょう。関西の同窓生は10日(日曜日)、『市岡の森』がある舞洲での「此花市岡会のお花見」に集います。この数日の冷え込みのせいで満開の時期がずれて、今年は爛漫の桜が楽しめそうと期待しています。また花見の後、同窓会幹事会が開かれ、10月16日(日曜日)に予定されている12期同窓会の具体的な準備が始まります。
『 いのちふたつの 中に咲きたる さくらかな 』
( 『のざらし紀行』:松尾芭蕉 )
現代国語を教えて頂いた田中順三先生が、この句を何回か前の同窓会の御挨拶で引用されました。この句は芭蕉が同郷(伊賀上野)の旧友で弟子でもある服部土芳と、滋賀県の水口宿で20年振りの再会を果したときに詠んだものです。田中先生はこの句を通して、同窓会に集う私たちの縁の奥深さとその得難さについてお話しされたように記憶しています。
今年、私たちの多くは『後期高齢者』に仲間入りしますが、齢をかさねるごとに元気に学友と再会できる喜びは大きくなります。幹事一同、この桜に思いを寄せて、今秋の同窓会に一人でも多くの学友が集えるようにしっかり準備したいと考えています。
さてわが「12期の広場」今月号のラインアップは、次の通りです。
母校の伝統的恒例行事である「豚汁会」について末廣訂君がその報告と感想を書いてくれました。次に今月号から『趣味のギャラリー』のコラムを設け、その第1弾として山田正敏君の「陶芸について」を連載致します。『趣味のギャラリー』は絵、書、写真、手芸、俳句などなど、皆さんの趣味を紹介する欄にしたいと考えています。幅広い投稿をお待ちいたします。
お楽しみ下さい。
1. 「久しぶりに豚汁会に参加して」 8組 末廣 訂
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以 上
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