12期の広場

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明治三十四年の茶会

8組  川村浩一
 
 明治三十四年は西暦でいうと1901年。二十世紀の初っ端の年、日本は日清戦争に勝利し間もなく日露戦争に向かっている頃です。夏目漱石も正岡子規も三十四歳。漱石は熊本の五高教授でロンドン留学中。一方、子規は肺結核から脊椎カリエスで寝たきりになり根岸の子規庵で療養中でした。しかし子規は寝たきりであっても意気軒昂。短歌や俳句の革新に取り組み、根岸の子規庵には門人たちがひっきりなしに訪問しており、にぎやかに「わいがや」を楽しんでいました。
 そのような病床生活の中での茶会の様子が新聞「日本」のコラム「墨汁一滴」に報告されています。この中に出てくる人物は3人、いずれも短歌の門人たち。まず伊藤左千夫、この人は「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」と子規のあと短歌の改革に力を尽くしました。小説「野菊の墓」でも有名です。茶の湯にも詳しく「茶の湯の手帳」という一文も残しており、子規から茶博士と呼ばれていました。次は香取秀真ほつま。鋳金工芸家にして歌人。文化勲章も受賞している。3番目は岡ふもと、書家にして歌人。「嘆きてもかひなきことはおもはずに明日はけさより早めに起きむ」はいい歌ですね。
 さて、墨汁一滴の中身。煩わしいので歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに変えて紹介します。
二月二十八日、左千夫が大きな古釜を携えてやってくる。釜の蓋は左千夫がデザインし秀真が鋳たもの。つまみは車形。麓が利休手簡の軸を持ってくる。牧谿もっけいの画をほめた手紙。床は桃と連翹れんぎょう。これは子規の指示。
 左千夫が茶を点て麓が主人役。献立は次のごとし。
・みそ汁は三州味噌の煮漉にごし、実は嫁菜よめな
なますは鯉の甘酢。
・平は小鯛の骨抜四尾。独活うど、花菜、山椒の芽、小鳥の叩き肉。
・肴はかれいを焼いて煮たようなもの。
・口取は焼き卵。栄螺さざえ、栗、杏子、柑類を煮たもの。
・香の物は奈良漬けの大根。
酒も出て飯も太鼓飯から順次出てきた。飯終われば湯桶に塩湯を入れて出してきた。子規にとって初めての懐石。懐石を食すと寿命七十五日延びるという言い伝えがあるらしい。
 その後雑談。左千夫が釜について一首詠めと言う。子規が「湯のたぎる音は如何」と訊く。左千夫答えて曰く「釜大きけれど音かすかなり、波の遠音とおねにも似たらんか」と。
で、子規の句「氷解けて水の流るゝ音すなり」
 真情の籠った茶会ですね。私ももうしばらくお稽古を続けて親しい人たちとの茶会を楽しみたいと思っています。子規の文、このあと独自の茶の湯論を展開していますが煩雑になるので省略。「茶道はなるべく自己の意匠によりて新方式を作らざるべからず」と月次を排しています。短歌、俳句と同じ姿勢です。学ぶべきでしょう。

“明治三十四年の茶会” への2件のフィードバック

  1. 川村浩一 says:

    12期の川村です。
    駄文を読んでいただきありがとうございました。
    私は、この10年ほど京都の経営者仲間の「茶事同好会」(昨年30周年を機に「茶の湯同好会」と改称)で茶の湯を素人ながらに楽しんできました。
    昨年の30周年の行事の一つとして記念誌を発行。これに私が投稿したのがこの「明治34年の茶会」です。全くの流用、転用です。

    仕事はずいぶん減ってきましたが、楽しみのフィールドは「お茶につながる日本文化」(京都在住の強みを享受しています。)と「漱石、子規の生きた明治」です。
    あと10年、楽しくやっていきたいと思っています。
    お付き合いお願いいたします。

  2. 川村浩一 says:

    このコメント欄はだれの目にも触れない設計になっていますが、備忘を兼ねて左千夫の歌を記録します。
    ・釜の音(と)にありし世思へば其夜らのありのことごと眼に浮びくも(M36)
    ・しきたへの枕によりて病み臥せる君が面かげ眼を去らず見ゆ(子規子百日忌)

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