お知らせ
0年
2015年12月1日
「12期の広場」12月号のラインアップ
気がつけば立冬はとおに過ぎて、いよいよ苦手な冬の到来です。近くに大ぶりの葉をつけるかえでの並木があるのですが、もうすっかり葉を落とし、その落ち葉が風に吹かれてカラカラと飛んでいきます。
日没もいっそう早くなりました。夕方の5時前には陽もとっぷりと暮れて、夜のとばりの中。襟もとにしのび込む寒さに思わず、ぞくり。熱燗がほしくなりますね。
月日の経つのは早いもので、あっという間の師走、12月です。上原さんの絵手紙にも「暦が1枚になりましたね」とあります。街のショッピングモールでは例年のようにポインセチアの鉢植えがずらりと並び、気の早い所ではイルミネーションが始まりました。これでクリスマスソングが鳴り出すと、なにかと気ぜわしい年の瀬になって行くのでしょう。
我が「12期の広場」今月号は「市岡高校東京12期会」の報告がトップ記事です。先月号のこの欄で書いた通り、酒井八郎代表幹事と共に行ってきました。
2年ぶりの東京。往きの新幹線は「ジパング倶楽部」の特典を使っての「ひかり」でしたが、自由席まで満席で座れない乗客が大勢。東に向かう人の多さに驚き、さらに東京山の手線のラッシュなみの乗客と有楽町、銀座界隈の人の多さ、そしてその賑わいに目をうばわれながらの会場到着でした。
「市岡高校東京12期会」も今回で第7回を数えたのですね。今や東京12期会は大阪での同窓会とならび、12期同窓会の確固たる「車の両輪」です。大石橋会長はじめ幹事の皆さん、そして参加者の皆さんのご苦労と熱意の賜物と頭が下がります。東西の同窓会を合わせると同窓会の参加者は、概ね100名近くになりますから、実に喜ばしいことです。今回も懐かしい同窓生との再会を果たすことができました。また時空を越えてのなつかしい話はつきることがありませんでした。なにより、その話の心意気と深い味わいから、多くの共感と元気を得たようです。詳しくは記事の本文をご覧ください。
石井孝和君の「思い出を綴る」も11回目。時代はようやく平成になりました。連載がはじまってから今や400字詰め原稿用紙で70枚を超えるボリウムです。回を重ねるごとにその健筆ぶりが際立ちます。さらに、毎回の末尾に記された「この時期の世の中の動き」には自分の記憶がフラッシュバックして思わず膝を打ってしまいます。感謝、感謝です。
今年最後の号です。お楽しみ下さい。
「12期の広場」12月号のラインアップは以下の通りです。
1. 「第7回 市岡高校東京12期会の報告」 5組 泉 信也
2. 「市岡高校東京12期会に参加して」 8組 萩原 貞雄
3. 「思い出を綴る (11)」 3組 石井 孝和

月日の経つのは早いもので、あっという間の師走、12月です。上原さんの絵手紙にも「暦が1枚になりましたね」とあります。街のショッピングモールでは例年のようにポインセチアの鉢植えがずらりと並び、気の早い所ではイルミネーションが始まりました。これでクリスマスソングが鳴り出すと、なにかと気ぜわしい年の瀬になって行くのでしょう。
我が「12期の広場」今月号は「市岡高校東京12期会」の報告がトップ記事です。先月号のこの欄で書いた通り、酒井八郎代表幹事と共に行ってきました。
2年ぶりの東京。往きの新幹線は「ジパング倶楽部」の特典を使っての「ひかり」でしたが、自由席まで満席で座れない乗客が大勢。東に向かう人の多さに驚き、さらに東京山の手線のラッシュなみの乗客と有楽町、銀座界隈の人の多さ、そしてその賑わいに目をうばわれながらの会場到着でした。
「市岡高校東京12期会」も今回で第7回を数えたのですね。今や東京12期会は大阪での同窓会とならび、12期同窓会の確固たる「車の両輪」です。大石橋会長はじめ幹事の皆さん、そして参加者の皆さんのご苦労と熱意の賜物と頭が下がります。東西の同窓会を合わせると同窓会の参加者は、概ね100名近くになりますから、実に喜ばしいことです。今回も懐かしい同窓生との再会を果たすことができました。また時空を越えてのなつかしい話はつきることがありませんでした。なにより、その話の心意気と深い味わいから、多くの共感と元気を得たようです。詳しくは記事の本文をご覧ください。
石井孝和君の「思い出を綴る」も11回目。時代はようやく平成になりました。連載がはじまってから今や400字詰め原稿用紙で70枚を超えるボリウムです。回を重ねるごとにその健筆ぶりが際立ちます。さらに、毎回の末尾に記された「この時期の世の中の動き」には自分の記憶がフラッシュバックして思わず膝を打ってしまいます。感謝、感謝です。
今年最後の号です。お楽しみ下さい。
「12期の広場」12月号のラインアップは以下の通りです。
1. 「第7回 市岡高校東京12期会の報告」 5組 泉 信也
2. 「市岡高校東京12期会に参加して」 8組 萩原 貞雄
3. 「思い出を綴る (11)」 3組 石井 孝和
以 上
2015年12月1日
第7回「市岡高校東京12期会」の報告
第7回「市岡高校東京12期会」の報告
大阪と隔年で開催される「東京12期会」も今年で第7回。つまり2003年、皆が還暦の峠を越えてさらに一回りの長い行事となっている。ひとえに発足以来の山田・榎本両大幹事の人柄と肝いりのおかげである。
10月31日(土)、このところ恒例となっている会場の銀座「三笠会館」に20名が参集、座が乱れる前にとさっそくの記念撮影となる。榎本君が用意してくれた第1回以来の各会の集合写真を見比べ、各々時の経過に思いを巡らせる。
開会に際し、前回の集まりから先立って逝った村木雅章(8組)、川合兵治(4)、吉岡宏(4)君、北村彰一先生に黙祷をささげた。
開会あいさつは大石橋会長。
『市岡高校同窓会が開かれると、いつも、戦争の傷跡が随所に残る原っぱや道を通り、渡し船を利用して通学した情景を思い出す。あのころの日本はまだまだ貧しく、誰もが豊かさと平和を求めて懸命に頑張っていた。あれから半世紀以上が経ち、そこそこの成果が得られたのかな、とおもいたかったのだが・・・
昨今の世界の情勢を見ると、相変らず戦争あり、テロあり、飢えや大災害ありで、思わず目を覆いたくなるような有様である。この50年以上にわたる人々の努力は一体何だったんだろうと考え込んでしまう今日この頃である。
それはともあれ、12期生の我々は74歳を迎え、こうして元気で集えることに感謝し、今後も精一杯前向きに進んでいきたいと思う。今日は一日楽しく過ごしましょう。』
つづいて来賓として関西から駆けつけてくれた、酒井12期会代表幹事から大阪での同窓会幹事会の様子や、北村先生の思い出を交えた愉快なご挨拶をいただく。同じく張幹事には毎回持参いただく重い12期のバナー(横幕)とともに、昨今の杭打ち不祥事の話など専門家としてのエピソードの披露もあり、榎本幹事長の名司会で会は和やかに滑りだす。
参加の各自からは近況や随想、趣味、病気自慢、孫自慢、そして市岡の懐かしく、うれしく、辛い思い出などいつもながらの愉快な歓談にお酒が加わっておおいに盛りあがる。
西條君からは川歩き報告。「12期の広場」に掲載してきた「荒川歩き、源流点到達」を発案者の故川合君へのオマージュとする。次は多摩川?
広島から遠来の辻君の特別講演は大阪の会に続いて皆さんの関心事、「健康」。一番大切なのは人間が本来備えている「自己治癒力!」と、万病を克服してきた辻君に云われると説得力がある。それにしても誰かの「たよりにしてまっせ」の声は切実。
名残をおしみつつも、大阪での再会を期し、皆で校歌を斉唱して中締めとなる。
いつもの通り二次会はカラオケ、会場は銀座とは思えぬ古びた「千里馬」に大半が移動して歌合戦となる。女性陣の「花は咲く」は市岡の乙女の時代の復興でもある。男性陣は現役時代にクラブに支払った投資に見合った力量か。大詰めは関西Duetの「涙をふいて」。しみじみ聞かせるが、この息の合ったところが
「市岡高校12期会」をまとめてくれる所以だと思い、皆の感謝を合わせ報告としたい。

参加者:
1組:上原澄子
2組:坂野雅子(集合写真のみ)、高谷尚江、佃富江、杲田慶子
3組:西條軍蔵
4組:児玉恭子、重松清弘、酒井八郎
5組:阿部清二(集合写真に間に合わず)、泉信也
6組:大石橋宏次、中柴方通
7組;張志朗
8組:榎本進明、緒方宏文、辻紘一郎、萩原貞男、村崎裕昭、山田正敏
大阪と隔年で開催される「東京12期会」も今年で第7回。つまり2003年、皆が還暦の峠を越えてさらに一回りの長い行事となっている。ひとえに発足以来の山田・榎本両大幹事の人柄と肝いりのおかげである。
10月31日(土)、このところ恒例となっている会場の銀座「三笠会館」に20名が参集、座が乱れる前にとさっそくの記念撮影となる。榎本君が用意してくれた第1回以来の各会の集合写真を見比べ、各々時の経過に思いを巡らせる。
10年前の2005年11月11日「第2回東京12期会」は27人。お元気な亡き顔も懐かしく。

開会あいさつは大石橋会長。
『市岡高校同窓会が開かれると、いつも、戦争の傷跡が随所に残る原っぱや道を通り、渡し船を利用して通学した情景を思い出す。あのころの日本はまだまだ貧しく、誰もが豊かさと平和を求めて懸命に頑張っていた。あれから半世紀以上が経ち、そこそこの成果が得られたのかな、とおもいたかったのだが・・・
昨今の世界の情勢を見ると、相変らず戦争あり、テロあり、飢えや大災害ありで、思わず目を覆いたくなるような有様である。この50年以上にわたる人々の努力は一体何だったんだろうと考え込んでしまう今日この頃である。
それはともあれ、12期生の我々は74歳を迎え、こうして元気で集えることに感謝し、今後も精一杯前向きに進んでいきたいと思う。今日は一日楽しく過ごしましょう。』

参加の各自からは近況や随想、趣味、病気自慢、孫自慢、そして市岡の懐かしく、うれしく、辛い思い出などいつもながらの愉快な歓談にお酒が加わっておおいに盛りあがる。
西條君からは川歩き報告。「12期の広場」に掲載してきた「荒川歩き、源流点到達」を発案者の故川合君へのオマージュとする。次は多摩川?

名残をおしみつつも、大阪での再会を期し、皆で校歌を斉唱して中締めとなる。
いつもの通り二次会はカラオケ、会場は銀座とは思えぬ古びた「千里馬」に大半が移動して歌合戦となる。女性陣の「花は咲く」は市岡の乙女の時代の復興でもある。男性陣は現役時代にクラブに支払った投資に見合った力量か。大詰めは関西Duetの「涙をふいて」。しみじみ聞かせるが、この息の合ったところが
「市岡高校12期会」をまとめてくれる所以だと思い、皆の感謝を合わせ報告としたい。

第7回 市岡高校東京12期会 参加20名の顔ぶれです。下記の名前と一致しますか?
参加者:
1組:上原澄子
2組:坂野雅子(集合写真のみ)、高谷尚江、佃富江、杲田慶子
3組:西條軍蔵
4組:児玉恭子、重松清弘、酒井八郎
5組:阿部清二(集合写真に間に合わず)、泉信也
6組:大石橋宏次、中柴方通
7組;張志朗
8組:榎本進明、緒方宏文、辻紘一郎、萩原貞男、村崎裕昭、山田正敏
(泉 信也 記)
2015年12月1日
市岡高校東京12期会に参加して
市岡高校東京12期会に参加して
1. 銀座の三笠会館へ
開始時間を確認するため「市岡 12期」でグーグルを検索した。「10月31日に市岡高校東京12期会の同窓会
が銀座三笠会館で・・・」が出てきた。しかもトップに。これはすごい。HPのメンテがよく、多くの人がアクセスしているということだ。自宅最寄り駅から銀座へ50分。黒いマントを被り、猫のメークをしたハロウイーンの人々の間を抜けて地下鉄駅から地上に出る。三笠会館まですぐだ。エレベータ内で児玉さんに会う。会場のロビーに着く。すでに大石橋、張、山田、榎本、泉、西条、重松君らが歓談中。次々と集まり12時半より別室にて集合写真。三笠会館は、今年で30年連続地価日本一の銀座鳩居堂前とは目と鼻の先だ。贅沢にもロビー、集合写真室、宴会室と3つの場所を占拠。亡くなった川合君からここを何かの縁で紹介してもらったお蔭だ。13時より宴会用の円卓テーブル室へ移動。
2. 北村先生、村木君、川合君、吉岡君に黙とう。
生前、北村先生より「萩原の読書感想文が手元にない」趣旨のお詫びのメールをもらった。天国で気にして いるに違いない。「先生、そんなことは気にしなくていいですよ。感想文を出した記憶が本人にないのですから」と伝えたい。 川合君、前回会った時、ウイスキーをストレートで飲(や)っていました。ミラノの話をしましたね。またひょうひょうとしておっとりした印象の村木君。以前三重県から家業の合間を縫ってこの会に来られましたね。
3. 同窓会代表幹事のあいさつ
酒井12期同窓会代表幹事挨拶。はるばる神戸から駆けつけてくれた代表幹事の身ぶり、手振りの挨拶。関西での同窓会幹事会報告と北村先生のお話。一期一会はこの歳になれば実感する。張同幹事挨拶。今年も12期の垂れ幕持参ありがとう。日頃のホームページの維持にも感謝。ビルのくい打ちの深さなど建物の安全に関する書類の審査をしているという話に聞き入る。
4. 榎本幹事長の司会により遠い所から来た人の順番に近況報告。そこでの話題。
市岡という場で我々は出会った。語り、学び、遊んだ。心の中にある市岡の記憶は永遠だ。でも今を生きている人間は変わって行く。だからこそこの同窓会が永く続いて欲しい。
8組 萩原 貞雄
1. 銀座の三笠会館へ
開始時間を確認するため「市岡 12期」でグーグルを検索した。「10月31日に市岡高校東京12期会の同窓会
が銀座三笠会館で・・・」が出てきた。しかもトップに。これはすごい。HPのメンテがよく、多くの人がアクセスしているということだ。自宅最寄り駅から銀座へ50分。黒いマントを被り、猫のメークをしたハロウイーンの人々の間を抜けて地下鉄駅から地上に出る。三笠会館まですぐだ。エレベータ内で児玉さんに会う。会場のロビーに着く。すでに大石橋、張、山田、榎本、泉、西条、重松君らが歓談中。次々と集まり12時半より別室にて集合写真。三笠会館は、今年で30年連続地価日本一の銀座鳩居堂前とは目と鼻の先だ。贅沢にもロビー、集合写真室、宴会室と3つの場所を占拠。亡くなった川合君からここを何かの縁で紹介してもらったお蔭だ。13時より宴会用の円卓テーブル室へ移動。
2. 北村先生、村木君、川合君、吉岡君に黙とう。
生前、北村先生より「萩原の読書感想文が手元にない」趣旨のお詫びのメールをもらった。天国で気にして いるに違いない。「先生、そんなことは気にしなくていいですよ。感想文を出した記憶が本人にないのですから」と伝えたい。 川合君、前回会った時、ウイスキーをストレートで飲(や)っていました。ミラノの話をしましたね。またひょうひょうとしておっとりした印象の村木君。以前三重県から家業の合間を縫ってこの会に来られましたね。
3. 同窓会代表幹事のあいさつ
酒井12期同窓会代表幹事挨拶。はるばる神戸から駆けつけてくれた代表幹事の身ぶり、手振りの挨拶。関西での同窓会幹事会報告と北村先生のお話。一期一会はこの歳になれば実感する。張同幹事挨拶。今年も12期の垂れ幕持参ありがとう。日頃のホームページの維持にも感謝。ビルのくい打ちの深さなど建物の安全に関する書類の審査をしているという話に聞き入る。
4. 榎本幹事長の司会により遠い所から来た人の順番に近況報告。そこでの話題。
- 東京12期会をいつまでやるか
- 川歩きの話。
- 仕事の話。
- 同窓生の思い出
市岡という場で我々は出会った。語り、学び、遊んだ。心の中にある市岡の記憶は永遠だ。でも今を生きている人間は変わって行く。だからこそこの同窓会が永く続いて欲しい。
2015年12月1日
思い出を綴る (11)
思い出を綴る (11)
びわ湖の水は2つの方向に分かれて流れ出ている。1つは自然の流出口、瀬田川の洗堰(あらいぜき)で、瀬田川から宇治川、そして淀川を経て大阪湾へ流れ出る。このことはよく知られている。もう1つの大津市三井寺から明治時代に大規模工事で造られた「琵琶湖疏水(そすい)」が、京都東山区の三条蹴上(けあげ)で浄水場と「哲学の道」の脇を流れて京都市内を経由したのち宇治川に合流することは広くは知られていない。
わたしがNHK大津放送局から京都放送局へ、今度は単身で転勤した翌年の昭和63年(1988年)の夏、宮内庁の京都事務所を訪れたところ、京都御所にある池にびわ湖と同じ“淡水赤潮”の現象が見られることを知った。
京都事務所によると、京都御所にある3つの池には、 南北朝時代から京都市内を北から南に流れる鴨川の水を引き入れていたが、明治時代に琵琶湖疏水が完成したことからびわ湖の水を取り入れるようになったという。京都御所の池は、びわ湖の水位に関係することも知った。このことは早速ニュースに取り上げた。びわ湖の水位がマイナス1メートルになった前の年の夏、近江八景の一つ「堅田(かたた)の落雁」で知られる大津市堅田にある「浮御堂(うきみどう)」周辺のびわ湖が干上がり、わたしが湖底に立ってリポートしたことを思い出した。こんな思い出を京都事務所で話していると、偶然にも事務所の人が「近く、地下水を汲み上げる工事に入る」と言ったことから、これまたニュースで取り上げることにした。 工事は予定通り翌年の春には完成。京都御所の池はびわ湖の水と地下水が混じることになった。
この取材を続けている途中、今度は「オランダの女王が“おしのび”(非公式)で御所においでになる」という話を耳にした。“おしのび”の当日、わたしは“NHKの赤い腕章”をつけ、重さ約10キロのテレビカメラを担ぎ取材に駆けつけた。他社の取材者はいなかったようだ。
女王のお名前は「ベアトリックス」。昭和55年(1980年)にユリアナ女王から生前に王位を継承されたという。(“生前”は日本と違うところ)
当日はおだやかな日和に恵まれ、一行約20人が御所の散策を楽しまれた。テレビカメラはビデオテープで撮影しながら音声も収録できるため、わたしは、女王に“散策の感想”をひと言いただけたらと思って、近くにいた“おつきの人”にお願いした。するとその人は女王に近い別の人に順々にそのことを伝えてくれて、間もなく“答え”が戻ってきた。はらはらした気持ちで返事を待っていたわたしの目に入ったのは、さきほどの“おつきの人”のクロスさせた“人差し指”であった。しかし、ベアトリックス女王は、終始にこやかにほほえまれて御所の佇まいを楽しんでおられるご様子で、あえて“お声”はいらなかった。
京都は伝統産業と先端産業がともに盛んなところ。 わたしが産業界の情報が集まる「経済記者クラブ」に所属していたこの頃、西陣織のネクタイの柄にコンピューターを導入したり、立石電機(現在のオムロン) が“ファジー推論” (ゼロ・イチの数値とは違って「もう少し強く」とか「もう少し弱く」といった人間に近い表現・感知が可能な考え方)を活用したロボットを開発したり、更には村田機械が家庭用のファクシミリの生産を始めるなど、京都に本社を持つ企業が活発な動きをしていた。
わたしが放送局にいたある日の夕方、精密機械メーカー村田製作所の若い広報マン2人が来局した。2人は「経済記者クラブ(京都商工会議所内)に行き、弊社の新製品の説明をしてきましたが、あなたの顔が見えなかったので、会社に帰る途中、寄せてもらいました」と言って、配布してきた資料と一緒に“小指”ほどの大きさの“製品”(部品)を見せながら説明に入った。
「この製品は大型船舶に用いられる船のバランスを保つジャイロスコープの役割を果たすものです」と得意満面で話してくれた。この製品の用途は、海底開発や宇宙開発など、幅広い分野で 活用されることが予想され、ニュースにする価値があると思ったが、「こんな小さな“製品”だけをテレビで紹介するのは難しいよね」というと、「弊社まできていただければ、この製品を搭載した“自転車”をお見せしますよ」という返事。わたしはカメラマンと一緒に会社に行くことにした。
辺りがうす暗くなった時刻に会社に着くと、構内にあるテニスコートに照明が灯された。そしてそこに登場したのは、遠隔操作で走る人形が乗せられたおもちゃのような自転車だった。人が歩くくらいのゆっくりした速度で走る自転車は、ハンドルが右に左に操られ、バランスを保っていて倒れることがなかった。その様子をカメラマンが追いかけて撮影し、翌朝、私のリポートでBSニュースの電波に乗せられた。
時代が昭和から平成に移る頃も京都勤務が続いた。平成に入り、街は華やかさをとり戻し、伝統文化を紹介する織物や染物などの展示会が盛んに開かれた。わたしは京都で伝承されている伝統工芸にも関心をもっており、その都度、本職のカメラマンと共に取材に行き、“茶の間”にニュースとして紹介した。
平成3年5月には、宇治市で“京都みどりの祭典”と銘打った「第42回全国植樹祭」が開かれた。この祭典には天皇皇后両陛下が臨席された。祭典では両陛下が北山杉としだれ桜をお手植えになり、午後からは、京都府南部に建設中の関西文化学術研究都市の研究施設を視察された。この施設は精華町に完成した「国際電気通信基礎技術研究所」で、先端産業につなげるための実験が行われていた。
両陛下の行幸啓(天皇・皇后が外出すること)に同行している宮内庁詰めの取材陣とは別に、地元京都府庁担当のわたしたち取材陣は、一行の現地到着より一足先に行き、待ち受けていた。“NHKの赤い腕章”をつけたわたしは、両陛下とおつきの人が施設に入られるのを見計らってその列に加わり、ちゃっかりと、両陛下の真後ろに並ぶ形になってしまった。
この実験室で両陛下は「自動翻訳電話」と「ニューロコンピューター」(手書き文字認識)の実験に参加され、お二人とも大変ご満悦の様子であった。この内「ニューロコンピューター」の実験では、天皇陛下がコンピューターの前に座って“電子ペン”を手にされた。この時、天皇陛下が“「平成」にしようか、「平和」にしようか”と小さな声を出され、思案されたご様子。ほんの少しの間を置いてから「平和」の文字を机上のプレートに記されたのが見えた。するとすぐさま「ピース」と英語で男性の音声が流れたため、部屋いっぱいに、どっと驚きの声と拍手が沸き起こりそれまでの“緊張”から解放されたようになごやかな雰囲気が漂った。そうした中で、わたしが両陛下の真後ろで目にしたのは、お二人のほほえましいやりとりであった。実験を終えられた天皇陛下が皇后陛下を見上げられて、“あなたもやってみますか”とゆったりとしたやさしさに満ちた静かな声で尋ねられたのに対し、皇后陛下は周りの人たちに気遣われて、声をたてず、慎ましい笑顔を見せながら、右手の人差し指を軽く立て、顔の近くで、そっと左右に動かす仕草をなさった。天皇皇后両陛下の5日間にわたる行幸啓に同行取材をした中でもお二人の短いやり取りは印象深いものであった。
ことしは戦後70年、NHKが放送した戦後を綴ったドギュメント番組を視聴した。この中で、天皇陛下が小学生だった時に習字で「平和」「建設」という文字を力強く書かれたのを見て、あの時の電子ペンで書かれた「平和」の文字がわたしの脳裏に重なっていた。
―― この時期の世の中の動き――
▽昭和62年(1987年)10月
・利根川進米マサチュウセッツ工科大学教授がノーベル医学生理学賞を受賞。
▽昭和63年(1988年)3月
・青函トンネル開通、同10月瀬戸大橋開通
▽昭和63年(1988年)9月
・昭和天皇病状悪化。111日に及ぶご容体報道のため終日放送。阪急ブレーブス、オリ
ックスに球団売却。
▽昭和64年(1989年)1月7日
・吹上御所で昭和天皇崩御。在位史上最長の62年。
▽平成 元年(1989年)6月
・衛星放送第1テレビ、第2テレビ本放送開始。8月 イラク軍クエートへ侵攻。11月
官民労組大同団結「連合」発足。
▽平成 2年(1990年)4月
・大阪花の万博開催。半年間に2300万人入場。11月「即位の礼」。NHK・民放各社中
継放送。12月バブル絶頂期。株価1年で約8900円上昇。
▽平成 3年(1991年)1月
・湾岸戦争始まる。4月牛肉・オレンジの割当制度撤廃、自由化。5月滋賀県で開かれてい
た「世界陶芸祭」に向かうJR快速電車と信楽高原鉄道が正面衝突。42人死亡、600
人以上が重軽傷。6月南アフリカ大統領がアパルトヘイト(人種隔離)政策終結宣言。
▽平成 4年(1992年)3月
・東海道新幹線「のぞみ」運転開始。
(次号につづく)
3組 石井 孝和
びわ湖の水は2つの方向に分かれて流れ出ている。1つは自然の流出口、瀬田川の洗堰(あらいぜき)で、瀬田川から宇治川、そして淀川を経て大阪湾へ流れ出る。このことはよく知られている。もう1つの大津市三井寺から明治時代に大規模工事で造られた「琵琶湖疏水(そすい)」が、京都東山区の三条蹴上(けあげ)で浄水場と「哲学の道」の脇を流れて京都市内を経由したのち宇治川に合流することは広くは知られていない。
わたしがNHK大津放送局から京都放送局へ、今度は単身で転勤した翌年の昭和63年(1988年)の夏、宮内庁の京都事務所を訪れたところ、京都御所にある池にびわ湖と同じ“淡水赤潮”の現象が見られることを知った。
京都事務所によると、京都御所にある3つの池には、 南北朝時代から京都市内を北から南に流れる鴨川の水を引き入れていたが、明治時代に琵琶湖疏水が完成したことからびわ湖の水を取り入れるようになったという。京都御所の池は、びわ湖の水位に関係することも知った。このことは早速ニュースに取り上げた。びわ湖の水位がマイナス1メートルになった前の年の夏、近江八景の一つ「堅田(かたた)の落雁」で知られる大津市堅田にある「浮御堂(うきみどう)」周辺のびわ湖が干上がり、わたしが湖底に立ってリポートしたことを思い出した。こんな思い出を京都事務所で話していると、偶然にも事務所の人が「近く、地下水を汲み上げる工事に入る」と言ったことから、これまたニュースで取り上げることにした。 工事は予定通り翌年の春には完成。京都御所の池はびわ湖の水と地下水が混じることになった。
この取材を続けている途中、今度は「オランダの女王が“おしのび”(非公式)で御所においでになる」という話を耳にした。“おしのび”の当日、わたしは“NHKの赤い腕章”をつけ、重さ約10キロのテレビカメラを担ぎ取材に駆けつけた。他社の取材者はいなかったようだ。
女王のお名前は「ベアトリックス」。昭和55年(1980年)にユリアナ女王から生前に王位を継承されたという。(“生前”は日本と違うところ)
当日はおだやかな日和に恵まれ、一行約20人が御所の散策を楽しまれた。テレビカメラはビデオテープで撮影しながら音声も収録できるため、わたしは、女王に“散策の感想”をひと言いただけたらと思って、近くにいた“おつきの人”にお願いした。するとその人は女王に近い別の人に順々にそのことを伝えてくれて、間もなく“答え”が戻ってきた。はらはらした気持ちで返事を待っていたわたしの目に入ったのは、さきほどの“おつきの人”のクロスさせた“人差し指”であった。しかし、ベアトリックス女王は、終始にこやかにほほえまれて御所の佇まいを楽しんでおられるご様子で、あえて“お声”はいらなかった。
京都は伝統産業と先端産業がともに盛んなところ。 わたしが産業界の情報が集まる「経済記者クラブ」に所属していたこの頃、西陣織のネクタイの柄にコンピューターを導入したり、立石電機(現在のオムロン) が“ファジー推論” (ゼロ・イチの数値とは違って「もう少し強く」とか「もう少し弱く」といった人間に近い表現・感知が可能な考え方)を活用したロボットを開発したり、更には村田機械が家庭用のファクシミリの生産を始めるなど、京都に本社を持つ企業が活発な動きをしていた。
わたしが放送局にいたある日の夕方、精密機械メーカー村田製作所の若い広報マン2人が来局した。2人は「経済記者クラブ(京都商工会議所内)に行き、弊社の新製品の説明をしてきましたが、あなたの顔が見えなかったので、会社に帰る途中、寄せてもらいました」と言って、配布してきた資料と一緒に“小指”ほどの大きさの“製品”(部品)を見せながら説明に入った。
「この製品は大型船舶に用いられる船のバランスを保つジャイロスコープの役割を果たすものです」と得意満面で話してくれた。この製品の用途は、海底開発や宇宙開発など、幅広い分野で 活用されることが予想され、ニュースにする価値があると思ったが、「こんな小さな“製品”だけをテレビで紹介するのは難しいよね」というと、「弊社まできていただければ、この製品を搭載した“自転車”をお見せしますよ」という返事。わたしはカメラマンと一緒に会社に行くことにした。
辺りがうす暗くなった時刻に会社に着くと、構内にあるテニスコートに照明が灯された。そしてそこに登場したのは、遠隔操作で走る人形が乗せられたおもちゃのような自転車だった。人が歩くくらいのゆっくりした速度で走る自転車は、ハンドルが右に左に操られ、バランスを保っていて倒れることがなかった。その様子をカメラマンが追いかけて撮影し、翌朝、私のリポートでBSニュースの電波に乗せられた。
時代が昭和から平成に移る頃も京都勤務が続いた。平成に入り、街は華やかさをとり戻し、伝統文化を紹介する織物や染物などの展示会が盛んに開かれた。わたしは京都で伝承されている伝統工芸にも関心をもっており、その都度、本職のカメラマンと共に取材に行き、“茶の間”にニュースとして紹介した。
平成3年5月には、宇治市で“京都みどりの祭典”と銘打った「第42回全国植樹祭」が開かれた。この祭典には天皇皇后両陛下が臨席された。祭典では両陛下が北山杉としだれ桜をお手植えになり、午後からは、京都府南部に建設中の関西文化学術研究都市の研究施設を視察された。この施設は精華町に完成した「国際電気通信基礎技術研究所」で、先端産業につなげるための実験が行われていた。
両陛下の行幸啓(天皇・皇后が外出すること)に同行している宮内庁詰めの取材陣とは別に、地元京都府庁担当のわたしたち取材陣は、一行の現地到着より一足先に行き、待ち受けていた。“NHKの赤い腕章”をつけたわたしは、両陛下とおつきの人が施設に入られるのを見計らってその列に加わり、ちゃっかりと、両陛下の真後ろに並ぶ形になってしまった。
この実験室で両陛下は「自動翻訳電話」と「ニューロコンピューター」(手書き文字認識)の実験に参加され、お二人とも大変ご満悦の様子であった。この内「ニューロコンピューター」の実験では、天皇陛下がコンピューターの前に座って“電子ペン”を手にされた。この時、天皇陛下が“「平成」にしようか、「平和」にしようか”と小さな声を出され、思案されたご様子。ほんの少しの間を置いてから「平和」の文字を机上のプレートに記されたのが見えた。するとすぐさま「ピース」と英語で男性の音声が流れたため、部屋いっぱいに、どっと驚きの声と拍手が沸き起こりそれまでの“緊張”から解放されたようになごやかな雰囲気が漂った。そうした中で、わたしが両陛下の真後ろで目にしたのは、お二人のほほえましいやりとりであった。実験を終えられた天皇陛下が皇后陛下を見上げられて、“あなたもやってみますか”とゆったりとしたやさしさに満ちた静かな声で尋ねられたのに対し、皇后陛下は周りの人たちに気遣われて、声をたてず、慎ましい笑顔を見せながら、右手の人差し指を軽く立て、顔の近くで、そっと左右に動かす仕草をなさった。天皇皇后両陛下の5日間にわたる行幸啓に同行取材をした中でもお二人の短いやり取りは印象深いものであった。
ことしは戦後70年、NHKが放送した戦後を綴ったドギュメント番組を視聴した。この中で、天皇陛下が小学生だった時に習字で「平和」「建設」という文字を力強く書かれたのを見て、あの時の電子ペンで書かれた「平和」の文字がわたしの脳裏に重なっていた。
―― この時期の世の中の動き――
▽昭和62年(1987年)10月
・利根川進米マサチュウセッツ工科大学教授がノーベル医学生理学賞を受賞。
▽昭和63年(1988年)3月
・青函トンネル開通、同10月瀬戸大橋開通
▽昭和63年(1988年)9月
・昭和天皇病状悪化。111日に及ぶご容体報道のため終日放送。阪急ブレーブス、オリ
ックスに球団売却。
▽昭和64年(1989年)1月7日
・吹上御所で昭和天皇崩御。在位史上最長の62年。
▽平成 元年(1989年)6月
・衛星放送第1テレビ、第2テレビ本放送開始。8月 イラク軍クエートへ侵攻。11月
官民労組大同団結「連合」発足。
▽平成 2年(1990年)4月
・大阪花の万博開催。半年間に2300万人入場。11月「即位の礼」。NHK・民放各社中
継放送。12月バブル絶頂期。株価1年で約8900円上昇。
▽平成 3年(1991年)1月
・湾岸戦争始まる。4月牛肉・オレンジの割当制度撤廃、自由化。5月滋賀県で開かれてい
た「世界陶芸祭」に向かうJR快速電車と信楽高原鉄道が正面衝突。42人死亡、600
人以上が重軽傷。6月南アフリカ大統領がアパルトヘイト(人種隔離)政策終結宣言。
▽平成 4年(1992年)3月
・東海道新幹線「のぞみ」運転開始。
(次号につづく)
2015年11月1日
「12期の広場」11月号のラインアップ
11月です。秋が深まっています。関西のテレビや新聞の紅葉便りもこれからが本番のようです。
先日テレビで大山隠岐国立公園の紅葉が映し出されていたのですが、それを見て、何年か前、同窓生とバス旅行したことを思い出しました。書き置いた文章にこんなくだりがありました。
『鏡ケ成(かがみがなる)から鍵掛峠(かぎかけとおげ)に行く道路は、ブナ林のまっただ中を通っているのですが、ブナの木々がうっそうと道路に張り出し、さながらブナのトンネルのようになっています。その中を右に左に蛇行しながらバスが進むわけですから、眼前もブナ、両側もブナ、天蓋もブナ、当然背後もブナです。そのブナが紅葉し始めており、木漏れ日が葉裏にきらめきながらひときわその鮮やかさを際だたせ、それはそれは見事な絶景です。紅葉のさらなる絶頂期にここを通れば身も心もまっ黄色、真っ赤に染まる事でしょう。』
ここにある鍵掛峠とそれに続くこの辺りは大山の紅葉の絶景ポイント。最盛期の紅葉が見られなかったのがよほど口惜しかったようです。今年はなにがなんでも、息を飲むような紅葉に出会いたいと思ってしまいます。
今月号の上原(旧姓大川)さんの絵手紙は「もみじとセキレイ」です。もみじは紅葉の代表樹でセキレイは秋の季語。タイムリ-で秋ぴったりの絵手紙にうれしくなりますね。
絵手紙に『10月31日の同窓会、楽しみにしています』とありました。このラインアップを読んで頂いている前日の10月31日に第7回「市岡高校東京12期会」が開かれています。残念ながら、その詳細な報告は、今月号には間に合わず、12月号の掲載です。
代表幹事の酒井八郎君と一緒に私も参加しますのでこの原稿をかいている今から、保管しているグリーンの同窓会横幕と新幹線のキップを前にうきうきしています。どこまで盛り上がるか、またどれだけ楽しい報告ができるか、是非ご期待下さい。
さて我が「12期の広場」11月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
1.「同窓会幹事会を開きました」4組 酒井 八郎
2.「思い出を綴る (10)」 3組 石井 孝和
3.『リレー投稿』「つれづれに(2)」 玉 手 箱
先日テレビで大山隠岐国立公園の紅葉が映し出されていたのですが、それを見て、何年か前、同窓生とバス旅行したことを思い出しました。書き置いた文章にこんなくだりがありました。

『鏡ケ成(かがみがなる)から鍵掛峠(かぎかけとおげ)に行く道路は、ブナ林のまっただ中を通っているのですが、ブナの木々がうっそうと道路に張り出し、さながらブナのトンネルのようになっています。その中を右に左に蛇行しながらバスが進むわけですから、眼前もブナ、両側もブナ、天蓋もブナ、当然背後もブナです。そのブナが紅葉し始めており、木漏れ日が葉裏にきらめきながらひときわその鮮やかさを際だたせ、それはそれは見事な絶景です。紅葉のさらなる絶頂期にここを通れば身も心もまっ黄色、真っ赤に染まる事でしょう。』
ここにある鍵掛峠とそれに続くこの辺りは大山の紅葉の絶景ポイント。最盛期の紅葉が見られなかったのがよほど口惜しかったようです。今年はなにがなんでも、息を飲むような紅葉に出会いたいと思ってしまいます。
今月号の上原(旧姓大川)さんの絵手紙は「もみじとセキレイ」です。もみじは紅葉の代表樹でセキレイは秋の季語。タイムリ-で秋ぴったりの絵手紙にうれしくなりますね。
絵手紙に『10月31日の同窓会、楽しみにしています』とありました。このラインアップを読んで頂いている前日の10月31日に第7回「市岡高校東京12期会」が開かれています。残念ながら、その詳細な報告は、今月号には間に合わず、12月号の掲載です。
代表幹事の酒井八郎君と一緒に私も参加しますのでこの原稿をかいている今から、保管しているグリーンの同窓会横幕と新幹線のキップを前にうきうきしています。どこまで盛り上がるか、またどれだけ楽しい報告ができるか、是非ご期待下さい。
さて我が「12期の広場」11月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
1.「同窓会幹事会を開きました」4組 酒井 八郎
2.「思い出を綴る (10)」 3組 石井 孝和
3.『リレー投稿』「つれづれに(2)」 玉 手 箱
以 上
2015年11月1日
12期同窓会幹事会を開きました
4組 酒井八郎(同窓会代表幹事)
9月27日(日)、1組から8組までのクラス幹事が京都にあつまり、来年予定されている12期同窓会について話し合いを行いました。

当日は京都東山の「中秋の名月」を眺めることも期待しながらの集いでした。また、時間の余裕のある人は、翌28日(月)から始まるNHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデル「広岡浅子さん」に関する資料館があるということで、午前11時、肥後橋の大同生命本社ビルに集合し、2階メモリアルホールで、人物像と時代背景の知識を仕入れました。淀屋橋から京阪電車で京都へ。車窓からの眺めを楽しむより、おしゃべりの切れ間のないうちに、祇園四条に到着。

「建仁寺」は京都最古の禅寺。「〇△□乃庭」や「〇△□」の額の前では、北村彰一先生のお名前が一斉に飛び出しました。この「〇△□」は、禅宗の四大思想「地水火風」を象徴したものと言われるものだそうです。北村先生のご冥福をみんなでお祈りしました。
「風神雷神図屏風」、天井に描かれた「双龍図」に圧倒された後は、「六波羅蜜寺」で閻魔様に手を合わせ、「安井金毘羅宮」ではびっしりと貼りめぐらされた絵馬の多さに目を奪われました。みなさんの疲れたようすから予定より早めのティータイムとなり、その後、会場である「ロシヤ料理の店―キエフ」に入りました。
午後5時前に所用のあった4名も到着。出席予定であった全員がそろったところで、早速、話し合いに入りました。酒井より、昨年の同窓会の後の会計報告、写真、DVDの発送、追加依頼の処理等、今までの経過報告をしました。

次に、塩野君から今春、逝去された北村彰一先生のご様子を話してもらいました。先生からの同窓会出席のおはがきに『一期一会とかいうそうですが、市岡で会えたのは深い因縁です。限られた生命のなかで仲良く楽しくやって行きましょう』とあったのが思いだされました。北浦さんからも北村先生が初めて同窓会二次会に参加して楽しかったこと、「12期の皆さんによろしく」と北村先生から礼状が届いたことの報告がありました。
献杯後、食事をしながら、本題の来年の同窓会に向けてのいろんな意見を自由に話し合いました。その結果、来年の同窓会の枠組みを下記のようにすること、またより具体的には来年4月の舞洲のお花見会後の幹事会で決定することになりました。
幹事会の後、会場のビルの屋上で、見事な「中秋の名月」を鑑賞しました。
皆さん、お身体にくれぐれもお気をつけ下さい。
- 記 -
日 時: 平成28年10月の日曜日会 場: 前回と同様に「ホテルクライトン 新大阪」を予定
費 用: 前回と同程度
2015年11月1日
思い出を綴る (10)
3組 石井 孝和
大阪城天守にかがやく鯱(しゃちほこ)は、大阪湾の最低潮位(O.P)から約85メートルの高さにある。その高さから、ずーと北方に線を引いていくと滋賀県のびわ湖の湖面に達することは、あまり知られていないことだと思う。(滋賀県の調べで湖水面の標高は85.614メートル)

近畿1400万人の「水がめ」といわれるびわ湖が、県土の6分の1を占める滋賀県のNHK大津放送局に転勤したのは、昭和57年(1982年)の夏のこと。前の年の夏、茨城県の霞ケ浦の水問題を企画ニュースに取り上げ、びわ湖の取材に訪れた所に転勤するとは思いもよらないことだったが、このことはわたし自身も家族も「関西に戻れて」ラッキーな気分であった。
272億トンもの水(大阪市民が飲み水にすれば300年超分)を湛(たた)えたびわ湖では、夏になると「富栄養化」(水中の窒素やリンが増え、臭いがでる)に伴ってプランクトンが発生し、“淡水赤潮”と呼ばれる現象がみられ、その都度、現場にカメラマンと駆けつけて取材するなど、放送を通じて“びわ湖の環境悪化”に警鐘を鳴らし続けた。また周辺住民が、“石けん運動”など水の浄化を呼びかける様子なども度々放送で伝えた。

南方上空からのびわ湖。手前にJR東海道線や名神高速道路がみえます。
この会議の最終日、大津市内の琵琶湖ホテルを会場に、皇太子ご夫妻をお招きしてレセプションが開かれた。会場には会議に出席した100人以上の人達の他にメディア記者、カメラマンも大勢参加した。立食パーティで飲み物のグラスを手にした人たちが歓談していた。その夜の会場では、カメラマンの撮影場所は指定されておらず、会場内を自由に動き回ることができた。わたしは、歓談されている皇太子殿下の後方にいて会場の様子を見渡していた。その時、NHKのアルバイト学生のライトマンがバッテリーを入れたリュックを背負い、両手にライトを握りしめて、わたしの前を駆け抜けようとしたところ彼の前にいた警護の担当者が“危ない”と声をかけ、咄嗟に彼の両肩に手をかけ押さえつけると、彼はペシャンと四つん這いなってしまった。彼はすぐにムクッと立ち上がり、警護の人にピョコンと頭を下げ、妃殿下の傍で彼の到着を待つカメラマンの後ろに行き、妃殿下の方にライトを灯した。会場では、何もなかったかの様子で、両殿下も全くこのことにお気づきではなかった。しかしそのままで済まなかったことがすぐに知らされた。レセプションが終わって大津放送局に戻ると、少し後から帰ってきたカメラマンが、「関西写真記者協会」の幹事社・朝日放送の報道カメラマンから“今夜の突然の出来事を宮内庁に報告しなくてはならないのでよろしく”といわれたと相談を受けた。

第1回世界湖沼会議の分科会の会場でリポート
それから2年後の昭和61年(1986年)7月には、史上2回目の衆参同日選挙が行われた。この選挙で関西で話題になったのは参議院議員選挙の大阪選挙区に立候補した漫才師だった西川きよしさんが、102万票を超える大量得票で初当選したことだろうか。
「選挙報道」はNHKにとっては「災害報道」に次いで重要な使命を担っている。公職選挙法に基づいて行われる選挙は、“固い法律の中でも人間社会の営みが反映しているものだ”と、取材を通して多くを知った。

西川きよしさん(ヘレンさんと)
高校卒業時、成績表がオール1ながら東京大学に入り、通産省の役人を経て滋賀県知事を3期務め、のちに新党さきがけの代表となり、大蔵大臣も務めた武村正義氏。一方、中学中退後、15歳で「専検」(専門学校入学資格の検定試験)に合格、東京大学を卒業、大蔵省の官僚歴任後、国会議員となって防衛庁長官を務めた山下元利氏。山下氏と鎬(しのぎ)を削り、この選挙の3年後にわずか69日間というごく短命ながら首相を務めた宇野宗佑氏。このほか、連続当選を続けている社会党の野口幸一氏、共産党の瀬崎博義氏、現・衆議院副議長の民主党新人川端達夫氏、国鉄時代、びわ湖の西を走る湖西線を高架で建設することに携わった新人の川島信也氏。
選挙戦は、これら7人の激しい争いとなった。告示日は雨だった。わたしはこの日の朝、滋賀県庁前で、カメラマンと一緒に、立候補の届出を済ませた7人の候補者が勢ぞろいするのを待ち構えていた。そこに順次、届出た名前の入った大きな選挙用のタスキを肩に候補者が集合した。めいめいの傘をさしていた。色のついた傘や黒いこうもり傘など様々だった。

候補者の揃踏み(全員が同じ傘)
滋賀県庁前
滋賀県庁前
記者の仕事はこのあとが重要。わたしは、投票日に向けて連日、選挙事務所や候補者と同じように全選挙区を回り、組織や団体の代表ら数多くの人たちと出会って取材を進め、候補者の得票を予測する“票読み”会議に臨んだ。当時は“出口調査”(投票所で投票を済ませた有権者にアンケート)というものはなかった。投票日、NHKの開票速報の放送が始まると、開票結果が出る以前に“最終的に当選間違いなし”と判定した候補者を“当確

この時の衆院選滋賀全県区開票結果
―― この時期の世の中 ――
から「進出」にの表現で内外で問題化。
▽昭和58年 ・ロッキード事件判決公判で田中元首相に実刑判決 ・NHK朝ドラ「おしん」
の視聴率62.9% ・劇団四季のミュージカル「キャッツ」のロングラ
ン始まる。
▽昭和59年 ・グリコ森永脅迫事件社会的な注目集める。 ・ロス五輪山下選手金メダル
▽昭和60年 ・日本電信電話公社が「NTT」、日本専売公社が「JT」として新発足。
・プロ野球阪神が日本シリーズで西武を下し、球団史上初の日本一。バース、
掛布、真弓らが活躍。 ・日航ジャンボ機墜落
▽昭和61年 ・「男女雇用機会均等法」施行も批判高まる。 ・社会党に初の女性委員長
▽昭和62年 ・ゴッホの作品「ひまわり」が58億円で保険会社落札。 ・国鉄が分割民営化。
(次号に続く)
2015年11月1日
『リレー投稿』 - つれづれに - ②
ボウリングといえば誰でも一度はした経験があるはずだ。
ボウリングの歴史は意外に古くて、紀元前5200年頃エジプトで子供の墳墓よりボウリングの原型とされる石製のボールとピンが発見され、これがルーツとされている。日本に最初のボウリング場がオープンしたのは、1861年のことで場所は長崎の出島である。
我々が高校を卒業して10年後の1970年は、大阪万博が開かれた年で吹田市のあの広い会場に世界各国の展示館が立ち並び、とりわけアメリカ館はその前年にアポロ11号が持ち帰った月の石を展示していて、それを見るために連日長い行列ができていた。その同じ年にボウリング史上では、中山律子プロがテレビ中継の決勝戦で、女子プロ第一号のパーフェクトゲームを達成したのである。美人の彼女が毎日のようにテレビに登場していわゆるボウリングブームと言われた時代で、誰もが少し上手くなるとプロになろうかと冗談をいうほど手軽で身近に思える競技だった。
若い頃そんな時代にも全く興味を持たなかったのに、今年の春からボウリングを始めることになったのは、「ボウリングは怪我が少なくて、なおかつ適度な運動量がありマイペースで一人でも遊べる年寄には最適のスポーツだ」という友達の言葉についふらふらと乗せられてしまったからである。
ボウリングを始めるといってもとにかく会場を覗いたこともないので、友達と一緒に行きボール選びから持ち方、基本の動作は4歩で投げるなど色々なルールまで教えてもらってから初めての投球だった。言われたようにとりあえず投げた球が転がると思ったのにスルスルと滑って行くと、いきなりピンを7本も倒したのには自分でもびっくりする予想外のことであった。ボウリングって面白いと、料金の安い早朝や別の店の日曜夜の投げ放題に、時々通うようになったのはこの時からである。下手でもまぐれでストライクが取れるのもボウリングの良さで、スコアが100を超えたときにはヤッタ!と嬉しいし、5ゲーム終わって帰る時にはまだデパートも開いていないというのも何か朝から時間を得した感じである。通勤ラッシュ時の電車に乗るのも物忘れが多くなった脳を活性化するような気がしてくる。
先日ある新聞に“ボウリング団塊世代に人気”というタイトルで、安くて手軽に楽しめて仲間もできて健康維持になるので、この10年間で40万人もボウリングをする人が急増していると載っていた。お店のほうも来た客が長続きするようにスタンプをためると靴やボールを安く買えるようにしたり、初心者のための健康ボウリング教室(6週連続で毎回2時間半、ゲーム代,貸靴代他参加に必要な費用すべて込みで2000円)を開いて終了後は同好会を作ってくれるので、その雰囲気は本当に賑やかで楽しそうだ。
私の行った教室は少し遠い別の店だったので同好会に入らなかったのは少し残念で、友人達にそれとなく話をしても若い頃にしたよ・・と関心がないので今でも一人遊びをしている。 上手くならなくて嫌になる時もあるからいつまで続くかわからないが、せっかく始めた事だから長く続くためには頑張るより面白いと思える程度にしとくのがいいようだ。
若い頃に色々なことを経験していればハードルも低いが、今からでも新しい事を始めるための時間だけはあるはずなのでまだまだ知らない世界を広げたいと思っている。
ボウリングの歴史は意外に古くて、紀元前5200年頃エジプトで子供の墳墓よりボウリングの原型とされる石製のボールとピンが発見され、これがルーツとされている。日本に最初のボウリング場がオープンしたのは、1861年のことで場所は長崎の出島である。
我々が高校を卒業して10年後の1970年は、大阪万博が開かれた年で吹田市のあの広い会場に世界各国の展示館が立ち並び、とりわけアメリカ館はその前年にアポロ11号が持ち帰った月の石を展示していて、それを見るために連日長い行列ができていた。その同じ年にボウリング史上では、中山律子プロがテレビ中継の決勝戦で、女子プロ第一号のパーフェクトゲームを達成したのである。美人の彼女が毎日のようにテレビに登場していわゆるボウリングブームと言われた時代で、誰もが少し上手くなるとプロになろうかと冗談をいうほど手軽で身近に思える競技だった。
若い頃そんな時代にも全く興味を持たなかったのに、今年の春からボウリングを始めることになったのは、「ボウリングは怪我が少なくて、なおかつ適度な運動量がありマイペースで一人でも遊べる年寄には最適のスポーツだ」という友達の言葉についふらふらと乗せられてしまったからである。

先日ある新聞に“ボウリング団塊世代に人気”というタイトルで、安くて手軽に楽しめて仲間もできて健康維持になるので、この10年間で40万人もボウリングをする人が急増していると載っていた。お店のほうも来た客が長続きするようにスタンプをためると靴やボールを安く買えるようにしたり、初心者のための健康ボウリング教室(6週連続で毎回2時間半、ゲーム代,貸靴代他参加に必要な費用すべて込みで2000円)を開いて終了後は同好会を作ってくれるので、その雰囲気は本当に賑やかで楽しそうだ。
私の行った教室は少し遠い別の店だったので同好会に入らなかったのは少し残念で、友人達にそれとなく話をしても若い頃にしたよ・・と関心がないので今でも一人遊びをしている。 上手くならなくて嫌になる時もあるからいつまで続くかわからないが、せっかく始めた事だから長く続くためには頑張るより面白いと思える程度にしとくのがいいようだ。
若い頃に色々なことを経験していればハードルも低いが、今からでも新しい事を始めるための時間だけはあるはずなのでまだまだ知らない世界を広げたいと思っている。
(玉手箱)
2015年10月1日
「12期の広場」10月号のラインアップ
10月です。中秋の名月に窓下の虫の音、すっかりの秋ですね。昨日から部屋着も長袖、長ズボンにかえました。
上原澄子さんの今月の絵手紙は「秋の花かご」。ラインアップ用のカットとしては2回目で好評、感謝、感謝です。かごの中には秋の花が一杯。上原さんの自宅の庭には今、白と赤の萩の花が咲き乱れているそうです。
小学校の授業で「秋の七草」を習いました。でもなかなか覚えられませんでした。粗忽者の私は今でも「七草粥」の七草とごっちゃです。あらためて調べると、はぎ、ふじばかま、女郎花、葛、すすき、桔梗、なでしこの七種です。ラインアップを書くようになって、花や木について少しは関心を持つようになりましたが、この中で、私が五感(味覚と嗅覚は除いて)で感じることができるのはすすきのみです。秋の七草は山上憶良の万葉の歌にその謂れがあるそうです。古人から現代人までに愛で続けられた花々なのだと考えるとこの季節の感興もひとしお。今年はしっかりと花も名も覚えたいと思っています。
10月31日に市岡高校東京12期会の同窓会が銀座「三笠会館」で開催されます。1回目が平成15年の開催で今回が7回目です。関東地方には同窓生が50名以上在住しているそうで、大阪での同窓会と重ならないようにと、隔年で開催、毎回概ね20~30名の同期生が集います。
私も過去に4回ほど参加しました。大阪の同窓会では会えなかった同期生と会えることや、全員と傍に座って話が出来ること、また大阪を離れて日本の首都圏ならではの生活ぶりを目の当たりに出来ることなど、格別な感慨がありました。今回は12期同窓会代表幹事の酒井八郎君も出席の予定で、私も同窓会の横幕を持って同行しようと考えています。
一緒に行ってみようと思われる方は是非、ご一報ください。久しぶりに『花の大東京』に行ってみませんか。
さて我が「12期の広場」今月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
今月号から『リレー投稿』を掲載します。「12期の広場」は記名投稿を原則にしてきましたが、『リレー投稿』に限っては、ニックネームによる投稿記事とします。執筆者につきましては、一定期間が経過したのちに「執筆者群」として公開したいと考えています。ニックネームが誰なのかもお楽しみの一つと考えています。

上原澄子さんの今月の絵手紙は「秋の花かご」。ラインアップ用のカットとしては2回目で好評、感謝、感謝です。かごの中には秋の花が一杯。上原さんの自宅の庭には今、白と赤の萩の花が咲き乱れているそうです。
小学校の授業で「秋の七草」を習いました。でもなかなか覚えられませんでした。粗忽者の私は今でも「七草粥」の七草とごっちゃです。あらためて調べると、はぎ、ふじばかま、女郎花、葛、すすき、桔梗、なでしこの七種です。ラインアップを書くようになって、花や木について少しは関心を持つようになりましたが、この中で、私が五感(味覚と嗅覚は除いて)で感じることができるのはすすきのみです。秋の七草は山上憶良の万葉の歌にその謂れがあるそうです。古人から現代人までに愛で続けられた花々なのだと考えるとこの季節の感興もひとしお。今年はしっかりと花も名も覚えたいと思っています。
10月31日に市岡高校東京12期会の同窓会が銀座「三笠会館」で開催されます。1回目が平成15年の開催で今回が7回目です。関東地方には同窓生が50名以上在住しているそうで、大阪での同窓会と重ならないようにと、隔年で開催、毎回概ね20~30名の同期生が集います。
私も過去に4回ほど参加しました。大阪の同窓会では会えなかった同期生と会えることや、全員と傍に座って話が出来ること、また大阪を離れて日本の首都圏ならではの生活ぶりを目の当たりに出来ることなど、格別な感慨がありました。今回は12期同窓会代表幹事の酒井八郎君も出席の予定で、私も同窓会の横幕を持って同行しようと考えています。
一緒に行ってみようと思われる方は是非、ご一報ください。久しぶりに『花の大東京』に行ってみませんか。
さて我が「12期の広場」今月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
今月号から『リレー投稿』を掲載します。「12期の広場」は記名投稿を原則にしてきましたが、『リレー投稿』に限っては、ニックネームによる投稿記事とします。執筆者につきましては、一定期間が経過したのちに「執筆者群」として公開したいと考えています。ニックネームが誰なのかもお楽しみの一つと考えています。
- HP委員 -
2015年10月1日
思い出を綴る (9)
3組 石井 孝和
宇治通信部の次の勤務地は、NHK水戸放送局であった。小学1年生の長男と、3歳の長女、それに妻を伴って京都から新幹線で東京へ、東京上野から常磐線に乗り継いで、平坦な田園風景を眺めながら約2時間の“旅”の末、水戸駅に降り立った。昭和53年の8月だった。京都に比べて顔を撫でる風が涼しかったのが、印象的だった。
茨城県は“農業県”で、特に養豚数は全国一といわれ、「すき焼き」には豚肉を使うのがこの地方の“常識”
青物店の店先で野菜を品定めしていると、折板(へぎ)の値札に墨字で「円元豆」と書かれているのに目がとまった。関西では「いんげんまめ」と呼ばれるさや付きの豆(宇治黄檗宗・万福寺の開祖、隠元(いんげん)禅師が中国の明(みん)から持って来たことからその名が付いたようだ)宇治から各地に広がった豆の名が、この地方では「い」が「え」に変わって「円元」とあて字が使われたものとわたしが勝手に解釈した。
当時、水戸放送局はテレビの電波はもたず、東京の電波を受信していた。
赴任翌年の2月の初旬、泊り勤務の明け方に局舎の窓から雪景色がぼんやり見えた。水戸地方気象台に電話で問い合わせると“午前5時現在、水戸市の積雪量は13センチ”とのこと。わたしは正午の関東のローカルニュースに映像取材しようと梅の名所で“日本三名園”の一つ「偕楽園」に向かうことにした。
車はタクシー。3社に次々電話したが、どこも応答なく、むなしい呼びリンの音が続いた。6時すぎ、ようやくこのうちの一社「安全タクシー」と電話が通じ、出勤早々の運転手が局に車を着けてくれた。わたしは行き先を告げた後、午前7時34分水戸駅を出る列車に、撮影したフィルムを「電車便」として乗せることを運転手に伝え、運転手もうなずいた。
偕楽園に着くと、低い垣根を越えて庭園に入り、撮影を開始。3本レンズの「ベルハウエル」のカメラのシャッターを押し続け、真白な雪景色の梅林の小径を進んだ。片手に三脚を持ちながらの“移動ショット”を試みた。約3000本といわれる梅の木にはまだ花が見られなかった。長靴をはいたわたしは、辺りを走り回った末、偶然、白とピンク色のたった二輪が並んでいるのを発見。徳川斉昭(とくがわなりあき)ゆかりの建物「好文亭」(こうぶんてい)を向こうに見て、3分間の撮影を終えた。それからが大変—–。
車のドアを開けて待っていてくれた運転手が「10分ほどで駅につっからね」(着くからね)とスピードをあげて車を走らせ、何と7時30分すぎに駅に到着。しかし、34分発の列車が、先頭車両を上野方面に向けて停車していた。わたしはその時点で“間にあわない”と半分“あきらめ”の気持ちで小荷物掛に“電車便”(フイルムを入れた厚紙の袋)を預け、伝票を書き始めていると、国鉄職員の一人が矢庭に“電車便”を掴み取って「まだ間にあっぺ」という言葉を残し、小雪が舞い出した中を、線路を何本も跨ぎ、5~60メートル先のプラットホームに上がり、列車の後部に向かう姿を見届けたもののその時、時刻が7時34分を過ぎており、不安がよぎった。残った職員が「けさは大雪でダイヤに遅れがでているよ」と云ってわたしに声をかけてくれた通り、間もなく先程の職員が手ぶらでプラットホームを降りこちらに向かってきたのが見えた。
その時、わたしは放送局で朝の番組の“録画”を同僚に頼まれていたことを思い出した。「お礼は後ほどに」と伝え、待たせたタクシーに飛び乗って局に引き返してもらい、2階の放送部に駆け上がって、すかさず“録画”のスイッチON。7時45分からの番組に間に合って、約束を果たすことができた。それから間もなく、“雪”の書き原稿を東京に電話で送ったのち茨城県警察本部の記者クラブに行き、昨夜から県内で起きた交通事故などの取材にとりかかっていた。
さて“雪を冠った偕楽園の梅の花”の方は、無事、お昼の関東ローカルニュースで放送され、多くの“茶の間”に“花と雪”を届けることができた。
この時、しみじみ思った。1分余りのニュースが“茶の間”に届くまでに何と多くの人たちにお世話になったことか。タクシーの運転手を初めとして2人の国鉄職員、列車の車掌、上野駅の助役、“電車便”をNHK東京を出て持ち返るオートバイの運転手、フイルムを現像するNHKの技術職員、フイルムの編集者。一方、書き原稿は受稿者、ニュースデスク、TVのコメント担当者、アナウンサー、それに放送に携わる技術職員と続く。取材者としてこれらの多くの方々にあらためて深い感謝の気持ちをもったものだ。
茨城県では赴任早々の10月に日立市で、翌年2月末には守谷町で誘拐事件があるなど、凶悪犯罪をはじめ、選挙違反、交通死亡事故が相次ぎ、大津放送局に転勤するまでの4年間に92市町のうち、88市町で取材したことが後でわかった。選挙違反の中には、県議会議長を巡る事件もあり、10人ほどの県議が水戸地方裁判所で判決されることがあった。
高校1年生の時に北村先生に提出して先頃返却された作文「民主主義」のことは忘れていたが、日頃から考えていたことに挑んだ。 警察キャップをしていたわたしは地元「いはらき新聞」の他、各社のキャップに持ちかけ、 それまで許されていなかった「法廷内の開廷後の映像を撮らせてほしい」と水戸地方裁判所に全員が「記者クラブ」として申し出た。当初、裁判所の所長は、この申し出に「最高裁が許可していないので受けつけられません」と即刻断られたものの、次の日もまた次の日も“ねばった”結果、裁判長の裁量で“2分間の代表取材”の口約束で許可された。他社のキャップたちの協力あっての画期的な出来事であったと思う。
日本新聞協会(NHKも所属)と最高裁判所の間で「開廷直後の写真撮影」が正式に明文化されたのは、この“出来事”から6年経った昭和60年と記録されている。
——- この時期、関西では ——–
△ 昭和53年 → ・大阪府中央卸売市場開業 ・神戸市のバーなどで置かれたのが始
まりといわれる「カラオケ」ブームが始まる。
△ 昭和54年 → ・三菱銀行北畠支店で猟銃殺人、人質事件 ・近鉄バッファローズ
パリーグ初優勝
△ 昭和55年 → ・奈良東大寺大仏殿「昭和の大修理」終わる。 ・「上本町ハイハイ
タウン」開業。 ・漫才ブーム起きる。ザ・ボンチ、島田紳助、松本竜介ら。“赤信号、
みんなで渡れば怖くない”などの流行語を生みだす。
△ 昭和56年 → ・神戸ポートアイランド博覧会開催 ・京都大学の福井謙一教授に
日本人初のノーベル化学賞 ・大阪駅前第4ビル完成
△ 昭和57年 → ・第1回大阪女子マラソン開催 ・大阪造幣局で五百円硬貨発
行 ・大阪駅前横断歩道に日本初の信号待ち時間表示装置設置
(次号つづく)
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