12期の広場

12期の広場

「米欧回覧実記」輪読会体験記

8組  塩野憲次

 12期の皆さま、こんにちは。8組の塩野です。「12期の広場」に枯れ木の賑わいを添えようと最近の新体験を綴ってみました。読んでいただければ幸いです。

 先日、誘われて「特命全権大使-米欧回覧実記」を輪読する読書会に体験参加してきました。なかなかに興味ある内容だったのでここに少し紹介させていただこうと思い、筆をとりました。

 実はこの読書会は、恩師の北村彰一先生が世話役の一人として参加されている会で、去る12期同窓会の折、ご臨席いただいていた先生から一緒に参加しないかとのお誘いを受けたものです。

右の手前から3人目が北村彰一先生です。
 

 さてこの時代がかった書名をご覧になって“ああ、あの本”と思い当たる方はどれくらいいらっしゃるだろう。先ずはこの本の紹介から始めましょう。

 時は明治初年、草創いまだ屋台骨も定まらぬ明治新政府が、条約改正の下交渉と近代国家日本の指針を求めて、右大臣岩倉具視を正使とする一大使節団を米欧12ケ国に派遣したという歴史上の事件は、覚えておられる方も多いと存じます。この使節団には岩倉具視のほか副使として木戸孝充、大久保利通、伊藤博文ほか維新の立役者がずらり、留守政府がカラになるのではと思われるほど随行し、団員には20~30才代の少壮気鋭の人士60余名のほか、津田梅子、中江兆民、団琢磨など、後に各界で指導者として活躍することになる留学生を帯同させていた。

 一行は米欧両大陸の著名な都邑をくまなく経巡り、世界を席巻する欧米近代国家の政治、経済、社会、科学技術、文化芸術、気候風土、人情、そのた森羅万象をあまさず吸収せんとの意気込みで寝る間も惜しんで見聞に明け暮れた。

 本書は明治4年11月の出航から同6年9月の帰国までの2年弱にわたる使節一行の精力的で使命感に燃えた膨大な見聞の記録を、同行の書記官久米邦武が全100巻の書に編集しまとめたものであります。(岩波文庫に5分冊で収録)

 この見聞経験は、その後の明治国家の骨組形成と国家経営に大きな影響を与えたことでしょう。振り返って今、未曾有の混迷の中にある21世紀の地球社会を見るとき、暗闇の中で拠るべき標を探しあぐねている我々にとって、維新期の若き指導者たちが辿った苦闘と苦心の足跡をじっくり紐解いて、先人の経験と知恵に学ぶことは必要なことであり、本書はそのための貴重な資料を提供してくれているものと思われます。

 たった一度読書会に参加しただけで偉そうなことを書いてしまいましたが、無知ゆえに恐いもの知らずで申し上げるなら、本読書会の趣旨もこのあたりにあるのではと勝手に推量しています。

 さて、当日1月15日(土)の午後の読書会の模様ですが、場所はJR大阪駅の北向い、弥生会館(前回の12期同窓会会場だった所と同じ)の一室で、参加者は11名で40代50代が各1名、他は60、70代、会社員、公務員、医者、退職者などで多彩。ほかに当日欠席の方も多数おられるようで、会員総数は20数名位か?詳細不明。

 大きな長テ-ブルに思い思い着席したあと、初参加の私の為に各自簡単な自己紹介をしていただいた。前の会の終了時に指名されていた本日の報告者が、ペ-ジを読み進めつつ、難語句について解説、当時の現地の社会状況や習慣などを説明して、文の理解を助け、文意の把握を行っていく。

 これに対し参加者からは随時意見、感想、問題提起、参考資料の提示などが行われ議論が進行していく。当日の報告者とは別に、リ-ダ-役になって議論の交通整理や活発化を図るなど、会全体の運営に気配りし、会を掌握・統括されている方がいらっしゃるほかは全員平等である。

 ざっとこのような形で進行していくが、かみしもを感じさせない自由な意見が活発に飛び交い、鋭い視点の提示や人生経験を感じさせる深い洞察の開陳、独自の歴史認識などで談論風発する。日頃惰眠を貪っている私などには大変刺激的で、啓発されるところ大であった。

 予定の時刻がきて、次回の報告者を指名したあと、リ-ダ-より散会が宣言されたが、時間の許す方々が残って引き続き議論の二次会が始まった。ここからは二次会らしくビ-ルを注文する方もいて、話題は広がりを見せ、おしゃべりにますます熱が入ってくる。およそ1時間ほどが過ぎたころ二次会も無事終了し、ほろ酔い加減で会場を後にしたのは、夕闇せまる灯点し頃でありました。

 拙い文章でこの会の面白さをなかなか伝えられず、歯がゆさが募るばかりですが、もし少しでも興味をもたれたなら一度気軽に体験を試みられませんか。北村先生にお取り次ぎします。

塩野 憲次 記
P.S

 東京にはこの会の本部があり同様の活動を行っていますが、このほど5年の歳月をかけて全100巻を読了されたそうです。


 

“「米欧回覧実記」輪読会体験記” への5件のフィードバック

  1. 北村彰一 says:

    12期生の広場盛況で驚いています。さすがは市岡卒業生。歴史部員だった塩野

    さんに会のことを宣伝をと前にお願いしました。完璧な紹介です。実は7日に私

    は傘寿になり、しんどくなっている次第です。何人かで共同謀議して会に入り込

    み、  乗っ取って欲しいのが本音です。                     

    なお東京に本部があり多彩の分科会があります。米欧亜回覧の会を検索されたら

    WEBページがあります。そちらも覗かれたら如何でしょうか

  2. 北村彰一 says:

    追伸 次回は5月15日(日)弥生会館 午後1時からです。忘れるところでした。

  3. 川村浩一 says:

    塩野君の楽しそうな情景が目に浮かびます。
    「・・・顔ヲ洗フニ水盤アリテ機ヲ弛ムレバ清水迸リ出ヅ。奴婢ヲ呼ニ電線アリ。指頭触レバ鈴声百歩ノ外ニ鳴ル。・・・」というような文章を延々と読んでおられるのですね。

  4. 佐藤 裕久 より: says:

    ①大変興味深い「米欧回覧実記」を輪読しておられるのですね。この岩倉使節団の準公式記録が岩波文庫・5分冊に収録されているということですが、川村浩一さんのコメントのように、漢文調というか、現代語ではないテキストをお使いですか。いくつかの現代語訳らしいものが
    あるようですが、それでは駄目ですか?
    ②約20年くらい前に、「日本の工学の父」って、誰か知ってる?と、先輩に聞かれ、そんな人が居るんですかと、逆に聞き返したら、資料を送ってくれました。長州藩士だった、山尾庸三という人物が「日本の工学の父」だそうで、いくつか資料を読んでいくうちに、小生自身も、「山尾庸三は日本の工学の父だ、と考えるようになりました。その理由の導入部を以下に記します。
    ③山尾庸三は伊藤博文らと合計5名で、1863年、確か、上海経由でロンドンに行き、先ず、英語の勉強からはじめますが、伊藤博文は、日本で大政奉還の動きがあるということで、
    多分、1年余りで帰国しました。まだ、江戸時代でしたから、もちろん国禁を破った密航をした(長州藩から、全部ではありませんが、お金を貰って)の密航です。
    ④実は、その頃、薩摩でも、渡英の話が出ていたのですが、確か「薩英戦争」で、少し遅れて、1865年4月に、薩摩の4人の外交使節と15人の学生がイギリスに向かいました。
    ⑤山尾庸三は、第2次産業革命真っ只中のグラスゴーに行くための旅費と当座の滞在費を、薩摩の連中からの寄附や借金によって準備したようです。グラスゴーでは、昼間、造船所で働き、夜はカレッジで勉強し、トータル5年滞在した後、1868年帰国したということです。なお、どこで見たか忘れましたが、グラスゴー時代に、自分でお金を払って、造船所の経営を勉強した、ということを知った時、「この人は凄い」と思いました。
    ⑥帰国後、産業を興すには人材が必要であり、そのためには教育が不可欠と主張していました。伊藤博文などの協力を得て、最終的に工部省と工部大学校とを創ったのですが、様々のインフラを建設・建造したこと、また、教員をグラスゴー大学を中心とした多くの優秀な「お雇い外国人」教員を採用し、破格の給料で好待遇したことにより、工部省が破綻してしまう。工部省の廃止に伴い、工部大学校は東京大学工芸学部と合併し、帝国大学工科大学となりました。
    ⑦この続きは、いずれまた。(尻切れトンボですみません)

  5. 北村彰一 says:

    佐藤裕久さん 山尾庸三について教えてくださいまして有難う御座います。

    今会より帰ったばかりです。地震について雑談がありました。文庫の時代がかっ

    た名文で読んでいますが、判らない処を会の出版の現代語訳を参照することもあ

    ります。現代語訳のみでは読まないよりましですが、どのように当時の知識人が

    教養、素養を持っていたか、それで西洋文明に向かっていったか、理解したいと

    思います。次回は七月二十三日(土)弥生会館一階のビア ビッテの会議室で行

    います。 

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